2月10日、日曜日。
セイバーの聖剣が解放され、ライダーが退場し、間桐慎二が逃亡した、その翌日。
「今日は朝から街に行くから」
きらびやかなサロンで朝食を終えると、イリヤはそう宣言した。
妹紅は食後の一服の紅茶を飲みながら、同じように紅茶を飲んでいるセラとリズを見やる。
「て事は、今日は弾幕ごっこは無し?」
「無し。わたしはわたしでやるコトあるから、モコウも好きに遊んでていいよ」
「遊ぶも何も、今日は私も予定あるんだが……」
こうして早々に出かける事となった。
妹紅の服装はいつものブラウスに、サスペンダー付き袴の上から、コートを羽織るだけだ。
せっかく買ってもらったジーンズはなかなか使う機会がない。動きやすくはあるが防火性に欠けるため、戦闘には不向きなのだ。
ただ街に遊びに行くだけなら着用するのだが、先日はライダー狩り(返り討ち)だったし、今日はマキリなので。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◇◇◇
インターホン。便利なものである。
大きな屋敷ともなれば門をドンドン叩いたり大声で呼びかけたりしないと、奥の人間に気づいてもらえない。ところがインターホンならスイッチひとつで室内に鈴の音が響くのだ!
という訳で。
メルセデスで深山町まで来た妹紅は、用事があるというイリヤと別れ、間桐の住まう洋館を訪れていた。さっそくインターホンのスイッチを押す。
十数秒ほどかけて、大人しい女性の声がインターホンから聞こえてきた。
『…………はい、どちら様でしょう?』
「こんにちは、妹紅と言います。マキリ……じゃないや、ゾウルケンいる?」
『ゾウ……お爺様ですか? ええと、少々お待ち下さい』
ブツッと何かが切れるような音がした。
なんだ、どうしたんだ。インターホンが壊れたのか。
軽く小突いてみるも変化はない。もう一度スイッチを押そうか。
と思っていると、また小さな異音がした直後、女性の声が再び応じた。
『申し訳ありません。お爺様は体調が悪く、どなたともお会いにならないと……』
「分かった、無理やり上がらせてもらう」
『……えっ?』
インターホンから離れ、格子の門を軽々と飛び越えて敷地内に侵入する。
アインツベルンほどじゃないが広くて豪華な屋敷だ。しかし庭の手入れをあまりしていないようだ。草木が伸びていてバランスが崩れてしまっている。
そんな品評をしながらまっすぐ玄関に向かい、ドアを開ける。
鍵はかかっておらず、あっさり開いた。
このまま乗り込もうとしたところで、ドタドタと足音が近づいてくる。
「あっ……?」
やって来たのは、髪色にマキリの面影を感じる女性だった。
年の頃は、衛宮士郎や遠坂凛と同じくらいだろうか。やや下か? いや、あの胸の大きさ……もしかしたら童顔なだけで年上かもしれない。
――まあ、妹紅から見たら全員誤差!
四捨五入すれば等しくゼロ!
「ゾウルケンの親族ならどけ。名付け親様のご来訪だ」
「誰が名付け親じゃ鳥頭」
ギシ……と音を当て、玄関近くの階段から、一人の老人が降りてくる。
頭は禿げ切っており、腰が曲がって、歩くのに杖を必要としている弱々しい老人だ。
しかしその眼光は暗く、老獪な策謀家であると伺わせる。
妹紅はペコリと頭を下げた。
「こんにちは、妹紅と言います。ゾウルケン君いますか?」
「たわけ、儂がゾォルケンだ」
心底馬鹿にしたような口調で老人は言うが、妹紅はいぶかしげに首を傾げる。
「お爺ちゃん、私が捜してるのはマキリ・ゾウルケンっていう伊達男だ」
間桐慎二から情けなさを抜いて、体格を一回り大きくし、男らしさをたっぷり加えたような――精悍で逞しい男だった。間違ってもこんな、今にも朽ち果ててしまいそうな枯れ木の如き老人ではない。
だが老人は嫌そうに唇を歪めて再度告げる。
「それが儂じゃと言うておろう。あれから何年経ったと思うとる」
「…………ええっ? お前ッ、マキリかぁ!?」
ビックリした!
