はじめに断っておきます。
今回走りは全く関係ないです。
ホントに今回走りは全く関係してないです、はい。
……不評覚悟ですが、なんとなく書いてみたかった気がしたので……。
梅雨前線が日本を跨ぐ5月下旬、世田谷三軒茶屋でも空にはネズミ色の重苦しい雲が立ち込めて、どこかどんよりした空気を帯びる。
こんな日にはやはり客足は遠退く。食事処『紅』は決して公共交通の便がいい部類ではないため、それもやむ無し。それは昔から変わらず、元店主の旦那、篠田轍郎が切り盛りしていた時もそうだった。元より今日は定休日。仕事帰りのサラリーマンなんかは来ない。
「……」
普段なら鼻唄混じりに着々と下準備を進める二代目店主、篠田レイコ。だが今は淡々とテンポよく包丁とまな板の音が厨房に響く。
「……」
外のどんよりとした空気が厨房にまで漂っているかのような重苦しさ。しかし、店の軒先に植えられた紫陽花はそんなことお構い無しに鮮やかな彩りを見せてくれる。
○●○●○●○●
「かあちゃん腹へったッ!! 」
「はらへったァ!!」
夕焼け小宅の黄昏時、裏口から騒がしくドタドタと小さな二人の怪物が帰ってくる。10歳と6歳のまさしくわんぱく軍団。5月の梅雨時分、雨上がりのグチョグチョの公園で暴れてきたのか、どちらも靴が真っ白になってしまっている。
「こーら敬介、
まあ当然そんな小言は小学校4年男児に効く訳がなくスルーされてしまう。母屋の狭い狭い廊下を走り抜けて、居間でくつろいでいる中年オヤジに飛び乗る。いきなりのし掛かられたのにも関わらず全く動じない彼は普段は厳めしい表情をコレでもかというほど柔らかくして、まるで子供みたいに笑みを浮かべる。
「ただいまとーちゃん。」
「おう、お帰り。」
近頃母屋で過ごすことの多くなった父親が物珍しいのか、それとも子供心が刺激されるのか、ニヘーッと子供ならではの笑顔が浮かぶ。それに続いて娘の方もトテトテと歩いていき、寝そべっている父の腹の上にまたがる。
「パパきょうおやすみ?」
「うん。そうだよ。」
こちらもまた兄妹揃って似たような笑顔を浮かべる。
「パパ、きょうのごはんなに?」
「今日はお母さんのカレーだ。」
「「…………」」
さっきまでの活気の良さがどこかに行ってしまったかのような静寂。理由は至極簡単。
「とーちゃんのカレーの方がおいしい。」
それはそうだ。なんせレイコは店であまりオーダーの入らないカレーに手をつけず、原則母屋でのカレーは市販のカレールウを溶かすのみ。一方轍郎はというと彼は市販されているスパイスを混ぜてルウを自作する。本人曰く「量は適当だから二度と同じ味は出せないんだけどな」と笑い飛ばすカレー。しかしその完成度はかなりのモノで、レイコはともかく子供らはカレールウならまだしも安い安いレトルトカレーではほとんど口をつけない。レイコのカレーを渋々食べるのもその影響だ。
「じゃあ、皆で作るか。」
そう言ってスタスタ立ち去っていく轍郎。
「ほら、レイコも準備しな。瀬莉那は手洗っといで。…………敬介はまず着替えるか、いっそ風呂入っちゃうか?」
「敬介は早くお風呂に入っちゃいなさい。ちゃんと泥汚れ落としてくるのよ。」
「……ま、オレの子供なら何言われようが風呂はカラスの行水なんだけどな。」
そんな何気無い会話をしながらも、彼がカレーに使う7つの香辛料―――クミンシード、パプリカパウダー、チリパウダー、カルダモン、コリアンダー、ターメリック、ガラムマサラ―――を引っ張り出す。そして辛味付けにブラックペッパーとジンジャー、カエンペッパーも。
「よくこんなの揃えたわね……。」
驚き半分、呆れ半分でズラリと並べられた調味料を眺めるレイコ。
「まあ、そこらのスーパーでも売ってる物がほとんどだからな。何、覚えてしまえばこんなのすぐ集められるって。」
あっけらかんと言い放つ轍郎。
「(本職なんだから、そりゃ集められるわよね……。)」
