妹紅の手料理を楽しんだ翌日。
朝食の席で顔を合わせた妹紅は、購入したてのブラウスとジーパン姿を披露した。
股下が広がってゆとりのあるいつもの赤ズボンと違い、スマートな脚のラインが強調される装いは格好よくもあったが、あの脚で蹴りまくってくるんだなという攻撃的印象が拭えなかった。
「イリヤ。今日も街に行かないか?」
セラの自慢気な朝食をひとしきり堪能した後、妹紅は期待に満ちた声色で言う。
昨日たっぷり楽しんだとはいえ、まだまだ行ってない場所の方が多い。
そしてお金がないと何も買えず、妹紅は現金を持っておらず、イリヤのクレジットカードを当てにしているのは明らかだった。
「働きなさい」
だからという訳ではないが、イリヤは冷たく突き放す。
「遊ぶなとは言わないけど、わたし達は聖杯戦争のため日本に来たの。今日はお城の結界のチェックをするから邪魔しないで」
「えーと、じゃあセラかリズなら空いてる?」
「空いてない。どうせなら二人の仕事を手伝いなさい」
二人は最高に優秀なメイドなので、この広くて大きなアインツベルン城をたった二人で管理できる。中庭の花園を復活させるくらいがんばってくれている。
なので、この偽サーヴァントもちょっとくらい役に立ってくれればと考えたのだが――。
そんな期待は、早々に炎上させられる事となる。
◆ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「えっ――戦闘? 城壁の外、セラとリズが戦ってる!? 森には誰も侵入して……アサシンなら気配遮断で可能……いえ、これは……戦ってるのは……!!」
調整中の結界が異常を感知し、イリヤは慌てて現場に向かう。
窓から飛び出すと同時にバーサーカーを実体化させ、その頭にしがみつく。バーサーカーは紳士的にマスターの身体を手で覆い、地面に着地するや素早く駆け出した。
城壁の外、そこでは妹紅が膨大な数の火炎弾をばら撒いていた。
セラとリズはそれに相対し、軽やかな動きで火炎弾の間を縫って接近を試みようとしている。
夕焼けよりも紅い空。紅蓮と踊る純白のメイド。
その美しさは、イリヤを青ざめさせた。
「――モコウ! 何やってるの!?」
裏切り、叛逆、圧制、そういった言葉を思い浮かべながら厳しい声を投げかけると、妹紅はあっさりと攻撃の手をやめ、セラとリズもその場に立ち止まる。
そして三者は好き勝手に語り出した。
「何って、アインツベルンのメイドは侵入者を迎え撃つのも仕事だって言うから、ちょっと腕試ししてる。ほら、これから一緒に戦う仲間な訳だし、あまり頼りないようなら鍛えてやらないとな。まっ、私と旦那だけで十分なんだが――こいつ等も結構やるんで驚いた。イリヤも同じように戦えるのか? 弾幕出したり武器振り回したり」
「我々の実力を侮るのは、アインツベルンのホムンクルス製造技術が疑われるも同然! しかもモコウはバーサーカーの代わりにサーヴァントの振りをして戦う予定なのです。実力と品性に不足があれば、アインツベルンは三流サーヴァントを呼び出したとの誹りを受けましょう。なのでちょっと腕試しをしてやろうかと」
「モコウが弾幕ごっこしようって。攻撃パターンを作って、それを回避して攻略する遊び。楽しいけどイリヤには向かないし、バーサーカーは身体が大きいから隙間をくぐれないし、わたしとセラなら丁度いい。それに戦闘訓練としてもなかなか効率がいい。モコウは火力控え目にしてくれてるし、モコウは殺しても平気だからお互い安全」