面影が無さすぎてビックリした!
誰このジジイ。ボケてんの? もう寝なさい。
そんな風にさえ思ったのに。まさかまさか本当にこいつが。
「いいや信じられん。お前が本当にマキリだというのなら! 自分の名前を漢字で書いてみろ!」
と言うやいなや、妹紅は
発火符を新しく作るため必要な道具なので別に不自然ではない。
唐突な申し出を受け、自称マキリ老は筆と紙を受け取ると、サラサラと達筆な文字を書いた。
間
桐
臓
硯
「違う!」
妹紅の目がカッと見開き、口から火を吐かんばかりの勢いで否定する。
直後に自称マキリ老もカッと目を見開いて怒鳴り返す。
「違わぬ! 儂の名前の漢字表記は徹頭徹尾これじゃ!」
「マトウになる前! マキリだった頃のがあるだろう!」
「無いわボケェ!」
「ええい、筆と紙を寄越せ! 私が本当の漢字を書いてやる!」
筆と紙を取り返し、藤原妹紅もサラサラと達筆な文字を書く。
そして自信たっぷりに、自称マキリ老と女の子に向かって突き出すのだ。
魔
斬
憎
留
剣
「暴走族!?」
女が大仰に驚く。名前を書いただけなのに何故だ。
一方、自称マキリ爺は苦虫を噛み潰したような顔をすると、足元から大量の蟲を出現させた。わしゃわしゃと蠢くそれは魔斬憎留剣と書かれた紙に群がり、あっという間に散り散りに破く。
「ああー! 何をする!」
「貴様が勝手にそう記しとっただけじゃろ! 儂が名乗った事は一度もない! なーにが名付け親じゃボケ老人めが!」
「老人はお前だろ! しわくちゃで腰もひん曲がってて、
「だいたい貴様は昔っからいい加減なんじゃ! 儂に面倒ばかりかけおって、このアーパー放火魔が!」
「ああ!?
「その異人より世間知らずな世捨て人が何をほざくか! 貴様の言う事を真に受けて、何度痛い目に遭った事か……今とてアインツベルンの娘がおらねば無一文の浮浪者じゃろ! こぉんの社会不適合者がぁぁぁーん!」
「気持ち悪い蟲の妖術ばっか使うせいで妖怪だと、何度勘違いされたと思ってるッ!」
「そういう貴様は幽霊やら山姥やらに間違えられとったろうが!
「何だとハゲ爺! ハゲでチビの爺ッ! ハゲでチビで口の臭い爺ィイッ!!」
「黙れ未来永劫ちんちくりん! だいたい何じゃその残念な胸はッ!? うちの孫を見習わんかい糞餓鬼ャアッ!!」
ぎゃーすかぎゃーすか、言い合うごとに精神年齢が下がっていく二人。
何とも醜い光景だ。しかし。
言い合っているうちに、妹紅は実感しつつあった。この老人は本当に――。
深々とため息をついて罵詈雑言合戦を一時中断し、頭を掻きながら妹紅は苦笑する。
「本当にマキリなんだな……まだ生きてるって聞いたから、てっきり昔のままの姿かと……」
「そういう貴様は憎らしいほど昔のままじゃな……煮えくり返るわい」
呆れ返ったマキリもまた、深々とため息をつく。
こんな風に怒鳴り合ったのは、果たして何年振りだろうか……何十年振りだろうか……あるいは何百年……。
肩の力ががっくりと抜けた老人を見て、胸の大きな女は目を丸くしていた。
そこでようやく、妹紅は胸の大きな女を強く意識する。
そういえばこいつ誰だ? 先程の発言から察するに――。
「マキリ。そちらのお嬢さんはお孫さん?」
「……不肖の孫じゃ。これ、此奴の相手は儂がする故、下がっておるがよい」
マキリとも、慎二とも、あまり似ていない。
しかしまあ、似てない親族なんて世の中いくらでもいるだろう。
「は、はい……失礼、します」
おどおどしながら、お孫さんは下がっていった。
何だか酷く戸惑っているようだ。
「ははーん。さてはマキリ、お前、日頃は孫の前で格好つけてるな? 本性がバレちゃって、これでもう威厳台無しお爺ちゃんだ」
「貴様と話しておると、己の程度が下がっていくのが自覚できてしまうわい。……上がれい。茶を飲みにきた訳でもあるまい」
「茶くらい出せよ」
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◇◇◇
案内された応接室は高級な調度品だらけではあったが、落ち着いたデザインとバランスで構成されていた。豪奢なアインツベルンとは大違い。
しかし、落ち着いたを通り越して薄暗いという印象まで受けてしまうのは何故だろう?
