春になった。
幻想郷の"境界"に存在する古めかしい屋敷の寝室にて、蕾が花開くように、一人の美しき妖怪が眠りから覚める。
「ふわぁっ……」
正体不明の妖怪でありながら冬眠をする性質を持っており、この冬もまた、ずっと眠ってすごしていた。
彼女こそ幻想郷の賢者、八雲紫である。
今年の目覚めは何だかスッキリしていた。二度寝なんてする気になれない。とても気持ちのいい春の朝だ。
何だかいい事が起きそうな予感がして、そのまま布団の外に出た。
彼女は冬の終わりを感じながらテキパキと着替え、身嗜みを整える。
ウェーブのかかった金色の長髪を艶やかにきらめかせ、道士服に身を包んで心機一転。
彼女は寝室を出て縁側に立つと、幻想郷の風景を眺めながら背伸びをした。ああ、なんて気持ちがいいのだろう。
「さてと。
八雲紫。
穏やかな朝であった。
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
「おはようございます紫様。ご報告したい事が幾つも御座います」
「あら、何かあった?」
「……竹林暮らしの蓬莱人、藤原妹紅がこの冬、結界のほつれから外の世界に漂流しました」
「ふーん。まあ蓬莱人なら心配ないでしょう。結界のほつれは修復したのね?」
「はい、修復はすでに万全です。ですがその、藤原妹紅は外の世界で聖杯戦争に参加したとか」
「…………は?」
「二百年前にゼルレッチが見届けをしたとかいう、例の魔術儀式です」
「……………………は?」
「で、聖杯戦争に召喚されたサーヴァント三名を引き連れて幻想郷に戻ってきました」
「………………………………は?」
「抑止の守護者とか、アラヤとか、人理とか、英霊とかのサーヴァントです」
「……幻想郷はアラヤの管轄外のはずでしょう?」
「幻想郷の住人である藤原妹紅にくっついてきたせいで、結界をすり抜けられました」
「…………で、何のサーヴァントに侵入されたの? クラスと真名は?」
「バーサーカー、ヘラクレス」
「怪物殺しの神話級トップランカー!?」
「ランサー、クー・フーリン」
「ケルト脳をこじらせた影の国の女王のお弟子さん!?」
「アーチャー、身元不明なので書類には便宜上"無銘"と記載」
「つまり誰!?」
「以上三名、今やすっかり幻想郷に馴染んでます」
「何でよ!?」
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
長く苦しい戦いだった。
乱闘騒ぎによって逮捕されたサーヴァント三名の弁護を必死にする上白沢慧音。
別に悪さしないんならほっといていいと主張する博麗霊夢。――虜囚のアーチャーに手料理を振る舞われた事とは無関係と思いたい。
下手に扱ってアラヤを刺激して余計な介入を招くのも面倒と主張する蓬莱山輝夜。――これは恐らく永遠亭の薬師の入れ知恵だろう。
アラヤとか抑止とかよく分からないけどこいつら悪い奴じゃないと主張する藤原妹紅。――なお異変の黒幕疑惑で一緒に拘束されている。
逮捕から一週間後、様子見という無難かつ責任逃れな沙汰によって妹紅とサーヴァントは解放され、妹紅はバーサーカーを連れて竹林に帰り、ランサーとアーチャーは自由気ままな幻想郷ライフを始めたのだった。
それから一ヶ月ほど経ち春を迎えた現在――。
「いらっしゃいませー。お一人様ですね? 奥の席へどうぞ」
人里の茶屋――幻想郷にすっかり馴染んだランサーが、アルバイトに精を出していた!