手際よく小麦粉、バターを引っ張り出す轍郎。どちらもどっさり100gほど。だいたい4人分で作りおき分も含めての量だが、ここには1人だけ
「焦げるといけないから、こんな感じで木ベラで軽く混ぜながら熱入れるのヨ。」
さすが本職、その手つきは慣れたものだ。
「それから、小麦粉を入れてダマにならないように15~20分混ぜ合わせる。トロトロになって少し……」
「とーちゃん風呂出たァ!!」
本当にカラスの行水。あっという間に風呂から出てきた敬介。右手に持ったタオルをブンブン振り回して水滴をばらまきながら、風呂から出てきたそのままの格好でキッチン前の居間を暴れまわる。
「……わーったわーった。とりあえず早く服着てちゃんと体拭いてこい。」
「……いつかガツンと言ってやんないといけないわね、アレは。」
「俺もそうだったけど言っても聞かないタイプだぜ、ありゃ。」
「アナタもあんな感じだったわけ?…………ホント、似なくても良いところだけそっくりそのまま似ちゃうのってどうなのかしらね。」
「…………すみませんでした。」
これまた子供かと言うほどしょげる轍郎。常連客曰く、普段の表情なら間違いなく子供泣かせだが、少しでも素を見せると良くも悪くもばガキっぽさが残る大人だ。レイコそんな彼に思わずクスリと笑いをこぼす。
「……んで、コッチは少し色がついてきたくらいが頃合いかな。」
弱火のまま、香辛料なんかをドバドバっと投入。厨房にスパイスの独特の香りが充満する。敬介ならまだしも、瀬莉那の方はまだ辛味に慣れている訳ではないので、ここから別の鍋で彼女専用のカレーを作ることになる。轍郎もレイコも、店の厨房に出ているときはもっと慌ただしい状況下にあるので、この程度のごちゃつき具合はどうと言うことはない。
「あんまり強火にするとコゲるから、弱火でな。……俺は中火にしたいけど。」
香りがたってきた時点で更にこれまた市販のカレー粉を入れる。最後に蜂蜜を少々。……チューブから差しているのがいかにも市販品らしい。
「ルウのベースは、ざっとこんなものかな。」
「ここまででも結構手間かかるのね……。」
「手間と料理の出来は比例するとは思っちゃいないけど、でもやれるだけのことはしておきたいしな。」
そこからまた別に、中の具材を揃える。こちらはオーソドックスにジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ。レイコと轍郎がスパイスやルウの準備をしていた時に敬介と瀬莉那に手伝って切ってもらったのだ。もちろん、サイズは彼らの手のひらサイズに合う、大人からすると少々小さめ。だがそれがまたコロッとしてかわいらしい。そして轍郎が冷蔵庫から取り出したのは牛肉でもなく豚肉でもなく、鶏肉。篠田家のカレーと言えば、まずはチキンカレーなのだ。
なんでも、牛肉や豚肉よりも味の染み込みがいいんだとか。その理由は彼にもわからないらしく、中にはヨーグルトまで入れてしまおうとする始末。さすがのレイコもカレーにヨーグルトのイメージがつかず、今回は先送り。
「ねぇ、ちょっ……」
ピンポーン♪……ピンポーン♪
「とーちゃん誰か来たぁ。」
すると轍郎は不審がる素振りもなく、ただ呆れたようにため息をつく。苦笑いを浮かべながら長男と長女にお出迎えするように命じる。
「大丈夫なの?」
「ああ、こういう時に限ってちゃっかり現れるんだし、それにああいうインターフォンの鳴らし方するヤツはひとりだけだろうしな。」
すると玄関の方から子供の元気な声が聞こえてくる。その中に新たな声、図太く、バリトンの効いた逞しい声質だ。
「とーちゃんとーちゃんとーちゃん!!」
ドタドタとキッチンに駆け込んでくる敬介。息を切らしてはいるが、その顔はまるでご主人が帰ってきた時の愛犬の嬉しそうな表情そのものだ。
「おじさん来た! かたムグゥッッ……!! 」