……要するに試合とか訓練とか、そういう類のものか。ややこしい。
すっかり気の抜けたイリヤは城壁にもたれかかる。
「そう――それじゃあ、続きをやりなさい」
意外だったのか、妹紅とセラは目を丸くする。
「わたしのメイドとサーヴァントだもの。バーサーカーにかなわないにしても、情けない戦いをしたら許さないんだから」
――妹紅の攻撃は凄まじい火力と美しいパターンを両立していたが、わざわざ避けるための道を作る不可解なものだった。セラとリズは目ざとくそれを見つけて火炎弾を避け続けるが、妹紅に近づけば近づくほど弾幕の密度は上がり後退を余儀なくされる。
おかげでいつまで経っても肉薄できず、近接戦闘を得意とするリズは何もできずじまいだ。
魔術で遠距離戦をこなせるセラは純粋な魔力弾で幾度となく反撃をするも、妹紅は鮮やかな飛行魔術でそれを回避。
「私に当てたかったら、これと同じくらいの弾幕を放ってくれないとな」
なんて言いながら、その数倍の火炎弾をばら撒いてくる。
やはり妹紅の実力は桁違いだ。現代の魔術師にここまでの芸当はできない。
もっとも、バーサーカーとあれだけの勝負を繰り広げたのだ。大言壮語の癖があるにしても、他のサーヴァントと戦えるだけの能力はあって当然で、サーヴァントよりはるかに劣るセラとリズが太刀打ちできないのも道理である。
「こらー。もっとがんばりなさーい」
しかし妹紅は渋々迎え入れた傭兵のようなものであり、セラとリズはアインツベルンのホムンクルスでメイドなのだ。どっちを応援するかなんて決まっている。
アインツベルンの心意気! セラとリズは声援を浴びて張り切るも、やはり実力差は厳しい。
数十分もする頃には、セラとリズは膝をついて動けなくなってしまっていた。
おのれ、いつか妹紅にも膝をつかせてやる。
◆ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ねえモコウ。何度か耳にしてるけど――弾幕ごっこって何?」
手合わせなのだから手加減するのは分かるが、それでも妹紅の攻撃手段は異質だった。
わざわざ逃げ道を用意した攻撃。そこに誘い込んだからといって罠がある訳でもない。
実用性のない演舞のようなものに感じられたが、それも何か違う気がする。
「あれは、正式にはスペルカードルールっていう――幻想郷にある決闘ルールのひとつだ」
壁にもたれるイリヤの隣にやってきた妹紅も、城壁に背中を預けて語り出す。
「幻想郷には本気で暴れたらヤバイ連中もいるし、妖怪の存在意義は人間に畏れられる事だから、人間と妖怪が戦えないと色々困るんだ。平和ボケしてると腕がなまって弱体化していくからな」
こういう説明が苦手なのか、妹紅は言葉を区切ってしばらく思案した。
「それで、あー……自分の技や能力でパターンを作って、スペルとして放つ。それを攻略されたら素直に負けを認める」
「なんで弾幕に隙を作ってたの? 負けたいの?」
「不可能弾幕は反則なんだよ。何でもありにしたら必殺必中の能力とか有利すぎるだろう」
「それの何が悪いのよ」
「楽しくない」
意外な答えだった。
そりゃ、戦いを楽しむ人種ってのはいる。
フェアな戦いを尊ぶ精神も分かる。
しかし楽しさのために合理性を捨てすぎている。あまりにもナンセンスだ。
「そんなの、決闘じゃなくただの
「
馬鹿にしたつもりが肯定されてしまった!