浅葱色の着物にエプロンという姿が妙に様になっている。
「……こ、これが影の女王のお弟子さん……?」
奥の席へ案内されたお一人様、もとい人間に変装中の八雲紫は目眩を起こしかけた。
運ばれてきたお茶と団子からろくに味がしない。
味の問題ではない。気分の問題だ。ストレスの問題だ。
髪を結い上げ、着物姿となっている紫は、不自然にならないようスローペースでお茶と団子を口にしながら、光の御子クー・フーリンの働きを見守る。
それはもう立派でまともな仕事振りだった。礼儀正しく注文を聞き、爽やかな笑顔で配膳する。おかげで茶屋は女性客でいっぱいだ。
自分もランサー目当ての面食い女と思われているのだろうか。紫は少し悲しくなった。
キャーキャーはしゃぐ面食い女を相手に、ランサーはスマイル浮かべて接客中。
「はい。ええ。今日は臨時の助っ人がいるんで特別メニューやってるんです。はい、ご注文承りました。おいアーチャー、ストロベリータルトを二つ頼むぜ」
アーチャー…………と言ったか、今。
紫は座卓の影にこっそりと"スキマ"を開き、厨房の様子を覗き見る。
――褐色の肌に
紺色の着物にエプロンの組み合わせを完璧に着こなしている。
「……あれが身元不明のアーチャー」
霊格が妙に低い。恐らく英雄ではあるまい。
アラヤは有望な人間を見つけると、抑止の守護者になる契約と引き換えに力を与える事がある。アーチャーはその手合いのようだ。歴史に名が残っているかも怪しい。
ならば戦闘力は純正の英霊より劣るかもしれない。
「……とすると、警戒すべきはランサーともう一人……」
バーサーカー。ギリシャ神話最大の英雄ヘラクレス。
よりにもよって、なんて英霊を、なんてクラスで召喚してしまったのだ。
聞けば非戦闘時は大人しいものの、言語能力を喪失するほどの狂化を施されているという。
あの藤原妹紅が竹林に匿っているそうだが、正直不安しかない。そもそも幻想入りの対極にある英霊が幻想入りしてしまったのは、藤原妹紅のせいと言えるので。
「……これ、アラヤが横紙破りしたんじゃなく、幻想郷が横紙破りした事にならないかしら」
もしもアラヤが抑止力を派遣し、幻想郷を叩き潰そうなんてしたら――終わる。
幻想郷の戦力で対抗できるかどうかの話ではない。対抗できようができまいが関係ない。
幻想郷という土地が、英霊の集団との戦争に耐えられるほど頑丈ではないのだ。
少数の英霊が相手ならば、相性に優れる妖怪を派遣して完封なり暗殺なりすればいい。――だがヘラクレスが相手となるとどうすればいいのだ。
ヒュドラ毒なんて幻想郷には無い。神便鬼毒酒じゃ駄目だろうか? きっと駄目だ。
クー・フーリンの方はゲッシュで雁字搦めにしつつ、因果逆転や心臓確殺に対処できそうな妖怪を選出して派遣すれば――。
「お嬢さん、こいつは俺からのサービスだ」
「……はい?」
悩んでいる紫の元に、ランサーがストロベリータルトを運んできた。
「何を悩んでるかは知らねぇが、あんたみたいな美人にゃ笑顔が似合うぜ」
「は、はぁ……」
とても爽やかにほほ笑むランサーを前に、紫はすっかり毒気を抜かれてしまう。
いざという時に貴方を暗殺する算段を立ててました、などとは口が裂けても言えそうにない。
不承不承ながらも愛想笑いで返してありがたく厚意を受け取り、これ作ったの絶対にアーチャーだと確信し、毒が入ってないか疑い、慎重に口に運ぶ。
「――あらやだ、美味しい」
外の世界の高級スイーツに匹敵する腕前だ。アラヤの下っ端のくせに何故こんなに腕達者?
味付けも見事に現代風。近代になって契約したタイプなのだろうか。
タルトを食べ終える頃には、ランサーとアーチャーに対する敵愾心が半分以上は削がれてしまっていた。
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
迷いの竹林――来訪者を必ず迷わせる幻想郷の危険地帯。
そこに好き好んで暮らす物好きは、最低限道に迷わない術を身につけている。
そんな竹林の一角には小さな家があった。
人が一人、少々の不自由をしながら暮らせる程度の家。
庭には空腹を満たすための小さな畑もあり、その周囲には畑を荒らす獣を捕らえるための罠が仕掛けられている。少し離れた場所には解体用の小屋もある。
それらとは別に、戸口の大きな一軒家があった。
中には十二畳ほどの寝床があるだけで台所も無ければ厠も無い。囲炉裏も箪笥も机も無い。布団も無い。
本当にただ雨露をしのいで眠るだけの小屋に、バーサーカーは暮らしていた。
八雲藍に解放された後、バーサーカーを野放しにしておくのも問題という事で急遽建てられたものである。八雲藍が設計をして資金を出し、建築には妹紅やランサー、アーチャーまでもが参加した。サバイバル能力の高い三人である。
バーサーカーは理性を奪われてはいるが馬鹿ではない。
