私は穏やかな死というものを目にしたことがない。戦場では、騒がしいものばかりだった。
傷痍軍人が怪我を癒す病院でも精神に異常をきたした兵士が騒がしく奇声をあげていた。如月有紀とて同じだ。脱走兵として味方だった兵士の拷問にされ死んでいった。藤茉莉は、それこそ最後まで呪詛を吐いて死んだのかもしれない。
私が最初に知った死は拷問による死だった。ただ、その死は簡単には与えてもらえるものではない。
その体にある20個の爪は無残にはがされた人が痛みからショック死してしまわぬように手当てをする。ズタ袋を被せられ水を掛けられたその人が窒息死しないように配慮する。指の関節に刺さった太い釘は何とも痛々しいが、失血死しないように常に観察する。水槽の中に1日中付けられ、その寒さで凍え死にそうになる捕虜が本当に死なないように定期的に水温を管理する。私に与えられた最初の仕事はそうして死んでいしまった人型の処理だった。宗教色の強いその国では、そうしたことをやりたいと思うやつらがいなかった。
そういう死を見続けた私には、そこらの死が心を突き動かすようなものにはならなかった。最も惨い痛みを、死を見てきた。どうしようもない絶望の淵で、自ら一歩前に踏み出すことも許されない。いつ終わるか分からない。
異教徒に対しては何をしてもいい、なんてそんな風潮のあったその国では、男も女も最後は元の肌の色が分からないほどにぐちゃぐちゃに壊された無残な死体が残された。こうなって、ようやく死体として処分が許可される。
死体処分の仕事を行っていた私はこうなった、これこそが死なのだと理解してしまった。
そうなってやっと、初めて彼らの死は承認される。
そんなものを見続けていると、普段の戦闘による死が可哀想と思うにはその瞬間があまりにも素早く綺麗で、惨たらしいと思うにはその死体があまりにも人の形をしていて。そこに転がっている死が本物かどうかなどそれに剣を突き立てかき回すまで、私は信じることが出来なかった。
人々が言う、私の怪物性というのはこれのことなのだろう。今となっては人を殺すのに、私は然したる理由がいらない。『人を殺すんだ』と強く意識することもなければ、人を殺したという実感を持つことは出来ない。
私は人を殺したしまったという恐怖が分からない。
☆
今日はもう寝なさい、と何とか泣きはらす刈谷裕子を基地として使っているマンションの一室で寝かしつけた。一昔前、母親を殺された藤茉莉の息子を寝かしつけているあの時を思い出して多少、懐かしさに浸りながらももう二度と御免だと心の中で吐露する。フローリングの上で丸くなって寝ている刈谷裕子を少女は少しだけ羨ましいと思った。
そして少しだけ安心もする。彼女は正しい秩序の元で正しい理性を持って生きているのだ、とそう確信できるからだ。殺人とはとてもいうことのできない不運なその出来事に対して心を痛めるそれは、如月有紀が生まれたこの世界は、美しく正しいのだとそう信じることが出来るから。
きちんと手入れされた黒い髪に指を通しながら小さな寝息をたてている彼女の頭の上に手を置く。こうしているとまだ正しくはなくとも、人であった時のような感覚になる。多くの人が少女たちの事を疑いなく
でも、私は嫌だな。
そんなことを、少女は思う。あくまでも彼女が覚えている藤茉莉の人格を模倣している少女は、人でいたいと思う。そう、それが
「明日は、どうしようか。」
きっと明日からは主に彼女が表面に出てくることが多くなるのだろう。彼女はあの男を殺すことに乗り気だ。それは最初から何度もそうしたいと思っていたからではなく、彼がボーダーに捕らわれ捕虜としてこののほほんとして生ぬるくて気持ち悪い安穏とした生活の中で心の傷成るものを癒す、そんな過程が彼の人生に組み込まれることを嫌っているからだ。彼女自身、まだ殺したくなかっただろう。それこそ、彼女の寿命が尽きるまであの男を極限まで追いつめてやりたかったはずだ。