しかも妹紅、おかしいところは無いとばかりに堂々と答えてる。
「何よそれ、そんなの実戦で役に立つの?」
「実戦の時は弾の隙間を塞ぐだけでいい」
クルクルと指を動かす妹紅だが、特にハンドサインという訳ではなさそうだ。
宙に落書きをしているようなものだろう。
実際、三次元の戦闘に置いてすべての隙間を塞ぐなど至難だが、それでも妹紅がサーヴァントと戦った時は分かりやすい抜け道など作られていなかった。
「ん……それもそうか」
「それに、ルールを破った犯罪者なんかを狩る時は不可能弾幕をガンガン使っていい。完全包囲の弾幕だろうと、必殺必中だろうと、絶対回避や絶対防御も時間制限を設けずお好きにどうぞってもんさ。私としてはどっちも違った楽しさがあるから歓迎だし――どうせ私を殺すなんて誰にもできやしない。ルール無しなら有利になるのはこっちさ」
挑発するように妹紅は笑い、イリヤのかたわらで待機しているバーサーカーを見やった。
確かに、ルールが無いなら妹紅の優位性は非常に高いものとなる。
スペルを攻略した時点で負け、なんて妹紅にとっては利点をかなぐり捨てる決闘でしかない。
それなのに。
「モコウは好きなの? 弾幕ごっこ」
「ちゃんと決着をつけられるからな」
――永遠の刻を生きる者にとっては、敗北すら娯楽でしかないのかもしれない。
だがそんなものは肉体に縛られた弱者の感性だ。
自分が
「それでは、アインツベルンのホムンクルスは、ごっこ遊びに劣るというのですか……!」
と、セラが身体を起こして苛立ちをあらわにしながら口を挟んできた。
妹紅はやや面倒くさそうにしながら返す。
「いや、私が強いだけでごっこ遊びかどうかは関係ない。バーサーカーとプロレスごっこして負けたからって、プロレスごっこより劣る事にはならんだろ」
「それは……そう、ですが」
「こっちも質問。ホムンクルスって何?」
ホムンクルス――錬金術によって生み出される人造生体。
人の手によって作られた自然の触覚であり、大気に魔力が満ちている限り寿命も迎えない。
生まれた時から成体であり、生まれた時から必要な知識を持っている。
そのため年齢の概念すら持たない。
セラからそういった説明を受け、妹紅は訝しげにイリヤを見やった。
「……まさか、イリヤもホムンクルスだなんて言うんじゃないだろうな」
「お嬢様は人間の魔術師の精子と、ホムンクルスである母君の卵子を用いて生まれた御子です。故に人間と同じように赤子から始まりましたが、その成長は今の段階で止まっています」
敬愛するお嬢様の自慢につながるとあってか、セラはかつてないほど饒舌だった。
別にそんな事情まで話さなくてもいいのになぁとイリヤは思ったが、この不老不死の女がどんな感想を抱くのか――その興味から成り行きを見守った。
「成長が……? イリヤって何歳なの。10歳かそこらにしか見えないんだけど」
「お嬢様は御年18になられます」
「若い。いや、こないだ会った500歳児に比べれば普通なのか?」
その500歳児とかいう謎の存在を思い浮かべたのか、妹紅はなんとも言えない表情になってイリヤの頭をポンポンと叩いた。可愛がるというよりむしろ、発育の悪さをからかうような態度。
故に、セラは露骨に睨みつけながら早口になる。
「お嬢様はホムンクルスでありながら人間であり、また一段階上の高次生命でもあります。私達ホムンクルスから見れば奇跡以外の何者でもありません。本来、不純物だらけの人間などが触れられるお方ではないのですよ」
イリヤの頭に手を載せたまま妹紅は固まり、しばし黙考する。
セラはこれだけ語って聞かせたんだから、自主的に頭から手をどけろと眼力で要求。
そして妹紅の出した結論は。
「もしかして聖杯で叶えたい願いって、成長して大人になりたい、とか? 胸もセラみたいんじゃなく、リズみたいにってお願いしようと企んで――」
「バーサーカー。モコウをぶっ飛ばしなさい」
「ごああー!」
バーサーカーは忠実なので、命令通り妹紅をぶっ飛ばす。
もはや炎に耐性を得たバーサーカーに妹紅が今更勝てる道理など、あんまり無い!
