空の赤が森の向こうへと沈み、月と星が姿を現した空の下。
崩壊したアインツベルン城を踏みつけるようにして、遠坂凛とアーチャーが冷たい目を向ける。
これは聖杯戦争。敵マスターを倒すのは至極当然。
目の前では最大の強敵が死にかけており、厄介な不死者も弱点を晒して弱り切っている。
聖杯戦争の勝者となる絶好の潮。
「逃げろ旦那!! こいつは私が……」
即座に動いたのは妹紅だった。右半身を前に出して構え、その爪先に火を灯す。
その熱量はあまりにも小さい。これでは爪を振るっても火で空を切るなど不可能だろう。
殺され尽くした証である傷は、針で刺されたほどの傷も残らず完全回復している。
だが重い。一挙手一投足、まるで鉛の鎖で縛られたような気分だ。体力はすでに底をつき、気力のみで立っているような状態だ。
こんな有り様じゃ殴るも蹴るも飛ぶも、ろくにできやしない。それでも、ギルガメッシュを相手取るよりは幾分マシだ。
「逃げる――って、この寒空の中どこに逃げる気だ!」
バーサーカーがイリヤを抱き寄せるかたわらで士郎が叫ぶ。
妹紅はハッとして振り返った。
アインツベルン城はすでに崩壊してしまっている。まだ城の形を残している部分も四分の一ほど残っているが、どれもこれもひび割れ、焼け焦げてしまっている。
真冬の隙間風は素通りし、ほっといても崩落するかもしれないし、挨拶代わりに遠隔攻撃をされるだけで生き埋めにされてしまう。
じゃあ――どこに?
妹紅の居場所なんて、この世界にはどこにもない。
イリヤの居場所も、ここを除けばドイツ本国のアインツベルン城くらいだろう。
冬木にいる以上、聖杯戦争からは逃れられない。
どうする、どうしのぐ。
不死身にかまけて好き勝手、自暴自棄に過ごしてきた千数百年の人生。
呆気なく死ぬ他の誰かを守りながら戦うなんて、藤原妹紅にはできやしない。
士郎が妹紅の前に出て、かばうように言う。
「遠坂待ってくれ! 見ての通りイリヤ達はもう戦えない」
「そうね。聖杯戦争の敵を潰す絶好のチャンスよね」
「俺達は同盟を組んでるはずだろ」
「ええ――アインツベルン組に対抗するためにね」
ギクリと、士郎は身をすくませる。
状況を理解し、正しいのは向こうで、間違っているのは自分だと思い知らされた。
「分かったようね。アインツベルンの味方をするなら、裏切ったのは衛宮くんの方。見たところセイバーも弱ってるみたいだけど、うちのアーチャーはじっくり回復させてもらったわ」
「っ……」
「まあ、無理にマスターまで殺す必要はないんだけど……」
凛は未だ傷の言えぬバーサーカーを見て微笑した。
途端に、妹紅の爪先の火の威力が強まる。同時に腹部に痛みが走った。傷は治したはずなのに。
「……イリヤの家族は、もう殺させない……!」
サーヴァントを失えば脱落する。マスターなら見逃してもらう事もできる。
そんな賢い理屈に沿えられるほど、人間として出来ちゃいない。
士郎もまた、同盟者に懇願する。
「頼む遠坂。せめて今夜だけでも見逃してやってくれないか?」
「イリヤスフィールは見逃して上げてもいいって言ってるんだけど?」
イリヤを殺すとなると絶対に揉める事は凛も重々承知していた。
だから同盟再締結の条件を
士郎だって馬鹿じゃない。それを汲んだからこそ同盟を受け入れた。
「でも、こいつは……こいつらは、命懸けでイリヤを守り抜いたんだ。この二人を差し出したら、イリヤすら裏切る事になる」
この二人だから、英雄王ギルガメッシュを打倒できた。
この二人だから、イリヤスフィールを守り切れた。
士郎の真摯な言葉に、凛はそっぽを向いて矛先を変える。
「セイバー、貴女はどうなの?」
用心深く剣を構えたまま、しかし動こうとしないセイバーに凛は問う。
「アヴェンジャーはともかく、バーサーカーを倒さないと聖杯は手に入らないわ」
「…………凛、貴女が正しいと思います」
聖杯を得るための戦争なればこそ、現界しているサーヴァントであるなら。
一時の共闘や、利用し合う事はあったとしても、いつかは戦わねばならない宿命にある。
凛は当然とばかりに頷いた。
