とある時代、とある日本、とある山、とある森。
時代が進み全国の山林で都市開発が進んでもなお、手付かずの状態で置かれているその場所に、彼はいた。
人払いの結界に認識阻害の結界、隠形の結界――多重の術式を綿密に編み込んだ結界を張り巡らし、この地に棲まわるもの。
色々と事情があって人を遠ざけているこの地に、今日は珍しく人の姿があった。その人物が結界に触れた時点で彼はそれを承知し、その動向を遠見の術も用いて見守っていた。
珍しくはあるが、ありえないことでもないので対応も慣れたもの。滅多にない来訪者も、5分と経たずに結界の外に出て、山を下りる道まで誘導されるのが常だった。
しかし、今回は様子が違った。その人物は、彼が親しい友人が訪れる時のために用意している、唯一の入場ルートを的確に進んできているのだ。決して偶然ではない。その道の奥にあるものを目指して――即ち彼に会うために、その人物はこの僻地にまでやって来たのだ。
草木が鬱蒼と生い茂り、所々がぬかるみ岩が突き出し石が転がる山の斜面、歩き難い凸凹道を歩き続けると、不意に平らな開けた場所に出る。明らかに手の入れられた、整えられた空間。此処こそが、彼が住まう場所。そこへ、件の人物がやってきた。
「珍しいですね、人間のお客さんとは。態々多重の結界を潜り抜けてきて、ご苦労様です」
声を掛けると同時に、自分自身の隠形の術を解き、苔むした岩の上に姿を現した。
彼の姿を見て、やって来た和装の男は瞠目し、声を震わせた。
「金色の、十尾……いや、十種百陣、数えて千本の、尾」
彼が揺らす十束の尾を見て、男はそのように言った。生半可な術者であれば前半部分で終わるところを、千本の尾と言って見せた。それは幻覚の類ではなく真実。彼が上手に収めて束ねた千尾をずばり言い当てたのだ。
それを見抜いたのは、類稀な霊力を宿す左右で異なる色彩を見せる眼か。
男は言い終えた後も暫くわなないていたが、やがて我に返ると居住まいをただし、その場に膝をついた。
「初代左道黒月真君、千本妖狐、迅火様とお見受けします」
告げられた3つの名、そのすべてに、彼は――大岩の上に寝そべる巨大な妖狐・迅火は頷いた。
「私の千尾を見抜くとは、その眼、やはり妖精眼でしたか。それに、左道黒月真君の名まで知っているとなると……」
左目を覆っている眼帯に、霊力で形作って補っている左前足で触れてから、右目で平伏す人間を見下ろす。
迅火にも宿る妖精眼の能力は、人間や闇など、生命体が須らく宿す――生命力や魂のようなもの――輝きを視覚で捉えるもの。故あって左目を抉り出して妖精眼の霊力は失われたが、その能力は健在。五百年以上の長きに亘って様々な生命を視て来た迅火は、その輝きからある程度、相手が何者であるかを推測できた。
目の前の男の輝きは、肉体と精神を鍛えている者、高い霊力を有する者に見られる特徴がある。それらを兼ね備えた上で迅火の正体を正確に言い当てる人間となると、自然と当てはまる条件は絞られる。
「私は、仙猴・孫硯様の下で仙道の修業を積んでおりました。名を軌鉄と申します」
「やはり孫硯様の弟子でしたか。それで、私に何の用ですか? 私を退治して名を挙げて、兄弟弟子を出し抜いて黒月真君の名を得ようとでも思い上がりましたか?」
予想通りの素性をさらりと聞き流し、世間話でもするような調子で男の目的を雑に問うた。すると、男は慌てて顔を上げた。
「滅相もございません!! ね、願い、が……願いが、御座います」
迅火の適当な推察が男にはあまりにも見当違いだった様子だ。
迅火の顔を見て、男は恐る恐る、口を動かす。告げられた言葉が『願い』という予想外のもので、それが愉快になって迅火は男の話を聞いてやろうと気紛れを起こした。
「態々こんな所にまで来て、私に願いごととは、酔狂なことだ。それで、その願いとは?」
「私に、秘術“精霊輪廻”の神髄を、授けて頂きたく」
