静かな空間に微睡んでいると、どこからか声が聞こえてきた。
「ヒカルっ!」
「ヒカル〜!!」
「ヒカルーー!」
「進藤〜」
「進藤!」
「しーんどーう!」
「進藤っっっ」
「進藤くん!」
「進藤君」
「小僧」
「しんどー!」
「進藤!!!!!!」
みんながヒカルを呼んでる。いろんな人の声が入り乱れて、誰が誰だかわからなくなりそうになるが、それでもたくさんの人が、ヒカルの名前を呼んでいる。あたたかい夢。どの声も明るく懐かしい感じがするが、みんなの姿はなぜかどこにも見当たらない。あたりは明るく、ヒカル自身はふわふわとした心地でちゃんと体があるのかどうかよくわからない。声だけがはっきり聞こえるなか、ヒカルはピンときた。ここは夢だ。
たまに、夢のなかで夢だとわかることがある。ヒカルは普段から夢はあまり見ない方なので、新鮮な感じがした。
そこは、前に一度、佐為が出てきてくれた時の夢と似ている。違うのは、風景がただただ光であふれていることだ。声しか聞こえないみんなは、現れてくれる気配がない。今のところ、この空間にいるのはヒカルだけのようだった。
一人でも、ヒカルは嬉しかった。たとえ夢だったとしても、自分はみんなから必要とされていると思えて。かけがえのない仲間たちの声にこんなにも満たされるなんて思わなかった。
一度は離れた碁。
すべてを佐為に打たせればよかったと後悔した。佐為が消えて、はじめて佐為の才能を知ってから、本当は消えてはいけなかった佐為のことを、ヒカルはないがしろにしてしまった後悔がある。
それでも佐為は、ヒカルに夢の中で会いにきてくれた。扇子を渡されて、やっと前に進むことができた、あの時。あれから、佐為の意思を引き継いで神の一手を目指してきたヒカルには、かけがえのない仲間たちがいた。
みんなの声に応えたい。そう思い、自分の存在を知らせようとしたヒカルだったが。
その途端、あたりは急激に光を無くしていき、消えた。みんなの声も途絶えその瞬間に足元の空間が抜け、ヒカルは為すすべもなく闇に落ちていく。
落ちてからしばらく経ったのだろうか。気づけばヒカルは、まだ暗闇の中にいた。
なんだ、みんなはどこだ?どこを間違ったんだ?と不安になりみんなを探した。さっきまでみんなは近くにいたはずだったから、今だってきっとそばにいるだろう。とにかく、みんなを探さないと。
「かあさーん!あかりー!和谷ーー?伊角さーん?越智ーー!」
思いつく限りの家族や友人たちの名を呼ばわってみた。探し回った。だけどどこに行ってもこの空間から抜け出せない。さっきまではあんなに幸せで希望にあふれていたのに、どうすればここから出られるのだろう。
と、ふいに前方で光るものが見えた。いや、本当に光なのだろうか?距離感もよく分からないなか、一点に集中して見える何かに少しずつ歩み寄って行くが、なかなか近づくことができない。いくら歩いてもまだ遠い気がする。
ふと気づいた時には、先ほどの光がすぐ目の前にあった。時間感覚も夢の中では曖昧なようだった。
さっきから光だと思っていたのは、やっぱり光のようだ。でもそれは赤かった。そして浮いているらしく、ときどき小さく儚げに揺れる。
ヒカルはなぜか、その小さな赤い光がかわいそうに思えた。蛍みたいに弱くて綺麗な光だが、その赤色が、かつて佐為が宿っていた碁盤の染みを思い出させて、放って置けなかった。
しかし、ヒカルには同時に恐怖心もあった。急に暗闇に放り出された時も不安だったが、それだけではなく、この光はどこか恐ろしい。まるで、ヒカルが罠にかかるのをそっと待ち構えているよう。
それでも、やはりこの光が哀れに思えてしまった。何故だかわからないが、いつのまにかその光に魅入られていた。ドキドキする。離れたいのに離れられない、知りたくないけど知りたい。この光がどこからきたのか、何をしたがっているのか。
したがっている…?