テーブルを挟んで革のソファーに座った二人。
妹紅はふんぞり返って足を組んだ。客のくせに偉そうに。
「色々聞く前に、色々事情説明しなきゃいけないかなって思ってたが……私がアインツベルンの世話になってるとか、色々すでに知ってるみたいだな」
「呵々々――間桐は御三家ぞ。情報収集くらいするわい」
「蟲で覗き見か」
マキリは蟲を行使する魔術師の家系だ。
非力でおぞましくはあるが、蟲の種類は多種多様。どんな剛力を誇ろうが全身を覆う蟲などどうしようもない。どんな剛体を誇ろうが皮膚の隙間から注入される毒などどうしようもない。
非力さを補って余りある恐ろしい魔術だ。
しかし妹紅なら全身を炎に包んで焼き払えばすむし、セイバーも風の防壁で対処できるので、無敵という訳ではない。対処法は他にも色々あるだろう。
故に、マキリは慎重だ。力の使いどころと引き際を心得ている。
「貴様が衛宮の倅を見張っておるのを見つけた時は、とうとう儂もボケてしもうたかと本気で焦ったぞ」
見つかったタイミングは衛宮士郎の姿を確認しに行ったあの時か。
イリヤが親切にも忠告しに行ってやった日だ。
「アインツベルンの小娘と随分仲良うしとるようじゃな。人づき合いを疎う貴様らしくもない」
「聖杯戦争なんて面白そうなコトやってるから首を突っ込んでみただけさ」
「ほう。てっきり餌付けされただけかと……」
寿司屋ではしゃいでたのもバレているのだろうか。バレているだろうな。
さすがにアインツベルン内でのアレコレまでは覗かれていないと思いたい。結界があるから魔力を宿した蟲の侵入なんかすぐ気づけるはずだ。
「それにしても、聖杯戦争も堕ちたものよ。貴様のような愚物をサーヴァントと勘違いする莫迦ばかりとは、流石の儂も呆れたぞ」
「あれだろ、霊体化と実体化みたいに見えるからだろ、リザレクションが」
「まあ確かに第三魔法、
「殺してみろ。薄汚い蟲ごと焼き尽くしてやんよ」
「では死ぬより苦しい目に遭う蟲で、貴様の
「
気を抜けばついつい煽り合ってしまう妹紅とマキリ。
数百年前もよく、こんな風に喧嘩を……しただろうか?
妹紅は思い返す。マキリとは喧嘩もしたが、はて、もっと楽しかったか、つまらなかったか、どうにもうろ覚えだ。思い出など幾らでも埋没していく。千三百年も生きているから。
だからきっと、今回の聖杯戦争も埋没していくのだろう。
記憶の底から掘り返したマキリという存在も、いずれまた埋もれていく。
マキリは思い返す。妹紅とは喧嘩もしたが、はて、こんなに愉快だったろうか?