新しく建てられた小屋が寝床だと理解し、夜になるとそこで眠りについている。サーヴァントに睡眠は不要ではあるが、眠れない訳ではないし魔力の節約にもなる。
そんなバーサーカーが、日中はどうしているかというと――。
「…………………………………………何あれ」
竹藪から覗き見をしている八雲紫は、思わぬ光景に目を丸くした。
バーサーカーは小さな庭にあぐらをかいて座っており、その肩に、雀が止まっている。
チュンチュンと囀るその姿をどう思っているのか、無表情のまま見守っていた。
「……さすがのヘラクレスともなると、バーサーカーになっても理性的なのかしら? ……いえ、腰巻き一枚で理性的は無理があります。というか、ヘラクレスって酒や癇癪や狂気で大暴れした事で有名な英雄よね……」
とはいえ、あんな平和そうにしている英霊に手を出したら、こっちが悪者みたいだ。
いや妖怪なのだから悪者でも別にいいんだけど。
「うーん……藍の報告によると暴れたのは最初の乱闘だけで、後は大人しかったらしいし……」
それに、あれほどの霊基となれば必要とする魔力量も莫大だろう。
聖杯やマスターから供給されているならともかく、大気中のマナで賄っているのであれば軽々に暴れる訳にはいくまい。
霊夢の八方鬼縛陣で動きを止められたというのも、魔力不足に助けられたのではと推察する。
「アラヤや聖杯のバックアップ無しで、理性も無いとなれば意外と何とかなりそう……?」
それならば、戦いの連続だった人生の疲れを、幻想郷で癒やすくらいは許してやってもいいかもしれない。
幻想郷はすべてを受け入れるのだから。
だから、騒動さえ起こさないでいてくれるのなら、それで――。
「とりゃー! 夜雀キィーック!」
空から、雀色の夜雀の妖怪が、急降下。
思いっ切り勢いをつけて、バーサーカーの後頭部をガツンと蹴りつけた。
夜雀ミスティア・ローレライ。赤毛で活発な気性の妖怪で、頭はあまりよろしくない。
八雲紫は自分の体温が下がるのを感じた。春なのに寒い。肝が冷えていく。
「やい、妖怪筋肉達磨! その雀を、まさか食べようなんてしてないでしょーね!?」
バーサーカーの肩に止まっていた雀達が驚いて飛び立つも、やって来たのが仲間のミスティアであると気づくや、今度はその周りを楽しげに飛び回った。
ミスティアはパタパタと宙を舞いながら、偉そうに腕組みなんかして、喧嘩腰にバーサーカーを睨みつけちゃっていた。
「……………………」
「む~……相変わらずだんまり決め込んで! 焼き鳥屋の仲間は私の敵よ! あんたなんか八つ裂きにして、肉と内臓を屋台に並べてやるんだからー!」
「……………………」
「こらー! ちゃんとお話聞いてるの!? これだから低脳妖怪は困るのよ!」
低脳はお前だ鳥頭。
そう叫んで飛び出したくなるのを堪える八雲紫。
よりにもよってヘラクレスを筋肉達磨の低脳妖怪扱いするとか、ギリシャ神話に喧嘩売ってるのか。ギリシャ神話警察に捕縛されてキュケオーンの具にされても文句が言えないレベルだ。
※キュケオーンとはギリシャ神話に登場する粥っぽい料理である。
「さあ、今日こそ退治してやるわ。私の必殺スペルであんたなんかギタンギタンに……」
と言いながらミスティアは一度、着地しようとした。
足が地面に触れた瞬間、地面から縄が飛び出してミスティアの足首に絡みついた。
「ぴゃ!?」
畑を荒らす獣用のトラップだ。
縄は竹に結ばれており、ミスティアは哀れ一本釣りの逆さ吊り。
いつぞやのように上下逆転状態となって、慌ててスカートを抑えて悲鳴を上げた。
「ひぃぃぃ! 卑怯者ー!」
客観的に見れば、害獣対策にかかったミスティアが一方的にお馬鹿である。
ブラブラ揺られるミスティアの姿を見て、バーサーカーはのっそりと立ち上がった。
始末する気だろうか。バーサーカーの気性を確かめるべく、紫は息を潜めて成り行きを見守る。
なぁに、もしミスティアが殺されたとしても、妖怪なんてそのうち復活するから大丈夫。
いや、怪物殺しの権化とも言えるヘラクレスの手にかかったら危ないかもしれない。概念的なアレやコレやソレやで消滅しちゃうかもしれない。
紫は手元にスキマを開いた。
あんな馬鹿でも幻想郷の住人で、自分は妖怪の賢者なのだから。
「ひー! 来るな、近寄るなー! 食べないでー!」
「……………………」
だが、バーサーカーの動きはゆったりしたもので、害意をまるで感じない。
それでも慎重に様子を見ていると、バーサーカーはミスティアを吊るしている縄を掴み、無造作に引きちぎった。
解放されたミスティアは頭から地面に落ち、頭を抱えて転げ回る。
――助けたというのか、いきなり頭を蹴りつけてきた妖怪の少女を。
「ぐぬぬぬ……よくもやったわね! 覚えてなさいよ!」
助けられた自覚が無いのか、ミスティアは捨て台詞を吐くと涙目のまま飛び去ってしまった。
紫はその後ろ姿を呆れて見送り、ため息をひとつついてから、バーサーカーへと視線を戻し――視線が、かち合った。
息を呑む。