「イリヤ達だってそうよ。ここで見逃したところで必ず戦いを挑んでくる。そうよね? アヴェンジャー」
問われて、妹紅の瞳は爛々と輝いた。
聖杯はアインツベルンのものだ。おこぼれがもらえるかもらえないかは分からないが、ここまできたらイリヤに聖杯を勝ち取らせないと気が済まない。だから殺す。セイバーもアーチャーもランサーも殺して勝つ。
だがそれを口に出して言えるほど強気になれる状況ではなかった。
一触即発の緊張を感じ取り、バーサーカーもイリヤを抱き寄せる。
戦いが始まってしまえば、セイバーも容赦はしないだろう。聖杯のために殺さねばならない相手が二人、この場にいるのだから。
空気が張り詰めていく。
凛がアインツベルン陣営、衛宮士郎陣営を見回し――。
「……とはいえ、実は私も今、争う気は無いのよね」
気の抜ける声で空気を軽くした。
士郎とセイバーは困惑しながらも緊張を緩める。が、妹紅は相変わらず油断なく構えている。
凛は呆れたようにため息を吐いた。
「煽っといてなんだけど、貴女達、もうちょっと冷静に事態を見れないの?」
「なんだ、怖じ気づいたのか?」
「アヴェンジャー。……サーヴァントでないなら、モコウって呼んだ方がいいかしら?」
「好きに呼べ。それと、英霊でなくても私はイリヤのサーヴァントだ。手を出したら殺す」
「あっそう。それよりアヴェンジャーもセイバーも真面目に考えなさい。英雄王ギルガメッシュが聖杯戦争に紛れ込んでいた理由を」
そんな事を言われても妹紅にはよく分からない。魔術師ではない部外者が、イリヤに取り入って混ざり込んだだけなのだから。
短い思索を経て、セイバーが推論を口にする。
「ギルガメッシュは前回の聖杯戦争でアーチャーとして召喚され、この十年、受肉してすごしていたと聞きます。そして今度こそ聖杯を手にするべく――」
「十年も人の世に紛れて、聖杯のバックアップもなくどう魔力を調達していたの? 自前でどうにかできていたなら、わざわざ慎二なんかをマスターとして担ぎ上げた理由は何? 魔力の供給量も少ない人畜無害な奴なのに。あまりにも胡散臭すぎるのよ」
親切丁寧に説明されているところ申し訳ないが、妹紅はあまり理解できていない。受肉だなんだも初耳だ。
だからとにかく警戒を続ける。我が身をイリヤの盾として、命のストックが無いバーサーカーともども守り通さねばという闘志で立ち続ける。
「私は遠坂の誇りのため聖杯戦争に挑戦してるの。聖杯が欲しい訳じゃない。だから――聖杯戦争自体に
つまりどういう事だ。妙な流れになって来たように思えるが、寝不足になったように頭も朦朧としてしまっており、状況を整理して考えるという行為すら億劫だった。
長ったらしい話で時間を稼いで、夜の寒さで消耗させる作戦なのではとさえ思えてくる。
「バーサーカーを倒す絶好の機会ではあるんだけど……ギルガメッシュは聖杯戦争を進めるために動いていた。その流れに乗るのもマズイ気がするのよね。イリヤも――」
凛の視線がイリヤに向けられる。
バーサーカーの手の中、士郎のコートをまとって、眠っている少女に。
「……イリヤの体調も気になるし」
「っ……疲れて、寝てるだけだ」
なんて、妹紅自身思ってはいない。
何か、よからぬ事が起きてしまった。
しかし休めばケロッと目覚める可能性だってあるはずだ。わざわざ敵に委ねる必要はない。
「第一、性格悪いアーチャーのマスターの言う事なんか――」
「別に騙し討ちなんかしないわよ。バーサーカーを倒したいなら今やればいいだけだし、それに、宝具も使い切ってるんでしょう? なんなら黒幕を倒した後、一騎打ちして上げてもいいわ」
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◆◆◆
凛の発言は慢心に満ちた発言にも聞こえるが、実のところ、現状この場で得ている情報から鑑みれば急いで決着をつけるより安全な策であった。
黒幕の存在を一旦忘れ、ここでバーサーカーを打ち倒したとしても、果たしてアヴェンジャーは聖杯戦争から降りるだろうか?