五百年という歳月、朽ちていく身体、朽ちていく魂……それらと共に零れ落ちていったものが、不思議と、どこかから湧き上がってくるようだ。
ああ、こんな風に莫迦をやっていた時代もあったのか。
どちらからともなく口論、というか悪口合戦を中断し、少し間を置く。
こんな調子では聞きたい事も聞けやしない。
「はぁ……。なあ、マキリ。そろそろ本題に入るぞ。聖杯ってホントに願い叶うの?」
「なんじゃ。アインツベルンから聞いておらんのか?」
「聞いてはいるけど仕組みがよく分からん」
そもそも分け前すらもらえそうにないとは伝えなくていいだろう。馬鹿にされそうだし。
マキリはやれやれといった風に頭をゆっくり左右に振った後、律儀に語り出す。
「……聖杯に溜め込んだサーヴァントの魂が、英霊の座に帰る際に発生する孔――そこから膨大な魔力を引き出せば、叶わぬ願いなどそうそう無かろう」
「……えーと、つまり魔力いっぱい使えるだけなの?」
「これだから、不死にかまけた魔術使いは……」
魔術師より強力な魔術を使い、魔法さえ宿しているのに、魔術師としての知識も矜持も心構えもあったもんじゃない。魔術師垂涎のあれこれの価値をまるで理解していない。
宝の持ち腐れ。
豚に真珠。
猫に小判。
慎二にサーヴァント。
妹紅に蓬莱の薬。
この世の無駄を表す的確な言葉が、マキリの脳裏に次々と浮かぶ。
「聖杯には願望機としての機能が備わっておる。聖杯を正しく降霊させ、手にし、願えば――大抵の願いは叶うじゃろ。膨大な魔力リソースを使用してな」
「――で、その魔力をマスターとサーヴァントで半分こしてそれぞれ願いを叶えるか、どっちかが独り占めしてより大きな願いを叶えるかって訳か」
「……まあ、そうじゃな。
独り占めしなきゃ叶えられない願い。イリヤは随分と欲張りなようだ。
果たして、自分の願いはどうなのだろう。
分け前をもらえれば叶う願いなのか、独り占めしてようやく叶う願いなのか。
独り占めしてなお、叶わぬ願いなのか。
思案していると、マキリは薄気味悪い笑みを浮かべた。
「呵々々々々……妹紅、お主は聖杯に何を願う? 怨敵の居所でも突き止めるのか?」
「それは突き止めたからもういい」
「呵々々々々……何じゃと?」
予想外だったのか真顔になられてしまう。
千三百年もさすらってるのだから、流石に怨敵くらい見つける。
「お主の仇……
「ああ。異世界に隠れ住んでたよ。今は定期的に殺し合ってる」
「くっ……この不老不死の無駄遣い莫迦め! 魂を物質化しといて、やる事がソレか!!」
「そういうお前は……」
そこで、妹紅は言葉に詰まってしまった。
あのハンサムで爽やかだった男が、今や干からびた老人だ。
顔は歪んでしわだらけ。背は縮み頭もツルピカ。見る影もない。
知ってる人が老いていく。そんなのは当たり前の事だ。
けれど数百年――そんな歳月の再会なのに。
不老長寿となって長らえているのなら、アサシンのように、在りし日のままで――そう思ってしまったから、老いていないと思って会いに来たから、心のギャップが重苦しい。
「フンッ……儂の延命術など、貴様から見ればさぞ滑稽なのじゃろうな」
「不老不死のロジックを簡単には説明はできるが、専門的な事になるとよく分からん」
「結局、こうして老いさらばえ……肉体も魂も劣化し、腐り、朽ちていく……」
「自分で聖杯戦争やらないのも、それが理由か?」
わざわざあんな孫を参戦させるくらいだ。切羽詰まっているのだろう。
マキリは焦がれるように妹紅を見やる。
「……あの時、お主の生き肝を喰ろえておればなぁ」