手元に開いたままのスキマに妖力を込めながら、バーサーカーの足元を狙う。奴が動き出す前にスキマを開けば、落とし穴の要領で封じ込められる。いかにヘラクレスと言えど理性のない狂戦士のクラスなら、そういった単純な戦法も通用するかもしれない。
バーサーカーは動かない。ただじっと、八雲紫の瞳を見つめている。
八雲紫は動かない。ただじっと、バーサーカーの動向をうかがっている。
……一分も経たなかったはずだ。
何事も無しと判断したのか、バーサーカーは視線をそらし、元の位置へと戻ってあぐらをかく。
森林浴でもしているつもりだろうか? それっきり、動く気配は無くなってしまった。
紫は自身の背後にスキマを開くと、倒れ込むようにして身を投じ、スキマを閉じる。
異空間に逃れて一息つきつつ、先程の光景を思い返して、思索に耽る。
バーサーカー、ヘラクレス。
……もうしばらく、様子を見る必要がありそうだ。
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
――博麗神社。
幻想郷唯一の神社であり、幻想郷の端に存在し、商売敵がいない事にあぐらをかいており、不真面目な巫女が管理しているため、繁盛していない神社である。
そんなだからお賽銭も少ない。金額の問題ではなく信仰の問題なのだが、それはそれとして金額も大事なのがお賽銭である。
ところが可哀想な賽銭箱に小銭を放り込む一人の少女の姿があった。
紅白の装いをしているが、決して博麗の巫女の自作自演という訳ではない。
白いブラウスに紅い袴、藤原妹紅である。
チャリンと音を立てて小銭が転げ落ちるのを確認すると、特に拝むでもなく神社を見渡した。
「おーい、霊夢。いないのかー?」
「ええ、霊夢は留守にしているわ」
賽銭箱の上の空間が開いて、八雲紫は上半身だけニュッと這い出る。
虚を突かれたせいで妹紅は滑稽なほど肩を跳ね上げ、後ずさった。
「うわっ!?」
「肝試し以来かしら? お久し振りね」
「……いきなり驚かすな。……なんだ、なにか用か?」
英霊の扱いについて、藍と色々揉めたせいだろう。露骨に警戒している。
用件はまさしくそれなので、紫は扇子を開き、口元を隠しながらほほ笑んだ。
「ええ。貴女に釘を刺しておこうと思いまして」
「釘?」
「外の世界に出ようとするのはおやめなさい」
単刀直入に釘を刺し込んでやると、妹紅は鋭い視線を返してきた。
「……なんでさ」
「貴女は幻想郷の住人。軽々と外に出られては困りますわ」
「外の連中に幻想郷の存在を知られると面倒だと?」
「その辺りは魔術協会の一部に話が通ってるので多少は融通が利きます。……宝石翁はご存知?」
「知らない」
聖杯戦争に関わったくせに、そんな基礎知識も無いのか。
まあ、そんなだから厄介事を引き込んでくれたのだが。
「もっと分かりやすく言いましょう。
ほんの僅か、藤原妹紅は目を伏せる。
不思議な事に、彼女の心は落ち着いているようだった。沈んでいると言い換えてもいい。しかし決して理不尽に憤っている気配は無い。
会うのを恐れる気持ちがある――そのように感じられた。
ならばその気持ちを理屈で補強してやろうと、紫は笑みを深くする。
「貴女は結界のほつれに落ちて外の世界に迷い込んでしまった、それは構いません。聖杯戦争に参加し、マスターとサーヴァントと交流したのもいいでしょう。しかし――大聖杯を通って幻想郷に還ってきたのは困ります」
「……よく分からないな」
「大聖杯は"根源"に繋がる門。世界の狭間の支流に乗って、幻想郷に引き寄せられる形で貴女は帰還した。つまり大聖杯と幻想郷の通り道を繋いでしまったという事。道を閉ざしたところで、貴女が通ったという歴史は残る。アラヤに介入される余地が生まれかねない」
「アラヤ……幻想郷と相反する存在だから、都合が悪いんだったか? 狐がそんなような事を説明してくれたが」
「その通り」
「でも別に、霊夢に頼んで正規の方法で外に出れば、聖杯もアラヤも関係無いだろ」
会うのを恐れていても未練はあるようで、妹紅は自分なりの理屈を述べる。
賽銭を入れるなんて奇特な真似をしたのも、霊夢の機嫌を良くしたいという下心から。信仰心など欠片もこもっていない。
だから紫は端的に答えた。
「小聖杯」
「っ…………」
そんな事まで話してないと妹紅の表情が語っていたが、紫には紫の情報源がある。
「大聖杯が機能を停止したとはいえ、小聖杯との繋がりが断たれた訳ではありません。迂闊な接触をされて小聖杯が願望機としての機能を限定的にでも発露すれば、大聖杯や幻想郷の結界に影響を与えてしまう可能性があります」
「与えたらどうなる」
「それはなんとも。しかし仮に幻想郷が無くなったとしたら――貴女はどこへ行くのかしら?」
不老不死の人間が生きていくには、外の世界は情報化が進みすぎている。
