ゴブリンスレイヤー THE ROGUE ONE 作:赤狼一号
拝啓、兄弟子殿
お元気で過ごしていらっしゃるでしょうか。
私は勇者と徒党を組み、旅の毎日です。旅路に日ごと変わる風景を見ていると、貴方に初めて会った時の事を思い出します。
あの頃の私は、若くして自流の免許を授かり、やれ「才媛だ」「天才だ」ともて囃される毎日……。
上辺には己を律しているかのようにふるまっていましたが、やはり天狗になっていたのでしょう。
当時、すでに高名であった沈黙の聖騎士様の事も、心のどこかで「単なる力自慢の大男」と侮っていた向きがあったように思います。
身内の恥を申せば、同門にもよく知らぬ異国の流派を偏見めいて下に見るような同輩もおりました。私も口ではそれを咎めてはおりましたが「我らが流派の如き剣の深淵を追求せし故の完熟した技などあるまい」と心のどこかで侮る向きがあったように思います。
沈黙の聖騎士様はその高名が無くても、筋骨逞しき偉丈夫です。その鍛えこまれた肉体が尋常のものでない事など一目でわかります。このような御仁が弱いはずもなく……己の愚かさを思い返すと、今も羞恥が込み上げてきます。
今思えば聖騎士様がその殺気を隠しきっていたが故であろう事は分かります。
そして、その隠形は兄弟子殿も同じで、私はまんまとそれに踊らされていたと言う訳です。
ともあれ、そう言った心持でありましたから、妙に面白そうな顔をした彼の騎士殿が「己が弟子である従士と先に立ち合うべし」と仰せになった時は「若輩であり、女であるから侮られているのか」と思って憤ったものです。
実際、そちらに伺うまで、そうした事には事欠かなかったのです。立ち合いの条件に邪な欲望を露わにしたものもいました。尤も、それらは全て叩きのめしてきたわけですが。
だから相応に慢心していたのでしょう。
当時の私は「高名な騎士と謳われた御仁とは言え見る目が無い」と大いに失望したものでした。
そしてそして貧相な防具をつけ、白い布を首元に巻き付けた従士らしき者が見えた時など、それを侮辱のように感じたほどです。
程なく私はその高慢と偏見を覆される事になったのは、兄弟子殿もご存じのとおりですが。
最初の立ち合いは、確かに私が辛くも勝利しました。だが、その時の兄弟子殿の気迫たるや……。あの時、兄弟子殿が本気で私をあの場で打ち果たす心算であった事は分かっております。
我が流派の師以外で初めて、必死で打ち合ったのを覚えています。
おそらく沈黙の聖騎士様が止めて下さらねば、死ぬまでやっていたであろう事も……。
それは心胆を寒からしむるものであったと同時に私にとって喜びでした。武者修行に出てから、幾多の立ち合いを行いましたが、最初から私を一人の剣士として真摯に向き合って来たものは兄弟子殿が初めてでした。
まして決死の覚悟で挑むに値する相手であると確信をもたれた事などは……。翻って己はどうであろうかと、私はあの後、汗顔の至りでありました。ええ、天狗の鼻などへし折られましたとも。
正直に言えば、翌日、お二人と顔を合わせるのが気鬱で仕方ありませんでした。
でも、拍子抜けするくらいお二人は前日と変わった様子はありませんでしたね。そして鎖帷子を着込んだ剣・盾・槍・斧・棍棒・短剣・無手の壮絶な修練を繰り広げ、別の日には私より少し……いえ、私よりもずっと重い強弓を引いて的を撃ち、別の日には遠駆けと流派の修業とはまた別の意味で死を覚悟するような鍛錬の日々を過ごしました。
兄弟子殿は手も足も出なかったように折に触れておっしゃいますが、あれから何度となく立ち合いましたが、ついぞ勝ち切れる事は無かった事を私はよく覚えております。
その乾いた砂地が水を吸い込むが如き成長ぶりには、感嘆と同時に尊敬の念をいだいたものでした。