日本を旅をし、寝食を共にした二人。
その別れは裏切りと失望にまみれた醜い争いだった。
策謀が渦巻き、刀を抜かれ、兵に囲まれ、炎が舞い、蟲が這い、幾重もの命が散った。
協力があった。裏切りがあった。迷いがあった。別れがあった。
原因は、知られてしまったからだ。
不老不死となる方法、蓬莱の薬を得る手段を。
蓬莱の薬は、生き肝に溜まる。
すなわち蓬莱人の生き肝を喰らえば、その者も不老不死と化すのだ。
第三魔法、
生き肝を奪って喰らう――たった、それっぽっちの事で。
下手をすれば
手間をかければ
妹紅は挑発的に口角を吊り上げた。
「――――食うか?」
「――――食わぬ」
元より予期していた返答だし、そもそも食わせる気は無い。
だがマキリは「あの時」と言い、今はもう食べようとはしていないように見えた。
きっと、食べても無駄なのだろう。
「蓬莱の薬は人間のためのもの、妖怪には効果がない。……アインツベルンのホムンクルス程度ならばいざ知らず、儂はとうに
「その妖気、やっぱり
「成り損ないじゃよ」
姿形だけならとっくに妖怪変化。
いっそ幻想郷に連れていってやれば完全に妖怪化するかもしれない。
それも面白いと思いはするが、誘う気はさらさら無い。
「…………お孫さん、聖杯戦争に参加してたな。一応逃してやったけど、ご無事?」
「いや、帰ってきとらん。まあ放っておいても何もできまいて」
敗戦が恥ずかしくて失踪でもしたのか。
脱落したマスターも復帰阻止のため狙われるのだが、それで死んだらさすがにしょうがない。
それよりも、あんなのでもマスターとして参戦させたという事は。
「マキリ――間桐家も聖杯を狙ってた訳だ」
「生憎、準備が整っておらんのでな。此度の聖杯はくれてやる。だが……」
「聖杯をあきらめた訳じゃないと」
マキリは不機嫌そうに吐き捨てる。
「フンッ。ライバルが減って一安心といったところか?」
「安心というか感心したよ」
古い記憶が蘇ってくる。
太陽の下で、快活な笑顔を浮かべる伊達男の姿。
「お前はまだ、夢をあきらめてないんだな」
「――――」
マキリが、呆けたように口を開く。
照れているのだろうか? いい歳して、孫の前で格好つけるような男だ。そうもなろう。
「"人類の救済"だっけ? くだらない夢を見てるって馬鹿にしたけど、数百年も追い続けられちゃあ――ケチなんかつけられないさ」
「…………儂の……夢……?」
「だが、今回の聖杯はアインツベルンがいただく。悪いとは思うけどライダーは敗退した訳だし、マキリはまた次回がんばってくれ。……おい、聞いてるのか?」
「……あっ、うむ…………聞いておる」
聞いてないように見える。
ボケちゃってるように見える。
神妙な顔になって思い悩んでいるように見える。
次回の聖杯戦争まで持つのかと不安になってしまう。
しかし、それまでに命が尽きるなら、それが天命というものだろう。
話も一段落ついたし、お茶でもせびろうかと妹紅も思案を始めると――。
『モコウ。聞こえる?』
白い髪の中に埋もれた銀の髪を目印に、イリヤの声が場所を越えて聞こえてくる。
妹紅はマーキングした髪ごと周辺の髪を一房つまんで口元を隠し、小声で返事をする。
「どうした? トラブル?」
『あのね、わたし、先にお城に帰ってるから。モコウは一人で帰ってきてね』
「……は? 何で? 何かあったの?」
妹紅が何者かと会話しているのに気づいてマキリが視線を向けてきたが、どうも興味なさげだった。
イリヤはあっけらかんとした声で続ける。