後ろから現れた色黒の筋肉質の巨漢の図太い腕に捕まった敬介は、口を塞がれじたばたもがいている。その当人はやんちゃな顔をして長男をいじっている。
「けーすけ、誰がおじさんだよ、せめて『おにいちゃん』だろ。」
「ンン……プハッ、おにいちゃんはないよ!! おっちゃん……。」
しかしその呆れ口調とは裏腹に顔を輝かせている敬介と瀬莉那。そして急に現れた方もぶっきらぼうな普段のペースとは違い、ものすごく柔らかな印象を与える。
「ヨッ轍。メシ、食いに来たぜ。」
「なんでお前は時々こうやってひょっこり出てくるかな……お前よりも胃袋ゴツい吉川でも来ないのにさ。義人クン?」
にまあっと笑みを浮かべるのは轍郎の悪友、片桐義人。子供らが産まれる前なんかは夜な夜な夜の首都高に飛び出していったが、今では当時ほどの頻度で出ることはなくなっている。
「匂いかいでくるの? おじちゃん、犬みたい。……はーい、お手。」
「……わんわん。」
まさかの「犬」扱い。しかもそれに便乗する片桐。普段からは想像もつかないが、何かと子供扱いが上手いのも片桐の側面だったりする。
「ホント、瀬莉那が義人さんにちょっかいかけるなんて思わなかったのに。」
「たはは、ホントだよね~。ずっと泣かれっぱなしだったからなぁ。」
それはまだ瀬莉那が物心つく前のころ、片桐のゴツい色黒巨体を見た瀬莉那がその威圧感にビビって大泣きしたことが由来。なんとか泣き止ませとうとしてあたふたする片桐の姿が異様に新鮮だったのを、轍郎とレイコは今でも鮮明に覚えている。
「ほら、もうすぐできるから、義人は敬介と瀬莉那の相手でもしといてくれ。」
「はいよ。」
キッチンからまるで子分を引き連れていくかのように消え去っていく片桐。ついていく息子らはまるで親鳥にくっついていく小鳥のようだ。
「プハッ、食った食ったぁ~。」
腹をポンポンと叩いてさすり始める片桐。おおよそ6人前の量を作っていたはずのカレーはあっという間になくなり、きれいに平らげられた平皿が食卓に並んでいる。
「こら義人、コイツらが真似するからやめろって。」
「ほらな瀬莉那、やっぱり片桐おじさんって……」
「『おにいちゃん』じゃなくて『おじさん』だよね!! 」
まあ悪気は全くもってない、純真無垢な彼らの言葉がグサグサと片桐の心に刺さっていく……ような気がした。
「お前ら、心は硝子だぞ……。」
がくりと項垂れる片桐を他所に、レイコは片桐が乱入する直前に聞きたかったことを轍郎に投げ掛ける。
「ねぇ、アナタはどうしてここまで手の込んだ料理しようと思ったの? アナタ程機械弄りができるならそれこそ技術系にだっていけたはずよね。……実際そういう話もあったって言ってたじゃない。……あ、別に今のアナタが嫌だとかダメだとかいうつもりは……」
「解ってるよ、そんなこと。」
そこから轍郎は子供らを居間へ押しやり、大人3人の空間を作ってから静かに語り始めた。
「俺の親父とお袋、レイコは会ったことなかったよな。……まあ想像してたとは思うし、何を今更言うんだって話なんだけど、2人ともおんなじ理由で死んじゃってるのヨ。……なんつったっけな。『脳動脈瘤破裂』とかなんとか。親父もお袋も手術でなんとか助かりはしたんだけど、後遺症が残ってさ。……んで、入院生活が始まった訳だけど、まあ最初は普通に過ごしてたヨ。けどある時を境に容態は急転して、あっという間に亡くなった。……それが、『口から自力で食べられなくなった』時だったのな。それで思ったよ。人間食べなきゃ死ぬって、栄養的なところ以外でもごくごく当たり前なのかもなって。自分の口でモノ食べるのってすごい大事なことなんだって。……俺、それまではどっちかというと飯なんて食えれば良いと思ってた
「そうだったのね……」
「だけど、最近になって思うな……」
轍郎は居間から聞こえてくる2人のまだ幼さが色濃く残る声を聞きながら、目を細めて言葉を綴った。