神秘を隠匿する魔術協会も、不老不死なんて絶好のサンプルでしかない。聖堂教会に知られれば摂理に反する存在として代行者を向けられるだろう。さすがに蓬莱人ともなれば滅ぼされる事はないにしても、何をされるか分かったものではない。
「それに
「…………脅してるのか?」
「ただの忠告です。私は幻想郷を守りたいだけで、幻想郷には幻想郷でしか生きられない者が大勢いる」
無論、そこには藤原妹紅も含まれる。
外の世界でイリヤスフィールの元に行き一時の安息を得たとしても――それは本当の意味で一時でしかないのだ。
「――別に、イリヤに会いに行こうなんて思っちゃいない。聖杯戦争が終わったらお別れするのがサーヴァントだからな」
「そう。それを聞いて安心しました」
内心はともかく、これで藤原妹紅が小聖杯と接触する事はないだろう。
少々不憫にも思うが、好き勝手をされても困るので仕方ない。幻想郷の存続は危うい均衡の上に成り立っているのだ。
――せめて彼女のマスターが小聖杯で無ければ。
「ところで、聖杯戦争が終わったらお別れするのがサーヴァントだと言ったわね」
「……ああ、それが?」
「それはマスターだけでなく、貴女自身にも当てはまる言葉だという自覚はありまして?」
自覚はまるで無いようだ。妹紅はほんの少し眉を寄せただけで、事情をまるで理解していない。マスターだけでなくサーヴァントともだいぶ親しくなっていると報告を受けているため、しっかり説明しておくのが義理というもの。
「聖杯戦争が終われば消えるはずのサーヴァントがなぜ、幻想郷で存在していられるか。その考察についてもお話しておきます」
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
「夜の鳥ぃ、夜の歌ぁ。人は暗夜に
「よう、やってるかい」
「いらっしゃーい。今日はいい八目鰻が入ってるよ」
「んじゃま、八目鰻と酒。あとなんかテキトーにつまめるモン出してくれや」
「あいよー」
幻想郷の夜、それは妖怪の時間である。
ミスティア・ローレライが"焼き鳥撲滅運動"の一貫として、八目鰻の屋台を出す時間でもある。夜雀の歌は他者を鳥目にする能力があり、屋台の提灯に寄ってきた人間に「夜目に効く」という触れ込みで八目鰻を食べさせるのだ。その後、鳥目の能力を解除すれば八目鰻のおかげで治ったと勘違いする。ボロい商売である。
それはそれとして八目鰻は美味しく焼き上げるため、鳥目に関係なく常連客を得ている。
今宵、八目鰻の屋台を訪れたのは幻想郷の新参者、ランサーだった。
浅葱色の着物姿の彼は席に着くと、コップに注がれた酒を受け取って唇を湿らせる。
「くはぁー。一仕事終えた後の酒は旨いねぇ」
「はい、テキトーにつまめるモンもどうぞ」
「おう、サンキュ」
テキトーにつまめるモンをテキトーにつまみつつ、八目鰻の焼ける匂いを楽しむランサー。冬木では滅多に酒など飲めなかったが、こちらでは自腹で自由に飲めるのがありがたい。
「あんたは亡霊のくせにいいお客さんで助かるわ」
「亡霊じゃなく英霊なんだけどな」
「結局オバケでしょ? いちいち区別なんかつけないわ」
「…………平和だねぇ……」
楽しげに微笑をこぼしながら、ランサーはコップを傾ける。
店主のミスティアが騒々しいが、この屋台の雰囲気は好きだった。
そこに、新たな客がのれんを潜ってくる。
「邪魔をする」
「いらっしゃーい」
露骨に聞き覚えのある声がして、ランサーはうなだれてしまった。
「むっ……貴様、なぜここにいる」
「そりゃこっちの台詞だ。バイト先がかぶっただけでも鬱陶しいのによぉ」
紺色の着物姿のアーチャーもまた、しかめっ面で席に着く。
ミスティアは注文も確かめずにお酒とテキトーにつまめるモンを出した。
「八目鰻は焼いてるトコロだから、つまみながら待っててね。あんたに教えてもらった通り改良してあるから美味しーよ」
「いただくとしよう」
アーチャーもまたテキトーにつまめるモンをつまみ、その腕前を吟味する。
まだ若く拙いところがあるが、これだけできれば上々。将来が楽しみというものだ。
一方、ランサーは呆れたように笑う。
「んだよ。幻想郷をさすらう謎の助っ人料理人さんは、こんな屋台にまで出張ってんのか?」
「仕方あるまい。焼き鳥屋を手伝った帰りに襲われて、場を収めるには焼き八目鰻屋の協力が必要不可欠だった」
「お前も苦労してんだなぁ」
幻想郷に来て分かった事だが、アーチャーはどうも女難の相があるらしい。
八雲藍からも妙に因縁をつけられ、たびたび監視されてもいるし、魂魄妖夢から二刀使いとしてちょくちょく決闘を申し込まれている。バックアップ無しの英霊にちょっとかするだけで致命傷な霊刀を使っている自覚があんまり無いようだ。
ランサーはというと気楽なものだ。人里でバイトに精を出し、稼いだ金で酒を飲み、仕事の無い日はのんびり釣りや農作業に耽ったり――。
「ふぅ……あれからもう、一ヶ月以上か。どうよ? 幻想郷での暮らしは」