そんなある日、オーガが率いた魔物の群れが辺境近くで目撃されたという情報が齎されました。黄金等級冒険者である沈黙の聖騎士様に討伐の指令が下ります。
オーガだけでも強敵であるというのに、魔物の群れも随伴しているとあって、当時は騎士団を繰り出しての
黄金等級の冒険者が徒党を組んで挑むのが普通のオーガに魔物の群れとあっては犠牲者も甚大なものになるでしょう。
だからなのでしょうか、沈黙の聖騎士様は当初、御一人で行くと宣言されていました。兄弟子様は黙ってお師匠様の支度を手伝っていらっしゃいましたね。
私は「兄弟子殿とてオーガが恐ろしいのか」などと的外れな事を考えて、仕方なく思う反面、少しだけ落胆したのを覚えています。今、思えばその頃には私は兄弟子殿の事を尊敬していたのでしょう。
沈黙の聖騎士様が出立する朝。隠れてついて行くために馬を隠して潜んでいた私の前に、完全武装の兄弟子殿が堂々と見送りに出ていらした時は面食らったものでした。
それを見た沈黙の聖騎士様が、珍しく困惑したようなお顔をしたのは今でも覚えております。
その後の問答もまた秀逸でしたね。
『吾輩は一人で行くと伝えたぞ』
兄弟子殿は堂々と馬にまたがると、聖騎士様の隣に並んでおっしゃいましたね
『御覧の通り、半人前以下でございますから数には入りませぬ』
兄弟子殿の手言葉を見た沈黙の聖騎士様は少しだけ笑っていらっしゃったのを覚えています。
「それではもう半人前加わっても問題ありますまいな」
私がそう言って現れた時、沈黙の聖騎士様はハッキリと笑っていらっしゃいましたね。正直言って、沈黙の聖騎士様は厳かな方でしたので、あんなお顔をして笑われるのは意外でした。
ちなみに勇者にこの話をしてやったら、大笑いしておりました。
「やはり兄弟子殿と一緒に旅をしたかった」としきりに残念そうにしていましたよ。
それから、私たちがオーガと戦い、打ち果たしたのは吟遊詩人の歌の通りです。
ただ、一つ違いを上げるなら、オーガが兄弟だったと言う事でしょうか。
沈黙の聖騎士様がオーガと一騎打ちをされて、私と兄弟子殿と二人でオーガを倒す羽目になった時は、白状しますがついてきた事を後悔したものです。
私とオーガの前に立ちふさがった兄弟子殿の背中、あの広さだけはきっと忘れる事は出来ないでしょう。
貴方との道は分かたれたはずなのに
己が道を進む事に後悔など無いはずなのに
気づけば貴方の背を探しています。
また再び貴方様と道の交わる事を願って……。
貴方の生意気な妹弟子より
~とある剣聖の荷物の底にしまい込まれ、ついに出すことは出来なかった手紙
温かみのある風が吹き抜ける。純白の中に新緑の香りが混じる。
そして錆びた鉄の匂いと芝生を踏みしめる音。およそ場違いなものがそこに立っている。
だが、それを咎めるつもりなど無い。
「ご無事で、何よりですわ」
「確認に来た」
わたくしの言葉に、その方は静かに、決然とした声で答えました。
小鬼狩りの冒険者。その存在を噂で聞いてから、わたくしはどんな英雄よりも彼を待っていたのだ。
小鬼狩りのお方は全てを見通していた。彼の冷静な声が、私の醜い心の内を暴いていく。
情けない恐れを白日の下に晒していく。
「
結論として突き付けられた言葉を聞いた時、私の心は色めき立った。やはり彼は分かってくれたのだ。
気づいてくれたのだ。それでも訳までは尋ねようとしない所には、朴念仁ぶりを呪いたくなったが……。
それでもわたくしは彼の前で全てを白状しました。懺悔のようなものだったのかもしれません。
そう、私は話すことで救われたかった。だからこれは懺悔なのでしょう。
私は恐ろしかったのだ。あの日以来、小鬼が怖かった。闇が恐ろしかった。そしてその中に
彼は全てを見透かしていたようでした。だからこそ私は彼に媚びたのです。