光を包むように広げていた手のひらを引っ込め用としたその時、突然赤が爆発した。いや、本当に爆発したわけではないが、光の拡大はそれくらいの衝撃があった。ヒカルはとっさに目をつぶったが、それでもまぶた越しに溢れてくる赤色に飲み込まれ、意識まで麻痺した。津波にあったことなどないが、例えるなら津波のような、津波と嵐が渦を巻いて押し寄せてきて、心にまでも流れ込んでくる感覚。心臓を誰かに握られたような圧迫感を感じて、身もだえた。だが痛みもないし苦しくも辛くもない。ただ、重くて大きな何かが、ヒカルに迫っていた。逃げたいと必死になるほど、がんじがらめになる。でも、見た目には何も映らず、ヒカルの手足は自由なままで、ヒカルは混乱した。
夢だと思う。でも夢じゃないような、リアルな感覚。押したり引いたりぶつかったり圧迫したり、流されて自由になったり。翻弄される間、ヒカルは現実世界のことを考えた。戦って検討して、学んで教え教えられ、また戦って追って追い越し。上を目指すまでの道のりは、思うようにいかないこともあり、けれど確実に自分のものになっていく日々を思い出す。それは己の意思とは関係のないところでも絡み合い関係し合い、それが積み重なって今がある。ヒカルを形作っているもの全てがヒカルの一部であるということを。
自分の一部。
ヒカルは分かっていた。どんなに苦しい状況でも、どんなに過酷な環境でも、ヒカルの立ち向かっていくべき道がある。恐れることなく向き合い、身を任せれば良いのだ。それに押しつぶされない強い意思を持って、生き抜かなければならないのだが。
ここは夢の中であり、夢の中ではときおり自分の思うように体を動かしたり考えたりできないことがある。たとえ意思がはっきりした夢だったとしても、現実にある以上の力が発揮されるわけではなかった。
わけがわからないままどこをともなく流された。
どこに向かっているのかわからない中で、妙にはっきりと聞こえたのは、碁石が打たれる音。みんなが碁を打っている、そう思ったヒカルは自分もみんなの元に行きたかったが叶わない。
待てよみんな、オレはここだ、オレにも打たせて!
…たのむ、オレを置いていくな!
苦しくなって叫んだ時、ヒカルは何かに腕を掴まれた。一定の流れから突然引っ張られて反動が大きかったがなんとか、掴まった腕のほうを見上げる。
そこには緑がかったおかっぱ頭の塔矢アキラがいた。一瞬、助かったと思った。しかし、よく見ると相変わらず強い意志のこもった眼でヒカルを見ているが、いつもと表情が違った。普段とは似ても似つかぬ冷ややかな顔つきだった。睨んだり怒ったりするのは何度も目にしたが、こんな人を見下すような冷徹な様子の塔矢は見たことがない。おかしい、これは塔矢ではない。
「進藤ヒカル…キミに碁を打つ資格はない。」
塔矢は顔つき以上に冷ややかな声音で言った。
「なんでそんなこと言うんだよ、オレとお前はライバルだろ⁈」
ヒカルは子供のように叫んだ。そしていつのまにか、塔矢もヒカルも出会ったころの小学生の姿になっていた。
嵐がますます激しくなってきて今にも体がさらわれそうになり、慌てて塔矢の腕をつかみ直す。塔矢はすがりつかれてもビクともしなかった。
「キミはなんだ。キミの強さはsaiあってのものだろう?saiがいなければ、キミは碁を知りもしなかったはずだ。キミ自身に、価値などない。そうだ、saiはどこだ、どこにいる⁈
…saiを出せ!!!!!!」
ヒカルは固まった。表情はまるで死人みたいになってると思う。動きだけじゃなく体の血流さえも止まってしまったような感覚だ。
塔矢の顔は話す間に凄まじい形相になっていた。まるで鬼のような顔つきと声音。目がつり上がって眉間は割れているし歯を猛獣のようにむき出しにして吠えた。
そして塔矢の方がヒカルを引っ張り上げにかかった。ものすごい力だ。片腕だけでヒカルの手首を掴んでるのに、糸を引き上げるかのように軽々しく持ち上げる。
塔矢が立っているのは崖だった。というより、いつのまにか崖になっていた。もう少しで塔矢のいる大地の縁まで頭のてっぺんが届くくらいに引き上げられたが、ヒカルはその先を見たくないと思った。ただの勘だったが、向こう側を見てはいけない気がした。見てしまえば最期、もう戻ってこられない。
「離せ塔矢…!!!!!!」
ヒカルはめちゃくちゃに手足を暴れさせて、塔矢の手を引っぺがすことに成功した。しかし、そのおかげでまた嵐の真っ只中に放り出されることになり、少し後悔して塔矢を見上げたが。
塔矢は笑っていた。笑顔などではない。まるで口裂け女のような形相で、それくらいの位置にまで口角が上がり、目は逆さまの船形。顔つきは…悪魔とか悪霊などと言われるような怨念の詰まった邪悪な笑みを浮かべている。夢だからってこんな恐ろしいものを見なければならない自分は、どうかしてしまったのだろうか?