『だってこの車、座席が二つしかないんだもの。トランクに入れられるのもイヤでしょう?』
「えっ、待って、何の話? 誰か一緒なの?」
『お兄ちゃんさらったから、連れ帰るの』
「…………何やってんだお前」
『うん。もう暗示かけて助手席に乗せて、エンジンかけたとこだから、念話は切るね』
そう告げて、本当に念話の気配が消えた。
妹紅はごろんとソファーに横たわって、不貞腐れるようにため息を吐いた。そりゃもう長々と。
「……妹紅。何ぞあったか」
「盗撮、盗聴はしてないのか」
「こちとらもう敗退済みじゃぞ? 迂闊に偵察を続けて勘違いされて、サーヴァントに襲われるなど避けたいからな。せいぜい家の周りを見張るくらいじゃ」
「あー、そう。よかった。帰る。じゃあな」
妹紅は面倒臭そうに立ち上がり、応接室を後にする。
マキリは律儀に見送ろうとついてきてくれた。
「お前こんな紳士な奴だっけ?」
「貴様が余計な事せんよう見張っとるだけじゃ」
杖を使っているし腰も曲がっているが、しっかり歩けている。まだまだ元気そうだ。
玄関前まで来て、妹紅はふと、酷くくだらない可能性を思いついた。
可能性はゼロに等しいが、というかマイナスにまで突入している気はするが、もし万が一にもそうだったら最悪に気色悪いなと思ってしまえば、そうではないと確認したくもなる。
「マキリ」
「何じゃい」
「もしかしてお前、私に惚れてたか?」
老いながらも延命を続け、夢を追うロマンチストからしたら、永遠に老いも死にもしない妹紅はとても美しく見えるかもしれない。
口では悪口を言い合ってばかりだが、なんだか楽しそうだったし、もしかしたらと。
そうしてマキリ・ゾォルケンは――。
「ゴハァッ!?」
盛大に血を吐いた。
何だ、どういう原理だ。患ってたのか? 今の発言が原因なのか?
「お爺様っ!?」
廊下を、お孫さんが駆けてくる。手さげ袋を放り投げ、マキリに寄り添った。
「お、お爺様……いったい何が……」
「ぐっ、ぐくくっ……さ、桜よ……今の会話、聞こえておったか?」
「えっ、あ、はい。聞こえて――」
「ガボォッ!! ゲエッホゲホ、グギャギャギィィイ……」
「お爺様ー!?」
吐血をおかわり、大盛りで!
どうなってるんだマキリ。寿命か寿命なのか。
次回の聖杯戦争どころか今日この場で果てるのか。
魔斬血風録、完結となるのか。
「ぐああっ……なんと、なんとおぞましい……儂が、妹紅に惚れる……? ありえぬ、絶対にありえぬわ……斯様な誤解を妹紅に、桜にされるなど……考えただけで気持ち悪くて血ぃ吐くわ……」
「おいコラ。そんなに私がイヤか」
「ぐふふ……考えてもみい。アインツベルンの者共が、お主にこう訊ねてくるのだ……妹紅は若き日のマキリに惚れていたのか? とな」
瞬間、妹紅の心臓がえぐれた。
ゲイ・ボルクに匹敵する激痛が全神経を焼き尽くす勢いだ。
「ぐはぁっ!? あ、ありえない……こんな蟲野郎となんて、絶対無理……。下手に触れ合ったら身体の中に蟲が入り込んでくるって……うわ、キモッ……最悪。そんなの、女として死んだも同然じゃないか。身体の中に蟲がいるとか無いわ。世間一般の寄生虫とは訳が違うぞ。絶対に無いわ。死ぬ……こんな死に方はイヤだ」
致命的な精神ダメージを負って這いつくばる妹紅。
そして、ああ、自分はなんと罪深い言葉を投げつけてしまったのだろうと自戒する。
すまなそうにマキリを見てみると。
「――――」
お孫さんが、なぜか死んだ目をしてうつむいていた。
お爺さんが血を吐いて、お客さんもぶっ倒れかけて、パニックになって思考停止してるのかな?
