ゴブリンスレイヤー THE ROGUE ONE    作:赤狼一号

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幕間 怨敵の肉を喰らって傷を癒す盗賊騎士が、懐かしき甘美な夢を見る話

 

 

 

Deformed, unfinish'd, sent before my time醜悪にして、歪なる型へと鋳込まれし魂は

 

Into this breathing world, scarce half made up,(半端なままにこの世界へとひり出され)

 

And that so lamely and unfashionable(ひどく無様で不格好)

 

That dogs bark at me as I halt by them(道を歩けば犬が吠え、みな嘲笑う出来損ない)

 

Why, I, in this weak piping time of peace,Have no delight to pass away the time,惰弱太平なこの世の中に、流れゆく我が生に何の楽しみがあるものか

 

Unless to spy my shadow in the sun And descant on mine own deformityせいぜい日向に浮き出た己の影を、無様な道化と罵り嗤う

 

And therefore,since I cannot prove a lover,To entertain these fair well spoken days尋常の喜びも、愛の手遊びも、この身の役には不足とあらば

 

I am determined to prove a villain我が身の役はただ一つ、悪逆無道のほかになし

 

 

~ウィリアム・シェイクスピア「リチャード三世」冒頭より抜粋~

 

 

 

 

 

 

 夜、人など訪れぬ闇夜の森の中を血生臭い風が駆け抜けた。

 生い茂る雑木林のただ中で、くちゃり、ぐちゃりと、何かを食む音が響く。

 びちゃびちゃと血を舐めまろばす音が、肉を咀嚼して嚥下する音が、木々の間に木霊し、風の中に消えていく。

 

 その凄惨な音楽を、気の弱いものが聞けば、あまりの悍ましさに嘔吐し卒倒したであろう。

だが、その演奏者たる「それ」は喜悦に打ち震えていた。

 

――甘露、実に甘露の極みである。

 

 打倒した敵の肉を貪る快楽、敵の全てを蹂躙し、己が血肉へと変えていく、そのすべてが得も言われぬ愉悦をもたらす。

 強き敵であればあるほど、傲慢であればなお喜ばしい。その愚かさのツケを、まんまと取り立てた事実すら甘美な調味料となる。この世の全てを妬み尽くした無様で醜悪な種族に相応しい性癖だった。

 

 己のコトとはいえ、我が同胞糞虫共のなんと見苦しい事か。快楽に酔いしれながら心のどこかでは、己が心臓を握りつぶしてしまいたい己がいる。

 さりとて背に腹は代えられぬのが、惰弱な糞虫の身の悲しさである。

 忌々しき木偶めに砕かれた骨を固め、潰された肉を癒すのは、この夜毎の聖餐に他ならないのだ。

 

 

 ここ数日、我が臓腑と憎悪を癒していたのが、かのオーガより抉り出した心臓であった。

 吾輩より上背のある蜥蜴僧侶をしてなお、両の腕に抱えて摘出せしめた巨大な心の臓腑。その血の滴る肉が、傷つき疲れ果てた我が身糞虫の糧となるのだ。

 

 強大な敵であったオーガの血肉。この貪欲な糞虫の身体が、身体の修復と醜い自尊心のために、それを求める……。

――実に忌々しい限りである。

 

 ミシミシと身体中の骨肉がきしむように悲鳴を上げる。傷ついた肉体の再生ばかりではない。強大な敵との戦いを経て、この忌々しい肉体が、更なる力を欲しているのだ。

 強敵と対峙した恐怖、受けた苦痛、強者への妬み、そして、なによりも強い憎悪。

 

 それらのどす黒い情動が糞虫共の醜悪な魂を磨き上げ、その肉体を相応しい存在へと変容させる。吾輩とてそれは例外ではない。

 あの日生まれ出でた矮小な糞虫は、少なくとも矮小なままでいる事は良しとしなかった。幾多の殺戮と夜を超えて、今の吾輩がある。

 

 熱に浮かされたように霞みがかった意識が、抗い難い睡魔に塗り潰されていく。

――次に目を覚ました時、吾輩は「吾輩」のままでいられるだろうか。それとも別の「何か」になり果てるのか。

 