彼女の正体は、聖杯の分け前を狙う不老不死の人間だ。
体力が切れるまで殺し尽くそうとしても、魂だけになって逃げられたらどうしようもなく、そのうち回復して戦いを挑んでくるだろう。不意打ち、暗殺、焼き討ちといった手を使ってくる可能性すらある。聖杯は勝者の手に渡るべきものだが、すべてのサーヴァントが殺し尽くされたら、勝者とは誰になるのか? 最後まで残っていたサーヴァントのマスターが殺されたら、他に生き残っているマスターに権利が渡ってしまうのではないか?
故に、アヴェンジャーを聖杯戦争から退場させる手段が必要なのだ。
英雄王ギルガメッシュですら驚愕し、エアと呼ばれる宝具を抜くほどの存在――。
凛とアーチャーの手に余る代物であるのは、想像に難くない。
ならば、アヴェンジャーが自主的に降りる流れを作ればいい。
そのためには、イリヤとアヴェンジャーが納得できる状況でバーサーカーを倒す必要がある。
イリヤは子供っぽいが、誇り高いマスターだ。
堂々と一騎打ちをしてバーサーカーが敗れたなら、マスターである自分自身の敗北も認めるかもしれない。
アヴェンジャーは聖杯戦争のサーヴァントではないにしろ、みずからをイリヤのサーヴァントだと強弁し、イリヤを尊重し、慕い、従っている。
そんなイリヤが負けを認めて引き下がるなら、アヴェンジャーも引き下がる可能性は高い。
柳洞寺での集団戦での経緯から、武人の死合を見届けたり、キャスターの健闘を称えるなど、ただ暴力的なだけの女でない事も分かっている。
だからこれは慢心ではなく――アヴェンジャーを封じるための一手だった。
もちろんバーサーカーに勝利する手も、すでに備えてある。
脅威ではある。しかしアーチャーの多彩な攻撃はその耐性の穴を突き、城での戦いでは5回もの死を与える事に成功している。そして、ギルガメッシュとの戦いで蘇生回数は尽きた――。
理性なき狂戦士。凛の作戦とアーチャーの技能ならば、一殺をもぎ取る可能性は決して非現実的な数値ではない。
温存してある宝石すべてを使い切れば、凛みずからAランクに匹敵する魔術を放つ事もできる。5回殺害を実現したアーチャーを警戒すれば、マスターである凛が切り札に化けるのだ。
これが、遠坂凛が現段階で獲得している情報から導き出した作戦である。
計算外があるとすれば、遠坂凛が現段階で知り得ない情報。
すなわち
1日2つ。イリヤからの魔力供給さえ行われれば
そんなの、凛が知る由もない。アーチャーも知らない事だ。士郎とセイバーだって知らないし、ランサーと言峰綺礼も知らない。
知っているのは、アインツベルンでイリヤと同じ時間を過ごした者達だけだ。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◆◆◆
そういった事情を抜きにしても、聖杯戦争の裏が気になるのも事実だし、イリヤの急激な不調を不審に思ってもいた。
敵の魔術師を殺す事にためらいは無い――しかし、士郎とイリヤの関係を知っているため、凛は無意識に甘い選択をしてしまっていた。
「アヴェンジャー、一旦休戦しない? イリヤの診察、して上げるわよ」
もっともらしい理屈を並べられ、妹紅は朦朧とする意識に蹴りを入れて思考をめぐらせる。
イリヤが意識を失い、バーサーカーは語れず、セラもリズもいない今、状況を判断するのは自分の役目だ。何も考えず好き勝手に戦う方が性に合っているのに、どうしてこんな事に。
それもこれも、イリヤが勝手にぶっ倒れたからだ。
振り向き、バーサーカーの手の中で眠る少女を見る。
――呼吸をして、生きてはいる。
だがなぜだろう。生命の活動が希薄になっている気がする。ただの疲労や緊張でここまで弱るほど、イリヤは弱い女の子じゃない。いや、セラとリズを失った心の傷を思えば――。
ふいに、右肩が重くなる。気づけば士郎が軽く手を載せていた。本当に、軽く。
「アヴェンジャー。遠坂は嘘をつくような奴じゃない」