「あれについては秘伝の巻物を残しておいたので、それで勉強しなさい」
「しました。それ故に……で、御座います」
下らないことだと一言の下に切って捨てた迅火に、男は食い下がる。
もしや。男の言い分に引っ掛かるものがあり、右目で男の妖精眼を見つめ返し、言外に続きを促す。
「あの術は不完全……いえ、わざと間違って伝えられている。あの通りに術を行えば、必ず失敗し、中途半端に高められた霊力が暴走し、仙道としては終わり、最悪は死に至る」
男の述べた精霊輪廻の欠陥とその記述に関する推論を聞いて、迅火は目を細め、聞き終えて目を閉じた。
孫硯様や白神殿、そして妻の立会いの下に、完成したあの書を披露した時のことは、今でもはっきりと覚えている。
「後先考えずに力だけを追い求める馬鹿には、それぐらいのお灸が必要ですのでね。深く考えもせず、その場の思い付きや勢いだけで、人を捨て、
態々そのような罠を仕込んだのは、自分自身への戒めも含めてのことだ。
迅火も元々は人間であったが、紆余曲折を経て本物の闇と化し、千本妖狐と呼ばれるまでに至った。それ自体は迅火自身が求めたことで、後悔など微塵も無い。だが、その為にあまりにも多くのものを巻き込み、傷つけ、迷惑をかけてしまった。迅火も闇と化してから何年もの間、正気を失った暴走状態となり、自分ではもうどうしようもなくなってしまったことさえあるのだ。
だから、人間が闇へと変じる秘法――精霊輪廻は禁術であり外法。態々自分自身の体験から逆算して理論を構築し術として完成させる必要性は無かったのだ。
それでも敢えて、迅火は精霊輪廻を完成させ、書に術理を記し、それを秘伝として後世へと残した。
「それで、自分で術を完成させるのは諦めて、私に教えを請いに来ましたか」
「未熟ながらに必死に研究を重ねましたが、私には無理だと悟りました。恐らくあの術は、自分自身が闇へと変じた者が、逆説的に導き出した理論。そうでもなければ解けない、理解できない術式があまりにも多すぎる」
男の言うことは正しい。精霊輪廻の秘伝書は一見すると理路整然と並べられた術理だが、実は人の常識では想像だにできないような法則を当て嵌めなければならない点が多すぎるのだ。
人の身でそれができるのは、宇宙を見破るほどの頭脳を持った心無き狂学者のような、特異な存在となるだろう。
しかし、人間では無理だということを断定するところまで行くだけでも、仙道としては相当優秀な部類だ。普通ならば、そこで習得を断念して異なる研究なり修業なりに舵を切るところを、この男は、敢えてそのまま突き進んできたのだ。
精霊輪廻の術理、千本妖狐の伝承、初代左道黒月真君は人間から闇へと変じたという言い伝え。それらのか細い糸を繋ぎ合わせ、この地にまで踏み入って来た執念は尋常のものではない。
精霊輪廻の欠陥に気付き、実現不可能と気付いたうえで、なおそれを完成させるために、秘境に隠居する千本妖狐を探し当てて教えを乞う。
なにが、この男をここまで駆り立てるのか。
普段、全くと言っていいほど人間に興味関心を示さない迅火が、珍しく人間のことを知りたがっていた。
「あなたは、ただ人間をやめたいだけですか? それとも、人を棄ててでも成し遂げたい何かがあるのですか?」
可能性があるとすればこの2つ。
かつての迅火は、この両方を満たしていた。果たして、眼前の男は如何なるか。
「私の目的を遂げるには……人の身では無理なのです……」
答えは後者。仙道に身を置き秘術の秘密すら看破した賢者は、人の身に有り余る大望を抱えた愚者でもあった。
「その目的とは?」
「言えません」
「言いなさい」
「言えません」
「言わなければ何も教えません」
「……言えば、きっと教える気も失せることでしょう」
そもそも教えるとは言っていないのだが……いや、今の言い方だと目的を言えば教えることになっていたか?