元よりこの肉体を男たちがどう見ているか存じておりました。それに負い目を持つ者もいれば、あからさまな好色の視線を向ける者も、みな私を欲している。
面白いもので、皆さま私にはそれが見えておらぬと思っておいでのようなのです。実のところ、見えぬ故に猶更見えるものであったりするのですが。
そして私はそれが怖くもありました。剥き出しの欲望。その恐ろしさは
それでもわたくしは剣の乙女という仮面をかぶり続けなければならない。そんなわたくしが小鬼如きを恐れるなどあってはならない。それを目の前の冒険者は分かってくれた。
もはや、娼婦のように彼の足元にすがる事すら厭いませんでした。
あの悪夢から逃れられるのであれば……。
あの悪夢の中に置き去りにしてきたものから逃れられるのであれば……。
あの闇の底を彷徨う哀れなものが、いつか救われるのであれば……。
ですが、そんな身勝手な願いなど叶う筈はないのです。
「わたくしを助けてはくださらないのですか?」
我知らず震える声音での問いに、小鬼殺しのお方は一言、是と答えられました。
ああ、そうでしょうとも。いつも、いつでもそうなのです。誰も私を救ってはくれなかった。
「だが」
だからそう続いた時に、私は心底驚きました。
「ゴブリンが出たなら俺を呼べ」
その言葉にどれほど心が浮ついた事か……。
「
わたくしは涙が止まりませんでした。恐怖でもなく、絶望からでもなく、流した涙。そんな資格などありはしないのに、私は少女のように泣いていました。
同時に心に芽生えた灯火が心を温めていく。
あの方の言葉で、わたくしは俄かに救われた気持ちでした。
「……私は貴方をお慕い申し上げて――」
感極まってこぼれ出ようとした言葉は、最後までいう事が出来なかった。なぜなら、小鬼殺しのお方が「それに」と言葉を続けたからだ。
「例え俺が仕損じたとしても、あいつが逃がさん」
それは確たる事実を只、指摘したようなそっけない言葉でした。けれど、その言葉には力がありました。その中に込められた信頼の念に、生まれたての灯火が思わず嫉妬の炎に変わりそうになったほどでした。
でも、わたくしがその時一番に感じたのは、まぎれもない恐怖でした。
「あいつとは、沈黙の聖騎士様の従士様の事ですか」
小鬼殺しの方は黙ってうなずいた。まるで浮ついた己の心に冷や水を浴びせかけられたような……。
別段、何をされたという事は無いのだ。それでもわたくしはあの方が恐ろしい。あの鎖綴りの奥にある目が、わたくしの罪を見透かしているような気がするのです。
「奴と俺が小鬼を殺す。例えどこにいようともな」
それだけ言って、小鬼殺しの方は踵を返しました。もう一人の小鬼殺し。吟遊詩人の歌に伝え聞いたその話を忘れていた訳ではないのです。
まして、沈黙の聖騎士様の従士の方であると言えば、無下に出来るようなお方ではありません。
だというのに、わたくしは一目見て何故か恐怖を感じたのです。
遠ざかっていくボロボロの甲冑姿の背を見送りながら、わたくしは呆然と彼の方の事を考えておりました。
鎖綴りの奥にある目の光が、どうにも恐ろしく、そして僅かに懐かしい。その理由を…………。
≪………ッッ≫
「うひゃああっ!!」
唐突に、なにか唸り声のようなものが脳裏に響き、わたくしは思わず心臓が潰れそうになりました。
振り向けばぼんやりと視界に長身の影が映ります。その影が、私の目線の高さに跪くと、私の手に何かを握らせてきました。どうやら何かの護符のようです。
「これは、まさか念話のタリスマン!? そんな貴重なものを」
奇跡が込められたそれは使えば無くなる消耗品であり、いかに沈黙の聖騎士様といえど、おいそれと使えるものでは無いはずです。
≪吾輩は軍議に参加する事もある故、気の利いた贈り物をしてくれる方がいたのだ……まあその話はいずれ≫