キュートでバイオレンスなマスターの躾けを受け、偽サーヴァントの自称アヴェンジャーさんはちゃんと謝ってくれました。
◆ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ボロ雑巾となった妹紅を置いて、メイドを連れ城内に戻るイリヤ。
「まったく。弾幕ごっこは面白かったけど――仕事ほったらかして何やってるのよ」
妹紅の前で叱らなかったのは主としての配慮であり、それが分かったからセラはますます申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございません――アレと話をしていたら、ついカッとなって」
「……まあ、なんだかんだ戦闘訓練にはなったみたいだし、そこまで気にしなくてもいいわ。モコウも聖杯目当てである以上、裏切る可能性は低いし」
「……その事なのですが、アレは裏切るかもしれません」
ロビーの階段の途中で足を止め、手すりに身体を預けながらイリヤは振り返る。
セラとリズは数段ほど下にいるため、頭の高さが丁度イリヤと同じくらいになっていた。
「裏切る? モコウが?」
「――今日も、客室のベッドが使われた形跡はありませんでした」
一昨日も、そんな事を言っていた。
たいした事ではない。それでも意味不明ではある。
「……不老不死は眠らなくてもいいのかしら」
「だとしたら、なぜそれを隠すのです。なぜ一晩中部屋に閉じこもるのです。いっそ一晩中そこらで遊び回っている方が納得ができます。あの女は怪しすぎます!」
「パジャマ」
言葉をさえぎって。
「昨日買ってきたパジャマ。使った形跡は?」
「パジャマ……は、使用したらしく、洗濯カゴに放り込まれていました」
「ふぅん、ちゃんと着てはいるんだ……」
イリヤは小首を傾げ、頬に指を当て、考えてますというポーズを取る。
妹紅は――変な奴で、出会ったばかりだし、サーヴァントにした経緯も自分の失態が原因だし、信用もしていなくて、そもそも嫌いだ。
でも、昨日の買い物は楽しかった。
今日見た弾幕も、昨日見た弾幕も、一昨日見た弾幕も、とてもとても綺麗だった。
頭の上に、ぬくもりが蘇る。
さっき、気安く手を載せられた。
小さな手だった。
「――別に実害は無いんだし、ほっといていいわ」
「ですが、たとえばアインツベルンを内側から崩壊させるべく怪しげな儀式をしている可能性も」
「ほっといていいと言ったわ。この件はわたしが預かるから」
「…………はっ、畏まりました」
渋々といった体ながらも、セラは主の命令を承服した。
こうして二人を仕事に戻したイリヤは、自分も仕事をほったらかして弾幕ごっこを観賞していた事実を誤魔化せた事に安堵しつつ、再びアインツベルンの結界のチェックに戻った。
――妹紅はセラと一緒に掃除を始めたようだ。
どうもセラが監視に行ったというよりは、妹紅が何か手伝いをと申し出たようである。
ほっといていいと言われた直後なので、セラはどうにも気まずそうだった。
◆ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夕食はセラが一人で作りたがったので、セラ一人に任された。
出てきたのはエビピラフとトマトスープとジャーマンポテト、そして鴨肉のロースト。
……先日のタケノコご飯と味噌汁と里芋の煮転がしと焼き鳥に対抗しているのだろうか。
ライス、スープ、ポテト、鳥肉と、ラインナップに共通項が見られる。
そんな自尊心を満たすかのように、妹紅は瞳をキラキラ輝かせて飛びついた。