夢が始まる。

懐かしき甘美な夢……二度とは戻れぬ夢が…………最初は闇から始まるのだ。

 

 

 

 

 

 深い深い闇の中で……からりころり、と骰子の転がる音がした。

 

 虫唾の走る糞虫共の嘲笑と女の絶望の叫び。この呪わしき世界における糞虫共の門出はこのような装飾で彩られる。

 まさに吾輩の門出がそうであった。斯様に醜悪なけたたましさの中で、吾輩はこの世界に蹴り出されたのだ。

 

「お前の生まれた日を呪おう」

 

 我が産声を聞いたその時、我が母の目は確かにそう言っていたように思う。実際のところは悲鳴か、己が神への怨嗟か、さりとて言葉にならぬ恨み辛みの何かである事には変わりなかろうと思う。

 

 羊水と血によって出来た泥濘、そのただ中を這いずりながら、吾輩は目の前ですすり泣くそれが、我が母である事を本能的に理解した。

 

――この女が欲しい。

 

本能的に浮かんだその言葉は、嘗ての己がまだ欠片ばかり残っていた吾輩を愕然とさせた。そして同時に「吾輩が何ものに生れ落ちたのか」を直感したのは、まさにこの瞬間であった。

 

 ゴブリン。この世界の最も唾棄すべき存在。脆弱にして醜悪な可能性に満ち溢れた生物。名もなき悪徳と我欲の権化。

――吾輩はゴブリンである。名前はまだない。

 斯様な戯言と共に吾輩は理解した。己がそうした存在であると……。

 

 生まれ落ちた瞬間に理解した事は、果たして幸運であったろうか。

 己がそうした存在では「なかった」と覚えていたことは、果たして幸運であったろうか。

 「諸々の運命を骰子で弄ぶ神々が居る」と「知っていた」のは、果たして幸運であったろうか。

 いっそ何も知らぬ。ただ醜悪で歪な魂と運命に流されるままの傀儡であれば…………。

――どれほど幸せだったろう?

 

 その時の吾輩は己の脆弱さと生まれの劣悪さしか理解していなかった。己が「糞虫」である事を本当の意味で理解はしていなかったのだ。

 もし己の醜悪さを欠片でも理解していれば、その場でおぞましき我が「家族」達に襲い掛かり、僅かばかりの同族殺し善行を成して嬲り殺されたものを……。

 

 そうしなかった事こそが、吾輩の見下げ果てた生において最初にして最大の過ちであったのだ。

 

 吾輩は愚かにも我が母の顔を見てしまった。糞虫の夜目は我が母の麗しき姿を映してしまった。

 埃にまみれ、振り乱れてすら輝く金色の髪を。糞虫共の唾液と汚物で薄汚れ、痛々しい傷跡を刻まれて、なお美しきその(かんばせ)を。みずみずしい均整の取れた、その肉体(にく)を――

 

 湧き上がる情欲に吾輩は戸惑った。我が母の体に群がった「父」達のおぞましい「宴」に戦慄し、同時に何とも言えぬ妬ましさが腹の底から湧き上がるのを感じて、どうにも我慢できなかった。そしてその「宴」を止めようと愚かにも「父達」に掴みかかったのだ。

 

 「父達」が喜んでこの余興を歓迎した事は言うまでもない。生まれて間もない「兄弟」達もこれに加わり、殴られ蹴られ、思うさまに痛めつけられた。吾輩の無様な命乞いが少しでも遅れていたら、あの場で死んでいただろう。

――貴様はそのまま死ぬべきだった。

 

 生れ落ちて初めて無慈悲な暴力に晒されて、吾輩は心底から恐怖した。目の前に突き付けられた死が恐ろしくてたまらなかった。吾輩の無様な命乞いに「父達」は満足し、「女」の方へ戻った。その事に安堵を感じた己を今でも縊り殺してやりたくなる。

――臆病で卑怯な糞虫

 

 そして再開された「宴」に対して吾輩が出来たのは、目を背ける事だけだった。女たちの絶望。忌まわしい糞虫共の狂喜。この世界の醜悪さを詰め込んだその光景を今でも覚えている。