豊かな響きのある落ち着いた声音。沈黙の聖騎士様は珍しく居心地の悪そうな雰囲気でありました。
先ほどまでのやり取りをどうもご覧になられていたようで、わたくしも自身の頬が熱くなるのを感じます。
「ど、どどうされましたか? 沈黙の聖騎士様」
≪驚かせて済まぬ。貴殿に話があってな≫
沈黙の聖騎士様のとても気まずそうな心が伝わってきます。私も何やら穴でも掘って地面に埋まりたい心持になってまいりました。
「あ、あ、あの、ええと、勿論でございます。何をお答えすれば……」
≪何と言うか、取り込んでいたようなら、出直すが――≫
「お、お、お、お待ちください!!」
踵を返そうとする沈黙の聖騎士様の外套の裾をどうにか掴む。
沈黙の聖騎士様はその場に立ち止まると、気まずげに頬を掻きながら振り返った。
≪…………≫
「…………あ、あの。その、いかなるご用向きでしょうか?」
≪吾輩の従士の事だ≫
そう言葉が響いた時、わたくしは心臓を射抜かれたかのような気分でした。私の動揺を察したのか、沈黙の聖騎士様はどう切り出したものかと悩まれているご様子です。寡黙でともすれば怖がられがちですが、本当は非常に優しく真摯なお方です。
≪どうも貴殿は苦手にしているように見える。よもや貴殿の気に障るようなことがあったなら教えてほしいのだ。あれの粗忽さは師である吾輩の責ゆえな≫
そう語る沈黙の聖騎士様のお声はどこか悲し気でした。並ぶもの無き戦士である方ですが、元来お優しいお方である事は分かっています。そして、彼の従士様も我が子のように心を砕いていらっしゃる事は傍から見ていても分かりました。
「いいえ、あの方は何も悪くなどないのです」
≪吾輩に気兼ねするなとは無茶な注文であると分かっているのだが――≫
「そうではないのです。本当にあの方は何も悪くないのです」
私は薄っすらと見える沈黙の聖騎士様のお顔を見ました。目隠し越しにその目を真摯に見つめます。
しばらくして、沈黙の聖騎士様は黙って頷かれました。
≪もし貴殿が何か思い悩んでおるのなら、吾輩はいつでも懺悔の間に入ろう≫
「ありがとうございます」
翻る外套がはためき、遠ざかる足音。それらを見送りながらわたくしは深く溜めた息を吐き出しました。
懺悔……。そう、それは懺悔すべき話なのかもしれません。
わたくしはあの方に、そうしたかったのかもしれません。
あの盗賊めいた騎士様を目にしたのは、あの叙任の日が初めてのはずでした。そうであるはずなのに一目見た瞬間に、わたくしは怖かったのです。
あの鎖綴りの奥にある視線が……わたくしは怖くてたまりませんでした。わたくしがずっとこの胸の底に隠していた罪を見通すようなあの方の目が……。
勿論、実際には見えてなどおりません。小鬼たちに嬲られたあの忌まわしい日々から、光の中ですらうっすらと見える程度のものです。
それでも、あの方に見られた瞬間に、わたくしの脳裏に浮かんだのはあの闇でした。明ける事のない夜の記憶。寝台の上で目を閉じれば瞼の裏によみがえる忌まわしき思い出。
私が小鬼たちに目を焼かれ凌辱の限りを尽くされた事は今でも夢に見ます。そして夢の中の小鬼達がいずれ現実の中に出てくるのではないか、そんなありもしない恐れに震える夜を過ごして来たのです。ですが、それ以上に私の心を引き裂くものがあるのです。
私があの闇の中に置き去りにしたあの子は、今もどこかの闇を彷徨っているのでしょうか。
ハッキリと思い出せる話ではないのです。何度目かの呪わしい産褥と凌辱によってわたくしの意識はほぼ朦朧とした状態が続いておりました。
もはやその虜囚の日々が何日経ったのかすら分からないある日、それは起きたのです。
霧がかった意識の中で、誰かがわたくしの口元に食物や水を運びました。
それから、その誰かは甲斐甲斐しく私の介護をしていました。