ともかく、男は頑なに答えることを拒み続けた。しかし、表情や声色から察するに、身を焼き魂をも焦がすような野望ではなく、身が裂かれ魂が沈むような切実な願いと感じた。
さて、それではどうしようかと考え始めて、迅火の鼻が男の纏う微かな匂いに気付いた。
「……ところで、あなた、迷わずに来客用の門から入って来ましたよね」
「あ……それは」
「あと、この匂い。あなた、喫煙家ですね?」
「…………はい」
観念したように、男はうな垂れて跪く。
どうしてここまで辿り着けたのか不思議だったが、何のことはない。彼には道案内が憑いていたのだ。
「煙羅煙羅、気配を隠すのが上手になりましたね。出て来なさい」
心当たりの名を呼ぶと、男の懐からもくもくと煙が立ち上り、空へ上ることなく男の隣に滞留して、やがて人間に酷似した姿を模った。
「あはは……ども~。お久し振りです、迅火様」
姿を現したのは、やはり白神こと千夜を主と慕い付き従う白煙の精、煙羅煙羅であった。
男がここまで来たのは千夜の口添えあってのことだったのか、或いは男の目的までも、この煙羅煙羅に問えばわかることであろう。
迅火は大岩の上でゆらりと身を起して、跪く2人に静かに問いかけた。
「そういえば、そっちのあなた、何て名前でしたっけ?」
「先程名乗ったはずですが!?」
「迅火様って基本、人に興味ありませんもんね……」
▽
妻の妖狐、たまの口添えもあって、迅火は軌鉄を弟子として鍛えることにした。
精霊輪廻は精霊転化の術を、精霊化状態で莫大な霊力を摂取し理性の箍が完全に外れてしまったことで結果として闇と化した自身の経験を基に発展させ、迅火が独自の理論で構築した秘術。人と闇、両方の側面で世の理や術を学んだ迅火だからこそ編み出せたものであり、余人がそれを理解するには、如何に優れた仙道であろうと困難を極める。
仮に弟子入りして直々に教えを請い薫陶を授かったところで、どうにかなるものではない。
だが、軌鉄の尋常ならざる執念と才能は、その現実を凌駕した。
「秘術! 精霊輪廻!!」
万全の準備の下に行われた秘術を、迅火、たま、煙羅煙羅の3人はそれぞれ人の姿で固唾を呑んで見守っていた。
自身の霊力と相性のいい霊地にて、己と土地の霊力を同調させて大地と大気の霊力を取り込み、その霊力によって自らの肉体を人から闇へと変貌させる。
通常の失敗なら全身が爆ぜて砕けるような激痛の元、全霊力を失い凡人未満へと身を落とす。この段階で失敗すれば、中途半端な異形化によって生命を維持できず確実に死に至る。
肉が膨らみ、皮が破れ、骨の歪む不快音が、静かな山に不気味に木霊する。臓腑が解けて異なるものへと変質する不快感は、当人にしか分かるまい。しかしこの程度で音を上げて集中を乱しているようなら、迅火が課した拷問めいた修行の日々でとっくに息絶えている。
果たして、軌鉄は肉の塊となって大地に還ることなく、二回り以上の巨躯の獣人じみた姿となって、見事に人を棄て
「成功しましたね」
「おお!」
「やったわね、軌鉄!」
迅火が静かに告げると、たまと煙羅煙羅はそれぞれ歓声を上げた。たまは軌鉄の下に駆け寄り、煙羅煙羅は体毛に覆われてごわごわとした軌鉄の体に飛びついて、人の姿で両手いっぱいに抱きしめた。迅火だけは軌鉄の全身を値踏みするようにねめつけて、状態を推し量った。
あの肉体の組成は樹の霊力が大半を占めている。見た目ほど柔らかくはないが、触感ほどに硬く脆いわけでもない。そういった樹の特性を軌鉄が持っていたことも、精霊輪廻に成功できた一因であろう。
それでも、成功の確率は高く見積もっても一厘に満たなかった。万に一つ、億に一つの可能性から、その“一”を最初に掴み取ったのだ。
奇跡の確信。
都合のいい奇跡を夢想するのではなく、奇跡的な幸運に満足するのでもなく、絶望に
ある日の修行の真っ最中、軌鉄は生死の境をさ迷ったことで、妖精眼の能力の真なる覚醒と共にそれを悟ったのだ。
「えんらえんら……迅火様、たま様。ありがとうございます」
抱きつく煙羅煙羅の背に、軌鉄はまだ慣れない体でぎこちなくも優しく手を添え、見守ってくれていたたまと迅火に感謝の言葉と共に一礼した。
迅火は何も言わず、たまは軌鉄の顔の真正面に移動して、闇となったその顔をしげしげと眺めた。
「ほー、迅火と同じで狐顔か」
「犬っぽくもありません?」
「後で鏡を見ないとな……」
「あるわよ」
「準備がいいな」
そんな3人のやり取りを見守りつつ、迅火は式神に衣服を持ってこさせて、それを引っ掴むと軌鉄の顔目がけて投げつけた。すっかり気を抜いていた軌鉄は、間抜けにも「ぶっ!?」などと素っ頓狂な声を漏らして直撃を貰った。
「これで目的は達したでしょう。早くお帰りなさい」