「……士郎、お前……どっちの味方だ」
「イリヤを安全な場所に運ぶのが先決だろ。日が沈んで冷えてきた。うちに来てくれ」
「セイバーや、凛達も一緒にか?」
「イリヤに手出しはさせない」
真摯でまっすぐな声。
昨日、イリヤに散々な目に遭わされたくせに、今日、命懸けで守ろうとした男。
喪失を体験し、満身創痍の身のせいで、弱気になってしまったのだろうか――頼ってもいいのかもしれないと、妹紅は思う。
「…………旦那」
妹紅がバーサーカーの腕を掴むと、彼は意図を察したのかその場にしゃがみ込んだ。
士郎は驚きながらもバーサーカーに近づき、そっとイリヤを抱きかかえると、いたわるように髪を撫でる。
その仕草は、まるで家族のようで。
妹紅の胸が苦しくなる。
「…………もし、セイバーや凛達が……イリヤを傷つけようと、したら……"令呪"で守らせろ」
「分かった。絶対にイリヤを守る」
随分と気安く言ってくれる。
しかし、嘘ではないのだと、心からの言葉だと信じられた。
『貴女がお嬢様のサーヴァントを名乗るなら。その力で、お嬢様を守ってごらんなさい』
『任せて。絶対に守るから』
――約束通り、イリヤは守った。だから早く、ご褒美のステーキとパインサラダを用意して欲しい。なのにセラもリズもどこに行ったんだか。どこか、その辺の瓦礫に埋もれているだけなんじゃないのか? やれやれ、また瓦礫掃除をしなきゃいけないな――
セラとの約束を思い出した途端、妹紅は崩れ落ちる。
イリヤを士郎に預けたバーサーカーが、空いた手で妹紅を抱き留める。
「アヴェンジャー!?」
「……すまん、頼んだ……」
そう言い残し、妹紅は意識を手放した。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◆◆◆
あれほど手のつけられない不死身っぷりのアヴェンジャーが、大人しく眠っている。
ますますバーサーカーを倒すには好都合な状況となったが、凛は大人しく衛宮邸に帰るよう進言する。本当に今は戦うつもりがないのだ。
聖杯を追い求めるセイバーは複雑な心境になるも、ギルガメッシュの暗躍の謎が気になり、大人しく凛に従って剣を収めた。
城外に停めておいた車まで戻って、セイバーは疑問を口にする。
「ところでシロウ。車には誰が乗るのです?」
「誰がって、そりゃセイバーが運転して、イリヤを……あっ」
アインツベルンから拝借したメルセデス・ベンツェは二人乗りだ。
イリヤを助手席に乗せたら、士郎が乗る場所がなくなってしまう。
「……イリヤを膝に乗せれば、二人で助手席に……いや、それだと危ないよな?」
セイバーの騎乗スキルは信頼しているが、通るのは森の中のデコボコ道だ。
変な座り方をして、事故や襲撃に遭ったら大変だ。
「……俺はトランクに乗る。イリヤを頼む」
イリヤを助手席に座らせ、シートベルトを締めると、リクライニングシートをできるだけ倒してやる。セイバーは暖房のスイッチを入れた。これで多少は楽になるだろう。
「じゃあ、トランクを開けて――うわっ!?」
「シロウッ!?」
トランクが開くより前に、士郎はバーサーカーに鷲掴みにされた。
まさかこんなタイミングで士郎抹殺を決行するのか!? ――いや、違う。
セイバーが慌てて運転席から飛び出そうとするのを士郎は止める。
「待て、大丈夫だ。――アヴェンジャーみたいに運んでくれるつもりらしい」
バーサーカーは左腕全体を使ってアヴェンジャーを抱きかかえていた。
肩を枕とし、上腕を背もたれとし、肘裏に少女のお尻を収め、前腕に脚をかけさせている。
その左腕アヴェンジャーの間に衛宮士郎をねじ込んだ。
あれほどの不死身を誇ったアヴェンジャーが無防備にぐったりしているというのは不思議な気分だったが、そんな事より身体が完全に密着してしまっていた。落とさないようしっかり挟んでくれている。
バーサーカーの腕と、アヴェンジャーの全身とのサンドイッチだ。
