nameress −改訂版−   作:兎一号

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nameress は知らない

 一人の女性が、言った。

 

「人の心はね、順番に育って行くの。」

 

 その人はとある子供の母親。藤茉莉(ふじまり)と彼女は名乗った。最初の国が滅んだ後、私が辿り着いた国。その次に訪れた国の貧民街で過ごしていた日本人。頭の良い女性だった。高等教育を受けており、達者にロシア語を話した。

 私が玄界出身だと知ると、彼女は私を気に掛けた。男性不信の気があり、息子を愛せない事を気に病んでいた。一般的には優しいと称される女性だった。

 

「嬉しさを知らなければ、愛おしさを知る事は出来ないの。」

 

 彼女は私の頭を優しく撫でた。年に見合わない、目元の皺を濃くして彼女は微笑んだ。疲れ果てた25歳の顔は、見ていて痛々しいと、今なら思う。

 

「人は貴女を化け物と呼ぶけれど、そんな事はないわ。貴女は今抱えている心を表す言葉を知らないだけなのだから。」

 

 私は逃げた。このままここにいるわけにはいかない、とそう察したからだ。彼女は私にとっては毒のようなものだった。

 次に彼女を見た時、彼女は死んでいた。地面に伏せ、服を引き千切られていた。女性としての尊厳は、きっと服と一緒に投げ捨てられてしまったのだろう。

 私は結局その言葉を聞いた時に思った事を誰にも話す事は出来なかった。

 

 

 

 あまり乗り気では無い中、少女は弧月がセットされているトリガーを渡された。あの後、引き摺られる様にして連れて来られたのはランク戦が行える場所では無く、隊室にそれぞれ備え付けられている練習室のような場所だった。少女がC級隊員であるという配慮なのか。

 

 そうまでして戦闘を行いたいのか、と少女はタチカワを見上げた。

 少女は彼ほど戦闘を好んでいる訳では無い。

 

「トリガー、機動(オン)。」

 

 少女の言葉に手に持ったそれは反応した。服装は黒のコート。自分の腰の左右に二本差してあるそれを見て、少女はぽつりと「片刃」とこぼした。今まで扱った事の無い種類の得物に若干の不安を覚える。鈍い色をしたそれはトリオンを流せば、白く光を零した。スッと刀の背をなぞる。

 

「準備はいいか?」

 

 黒いコートを羽織ったタチカワが少女を見下ろしていた。同じ格好をしている事から、どうやら彼は少女に自分の予備を渡してきたらしい。

 少女は目の前の青年に対してなんて事は無い、と考える。真面に相手をするだけ無駄だ。それに、少女の中には殺す人間の基準があった。タチカワはその基準から外れている。つまり、殺意を向ける対象では無い。それ即ち、少女にとって今の状況そのものが息苦しい物だった。

 しかし、こうなってしまった以上適当な所で蹴りを付けなればならない。そう、せめて一試合だけでもやらねば目の前の相手は満足しないだろう、と少女はこの手の人種の性質から推察する。少女は心のどこかでもしや自分は諮られているのではないか、と不安に思う。

 ただ、その弱気もこれまでだ。小さく息を吸って吐きだす。

 相対した少女を見て「いいね」とタチカワは一言。彼の顔は笑みを浮かべた。

 

 最初に地面を蹴ったのは少女の方だった。1対1の場合、その戦闘は極めて単純だ。相手よりも早く、得物を振り下ろす。

 振り下ろされた弧月は難なく受け止められる。

 当然だ、と少女は予測していた。

 

「っ―――。」

 

 押し上げられる弧月はやはり、体格の差を感じざるを得ない。

 トリオン体には力の優劣は無い。ただ、やはり体格の差は出てしまう。押し上げるよりも押し込む方が当然力は強く出やすい。それでも、少女が押し切れないのは、20㎝以上の体格差によるものだ。

 少女は素早く下がる。

 

 やはり、と少女は弧月を軽く振う。

 面倒事だ、と少女は弧月を構える。

 

 意味がなかった。そう、意味が無ければ少女は戦えない。彼女の中のもう一人は顔を出さない。主だった戦闘は少女(彼女)の役割では無かった。少女(彼女)はあくまでもこちら側の日常を切り抜けるために用意された如月結城(人格)。温厚で優しく、面倒見が良い。藤茉莉を元にした人格。それはどれも誰もが持っている。()の物である性質に強弱を付け加えて出来上がった性格だ。その性格(設定)はあまりにも戦闘に向いてはいない。

 

 少女は一閃、振り下ろした。

 それでも、やらねばならない。

 少女は自身より速く振り下ろされる弧月をその身で受けようとした。これが一番速く戦闘を終わらせる方法だった。抗うのではなく、受け入れる。一歩遅くを心掛ける。そう、相手の一歩遅くをこの戦闘では心掛けた。