「うおおお! 海老……海老だ! 米にしっかり味が染み込んでてたまらない! 海老のプリプリした食感がマッチしてて……くぅぅ、好き! トマトスープも酸味が利いててサッパリしてていいなこれ。こっちの芋もソーセージと香草がマッチしてていいなぁ。なんて香草? バジル? バジルか。風味がいいな。そしてこっちの鴨肉のローストが…………くはぁ~! ソースがよく合ってて、すっごく美味しいー! セラは本当に料理上手だな」
美味い美味いと大喜びで料理を食べる姿は、年齢四桁とは思えないほど子供っぽい。
おかげでセラもご満悦。料理に関してはアインツベルン大勝利という確信に至ったらしい。
妹紅は料理下手でない事を証明したかっただけで、別に勝負はしてないのだけれど。
食後、お風呂で身体を温めてほぐし、十分にリラックスしたイリヤは、パジャマに着替えるとまっすぐ自室に戻り、暖炉の前で本を広げた。何の本でもよかったので表紙も見ず適当に選んだのだが、アンデルセンの童話集だったため幼き頃に読んでもらったなと思い出す。
童心に帰ってまぶたを閉じてみれば、童話の本を広げるアイリスフィールの姿が浮かんでくる。イリヤと同じ銀色の髪と赤い眼をした女性であり、ホムンクルスでありながらみずからの腹でイリヤを育てた――母と言える存在。
お母様。優しくて、暖かくて、大好きだったお母様。
その隣には、真っ黒で辛気臭くて、でも――。
まぶたを、開ける。
眠るつもりは無かったが、うとうとしてしまっていたのだろうか。
聖杯戦争は夜に行われる。子供のように眠くなったからお休みとはいかない。
暖炉の中で薪が弾ける。
それを合図にイリヤは立ち上がった。
膝から童話集が落ちる。そういえばこんなものを読んでいた。拾って椅子の上に置き、暖炉の火も消す。それからようやく時間を確認するのを忘れていたと思い出し、時計を見た。
そう遠からず日付が変わる。
妹紅に与えた客室は二階にある。
足音を立てずゆっくりと向かい、ノックもせずそっとドアを開ける。
部屋の中は暗かったが、カーテンを締めていない窓からは月明かりが射し込んでいた。
さらにイリヤは瞳に魔力を集中させ簡単な暗視魔術を行使していたため、ベッドが空であるのをすぐに理解する。だが掛け布団だけが見当たらない。
偽装工作として掛け布団だけ動かしていたのでは、というような事をセラが言っていた。しかしそうではないようだ。
無言のまま部屋に入る。妹紅にはもったいないフワフワの絨毯を踏みながら進み、見回してみれば――窓の真下、月明かりの陰になる位置に、暗い塊があった。
「――モコウ?」
塊が蠢く。
それは掛け布団に包まった藤原妹紅が、壁際に座り込んでいる姿だった。
虚ろな声色と共に顔を上げる。
「…………イリヤ……?」
「そんなところでナニしてるのよ」
「ん……寝てる」
「そんなところで?」
退屈そうに妹紅は首を揺らす。
あるいは眠気を払っているのか。
「どこで寝ようが私の勝手だろ?」
「わたしのサーヴァントにそんな勝手は無いの」
目の前まで歩み寄り、馬鹿みたいな眠り方をしようとしている馬鹿を見下してやる。
いや、確かに妹紅は馬鹿だけど百戦錬磨の魔術師でもある。
理由があるとするならば。
「敵に襲われないかって、警戒してるの? そんな心配しなくても結界が――」
「いや、そういうんじゃない」
「じゃあなんなのよ」
理由が分からない。
客室だろうと、用意されているベッドは飛び切りの最高級品だ。
藤原妹紅は食欲旺盛で、買い物を楽しみ、聖杯に私欲を託す欲深さも持っている。そんな彼女が寝心地を放棄する? 何か悪巧みをするでもなく、床に座り、壁にもたれ、布団に包まって眠る?