――いつとて目を閉じれば思い出す。

 

 その全てから吾輩は逃げた。同時に生まれ落ちた「兄弟」達がその「宴」に参加するのを背にして。なんとか吾輩は薄闇の端で耳を塞いで蹲っていた。

 糞虫共の嬌声と女たちの悲鳴。そして母のすすり泣き。すべてが今も耳に焼き付いている。

――そして糞虫は浅ましくも喜ぶのだ。

 

 そこからどのくらい時がたっただろう。

 吾輩は苦渋に満ちた生活を続けていた。「父」たちや兄弟たちに小突かれ、歩哨を押し付けられ、食べ物を探しに外へ出た。そして「宴」で汚れた女たちの世話も……。

 女たちの前で吾輩は一切喋らなかった。只人の目では像すら定かならぬ薄闇の中だ。否、そうであればこそ、得体のしれぬものが体に触れる事は女たちを怯えさせるだろう。――とりわけ我が母を。

 

 いくら危害を加えないとしても、この醜悪な声が聞こえれば「母」はなおさら怯えるだろう。吾輩が地獄のような生に耐えていられたのも、すべては母が居ればこそだ。

 

 それ故に吾輩は「女達」を使わなかった。自分の番を譲る代わりに食べ物をもらい、母に与えた。サビた短剣と交換して、それが最初の刃となった。毒薬の作り方を見せてもらった。そこから脳裏に浮かぶ悪辣な配合の妙は、この嗜虐的な種族に与えられた天性の才能なのであろう。

 

――邪悪な糞虫共には反吐が出る。

 

 吾輩が女を「使わない」のは仲間内でも奇異の目で見られたが、その分、己の取り分が増えるとあれば、忌々しい同胞達は気にも留めないようだった。

 一度でも「使えば」吾輩もかの糞虫共と同じになる。それが恐ろしかった。そう信じてこそ身の内からわきあがる衝動に耐え続けていたのだ。

 

 今にして思えば実に滑稽にして愚鈍極まる勘違いである。己だけは違うなどと、斯様な傲慢極まる思考こそ、糞虫そのものではないか。

 この歪んだ鋳型に嵌められた魂が、歪んで無い筈が無いというのに。

 

 

 あの時の吾輩は、とにかく母を我が呪わしき故郷から連れ去りたかった。そのためなら何でもできた。初めて殺した糞虫――我が呪わしき兄弟の一人だ――歩哨をさぼろうと誘い。森の奥で後ろから石で殴りつけた。

 他の兄弟たちに小突き回される吾輩を差し置いて、我が母の上で腰を振っていた「兄」。吾輩の食物を横取りし、吾輩を足蹴に舌鼓を打っていた兄が、無様に倒れている。

 その時、吾輩は今生で初めて浮かんだ喜びに身を任せた。何度も、何度も、両手の石をもって打ち据える。

 その醜悪な物体が痙攣して、段々と動かなくなっていく様は、愉快極まるものだった。

 

 かの痛苦に満ちた生活の中で、吾輩は初めて「楽しみ」を見つけたのだ。

 

 そこからの痛快な出来事の数々を吾輩はよく覚えている。一人ずつ、狡猾に、確実に、吾輩は己の持てる全てを同族殺しに注ぎ込んだ。

 

 食べ物を探しに行く傍ら、崖から突き落とした「兄」。生まれてたての処を他の兄弟をけしかけて殺させた「弟」。吾輩が毒を塗った保存食を盗み食いしてもだえ苦しんだ我が「父」。

 

 毒を含ませ、罠を作り、手を変え品を変えて、弱り果てたところを面白半分に他の「父」達に嬲り殺された幾多の「兄弟」や「父」達。

 

 うまく行っていた。その時の吾輩の企ては非常に上手くいっていると思っていた。

――それが吾輩と言う唾棄すべき糞虫の愚かさだった。

 

 間抜けで頭の悪い手下どもが減った事に憤慨した群れの首領が、女たちを使って増やすように言ったのだ。

 糞虫共は大喜びで女達にむしゃぶりついた。女達は絶望と怨嗟に苛まれながら、ただ悲鳴を上げるばかりであった。そして、その中にはもちろん我が母もいた。

 女たちが絶望にむせび泣く様を吾輩はただ見ていた。

 