桜、と呼ばれていたが――彼女の名前だろうか。最近聞いたばかりの言葉な気がする。
「桜ちゃん、大丈夫?」
「…………いえ……はい、大丈夫……です」
「あんま大丈夫そうに見えないな。……ああ、そういや学校で衰弱事件なんてあったけど桜ちゃん大丈夫だったの?」
「……ええ……自宅療養で、すんでます」
「大丈夫じゃないじゃん」
驚いて、桜の投げ捨てた袋を見る。あれは買い物袋ではないか?
「桜ちゃん、そんな体調で出かけようとしてたの?」
「……夕食の材料を買ってこないと……」
「あれ? 療養中だよね。なのに買い物? あれ? もしかして夕食作るのって」
「私……ですが……」
もしかして、こき使われてる? もしかしなくても使わている。
――不意に、ライダーの今際の言葉を思い出す。
『サ、ク、ラ……』
ライダーは間桐慎二のサーヴァントだ。じゃああれは、桜の花じゃなく桜ちゃんの事だったのだろうか? 桜ちゃんが聖杯戦争の事を知らないなら、ライダーは人間の振りをして間桐家で暮らしていたのかもしれない。
面白妖怪爺のマキリと、情けなくて生意気な慎二。こんなのと四六時中一緒にいては気も滅入るだろう。女同士という事で桜ちゃんとの関係は悪くなかったのかもしれない。
最後のあの言葉は、桜ちゃんに別れの挨拶をしたかったとか、桜ちゃんのご飯を食べたかったとか、そういうものだったのかもしれない。
そう思うと――わずかばかり込み上げてくるものがある。
藤原妹紅、込み上げてきたものを素直な心で手刀に込める。
そして未だ伏したままのマキリに脳天唐竹割りチョップを叩き込む。
スコーンと小気味いい音が響いた。
頭蓋骨の中身カラッポかな?
「コラ! お孫さんに無茶させるんじゃない! ちゃんとしろ保護者」
「何すんじゃコラ。人様の家庭に口出しするでない」
腐っても鯛と言うように、老いて衰えようともその男まさしくマキリ・ゾォルケン。
ギュルンと杖を旋回させ、妹紅の脳天を綺麗にぶっ叩く。
スコーンと小気味いい音が響いた。
頭蓋骨の中身カラッポかな?
「こんな時くらいお前が飯用意しろ。自力でできないなら出前でも取れ。寿司を食え寿司を」
「お前が食いたいだけじゃろ! トラブルがあったくせに、うちに残ってご馳走にありつこうという算段か? ええい、なんと意地汚い」
妹紅は人差し指でズビシィッ! とマキリの鼻っ柱を指さした。
マキリも人差し指でズビシィッ! と妹紅の鼻っ柱を指さした。
やんのかオラ、ってな表情を二人して作って睨み合う。
阿吽の呼吸かな?