よっぽど特異な理由があるか、よっぽど馬鹿な理由があるのだろう。
――妹紅は答えない。つまらなそうに視線を背けるだけだ。
背けている瞳、つぐんでいる唇。
何か隠しているようだが、後ろ暗さは感じない。というか理由が浅そうな気がした。
(いじけた子供みたい)
イリヤが抱いた印象はそれだった。
イリヤの瞳に白髪紅眼の少女が映っている。
イリヤの心に銀髪朱眼の少女が映っている。
遠い昔、こんな風にいじけていた子供をイリヤは知っている。
孤独に苛まれ、誰かを呪いながら、眠る事に怯える。
それはあくまで己の過去。今の彼女ではない。目の前の彼女ではない。
妹紅には妹紅の理由がある。
それはきっと、くだらないものだ。
イリヤは妹紅の掛け布団を掴んだ。フワフワで温かい最高級の羽毛布団。
引っ剥がされる、と妹紅は思ったはずだ。しかし抵抗は無かった。
構わずイリヤは身を屈め――ちゃんとピンクのパジャマに着替えていた妹紅の隣に潜り込む。
妹紅の息が止まったのが分かった。
それはほんの数秒の事で、呼吸が戻るのに合わせて肩を抱き寄せられる。
「……何やってんだ?」
「……それはこっちの台詞」
妹紅は軽口を叩くが、口が軽いタイプではないと思う。
不老不死の秘密を話したのも、不死身であること自体はすでに知られていたのに加え、酒と薬を盛ったためこぼれ落ちたものにすぎない。
もっとも、イリヤとて己の事情をすべて話した訳ではない。
二人の間に信頼は無い。
妹紅はイリヤを利用しているだけ。
イリヤは妹紅との約束を矜持ゆえに守っているだけ。
それだけの、はずなのに。
「モコウは、あたたかいね」
この女の体温が、肌に染み渡ってくる。
炎を操る魔術師だから体温も高いのだろうか? お母様よりも温かい。無論それは物理的な温度の話であって、精神的充足はまったくもって満ち足りない。
そんな気持ちが表に出てきてしまったのか、ブルリと身体を震わせてしまう。
「寒いんじゃないか」
妹紅に抱き寄せられ、布団の内側へと引きずり込まれる。
半身を包むのは最高級の羽毛のぬくもり。もう半身を包むのは自分以外の体温。
(何をしているんだろう)
今更ながら、妹紅の隣に座り込んでしまった理由を自問する。
自答は恐らく
妹紅に寄り添う事で、過去の自分自身に寄り添い救済したのだと錯覚するためのもの。
断じて妹紅のためではない。
100%自分のための、それだけの。
しかしこの自愛は割に合わない。布団の隙間から入り込んでくる夜の空気が冷たいし、寝心地も悪い。いや、座り心地と言うべきか。いや、座り心地なら悪くない。ただこの姿勢のまま寝るというのはありえない。馬鹿だ。馬鹿のやる事だ。妹紅は馬鹿だ。馬鹿だからやってる。馬鹿。
「部屋に帰れ。風邪引くぞ」
「そっちこそベッドで寝なさい。風邪引くわよ」
「死ねば治る」
「馬鹿は死んでも治らないって本当なのね」
「――ああ、殺しても治りやがらない」
馬鹿は唾棄するように言った。
馬鹿の事を馬鹿と言ったのだけど、馬鹿は馬鹿と認めたくないらしく、別の誰かを馬鹿にした。
「それって
答えはしないだろう。
妹紅は軽口を叩きはしても、口が軽い訳じゃないのだから。
「いや、薬師の奴が仕えてる……
…………そういえばこういう奴だった。
答えないと思った事を答える。
それは気まぐれなのか、それとも
「そいつも不老不死なんだ」
三人目の不老不死。多い。多すぎる。
うんざりしながら、頭の重さに首が傾かせる。
妙だ。夜更かしなんて全然平気なのに。
妙だ。ここは眠くなる。
「やっぱり寒いんだろ。寝るなら部屋に帰って寝ろ」
「せっかく客室もベッドも用意して上げたのに、わざわざ床で寝るなんて――アインツベルンに対する侮辱だわ。そりゃ、日本人は床で寝るおかしな民族だってのは知ってるけど、壁際で座って寝るっていうのは意味が分からない。あのベッドの何が気に入らないの」