私を使おうとする小鬼にむしゃぶりついていました。私のそばで他の小鬼にいたぶられていました。闇の中でただ一人、私を世話していた誰か。
何故かわたくしには、それを幼子のように感じました。
でも、おかしな話なのです。あの残酷な小鬼たちの巣穴の中で、幼子が生き延びられるはず等無いのです。まして誰かの世話をするなどと……。
だから、あれはわたくしの夢だったのかもしれません。助けを求めるわたくしの心が生み出した幻想だったのかも、そう今まで幾度となく思いました。
それでもやはり、わたくしはその誰かに生かされた、そんな思いが不思議とするのです。
夢うつつの中で、どれほどの時間がたったでしょうか。相変わらずわたくしを甲斐甲斐しく世話をする「何か」。そして絶望の中で死んでいく女たちの消えゆくような啜り泣きの声。
そんな日々が続いたある日、それは起こりました。突然の喧騒。それは、いつもの嗜虐と欲望に満ちた歓声ではありませんでした。戸惑いと苦痛の声、何かがのたうちまわる音。そして血の匂い。
小鬼の断末魔が霞がかった意識の中で聞こえた時、とうとう助けが来たのかと思いました。
でも、今考えてみれば奇妙なことにその苦しみの声は巣穴の内側から一斉に響いたものだったように思います。
何かを潰す音。何かを突き刺す音。そして小鬼の嗜虐的な笑い声。そこかしこから響く断末魔。何か自分が途方もない狂気に取りつかれたのではないかとその時は思いました。
そして、それは実のところ正しいのではないかと思うのです。
――あの闇の中でわたくしはとっくに狂ってしまっていたのではないかしら。
でも、そうであれば、もっと楽になっても良いと思うのです。
その乱痴気騒ぎは数日続いてたように思います。もうその頃にはわたくしも自分が正気なのかすら定かではありませんでしたから、なにやら全てが遠い窓の外で行われているように感じていました。
それがぴたりと止んだのは、やはり唐突な事でした。
断末魔も、苦しみの声も、のたうち回る音も、全てが消え、静寂があたりを支配していました。
そして、「何か」はまたわたくしの体をふき、甲斐甲斐しく世話を始めました。
でも、それまでとは違い、とても静かでした。途中で嬲ろうとしてくる小鬼の声も他の女達の悲鳴も聞こえません。
ただ押し殺した息遣いの音だけが、聞こえていました。
伸びた爪で引っかけぬように恐る恐ると言った手つきでわたくしの髪を撫でたあの手は、なんだったのでしょうか。
何も見えぬ闇の中で、ただ苦悶だけがありました。ただ苦悩だけがありました。なぜ、わたくしがそう感じたのかは今でも分かりません。
ただ、わたくしの体にのしかかったそれの事はなんとなく覚えているのです。ああ、またか、とやはりわたくしはあの地獄の中にいるのだと悟りました。
――だから怖かったのです。あのときわたくしを貪っていたそれに、欲望以外のものを見出そうとしているわたくし自身が。
欲望は確かにありました。愉悦も確かにありました。ですがそれだけではありませんでした。
それは、ただひたすらに、わたくしを欲していました。
砂漠に迷い込んだ旅人が水を求めるように、それはわたくしを求めていました。
欲望と愉悦の中で、それでもわたくしを傷付けぬようにしているように感じました。
――そんな風に思い込もうとしているようで、わたくしは怖かった。
――それが他の小鬼とは違うと思い込もうとしているわたくしが怖かった。
――それを暗闇の中を彷徨う幼子のように感じるわたくしが怖かった。
人は虜囚になると生きながらえるために、捕らえた相手を無理やりにでも受け入れようとしてしまうと言う話を聞いた事があります。
あれはそういう事だったのでしょうか。いえ、そうである筈なのです。
それなのに、どうしてもそう考える事が出来ないのです。