 

「はっ……。」

 

 ガキンと自身の弧月から音が鳴る。気が付いた時には、弧月を受け止めていた。

 圧倒的に不利な体勢。首元を狙ったそれを、伸ばしていた肘を素早く曲げ弧月を受けていた。しかし、タチカワの弧月には力が入っている。少女の体はそのまま吹っ飛ばされた。

 数回回転をして、少女は地面に弧月を突き刺した。慣性に体を引っ張られるが、得物を掴んだ手は離れない。

 

「良く受けたな。」

 

 と、タチカワは少女を褒めているつもりなのだろう。しかし、少女の表情は苦々しい物だった。

 今ので死ぬつもりだった。殺されるつもりだった。しかし、何故かそれを防いでしまった。少しだけ震えが残っている右手を少女は見詰めた。

 

 この手の震えは何だ?

 恐怖か? 武者震いか?

 

 答えの出ない問いは、こちらに向かってくる気配で優先順位を下げられた。弧月を地面から引き抜き、背を逸らす。リンボーダンスの棒のように弧月が胸の上をすれすれに通って行く。

 少女はその不安定な姿勢から、左手を地面に着く。体を支える柱として、足を蹴り上げた。勢いのまま、バク転の要領で更に後方へとさがる。姿勢を起こし、改めてタチカワの姿を見る。

 相手がもう一本の弧月を抜いていたならば、少女は死んでいただろう。しかし、今回に限ってはそんな事は無かった。タチカワは圧倒的に優位に立っている。その代償として、彼は本来の戦いをしていなかった。片手で握られて振るわれる一本の弧月。右腰の弧月は未だ刃を見せる事は無い。

 

 また、避けてしまった。少女の中には沸々と湧き上がる物を感じた。それは恐らく苛立ち。自分の体のはずなのに何故かいう事を聞かない。少女がその理由を理解したのは、着地を狙われ再び一閃をくらいかけた時だった。

 

 それは単純な恐怖。死ぬ事は無い、なんて状況に少女は身を置いた事が無かった。迫りくるその刃は単純に命を刈り取る為の物だ。あれに当たってトリオン体を保てなくなったらどうなる?

 

―――殺される。

 

 敵に捕まり、捕虜となった者に真面な人権など無かった。少なくとも少女が身を置いていた環境はそうだった。 もう少し余力のある国ならいざ知らず、

 もう少し現実を見ていた国ならいざ知らず。

 宗教的な発想の元行われる政治。あそこでは誰もが、戒律を叫んでいた。

 合理的では無いあの国でのイメージが少女の中では一番であった。

 

 彼女は拷問と言う物を良く知っていた。その手の物は、少女にも経験があった。それはとても恐ろしい事だった。ドロッとした光の無い瞳の私と、目が合ったような気がした。

 

 それは彼女達の心の傷。いくつかに分かれた少女達が等しく抱える、一番最初の傷。それは治る事無く、傷は膿んでいた。その傷こそが一番最初の亀裂だった。

 

―――まだ、死にたくない。

 

 少女()が堕ち、彼女()が目を覚ますには、その理由で十分だった。

 左側から襲い来るその一閃を私は左手で突き上げる。辛うじてずれる軌道に合わせて首を逸らす。視界の端にブワッと溢れ出るトリオンが目に入った。

 

 片耳が削ぎ落とされたか。しかし、死ななければそれでいい。死ななければ、何もかもが安い代償だ。

 

 私はそう結論付けた。右手に握られている弧月を体を戻すのと同時に振る。しかし、その刃は届かない。それでいい。相手を下げられるのなら、今は何だって良い。

 私は素早く立ち上げる。もう一度私は着地したタチカワの元へと斬りこんだ。先程されたように横に一閃、鈍い光が走る。タチカワはそれを受け止める事は無かった。私の弧月を上から抑え込んだ。

 

「突然、やる気になったな。」

 

 タチカワは嬉しそうに言う。

 

 一つ、私の心がどうしても下さないと事があった。別に私達は勝敗に拘った事は無い。負けると思えば逃げ出す事だってあった。それでも、少女には同年代の子どもたちに抱く劣等感らしい物が無い訳では無い。幸せそうな表情を浮かべている人間は恐らく憎たらしいと思え、腕の一本でも取れてしまえ、と呪った事は数知れない。

 確かに私の本業は、接近戦では無い。況してや片刃の剣など使った事が無い。

 それでも、だ。屈辱なのだろう。煮え湯を飲まされているような喉を通らない苛立ちらしき物を私は感じていた。

 

 そう、たかが半年戦闘訓練(お遊び)に興じた程度の人間が……。

 