どうしようか、というのは決して少女がその男に死に同情的であるとか、悲しいと思っているとかそんなことではない。少女と彼女は藤茉莉が死んだ後に分離したため、少女自身が藤茉莉と心を通わせたなんて事実はない。それでも、少女とて藤茉莉のような善人があんな残忍な殺され方をしたという事実を苦しく悲しく思っている。あんな残忍な殺しを行ったあの黒髪の男を、たとえ担当でない少女だろうと殺すことは建前として言い訳をするかもしれないが、本心としては吝かではない。
あの男が死ぬことは、至極当然の事だ。
母親を殺されたのだから。
それがこの体の中にいる人格たちの結論だった。何一つ議論の余地なく、誰もが賛成に手を挙げた。それほどまでに少女たちは藤茉莉の死に衝撃を受けた。主人格たる彼女の心に止めをさしたその出来事を、彼女は復讐ではなく乗り越えるためにあの男を殺す。
彼女がもし、その殺人を完遂しそののちに心の中に溢れだす感情を本物だと認めることになれば、彼女はもう人ではなくなるのだろう。少女はそれが嫌だと思う。そんなことを嘆いたところで彼女はきっと変わりはしないのだろうけれど。
朝、目が覚めたときには太陽は頭上近くにあり、もし今日が休日でないとしたのなら完全に学校は遅刻である。曜日感覚どころか、日本で使われている暦の読み方を知らない少女にはこの時間帯の起床がどれほどの大問題となるのかさっぱりわからない。
刈谷裕子を起こすと何やら慌てたように携帯を確認するが、それを酷く詰まらない顔で確認し携帯を閉じた。少女が「大丈夫なの?」と尋ねると「別にいい」と返ってきた。
少女には自分の身を真摯に心配してくれているだろう親に対して、どうしてそんな反発的になるのか疑問だった。もしかしたら藤茉莉の息子たちにそうなっていないだけで一般的なことなのかもしれない。そんな少女たちには存在しなかった子どもの思春期事情を考察していると唐突に振り返った刈谷裕子は、「遊びに行きましょう!」と言い出した。
流石に少女はそれを了承するわけにはいかなかった。少女にはやらねばならないことがあった。呪いにかかったあの男をこのまま野放しにしておくわけにはいかない。しかし、少女が何か言う前に掴まれた右腕は力強く引っ張られる。腕が抜けるなんてことはないだろうが、少女は引っ張られるままにマンションから出た。
「ちょっと!」
そう抗議してみるが、どうにも彼女は強情だ。しかもその足が昨日の場所に向かっているのだから少女は刈谷裕子という少女を警戒せざるを得なくなった。彼女はもしかするとあの男と共謀している可能性。理由は兎も角、そうした可能性を少女は感じていた。あの男は非道な男だ。幼気な少女の心を弄ぶことくらい普通にやってのけるだろう。
「ごめんね、如月さん。」
彼女は歩きながらも謝罪の言葉を口にする。その言葉が意味するところを彼女は少女に告げない。だから少女はさらに深く顔をしかめるしかない。
「どうして謝るの?」
「だって、如月さん。私がいるの、本当は嫌でしょう?」
彼女は立ち止まり、ようやくこちらを振り向いた。確かに少女は彼女がこの危険区域内にいることを快く思ってはいない。これ以上ここにいるというのならば、どこかに保護することを考えなければならない。その手間を考慮するならば、遊びは外の市街地でやってもらうのがいい。
「私は刈谷さんがここにいるのが嫌なだけで、市街地の方で遊ぶなら私は何の問題もないわ。」
「どうして?」
「は?」
「どうして、私がここにいるの嫌なの?」
少女は「危ないじゃない」と言った。少女の言葉に刈谷裕子は眉を顰めた。それは確かにそうだ。刈谷裕子もここが危ないということを否定することはなかった。
「危ないのは、いけない事?」
「いけないことだわ。死んでしまうかもしれないもの。」
「私、もう生きているのが嫌だって思うことがあるの。生かされるって、辛い。」
それはきっと兄の事を言っているのだろう。刈谷裕子は、半年前の大規模侵攻時に兄に庇われてその命をつなぎとめた。白い怪物に襲われ、兄がそれを引き付けてのちにその遺体が発見された。あの時、自分がきちんと諦めずに走っていれば、なんて後悔が後から押し寄せてくるのだろう。
少女、否、彼女とてそんな経験が無い訳では無い。確かにその通りだ。生かされてるというのはつらい。それが良い意味であっても悪い意味であっても、生きるという行為に自分の意思を持てない間はとても辛いのだ。