「悪くない、だが――我等の本分は兵器。聖杯戦争がイレギュラーな結末を迎え、"座"に還るべき我等が幻想郷に迷い込んでしまった。もしかしたらイレギュラーは終わっていないのかもしれん。だとすれば、後始末をする者が必要だろう」
「ここの人間や妖怪どもは強いぜ、任せちまってもいいんじゃねぇの?」
「妹紅に首を突っ込まれたら、また妙な事になりそうで怖いだろう」
「ハッ――違いない」
ランサーとアーチャーは同時に酒を煽った。
飲ん兵衛だらけの幻想郷に相応しい酒精の強い一杯は、喉と腹をたっぷり熱くさせる。
「八目鰻の蒲焼き、上がったよー」
丁度いいタイミングで料理が完成し、ミスティアがお店のメイン商品をお出しする。
八目鰻――鰻と違い、それは泥臭くてコリコリとした食感の、玄人向きの食材である。だがしかし酒の肴にはもってこいで、飲ん兵衛だらけの幻想郷では人気メニューだ。
「おお、来た来た」
「さて、お手並み拝見」
ランサーの前に、コトンと、八目鰻の蒲焼きの皿が置かれる。
アーチャーの前に、コトンと、八目鰻の蒲焼きの皿が置かれる。
二人の間に、コトンと、八目鰻の蒲焼きの皿が置かれる。
「……あ?」
一皿多い。
奇妙に思ってランサーとアーチャーは、中間に置かれた皿を見ようとし――。
「こんばんは。今宵は夜風が心地いいですわね」
自分達の間に、見知らぬ女性が座っている事に気づく。
「――――ッ!」
ランサーとアーチャーは不仲ながらも、並んで座っていたはずである。間に誰かが座り込む余地など無かった。気がつけば、自分達の座っていた位置が左右に開かれるようにしてズレている。
突然の異常事態に二人は息を呑んだ。
女は八雲藍のような道士服を身につけた、金色に輝く長い髪の女だった。瞳の色もまた金で、妖しく揺らめいている。
「テメェ――いつからそこに」
「えっ? さっきからいたよね?」
ランサーの疑問に、ミスティアが口を挟む。
だが自身で言った言葉にミスティアは首を傾げた。
「――あれ? いつ来たんだっけ? まあいいか。はい、お酒」
「はい、どうも」
首を傾げたが、馬鹿なのでたいして気にもせず商売を続けた。
美女も柔らかな態度でお酒を受け取ると、艶やかな唇を濡らす。
「ふぅ……お初にお目にかかります。私は八雲紫。妖怪の賢者などと呼ばれております」
「八雲――あんた、昼間の」
「藍の主、幻想郷の管理者か」
冬眠中とは聞いていた。
そして彼女こそが、英霊の幻想入りに沙汰を下す存在だとも。
八雲藍を相手に慧音達が勝ち取ってくれた執行猶予期間が終了した――という訳だ。
気配も無くこの場に現れた不可解な能力、さすがは賢者を名乗るだけはあると感心する。
「それで……俺達をどうする気だ?」
「こちらとしては揉め事を起こす気はないのだがな」
短いながらも、馴染みの店として世話になっている。ここで弾幕ごっこや決闘騒ぎを起こしては申し訳が立たない。
八雲紫は柔らかな笑みを浮かべつつ、八目鰻の蒲焼きへと箸を伸ばした。
「せっかくの蒲焼き、冷めてしまいますわ」
とっくにペースを握られてしまった英霊二人は、胡散臭いものを感じながら八目鰻を食べる。よく泥抜きがされているが、やはり癖が強い。しかし酒で追い打ちをかけてやれば五臓六腑に染み渡り、至福の時間が訪れる。
「ヤーツーメー。ヤーツーメー。おかわりもジャンジャン頼んじゃってよー」
ミスティアは空気を読まず歌っていた。
客は多ければ多いほどいい。売り上げが増えるので。
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
始まったのは夜雀の屋台に不釣り合い極まる静かな酒宴と、世間話。
幻想郷の成り立ちを浅く語ったり、不真面目な博麗の巫女の仕事振りや、八雲藍と起こした揉め事の顛末、
大人しく座敷牢に入ってくれていた事や、解放後も幻想郷の秩序を乱さなかった事への礼。
英霊達が幻想郷でどのように暮らしているか、どのように感じたかを、静かに聞いたり。
急にテンションの上がったミスティアの騒々しい歌声を聴きながらお酒を飲んだり。
歌以外は驚くほど穏やかな時間が過ぎ去っていき――。
「こちらとしても、抑止力と不用意に争うつもりはありません。貴方達が幻想郷で静かに暮らしたいというのなら受け入れましょう。ただ――」
ひとしきり飲食を終えて、八雲紫は妖しくほほ笑む。
「貴方達はなぜ幻想郷に居られるか、ご存知かしら?」
受け入れると、八雲紫は言ったばかりである。
だのにこのような物言いをするのは、裏の意味があるという事。
「どういう意味だ?」
腹芸も面倒なので、ランサーは実直に訊ねた。
紫は柔らかな声で告げる。
「聖杯もマスターも無く、アラヤとの繋がりすら断たれ、受肉した訳でもない英霊が――マナを補充できるというだけで現界を続けられると?」
「そりゃ――」
ランサーは戸惑った。
もしや自分達が幻想郷に存在していられるのには、何か厄介な事情があるのか?