 酷使された女たちが、一人また一人と死んでいく。絶望と怨嗟が汚泥のように積もった虚ろな目で、己が股座にて蠢く醜悪な虫共を見つめながら…。

 かと思えば、どこか安堵したような表情で疲れて眠りこける様に死ぬものもいた。

 

 吾輩は焦った。このままではいずれ母も死んでしまう。かねてから準備はしていた計画を急がねばならなかった。

 

 だからだろうか「母」以外の最後の「女」が死んだ夜に、吾輩は「間に合った」ことを心の底から喜んだ。

 

 ようやくこの故郷を滅ぼす準備が出来たのだ。と言っても大した事をしたわけではない。ただ食い物に毒を盛った。

 その日のために作り続けていた大量の毒。

 最初に教わってから、己が脳裏に絶え間ない、悍ましい天啓の全てを注ぎ込んだ毒。

 兄弟や父達で実験し、その致命の性能を高め続けていた毒。

 その威力は絶大であった。その毒が作り出した愉悦に満ちた光景は、今でも思い出すたびに笑みが漏れ出でそうになる。阿鼻叫喚の中で死んでいく我が父と兄弟たちの姿。あれは素晴らしい光景だった。

 我が母を苛んだ者たちが、苦しみのたうち死んでいったのだ。ただ一匹、最も死すべきものを残して。

 

 あの日、吾輩は心の底から笑った。

 一番最初に殺したのは群れの首領だ。毒で倒れ、事態に困惑している間に石を使って頭蓋を叩き潰した。あの無様な表情は、今でも思い出すと笑いがこみあげてくる。

 

 生まれ落ちたその日に吾輩を足蹴にした「父」の頭蓋に石を落とした。楽しかった。

 吾輩を殴った父の腹を錆びたナイフで抉った。胸がすっとした。

 吾輩を小突き回した兄弟を動かなくなるまで棍棒で叩きのめした。腹の底から喜びがこみあげてきた。

 

 糞虫共の阿鼻叫喚の声が何より嬉しかった。

 

 

 故にこそ、吾輩は気づかなかった。愚か極まる事に、夢にも思わなかった。本当に殺すべき糞虫を見逃していた事を……。

――何より愚かな「この」糞虫を吾輩は一番最初に殺すべきだった。

 

 父達が毒と暴力で死んでいく中、薄汚い巣穴の片隅で、芋虫のようにうずくまっていた我が母を見つけた。

この地獄から救い出さんと、吾輩はその体に手をかけた。

――それが全ての間違いだった。

 そのやわらかい肉体。光を写す事なき美しき顔。くすみ汚れてなお美しい金の髪。女の甘い匂い。

 その時、はたと気づいた。気づいてしまった。これで「我が母は吾輩だけのものだ」と……。

――吾輩一人の「もの」だと……そう気づいてしまった。

 糞虫共が散々好き勝手貪る中、ずっと指をくわえて目をそらし続けてきた御馳走が目の前にある。

 そう気づけばもはや止まる事など出来なかった。

 吾輩の組し抱く手に、我が母は欠片の抵抗も出来なかった。いや、僅かな抵抗があったが、それすらも興奮を煽る香辛料のようなものだった。その弱り切った心身に出来る抵抗など、その程度のものだったのであろう。

――母よ、あなたは誰に許しを乞うていたのですか。

 

 

 諦観と屈辱と恐怖、幾多の感情がない交ぜになったすすり泣きが響いていた。

 甘い女の汗の匂い、柔らかな髪、手の中で形を変える均整の取れた肉体、ぐしゃぐしゃに歪んだ美しい顔、僅かな呻きと息遣いの音、そしてなにより頭蓋を焼き焦がすような熱い肉の喜び。

 貪った。ただひたすらに貪り続けた事だけは覚えている

――貪欲で浅ましい糞虫の姿も。

 