振り落とされないようバーサーカーにしがみつきながら、アヴェンジャーもしっかりと抱きかかえてやると、しなやかな手足がセイバーよりも細いと気づく。
こんな身体でよく英霊達と戦えたものだ。
ちなみに、セイバーの手足がどれくらいの太さなのか確かめたのは、とても最近の事だ。
「遠坂は――トランク空いたけど、乗るか?」
士郎達のやり取りを傍観していた凛は、すごく嫌そうに表情を歪める。
「イヤよ。そこ、乗り心地最悪なんだもの」
トランクには昨日乗ったばかりだ。しかもアーチャーと一緒に身体を詰め込んで。
「でも、他に乗るところが――」
「あのねぇ……車に乗ってる士郎達や、空を飛べるアヴェンジャーに、私がどうやって追いついたと思ってるのよ。……行くわよ、アーチャー」
そう言って凛はアーチャーに腰を抱かせた。
アーチャーは士郎、そしてイリヤを一瞥すると、サーヴァントらしい跳躍力によって森の木々を足場とし、すごい速度で遠のいていく。
これで置いてきぼりになる者はいない。――慎二が生きていたとしたら自力で帰ってもらおう。
セイバーがメルセデスを発進させ、その後ろをバーサーカーがドシドシと走ってついて行く。
結構な揺れは士郎を慌てさせたが、それよりもアヴェンジャーが落ちないよう支えてやるため、結構力強く抱きしめる事になってしまった。
士郎の胸板にアヴェンジャーの胸が押しつけられ、柔らかな感触が伝わってきてしまう。
セイバーより小振りながらも、アヴェンジャーは確かに"少女"だった。それどころじゃないのに思わず赤面してしまう。
――サイドミラー越しにその光景を見たセイバーは、ほんの少し唇を尖らせて、アクセルを強めに踏み込むのだった。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◆◆◆
士郎達が去った後――アインツベルンの瓦礫の上に、一人の男が現れた。
蒼衣をまとった槍兵、ランサーである。
アヴェンジャーを追いかけるアーチャーとそのマスターを見つけたため、自分も後を追いかけてみたら――思わぬものを目撃してしまった。
英雄王ギルガメッシュ。新たなるサーヴァントの登場と退場。
アヴェンジャー・モコウ。サーヴァントを演じていた不老不死の人間。いや――彼女の心意気を買ってやるなら、サーヴァントと思ってやるべきか。
アヴェンジャーはまさに全力を尽くし、限界を超えて戦い、知恵と勇気を駆使して、仲間と共に勝利をもぎ取った。
――自分もあんな戦いを求めて、聖杯戦争に参加したはず。
しかし現実は、マスターを殺した男に鞍替えし、使いっ走りのような命令に従っている。
どうにもこうにもやるせない気持ちを抱えながら、ランサーは改めて周囲を見回す。
壮絶な破壊の痕跡は、灼熱の弾幕によって焼け焦げており凄惨な有り様だ。
「なんつったかな……ギルガメッシュのマスターぶってた坊主は」
ギルガメッシュの弾幕に巻き込まれたなら肉片くらい残っていそうなものだし、アヴェンジャーの弾幕に巻き込まれたなら焼け焦げた遺体くらい残ってそうなものだ。エアや、至近距離での最大自爆を受けた訳じゃあるまいし。
あの二人の壮絶な戦いに恐れをなして逃げてしまったのだろうか? 重要性の低い坊主だと判断したため、何があったのかうっかり見逃してしまった。
何せギルガメッシュの宝具弾幕はランサーにも脅威であり、しっかりと見極めておきたかった。
アヴェンジャーの弾幕も、決着の約束のため見逃せないものであった。
セイバーとそのマスターも殺し損なった因縁があり無視できない。
ついでに自分同様物陰から観察していたアーチャーとそのマスターに気づかれないよう注意して潜伏する必要もあったのだ。
改めて考えると、忙しすぎである。よく誰にもバレなかったものだ。
「考えてたって仕方ねぇ。一旦帰るとするか」
気持ちを切り替えてランサーは跳躍した。一度、言峰綺礼の野郎に報告しなくては。
業腹な事情があれど、今はあれをマスターと仰いでいるのだ。義理は果たす。