「座ったままだと眠りが浅くなるから色々考えやすいそれだけだ」
早口になって一息で妹紅は言い切った。
面倒臭さから会話を打ち切ろうという意図が感じられる。
座って寝る理由も、恐らく本当なのだろう。くだらなくてつまらない真実を伝えたのだからこれでおしまいなのだという、投げやりな気持ちが伝わってくるかのようだ。
暗躍を警戒していたセラは取り越し苦労。不憫だ。
なのでもう少し突っ込んでやる。
「なにかんがえてるの」
「…………。寝る前の空想なんて誰だってやるだろ。……ああもう、仕方ないマスターだな」
ふわりと身体が浮かび上がる。同時に腋の下に圧力がかかり、続いて膝裏もグイッと押し上げられた。そうして数歩分の振動を感じ、お姫様抱っこをされたのだと理解してすぐ降ろされた。
ふわりと高級ベッドのやわらかな感触が背中を包む。
「……離せったら」
言われて、妹紅のパジャマの裾を掴んでいる自分に気づく。
なのでグイッと引っ張ってやった。ベッドが軋む。妹紅がベッドに手をついていた。
「……まったく。一人寝もできんのか」
「いつも一人で寝てるわ。十年前から、ずっと」
「ご立派。イリヤお姉ちゃん頼もしい」
ベッドが軋む。妹紅がベッドに乗り上がったから。
さらに羽毛布団をばさっと広げ、二人の上にふわりとかける。
ビッグサイズの枕は二人分の頭を平然と呑み込み、ふわふわのベッドと布団によるサンドイッチで意識もふわふわ、浮遊を開始する。
隣に人の気配があって、肩もぴったり密着していて、昔はいつもこうだったと思いだした瞬間、目頭が熱くなり、母の香りが鼻孔をくすぐった。
「もこー……何かお話をして」
「……はあ?」
「童話とか、お伽噺とか……」
シンデレラみたいな魔術を舐め腐った童話でも構わない。
赤ずきんみたいなバイオレンスな童話でも構わない。
人魚姫みたいな悲しい童話でも構わない。
「なんでもいいから」
「あー……むかーしむかし、あるところにー……」
ノロマな妹紅がモタモタと寝物語を始める。
イリヤの不満が募っていく。こんなお話じゃ眠れない。
「お爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは……山へ柴刈りに、お婆さんは川へ――」
退屈な出だしだ。主人公が老人なんてつまらなそうだ。
「大きな桃が、どんぶらこっこ、どんぶらこっこと流れてきました」
どんぶらこっこ、っていったい何。どういう日本語。
「――桃から生まれたので、桃太郎と名づけました」
あれ? 主人公こいつ? 出てくるのが遅い。減点。
イリヤは心の中でケチをつけまくりながらも、その寛大さからあえて口にする事はせず、妹紅の退屈な寝物語につき合ってやった。
そもそもなぜ寝物語なんかを始めたのかイリヤには分からなかった。自分で命令した事すら忘れていた。アイリスフィールの真似でもしているのかとさえ思ってしまう。
気に入らないとばかりに寝返りをうち、妹紅に背中を向ける。
「――お婆さんはきびだんごを――」
そういえば。
日本のゴブリンはお団子で倒せるなんて話を、いつか、どこかで、聞いた気がする。
妹紅の声がよく聞き取れず、背中をグイッと押しつける。
妹紅がもぞもぞと動いたかと思うと、後ろからスッと身体を抱きしめられた。
(なにこいつ、甘えん坊なの)
子供っぽいなと内心で笑いながらまぶたを閉じる。
背中越しの寝物語は淡々と続いていた。
情感を込めるとか、盛り上げるとか、そういう配慮は皆無だ。
しかし単調な声色は不快ではなく、ふわふわとした感触が全身に広がって――。
「犬はきびだんごを受け取ると――」
どこか遠くて暗い場所から。
ふわり、ふわふわと。
「猿は言いました。桃太郎さん、桃太郎さん――」
夜が降りてくる。
イリヤに添い寝されたいか、妹紅に添い寝されたいか……究極の選択!
間に挟まりたいとか抜かす贅沢者にはバーサーカーが添い寝しマッスル。