「アイツらがそれぞれの家庭を持った時、『ただ食うだけ』だとか『ただ作業として作るだけ』ってのはやっぱりやめてほしいって。それぞれの家庭の味、それを引き継げなんてこれっぽっちも思っちゃいないけど、そーゆーのがあって、ソレがささやかな幸せになってくれりゃあなってさ。……それで、いつか例えば『これがウチのカレーだぜ親父』とか言って食わせてもらいたいもんだけどヨ。」
「コイツ嬉し過ぎて号泣するんじゃねぇのか、そんなことされた日にはよォ。」
「義人、今なんつった?」
「アーアー聞こえません聞こえませーん、さあさ俺はガキンちよのお相手でもしてくるさね。」
そんなこんなで、どんよりした空気が漂っても、彼らの元気でささやかな幸せに溢れていた篠田家。外には梅雨時分には珍しく、晴れ渡った星空が広がっていた。
○●○●○●○●
「…………」
あらからもうだいぶ時間が経った。レイコも
轍郎はあれから数年後に亡くなった。彼の両親とは違い、何の前ぶりもなくあっさりと。
しかし、後に聞いた話だが、彼は末期癌を患っていたようで、どうもあの話をした時点ではそれはわかっていたようだ。あの話は、レイコにとっては何でもない話ではあったものの、彼にとっては「絶対に叶うことのない望み」であり、それを覚悟した上でああも話したのだろう。
「縁起でもないこと言って、ポックリ逝ってるんじゃないわよ……。」
そうやって俯く彼女の前には、大きなカレー鍋。あれ以降ほんのごくたまにではあるが、レイコと敬介、瀬莉那で独自アレンジをしたカレーを作ったことがあり、目の前のそれがまさしくそのカレーだ。いつか轍郎に食べさせるつまりだったのだが、食べさせたい人は、もうすでにこの世にはいない。
そんな一抹の寂しさを覚えていると、ふと外がやかましいことに気づいたレイコ。母屋から店に入り、外を覗くとそこには、今では見慣れた存在がいた。
青い機影と純白のボディ、もうひとつはワインレッドのマシン。マイカ塗装の青いクルマの彼が、またアイツを首都高の世界に引き戻したのだ。
「ヨッ、なんとなくなんか美味そうなモン作ってそうだったんでコイツら連れて寄らせてもらったんだワ。」
相変わらず、どこから嗅いでくるのかさっぱりわからないのが、オリジナルで製作したRE26B自然吸気エンジン搭載のワインレッドのRX-8のオーナー、片桐義人。あの頃から少し体は(主に腹回りが)丸くなったとは言え、さほど変わらない。そして彼の後ろからついてくる2人、Z4の高野真紀とインプレッサの新庄貴章。
「……すみませんレイコさん。片桐さん行くって言い出してから全くこっちの言うこと聞いてくれなくて。」
「タカと2人がかりでも抑えきれなかったです……」
どこか申し訳なさそうに謝ってくる若い2人組み。そんな彼らを見ると、さっきまでの寂しさがスッと晴れていく気がした。
「悔しいけど、コイツの嗅覚はホンモノよ。今度からウチの番犬でもしてもらおかかしら。」
「おいおい、昔の瀬莉那ちゃんみたいなこと言うなよ。ちょっとデジャヴったぞ。」
「いいわよ、カレー作ったの。よければ食べたいって。」
真っ先に店に入っていく片桐が、レイコを追い抜くときに軽く呟いていった。
「……これでも結構楽しみにしてたんだぜ、
そう言って新たな仲間と、小さくはあっても轍郎が繋いでくれた確かな人の輪が混じっている。休業日なのに、食事処『紅』はたった4人だけでも小さな小さな、けれど賑やかなひと時に満ちていた。
食べさせたかった人は、もういない。
けれど、彼が繋いでくれた人、
あれからしばらくして新たに出会った若き仲間、
そして、今でも昔と変わらずに「美味い」と無器用ながらに伝えてくれて待っていてくれていた人、
そんな人々が、レイコの周りにはいてくれている。
料理の方は、当たり前ですけど自己責任でお願いします(笑)
途中、あるネタ台詞ぶっ込んでます。