「私はアインツベルンでさんざん美味いモン食ってんだよ。今更お前にたかるか馬鹿。つか、お前もちゃんと飯食ってるのか? こんな痩せ細りやがって。レバーを食って血色よくしろ」
「貴様のレバーを喰ろうてやろうか? さぞかし不味いんじゃろうのぉ~」
「私は病気になんないからな。内臓はぜーんぶ綺麗なのさ。お前の内臓真っ黒そうだな」
「脳みそが真っ黒焦げになってそうな莫迦に言われとうないわい」
「お前こそ歳取りすぎて脳みそ縮んでんじゃねーの? スコーンって音したぞスコーンって」
「お前こそ脳みそ使っとらんせいで縮んでおらんか? スコーンって音したぞスコーンって」
「ンだとこの耄碌ハゲ爺! 佃煮にして生ゴミに出してやろーか? お前みたいなゲテモノだーれも食わないからなぁ~生ゴミだ生ゴミ! ナーマーゴーミー!」
「焼き鳥にして蟲の餌にしてやろか? アイアム・ザ・ボーン・オブ・マイ・ミート。無限の焼鳥があれば蟲の餌代も節約できるからの~。蟲くらいしか喰わんじゃろうからのぉおぉぉ~」
「バーカ! ターコ! ハーゲ!」
「莫ー迦! 阿呆ー! 餓鬼ー!」
いつの間にやらマキリも立ち上がり、元気いっぱいに言い返してくる。
よしよし、まだまだ長生きしそうだ。
それを確かめる事ができたから、妹紅はフッと笑って後ろに下がる。
マキリは一瞬顔をしかめるも、莫迦につき合ってられるかとばかりに鼻を鳴らした。
桜ちゃんはもう完全に翻弄されっぱなしで、未だどうしたらいいかとうろたえている。マキリの血からなんでこんな可愛い子が生まれたんだろうと、とても失礼な事を考えてしまう妹紅だった。
「桜ちゃん」
でもせっかくこんな可愛い子がいるのならと、軽くウインクして助言してやる。
「こいつ、格好つけの悪党ヅラだけど――実はロマンチストで、物凄くいい奴だからさ。ヨロシク面倒見てやってくれ」
「は、はぁ……」
人類救済を本気で夢見るような人間がいるなんて、果たして彼女は知っているだろうか。
人間が皆、そんな者ばかりなら、この世はとっくに極楽だった。
でもそうじゃなかった。
御仏の名を唱えながら銃火を交えるような連中が、この国にはゴロゴロいた。
世捨て人になろうとも、そんな歴史のアレコレは自然と目に入ってきてしまう。
ああ、だからなのか。
だから、マキリなんていう夢追い人が物珍しく、思い出となって残っていたのだ。
「いいお孫さんじゃないか。大切にしろよ」
そう、古き友に声をかけ、妹紅は間桐邸を後にした。
寒い冬の外気に肌を切られながらも、胸の奥は、なんだかあたたかい。
時には昔の話をするのも悪くなく、未来の話をするのもいいものだ。
そして。
「そうかぁ……士郎をさらったのかぁ……」
今現在の話はかなり億劫。
胸はあたたかいが、胃は重かった。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◇◇◇
妹紅が去って、残された臓硯と桜は、しばし言葉もなく立ち尽くす。
この家の、裏の顔を知らない、能天気で間の抜けた、くだらない言葉。
癪に障るほど見当違いの言葉。
「……では、買い物に行ってきます」
暗く沈んだ声で桜は言い、買い物袋を拾い上げる。
先輩の元で料理を覚え、相応の腕前にはなったと思っている。
けれど。
お爺様も、兄さんも、それを認める事はない。
あの家で食べるのとは違う、つまらない食事。
早く、何もかもが終わって欲しい。
そうすれば、また、あの場所で……あたたかな時間をすごせるはずだから。
「桜」
そんな淡い希望を塗りつぶすような、淀んだ声。
絶対に逆らえないよう
臓硯は、苦々しい声色で告げる。
「今宵は寿司の出前を取る故、買い物には行かんでよい」
「…………えっ?」
何を、言っているのだろう、この老人は。
呆然と、ただ呆然と、驚く事もできず、空白となった心で臓硯を見る。
とても不機嫌そうだ。今にも
だというのに、なぜか、
「まだ快調してはおらぬのであろう。休んでおれ」
「……はい。分かり、ました」
さっきの、妹紅という少女の言葉が蘇る。
寿司の出前を取れとか、お孫さんを大事にしろとか、そういう言葉。
まさか、この老人が、あんな戯れ言を実践している……のか?
戸惑いを抱きながら、桜は大人しく引き下がる。
この老人に逆らうなんてありえない。不可能だ。
だから。
大人しく休んで、出前のお寿司を食べよう。
蓬莱人がヤバい理由……生き肝を食わせればネズミ算式に増やせる。抑止介入待ったなし!
どっかの聖人に知られたらヤベーですよ。あいつなら手作業ででもやりますよ。