ランサーは今にも崩れそうな尖塔に飛び移ると、それを足場として蹴って樹海へと飛び込んだ。その脚力は大したもので、尖塔は音を立てて半壊してしまった。
尖塔の破片と共に、紅いマフラーが落ちたのにランサーは気づかない。
アヴェンジャーが脱ぎ捨て、風にさらわれたマフラーは意外と近くに絡まっていたらしい。
まずは先に破片が落ちる。その拍子に中庭の床の一角が異音を立てて、大きく割れながら地面へと沈んだ。
かつて妹紅が仕事を手伝ったり、侵入者用トラップの落とし穴にハマったりして落っこちた地下室に崩落が起こったのだ。すっかり瓦礫と土砂が流れ込んでしまっているが、崩れ落ちる余地はまだ残っているらしい。重量のあるバーサーカーや、イリヤを抱えた士郎の足元が崩れなかったのは幸いと言えるかもしれない。
この場にアインツベルン従者組が揃っていれば、セラは途方に暮れながらも瓦礫の撤去をしようとし、遅刻した罰で掃除しろと言われた妹紅はきっと逃げ出して、力持ちのリズとバーサーカーが一生懸命がんばりそうだ。
しかし今、アインツベルン城に残っているのは――。
夜風に弄ばれたマフラーは何かに導かれるようにして中庭へと舞い、大きな瓦礫の陰に落ちた。
まるで、お地蔵様に旅の安全を祈るためのお供え物のように。
寒くないようにと、メイドがサーヴァントに巻いてやったマフラーは夜露に晒され、とっくに冷たくなっていた。
しかし、暖めるべき相手がきっと這い上がってくると信じて――紅色の印は待ち続ける。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◆◆◆
夜が更け、ようやく衛宮邸に帰還する一同。
メルセデスを路肩に駐車し、セイバーは騎士が姫を扱うような仕草でイリヤを抱き上げる。
「バーサーカー、俺もここまででいい。下ろしてくれ……るよな? その、アヴェンジャーも家に入れていいかな。もちろん危害なんて加えない」
言葉が通じそうにないバーサーカーだったが、言われるがまま士郎を下ろしアヴェンジャーも預ける。まさかこの狂戦士、意外と紳士なのではないかとさえ思えてしまう。
トン、と塀の上にアーチャーが飛び乗った。その腕には凛が抱えられている。
「イリヤスフィールの診察をしたいから、空き部屋、使わせてもらうわよ。アヴェンジャーは適当な部屋に放り込んでおきなさい。――ギルガメッシュとのやり取りを信じるなら、そっちは休ませとくだけで勝手に元気になるから」
「ああ、分かった」
イリヤとアヴェンジャーをそれぞれ、隣り合った空き部屋に運び込むと、士郎は早々に追い出された。診察するにしても治療するにしても、男の目を許す道理はない。
士郎は納得こそしたが、それでもイリヤが心配だと愚痴を漏らした。
愚痴だけですませて、ちゃんと退室するつもりだったのだが――。
「アヴェンジャーの胸を堪能したのだろう? 大人しく下がっていろ」
アーチャーが嫌味な顔と声で言ってきたので、凛とセイバーからの視線が冷たくなった。
そしてその視線は士郎のみならず、アーチャーにも向けられる。
「……アーチャー。バーサーカーはどうしてる?」
「ん? 中庭に案内しておいた。ずっとこっちを見張っているぞ」
「そう、じゃあアーチャーはバーサーカーを見張ってなさい。寒空の下でね」
「――――了解だ、マスター」
士郎のラッキースケベは緊急時かつ不可抗力だと分かっているので、心情はともかく責める言われはない。凛もセイバーも当然そういった良識を心得ている。
「士郎は夜食の支度しといて。夕飯を抜いちゃったから、もうお腹ペコペコよ」
「ああ」
こうしてイリヤを凛とセイバーに任せ、士郎は夜食作りに励む。
丁度出来上がる頃に凛達も居間にやってきて、夜食を食べながら相談する。
イリヤの不調は原因がよく分からないが、じきに目を覚ますはずなので、明日、改めて問診しながら調べるとの事だ。