「まあ、心の持ちよう次第で出来ますけど」
「出来るのかよ!?」
取り越し苦労だった。
ランサーは思わずコップを揺らし、少し酒がこぼれた。
アーチャーも場の流れは完全に支配されていると理解し、力無く八目鰻を頬張る。
クスクスと紫は笑い、扇子を取り出して口元を隠した。
「貴方達が幻想郷に存在できる理由は、大きく分けて三つ考えられます」
不意に、世界が静まり返った。
鳥の声、虫の音、木々のざわめきすら消える。
ミスティアの鼻歌だけが夜の闇へと吸い込まれていく。
八雲紫の声だけが、静かに鼓膜を撫でる。
「一つ目は、まだ聖杯戦争が続いている可能性。――といっても聖杯戦争の観測はできませんし、未だ続いている可能性は極めて低いでしょう」
この辺りの事情は実のところ、幻想入りしたサーヴァント達にはまるで分かっていない。
なにせ聖杯戦争で真に最後まで残っていたのはセイバーなもので。恐らく、打ち合わせ通りに大聖杯を宝具で破壊したのだろうが、それだって確認した訳ではないのだ。
「二つ目。忘れ去られた者の行き着く先が幻想郷なら、人々の記憶、人類史に刻まれた存在が英霊です。つまり――外の世界で貴方達を強く覚えている誰かが生きている限り、現世に固定されているのかもしれません。あくまで可能性の話ですが」
二人が思い浮かべたのは、バーサーカーのマスターとアーチャーのマスター。
あの二人が生きているのなら、覚えているのなら。
確かに、それくらいの奇跡は起こるかもしれない。
だが、ランサーのマスターは……。
「最後の可能性、それは――第二の生を謳歌したいという欲求、あるいは
今度は逆に、二人にとってまったく心当たりの無いものだった。
確かに第二の生を望み、受肉を願うような英霊もいるだろう。
だが自分達はすでに死人。過去の影にすぎない。
やり残した事、果たせなかった事、後悔や未練だって無いとはいえない。それでも、それらを受け入れて戦い抜いたのだ。
「ハッ――悪いが、俺達は第二の生なんてもんに興味はねぇよ。ただ、拾っちまったモンを無下にする事もないってだけさ」
「あら、そのような物言いをなさるという事は――何か未練がおありかしら?」
あるはずがない。
確かに聖杯戦争を勝ち残る事はできなかった。しかし赤枝の騎士として全力を尽くした上での敗北だ。――納得はしている。
脳裏に一瞬、赤毛のマスターの姿がよぎる。
納得している――はずだ。
八雲紫は不意に扇子でカウンターの上を払うと、そこには三人分の飲食代が置かれていた。
「気をつけなさい。未練も、この世への執着も無いのなら――貴方達はいつ消えてしまってもおかしくない不安定な影。外の世界で貴方達を強く想う誰かが、その想いを陰らせるか、寿命を終えるまでのタイマーでしかないという事です。この件は藤原妹紅にも話しておきました。――消える際には挨拶くらいしてあげてくださいね」
そしてゆらりと、後ろへと倒れ込む。
頭から地面に引っくり返る――そう思った刹那、彼女の背後に暗い闇が開いた。闇からは無数の視線を感じ、薄気味悪さにランサーとアーチャーは身を引いてしまう。
「今宵はさようなら、儚き形のサーヴァント」
八雲紫が空間の隙間へと身を投じると、それはすぐさま閉じて消え去ってしまう。
――夜の音が帰ってくる。鳥の声、虫の音、木々のざわめきが押し寄せてくる。
「あら、むつかしー話は終わり? じゃあ私の歌を聴きなさい!」
歌う夜雀ミスティア・ローレライも、空気を読まず元気いっぱいに歌い出す。
しかし二人のサーヴァントの耳には未だ、賢者の残した言葉が響いていた。
「……なあ。今の話が本当ならよ、バーサーカーの野郎は……」
「…………持って一年だろうな」
人の世の儚さを告げるように、夜の空を一筋の星が流れた――。
◆ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ ◇
二人で月を見ていた。
妹紅は縁側に腰掛け、バーサーカーは庭に座り、何をするでもなく月を眺めていた。
すると星が流れるのをたまたま目撃する。
儚く消える一筋の光。それは人間の一生にも似ている。
「旦那。せいぜい長生きしろよ」
サーヴァントが幻想郷から消える条件のひとつを思い出しながら、妹紅は自然と呟いた。
幻想郷のサーヴァントはいつか消える。
未練を解消し、満足し、この世に居続ける必要が無いと心から思うか――。
外の世界に残してきたか細い縁、マスターからの想いが途絶えるか、命が尽きてしまえば、聖杯もアラヤもない幻想郷で、サーヴァントが現界し続ける事はできない。
遠坂凛は長生きしそうだし、バゼットの件はよく分からないがランサーはああ見えて優れた魔術師だし何とかなっているのだろう。
イリヤがバーサーカーを忘れるなんてありえない。
だからバーサーカーが消える時は、そういう事なのだろう。
来年の冬。それがリミットだ。
大聖杯の中で喚き散らした暴言が実現でもしていたとか、イリヤや凛が魔術で何とかしたとか、そういう都合のいい事でも起きなければ。
「ごあっ」
バーサーカー自身、己の未来を察しているのか――励ますように返事をした。
同じ不死身でありながら、同じサーヴァントでありながら、残された時間があまりにも違いすぎる二人。命の儚さを想い、妹紅は目を
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜の冬木、衛宮邸にて。
食卓にご馳走を並べ、藤村大河はビール片手に高らかに音頭を取った。
「イリヤちゃんの小学校編入を祝ってカンパーイ」
――穂群原学園で謎の集団昏睡事件が起き、療養を余儀なくされた彼女も今では元気ハツラツ。冬木の虎!