「死んだ人間は、何をしたって生き返りはしないのよ。」
「そんなのは、知ってる。」
「だから、死んだ人間は置いていくしかないのよ。」
死んだ人間はそこに置いていくしかない。その時代に、その時間に、その瞬間に、置いていくしかない。それは決して置いて行かれるのではない。私たちが置いていくのだ。捨てていくしかない。
「そんな風に、割り切れないよ。」
「そうね、すぐには難しいかもしれない。でも、きっといつか。それを懐かしむことが出来るようになるはずだから。」
そんなこともあったね、と懐かしい昔話になれたのならば、それは確かに故人を忘れることが出来た証だろう。唐突に振り返ったときに今まで歩いていた道の跡に横たわる死体を眺めて思い出す、そんな程度に忘れてしまえばいいのだ。
「だから、今は大切に持っていればいいと思うわ。」
少女はそう言って目を細めて刈谷裕子を見た。彼女とて如月有紀の事を思い出話のように語れるようになったのはそれこそ彼女が死んでから数年後の話だ。藤茉莉と出会うまで、彼女が死が霞む事はなかった。藤茉莉の話を未だに思い出話のように話せない彼女を知っている少女は、そう言った。
自分だってそれほどの時間がかかったのだから、たった半年の時間が彼女の心の傷を癒せるものか。
辞めることだって出来たはずだ。白い灰となって自分の腕の中で崩れ落ちていったあの如月有紀のように、生かされることを諦めることだって出来たはずだ。
それでも彼女がこの日々を繋ぎとめていたのは、偏に如月有紀を救えなかったという負い目があったからだ。彼女はその負い目から逃げなかったから、今も生きているのだろう。
「いつか、手を放してしまう時に名残惜しまないように。その時まで存分に引き摺り回せばいい。引き摺りすぎて擦り切れてその原型が分からなくなって手を放してしまうその時まで、存分に。」
少女の言葉は優しく、そして自分に言い聞かせているようだった。刈谷裕子は眉を寄せて少女を睨みつけるように見ていた。少女の方が5㎝ほど身長が低いが、そんなものが気にならないほど刈谷裕子の方が小さく見えた。
「でも、きっと最初は重いと思うの。人一人分だもの、私だって重かった。」
だから、仕方ないから。本当に、少しの間だけ。少女は繋がれていた手を放し、彼女の長い髪に昨夜と同じように指を通す。
「今日くらい、一緒に引きずり回してあげる。」
少女は人を殺してしまう恐ろしさが理解できない。それでも人が殺されてしまう恐ろしさを身をもって知っている。同情したのかもしれない。刈谷裕子と少女自身を重ねたのかもしれない。
ただ、それ以上にやはりnameressという彼女たちの行動原理は、自分と同じ思いをする人間が一人でも少ないようにと、一秒でも短いようにと、たったこれだけの願いなのだ。他人と自分が味わった辛さ、それは決して同量ではないのだろう。しかし、その劇毒の味を知っているから、できれば誰かのその人生の中で味合わないのならばそれに越したことはない。
それに、彼女は困っている。ならば、約束通り助けるべきだ。
今まで色々なことを理由に剣を振りかざした。その根幹に関わる理由が揺らいだことなど一度もない。そのためならば、彼女は
刈谷裕子は次第に俯き、両手で顔を覆った。それから聞こえてくるのは嗚咽だけだった。むせび泣く彼女の頭を相変わらず藤茉莉の息子にそうするように優しくなでる。
昔、まだ彼女が涙を流せたとき、彼女を国から連れ出した
嗚呼、私でもまだこんなことが出来たのか。
そう感想を零すだろう彼女に思わず心の中で苦笑いを零した。彼女だって同じようなことを
「ほら、どこに遊びに行くの? 私、この辺の事何も知らないわ。」
「この辺でいいの?」
彼女は涙を袖口で拭きながらそう尋ねてきた。
「なるべくなら警戒区域の外がいいけれど。」
「それなら、川を見に行きましょう。警戒区域の近くにあるの。」
どうやら彼女は頑として警戒区域の近くにいたいらしい。それでもとりあえず彼女をここから遠ざけられたのならばそれでいいだろうと妥協することにした。
お疲れ様です。
お盆のはずなのに、学校で授業を受けている現実に愕然としています。
しかも、テストが終わっていないと。