 あれほど甘美な時間があったろうか。あれほど幸福を貪れた瞬間がこの先あるだろうか。いや、あっていいはずがない。もはやこの先、未来永劫ありはしない。

――未練がましい夢の他には……。

 

 この忌まわしき楽園で我が母と二人だけで暮らす。そんな夢を見ていた。厚かましく、悍ましく、愚かしく、罪深い、そして甘美な悪夢を……。

――夢は終わる。いかな夢であろうと、必ず……。

 

 

 数日か、数週間か、そんな愚かな夢を見続けた吾輩を叩き起こしてくれたのは、懐かしき産声であった。

 

 新たに聞こえた醜悪な声。血と羊水の泥濘で蠢く糞虫共の姿。

 我が母の虚ろな目が、ただ絶望だけを写すその光景は、確かに吾輩がこの世に生まれ出でた瞬間のそれであった。

 

 そして何たることであろうか、母親の羊水と泥の中で蠢くその生き物の目は…。

 消沈する母親を前に情欲と嘲笑を滾らせたその目こそは……。

 あれほど吾輩が憎んだ糞虫そのものであった。

 この時、やっと吾輩は正しく理解したのだ。己が「何もの」として生まれ落ちたのか。 

 

 「女達」がみな糞虫共に嬲られて死ぬのを見て「間に合った」と安堵した己。

  父や兄弟が苦しみ死んでいく様を楽しんでいた己。

 「母」を我がものにしたと喜んでいた己。

  そしてその肉を貪り、快楽に歓喜していた己。

 

――何が違うというのか糞虫めっ! そこに蠢くものを見ろっ!! 貴様の精によって生まれ出でた「もの」を、その醜悪極まる歪んだ魂を見るがいいっ!!!!!

 

 呆然とした意識の中で、しなければならない事だけがハッキリと心に浮かんでいた。母はやはり泣いていた。もはや声すら出さず、ただ傷ついた目から、血の混じった涙を流していた。

 

――あの時、吾輩はどんな顔をしていたのだろう。

 

 吾輩は、やかましく蠢くその肉の塊に手をかけた。醜悪に蠢くそれは、ハッキリと己が血脈に連なるものであると確信できた。その喉首をつかんだ時に感じた脈動、その邪悪な生命は、確かにこの吾輩の種より出でたるものだ。

 

――これより先、我が子を抱くことは絶望と怨嗟を抱く事と同義だと知った。

 

 おぞましき我が子共達を縊り殺すのは、意外なほどにあっさりと行えた。無様な断末魔を上げるのを楽しみさえした。

 

 断末魔の痙攣と骨の砕ける感触、容易い事であったはずなのに、酷く重く感じた気がしたのは何故だったのであろうか。本能のままに生きようとする藻掻き。その末期の痙攣の感触は、今でもこの手に思い出せる。無力なものを殺害した悦び。

 

――同時に心の臓腑を締め上げられるようだった。

 

 唯一分かっているのは、最初からこうすべきであったと言う事だ。吾輩がこの世界に生れ落ちた瞬間に真にやるべき事はこれであったのだ。

 吾輩は己を偽った。己の欲望から目を背け、己がましな生き物であると思い込もうとしていた。

 その結果がこの有様だ。

 

――吾輩は一番殺すべきであった糞虫をずっと殺し損ねていた。

 

 そして吾輩は己の分身を見た。欲望を求めて本能のままに反応する醜悪な肉を…。

 捨てねばならぬ。この選択肢を捨てねばならぬ。

 この悍ましい肉を捨てて欲の喜びを捨てねばならぬ。

 まだ己が母を愛しているとのたまうならば、いま縊り殺した子の応報をするならば……。

 

――苦痛が必要だった。痛みを和らげるための痛みが。

 

 研がれていないナイフを己が一物の上で鋸を引くように前後させるあの苦痛。千切れかけたそれを引きちぎる痛み。肉の痛みは想像だにしないほどの苦痛に満ちたものであった。だが終わりではない。

 無様な陰嚢を切り開いて、醜悪な精巣を握り潰した。強烈な肉の痛みと喪失感が、この救いようのない宿業への苦痛を、わずかに和らげたような気がした。

 