あの暗闇の日々で、最後の産褥の日はやはりそれまでと違いました。生まれ出でたそれを取り上げたそれが、ひどく絶望していたような気がしました。ひどく悩み苦しんでいるように感じました。
そしてしばらく後に響いた断末魔の悲鳴と骨を砕く音。直後に響いた咆哮の傷ましさ。それが嗚咽のように聞こえて……。それでも私はその哀れな生き物の為に祈る気持ちにはなりませんでした。そんな気力はありませんでしたし、なにより幻想と狂気に蝕まれていくようで、わたくしは恐ろしかった。
――だから、その嗚咽と絶望から目を背け、耳を塞いだのです。
いま考えれば熱と弱り切った心が見せた幻想なのでしょう。そうである筈なのに、その嗚咽は今でも耳から離れてはくれないのです。
小鬼達の悪夢の最後は全てが闇に呑まれ、そしてただ嗚咽だけが深淵の闇の中に響くのです。それは未来永劫に終わる事のない苦しみと絶望の中でただ泣き続ける無力な魂の叫びで、応える者の無き産声。
――ああ、そうなのです。わたくしはあの子を暗闇の只中へ永劫に置き去りにしたのです。
次に気が付いた時にはわたくしは慈母の神殿の寝台の上でした。冒険者に救出され、治療と療養の為に慈母の神殿に預けられたとの事でした。
不可思議な事に、わたくしが囚われていた巣穴の小鬼は何者かに皆殺しにされていたようです。わたくしを助けてくれた冒険者によれば、わたくしだけが入り口の分かり易い位置に倒れていたと言うのです。
あの時の私は精も根も尽き果て、まさに生きているだけと言った状態でした。小鬼たちを皆殺しにするどころか、わたくしの体を思うさまに嬲る小鬼たちにろくに反抗すら出来ませんでした。
まさか小鬼が助けた訳などありません。
一度でも彼らの手に捕らえられれば分かります。混沌の種族の残虐さと言うものは人間のそれとは違うのです。わたくしたちが誰かを愛するように彼らは誰かを虐げずにはいられない。そんな哀れな生き物なのです。
だからこれは全てわたくしの弱い心が生んだ幻想と感傷なのです。毎夜毎晩夢の終わりに聞こえる嗚咽が止む日は来るのでしょうか。
あの子は、わたくしが果て無き暗闇の向こうに置き去りにした幼子は、今でもわたくしを求めて泣いているのでしょうか。
ゴブリンスレイヤー様。全ての小鬼達の巣窟を征する勇敢なお方。あなたにお願いできなかったことが一つだけあります。
――わたくしが目を閉ざした闇の中で、今も彷徨うあの子を。たった一人で果て無き暗闇の中を彷徨い続けている幼子を、どうか救って欲しいのです。
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「聖騎士のタリスマン」
とある聖騎士が所持していたとされるそのタリスマンには「念話」の奇跡が込められている。
そのタリスマンを持つ者は、念話の奇跡によって声を発さずとも、
他者にその意思を伝える事が出来るという。
言葉を発することが出来ぬ騎士の為に特注されたそれは、めったに使われる事は無かった。
何故なら、彼には精緻な文筆の才があり、そのあり方は行動によって常に示されていたからだ。
それでも彼はそのタリスマンを持ち続けた。
言葉にせねば伝わらぬモノがある事を、賢明な騎士は知っていたのだ。
後書き
なんだか入れたいものを、やりたい事をボカスカぶち込んでるせいで、分かりにくくなっている部分もあるかと思いますが、ご寛恕いただけますと幸いです。
結局のところやりたい事をせねば書けないので、やるしかないという(笑)
毎回、誤字報告をしてくださっている皆様、いつも本当にありがとうございます。
そして、感想や評点を入れてくださっている皆様。これまで本当に励みになりました。
皆様のおかげで何とか残り一話まで来たと思います。
申し訳ありませんが、もう少しお付き合いいただけますと幸いです。