投げ渡したのは特製の装束。霊力の変化を察知することで自在に伸縮し形もある程度は自由に変えられる優れもの。迅火が現代の社会でも人に会いに行きたがるたまの為に、自分と妻のためにだけ作っていた装束と、同じものだった。
それを手に取って、軌鉄は迅火の言葉に我に返ったようになり、すぐに深々と頭を下げた。
「迅火様……ありがとうございました。この御恩は、一生忘れません」
人から闇への変化の途中で千切れた衣服の破片を取り払い、軌鉄は装束を身に纏った上で、人へと変化する。装束も、軌鉄が迅火を訪ねて来た時と同じものに変化していた。
闇となった軌鉄は迅火に比べて獣の特性は強くないようで、迅火の狐の耳のように、獣の耳が人の頭に生えている、ということも無かった。
お互いに人の姿での目線の高さは、偶然にも一致していた。
暫し、何も言わず、見つめ合い。
やがて軌鉄は一礼し、踵を返して山を下りて行った。
「たま様。次に千夜様とお会いした時、よろしくお伝えください」
「自分で伝えろ。だが……おれの方が先に会うだろうしな。請け負ってやる」
煙羅煙羅はたまと別れを済ませると、迅火にも丁寧な言葉づかいで一礼してから、すぐに軌鉄の後を追った。
「ついて来なくてもいいんだぞ、えんらえんら」
「もー、今更そんなこと言うの? 旅は道連れ世は情け、って言うでしょ?」
2人の声は次第に遠くなり、やがて消えていった。たまは惜しむように、迅火は憐れむように、その背を見送った。
「……良かったのか、迅火」
「私たちが何をせずとも、彼の運命が彼を裁くでしょう」
軌鉄の目的は、死んだ恋人を生き返らせること。
即ち、古からの禁術、反魂の術を完成させること。
人の倫理のみならず世の摂理すら犯す禁忌故に、一切の研究が為されず、言葉だけが宙に浮いている机上の空論。そんなものを完成させようと思えば、人の寿命でも人の霊力でも到底足りない。だからこそ、軌鉄は闇となることを求めたのだ。
それを初めて聞いた時、迅火は「そうですか」と静かに頷くだけで、否定も拒絶もせず、破門にもしなかった。
似ていると、思ってしまったのだ。
人嫌いの果てが切っ掛けではあったが、最終的には愛する
その日迅火は、珍しくたまの晩酌に付き合った。
一口で潰れる下戸の癖に、霊力と妖術に物を言わせて強引に酔いを誤魔化して、半刻と経たずに酔い潰れた。
かつて神殺しの神獣とすら恐れられた大妖狐とは思えぬ、珍しい迅火の醜態に、伴侶である金色の妖狐たまは、不出来な弟を慈しむように、優しく寄り添い続けた。
▽
軌鉄は素質の高い人間を生贄にする方法を用いることで、当初の想定よりも遥かに早く反魂の術を完成させた。だが、無関係の他者を巻き込み犠牲を強いるやり方は、より多くの障害を生むことになり、結果として因果応報と呼ぶべき形で軌鉄は敗れ、首だけの姿で封印されることになった。
残された肉体は制御を失った膨大な量の霊力が暴走し、樹の特性がそのまま表れて巨大樹となり、さながら軌鉄の墓標の如く、とある寺の境内に鎮座することになった。
突如として現れた巨大樹は地元のみならず全国規模で格好の話題となり、メディアにも度々取り上げられたが、寺が
仙猴の孫硯らその筋の専門家の見解通り、巨大樹は名付けられることもなく数ヶ月で朽ち果てた。
その日の夜、無数の流星雨が、ほしのさみだれが、各地で観測された。
それを見上げながら、迅火はこの日に招いていた千夜と共に、不肖の弟子の思い出話を肴に酌み交わし、またすぐに酔い潰れた。
久しぶりに、夢を見た。
夢の中で、迅火は封じられているはずの軌鉄に出会った。
すっかり恐縮している軌鉄を、馬鹿なことを仕出かしたものだと無駄に豊富な語彙で罵倒して散々に詰っているところに、ひょっこり千夜も現れた。そこで、迅火はこれが夢ではなく幽界での出来事なのだと察した。
幽界とはすべてに通じる精神世界。それは時に、時間の流れや生死の境すら超越する。
そう言って勿体付けてから、千夜は軌鉄の幽界の彼方から、ある人物を連れて来ていた。
その人物は戸惑っている様子だったが、軌鉄はその女性を目にした途端に、姿が闇のものから人間だったころに変わり、その姿を認めた女性は、ぱっと明るくなって笑顔を見せた。
「軌鉄」
「鈴」
互いの名を何度も呼び合って、2人は互いに歩み寄り、抱き締めあった。
鈴は涙を浮かべていた。
軌鉄は滂沱の涙を流していた。
千夜はいつもよりも優しげな微笑みを浮かべていた。
迅火は、不思議と泣けた。
気が付くと、夜が明けていた。
幽界では気を緩めるとすぐに夢に飲まれて意識を保てなくなり――要するに熟睡してしまう。そもそも、ただ寝ただけでは知覚できる世界ではないし、他人の幽界に繋がることなど普通はあり得ない。幽界干渉の達人である、千夜の仕業だ。
「余計なお世話だったでしょうか? 妖狐殿」
「……いえ。お陰様で、いい夢が見られましたよ、白神殿」
寝すぎたからか、右目の端に滲んでいた涙を拭った。