 だと言うのに数年の時のうちに歪ながら再生していく様を見た時の失望たるや……。

 吾輩はどうあろうと糞虫である事より逃れられぬ。盤外に侍る邪神共の嘲笑が聞こえるようだった。

 

 

 

 さらに数日が過ぎて、踏み込んできた冒険者達に我が母は助け出されたのを見届け、吾輩はこの呪わしき故郷を後にした。

 

 それから数年は狂ったように小鬼共の巣を渡っては懇切丁寧に殺して回った。外回りや見張りを請け負いながら、一匹ずつ殺してやった。

 

 時に用心棒の田舎者に半殺しにされて這う這うの体で逃げ延びた事もあった。

 時に人間の冒険者と鉢合わせて、一目散に逃げた事もあった。――麦の袋で顔を隠すようになったのはその頃からだ。

 

 そしてわが師に出会ったのだ。この信ずるものなき世界において、初めて信仰するに足る存在に出会った。

 わが師は吾輩に全てを教えてくれた。吾輩に初めて与えてくれた。本当に全てを与えてくれた。我こそは神に祈らぬもの(ノンプレイヤー)。しかして初めて我は祈るべき対象を得たのだ。

――わが師と言う唯一にして絶対の「もの」を。

 

 

 

 すべからく糞虫共は、この世に悪を成すべく生まれてくる。

 吾輩は唾棄すべき糞虫である。その宿業より逃れる事は出来ない。

 ならば吾輩は至上の悪徳を成そうではないか。

 この呪わしき世界に、邪なる神々が「そうあれかし」と生み出した生き物を駆逐する。我が愛すべき同胞すべてを鏖殺しよう。

 

 我が大望を完遂したる時、初めて吾輩は師に恩を返すことが出来る。わが師が手ずから討つに足る大悪と成りえるのだ。

 我が師の御手により神の元へと送られ、そうして真の復讐を果たすのだ。

――首を洗って待つが良い盤外の邪神共。吾輩は貴様らが在る事を「識っている」。真に報復すべき者達が在る事を「憶えている」。この歪なる魂を罪業にて焼き尽くし、必ずこの誓願を果たしてやる。

 

 

 

 肉と骨の軋みが、まどろみより吾輩を引き戻した。

 

 全身に満ちる力が、さらなる変化を促そうとする。欲望を果たすための力が欲しいかと、妬み、嫉み、食い潰す事だけを望む魂が、どんな存在になりたいかと問いかける。

 

――毎度なんたる無知蒙昧。愚鈍にして愚問極まる。そんなことはもう当の昔に決まっている。

軋みをあげる骨肉がいまある形に収斂していく。より強く、より強固に。欲望のままに膨れ上がるのではない。欲望を収束するのだ。ただ一つの誓願に向けて。

 

 我が母を汚したあの時こそが、我が子を縊り殺したあの瞬間ときこそが、我が鋳型。

 

 この不出来に歪みし魂は、至上にして至高の悪業を成すためにある。

 我が名はローグ。醜悪なる糞虫共の中でも随一の悪漢にして、神々の骰子に抗うもの。

 遍く糞虫共よ。この身と同じく、歪なる鋳型にその魂を押し込められしものよ。汝らの赦しは唯一つ。

 

 

 

――絶望して死ぬがいい。

 

 

 

 

 

 




 冒頭のリチャード三世は意訳ですね。実のところあの作品はかなりローグのキャラクターに影響を与えた部分が大きいので、原作の冒頭を意訳してみました(笑)
 英語は前後の文脈で意味が変わるので、あの部分だけ切り抜くと「そういう風にも解釈できる」程度のものですが(笑)

 本文でも結構セリフをちょろちょろ使ってたり(笑) 気づく人は気づいてたと思いますが「絶望して死ね」はリチャード三世が亡霊たちに責められる時のセリフですね。
なんかそんな小ネタをボコすか入れてるからこんなことになってます。
 ちなみにローグのママの候補は二人いて、紆余曲折あってこうなりました。

 大分ポエミーな感じになってしまいましたが、どうだったでしょうか。
 引かずに楽しんで頂けたら幸いです。
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