 図に乗るなよ。

 

 低く唸る様な小さな言葉をきっかけに、私は素早くもう一本の弧月を抜いた。床に突き刺さった弧月はそこに置いたまま、私は一歩踏み込んだ。何度か刃を合わせた。冷静に打ちあってみれば、タチカワは比較的わかりやすい。見た目のわりに思考が若干幼いのかその太刀筋は熱烈だ。

 攻めこそが最大の防御、と言わんばかりのそれはとても痛快だ。

 

 だが、あの翁には遠く及ばない。予測させない、知らない動きだからついていけない訳ではない。

 あの大槌を持った男ほどでは無い。防げば腕ごと持ってかれるから防げない、なんて事は絶対無い。

 あの生き残った少年ほどじゃない。何もかもを測定され、行動すべてが裏目に回る事はない。

 

 目の前の兵士はまだまだ青臭い。

 彼はまだ兵士であって、戦士ではない!

 

 振り下ろされるタチカワの弧月を私は弧月を使って受け流す。

 それは一瞬の隙。迷わず打ち込んだ。

 しかし、それでいい。戦場では()()()()()事など本当に稀な出来事だ。それに何より死を恐れる私達にとって、そんな敵を討ち逃す(甘ったれた)ことを起こすはずがなかった。

 

 タチカワの左腕が吹っ飛んだ。すかさずもう一度斬り返す。

 タチカワは片足で軽く飛びながら後ろに下がる。彼の皮膚を浅く斬れたらしい。トリオンが漏れ出す。彼は正式に目の前の私を危険視したようだ。私もいい加減、この青年を殺さなければならない。

 お互いに縦に一閃を放つ。弧月と弧月が交わるはずだった。

 

「慶!!」

 

 男の声だ。私と特にタチカワの集中が切れた。振り下ろそうとしていた弧月は交わる事無くピタリと止まった。ブワッと相手が切りつけた空気が頬を掠める。お互いにお互いから目を離す事は無い。それほどまでに私達はこの戦闘に熱が入っていたという事だ。

 どちらかが先に動けば、再び殺し合いをしてしまいそうなそんな熱病に侵されている。副作用(サイドエフェクト)は発動している筈だ。これぞまさに以心伝心。狂気の感染だ。

 

「お前、試験勉強はどうした?」

「え、あ、いやぁ……。」

 

 最初に熱病から立ち直ったのは、タチカワだった。声の主とタチカワの関係性を私は知らないが、恐らくは目上の人間なのだろう。見た目は明らかに年上だ。私はいつもの癖で弧月をヒュン、と振る。血を振り落とす仕草の後、弧月を鞘に納めた。

 瞳を閉じて素早く息を吸い、長く吐きだした。

 

 

 少女は真っすぐと前を見た。何があったのか、予想はつくが覚えている訳では無い。知る筈も無い。これに関して、少女の役目では無いのだから。ただ、どうやら彼女にとっては久しぶりのストレス発散になったようだ。心の中に残ったモヤモヤと清々しさがそれを表していた。

 少女は先ほどまで使っていたライトニングが設定されているトリガーに換装し直した。気持ちが焦っている。ウズウズと、ザワザワと平和過ぎた今まで玄界での生活が色付いて見えたような気がした。

 

「あ、そうだ。なあ。」

「名前、なんて言うんだ?」

「……、ありませんよ。」

 

 彼にそれが伝わる訳も無いが、少女には名乗れるような名前は無い。故に、名前は無い、と名乗る事が少女なりの誠意で、彼の努力への祝福でもあった。

 

「はぁ?」

「名乗る名前なんてありません。トリガー、ここに置いておきます。」

 

 訓練室から出て、少女は小さく舌打ちをした。

 

 楽しくなかった、とは言う事は出来ないのだと思う。

 彼女は、彼女の中の感情に自信が持てない。彼女は著しく臆病なのだ。彼女が知らないという事を教えてくれた人はいた。しかし、どんな言葉を当てはめる事が正しいのかを教えてくれた人はいなかった。彼女の中の物ごとが一般的に正しいかどうかが重要で、彼女らしい心は重要では無かった。

 

 彼女は知りたかったのかもしれない。だが、知り得ることはなかった。

 だから、「正しい」を理想とした。自らの内に正しさの基準もないのに。

 そうしたら、体の成長に置いてかれていた。

 

 ただ、楽しさなど知らない方がきっと幸せなのだ。無知は罪だという。しかし、きっと何も知らない方が幸せなのだろう。

 敵を知らない方が殺しやすいように、何も知らない方が生き易いに決まっている。()なんて物は邪魔なだけなのだから。それならば、私達はわからないままの

 

―――名前の無い化け物(nameress)でいい。




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