聖杯戦争終了直後に回復して衛宮邸を訪ねたら、イリヤとセラとリズがいてびっくり仰天。
でも馴染んだ! 一日で馴染んじゃったよこの人。そして聖杯戦争終結からだいたい一ヶ月――アインツベルンさんはもう完璧に身内扱い! セラからはちょっと鬱陶しがられているぞ。
そんな藤村大河が盛り上がっているのは先程の発言通り、イリヤスフィールの小学校編入を祝っての事だ。
衛宮切嗣の隠し子、年齢11歳。ドイツから父に会いにやって来たらとっくに死んでたという聞くも涙、語るも涙な話を心から信じて、そんなイリヤちゃんのために大張り切りだ!
まだ着慣れていない私服姿のセラとリズはどうでもよさそうに座っており、イリヤの編入手続きを手伝ったおかげで招かれていた凛もそのノリに少々疲れた様子で、士郎も少々疲れた様子ながら楽しそうに微笑んでおり、肝心要のイリヤは上座で面倒臭そうにしていた。
「…………何で私が小学校なんかに……」
「あはははー。イリヤちゃん、学校も行ってみれば楽しいわよー。目指せ! 友達100人!」
「要らないわよ、友達なんて。わたしにはシロウがいるんだから」
「んもう、そんなコト言ってちゃダメよ?」
「くっ……寿命が伸びた弊害がこんな形で……」
「うん? じゅみょー?」
「そんなコトより早くご飯にしましょう」
雑に誤魔化しつつ、イリヤは料理に箸を伸ばした。今日はお祝いという事で、大河がそこそこのお値段がするお寿司を買ってきてくれたのだ。
以前――三人で食べた寿司を思い出す。
あれは美味しかったなと思いながらマグロを口に入れて咀嚼すると爆発した。
「――――ッ!?」
強烈な刺激が口から鼻へと突き抜けて、味覚を一色に染め上げていく。
マグロ? シャリ? そんなもの一切知覚できない。
なんだこれは、なんなのだこれは。以前食べたお寿司と全然違う。
「お、お嬢様!?」
過保護なセラが大慌てで飛びついて、必死の看護を始める。
士郎の前で吐き出すなんて出来るはずもないイリヤは気合で呑み込み、涙目になりながら息を荒くし、ニホンチャで口を洗った。この苦い味わいも今は天の助けに等しい。
正体不明で奇想天外なトラブルは、士郎が手近な寿司を確認する事で解明された。
「――藤ねえ。これ、ワサビ入ってる」
「えっ? えっ? ――イリヤちゃん、ワサビ駄目だった?」
そこそこのお値段のお寿司、肝心要のイリヤが食べられないものばかりというオチがつく。
玉子や穴子を食べよう。それならワサビも入ってない。
「くっ……やってくれたわね、タイガ」
「ご、ごめんねイリヤちゃん。先に確認しとくべきだったわ……」
冬木の虎は善良なので、せっかくの祝い事に水を差してしまったとなれば、しゅんと縮こまってしまう。なんとも面白おかしい生物なのでイリヤとしても実はお気に入りなのだが、こういう事をされては困るのだ。お寿司にワサビとガリは不要です。
ただしニホンチャは今回の件で許された。名誉挽回大成功!
――とまあ、愉快なトラブルもありはしたものの、その日の宴会は大いに盛り上がった。
人並み、もしくはその半分くらいの寿命を得てシロウと長く一緒に居られるのは嬉しいけれど、小学校に通うなんてのは想定外にも程があって、お寿司のワサビも想定外で――。
ああ、人生なんて思い通りにならない事ばかり。
それでも。
「イリヤちゃーん! ほら、穴子。これならワサビ入ってないわよー」
「ええい、邪魔ですフジムラタイガ! お嬢様のお食事を手伝うのは私の仕事です!」
「もぐもぐ。ワサビはイリヤの敵。だからわたしが食べて始末するね」
「ちょっ、リズ! 何いきなりトロを独り占めしてるのよ! イリヤ編入の功労者は私よ!」
「ああもう、みんなもっと落ち着いて食べてくれ!」
この騒々しさは、嫌いじゃない。
イリヤは静かにほほ笑みつつ、士郎の作ってくれたお味噌汁を飲むのだった。
人の儚さってなんだっけ? 夜の空を一筋の星が流れ落ちたとさ。
紫様は物知り顔で色々語るキャラだけど、事前調査をしっかりするタイプ。
バッチリ決まったぜ。