夜食は――イリヤとアヴェンジャーの分も用意したのだが、結局その夜、二人の少女が目を覚ます事はなかった。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇ ◆◆◆
言峰教会――。
暗く静かな礼拝堂にて、言峰綺礼はランサーからの報告を受けていた。
アインツベルン城の崩壊と、そこで行われた壮絶な弾幕の死闘。
英雄王ギルガメッシュの参戦と敗北。それは言峰綺礼を大いに驚かせた。
「何……だと……!?」
「……解せねぇな。ギルガメッシュなんて計算外の英霊がいた事には驚かなかった癖に、そいつが敗れたと聞いたら我が事のように驚く。――つるんでやがったか」
その反応から、ランサーは言峰とギルガメッシュの関係を察した。
最終的にギルガメッシュの武力で帳尻を合わせるつもりだったのなら、なるほど、自分に調査ばかりさせていたのも頷ける。
いけ好かないマスターの元に残ったのは、捨て駒だけだ。
「……それで、衛宮士郎はイリヤスフィールを保護し、連れ帰ったと?」
「ああ。間桐慎二がどうなったかは知らねぇが、セイバーもアーチャーもそのマスターも、アヴェンジャーとバーサーカーも全員無事。ギルガメッシュの存在を怪しんで、一時休戦のようだぜ」
つまり、ギルガメッシュと共に暗躍していた言峰綺礼の正体が露見すれば、残り勢力すべてから集中砲火を受けてしまう。
ランサー単独でバーサーカー、セイバー、アーチャーの三騎と、アヴェンジャーを名乗る不死人を倒す? ゲリラ戦に持ち込もうと、暗殺を目論もうと、せいぜい最初の一人を仕留めるのが精一杯。被害が出た瞬間、残る全員が警戒態勢を敷き、全力で反撃に転じてくる。
――ならばいっそ、聖杯を使ってしまうか?
聖杯の完全起動に必要な英霊の魂は七つ。
そしてギルガメッシュの魂は規格外で、他の英霊数人分の量を誇る。
不完全ではあるが、聖杯の降霊はすでに可能なのだ。
しかし――小聖杯は手元になく、ギルガメッシュがいないというのは最悪だ。
迂闊に聖杯を降霊させれば、必ずや聖杯を狙ってサーヴァントがやって来る。
こちらの手札はランサーのみ。
そこにセイバーとアーチャーとバーサーカーとアヴェンジャーが四人がかりで攻めてきたら?
ゲリラ戦も暗殺もできずランサーは正面から討ち取られ、彼等は聖杯にたどり着くだろう。
――聖杯の"正体"に気づくだろう。
そうなれば言峰綺礼の悲願は没する。
十年前――言峰綺礼は不完全な聖杯を手に取った。
難敵だった衛宮切嗣とセイバーを分断させるための"目眩まし"が欲しいと願い、聖杯は叶えた。
冬木は炎に包まれ、あの大火災によって多くの悲劇が巻き起こったのだ。
しかし結局、自分は衛宮切嗣に倒され、セイバーは令呪によって聖杯を破壊した。
その後、聖杯からあふれた泥によって思いも寄らぬ事が起きた。
心臓を破壊されたはずの言峰綺礼は泥によって蘇り、サーヴァントであったギルガメッシュは受肉を果たした。そして、次の聖杯戦争でこそ願いを叶えようと雌伏し続けてきたのだ。
――あの聖杯から生まれ出るものを見守るため、祝福するために。
あの聖杯から生まれたものが、みずからを肯定するのか、否定するのか、知るために。
そういったあれこれが、すべてご破産になってしまった……のだろうか。
言峰綺礼は目頭を抑える。
「……いや、まだだ」
しかし、口からはそんな言葉があっさりと出てきた。
確かに戦況は厳しい。だが、挽回は可能だ。賭けに出ねばならないが、まだ、何とかなる。
その眼差しは確固たる決意を宿していた。
八方塞がりとなった状況を打破するために、より願いを重ねる事ができたなら――。
聖杯――ラインの黄金と呼ばれる呪物を素材とし、アインツベルンの錬金術によって生み出された願望機。
英霊という燃料に満たされつつあるそれは、未だ揺籃の中で眠っている。
黄金の夢を叶える者を、待ち続けている。
セラ! リズ! 慎二! 第二部終わったよ……。
明日は参考にならないキャラ紹介2。
明後日は第三部開始。