…お前は誰だ…?
ヒカルは落ちて行く間にも考えた。見たときから塔矢じゃないと感じていたが、ではこいつは一体なんなのか。
しかしヒカルは、しばらくして考えるのはやめた。どっちにしろ、夢だ。
ヒカルは瞬く間に落ちて行く。薄暗い風越しに見た塔矢は、もう消えていた。代わりにまた碁の打つ音が聞こえてくる。暴風にさいなまれながらも、嫌にはっきりと。自分を置いてくみんなの音なんか聞きたくない。
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない…!!!!!!
「ヒカルーー!!!!!!今何時だと思ってるの、休みだからってダラダラするんじゃないの!もう社会人でしょ!」
目が覚めた時、聞こえた第一声が聞きなれた母の怒鳴り声だった。
部屋は眩しい陽ざしであふれていて、まったくいつも通り。途端に夢のことは綺麗に忘れてしまった。どんな夢を見ていたのか、もう思い出せない。
(まぁ、いっか。)
時計を見るとすでに8時半。母は休みって言っていたし、確かにヒカルにとって休みの日だが、今日は平日の金曜日。棋院のイベントも指導碁も手合も研究会もない。和谷あたりが集まりを作ってるかもしれないが、今日はあかりの高校に行ってやる約束をしていた。でも部活は夕方になるから、それまでは久しぶりに自分の部屋で1日棋譜並べをしようと考えつく。
「ヒカル!いい加減朝ごはん片付けちゃうわよ!」
「食べる、食べるから待ってよ!お腹すいた!」
朝ごはん抜きはまっぴらごめん!とばかりに飛び起きる。着替えも高速ですませて階段をドタドタと駆け降りた。
もっと静かに降りなさい!という母の叱咤を聞き流してトイレに行き、続いて洗面所で顔を洗う。
今、季節は初春で3月のはじめ。気温は暖かくなってきたけどまだまだ寒い。水も流してるうちに雪解け水みたいに冷たくなってめざましにはぴったりだ。今日は天気も良く家のなか全体が空のようなさっぱりした空気をおびていて気分も快調!良い感じに集中して棋譜並べができそうだし、その合間に気晴らしでジョギングでもしようと計画をたてて鏡をみた。
いつもと変わらない自分の顔がそこにあった。顔を洗ったので前髪がすこし濡れているが、それ以外は何も変わっていないはずだった、が。
(ん?クマ?)
ヒカルも棋士になり、健康管理は万全だ。仕事の予定のある夜は10時までに寝ているし、昨日は12時近くまで起きていたが朝はおそかった。十分な睡眠をとっている。今はそんなに忙しい時期でもなく疲れだって最近はまったくなかったし、むしろ忙しくなるのはこれからだ。
(…まぁ久しぶりの夜更かしだったからなァ、するとしてもせめて11時くらいに寝るようにしよう…)
変な夢もみた感じだし、と軽く考えて蛇口を閉めた。
今日の朝食は味噌汁とごはんとシャケ。今日はというより、いつもとほとんど同じだ。違うのは味噌汁の具とシャケ。ときどき魚がかわってホッケだったりサワラだったり、炒め物だったりする。料理のことは全くわからないが、母の料理はいつもバリエーションが豊富でおいしい。健康管理といえば、食事はすべて母頼りだ。
席に着いたらいつも通り勢いよくがっついてご飯と味噌汁をお代わりし、あっという間に腹におさめて汚れものを流しに運び、部屋に直行する。家事もすべて母任せだ。ヒカルはときどきは洗濯物を手伝っているだけ。普段は恥ずかしくて言えないが、母には感謝している。
ヒカルは着替えたばかりの服を脱ぎ、ジョギング用のスポーツジャージに再び着替えて歯をみがいた。いつもなら自分でするより先に母に指図されるのが早いが、今日は本当にいい天気で気分が良かった。
「じゃあちょっと走ってくるから!」
台所にいる母にそう叫んでさっそく家を出る。
朝の空気はおいしい。準備体操なんかせず、走りながら腕を伸ばしたりひねったりして済ませる。空は青いし雲は白いし鳥が鳴いているし、ときどき掃除機の音やら水やりの音やらが聞こえてくる。
いつもなら夕方に走るので、そんな日常の景色のある朝のジョギングは新鮮だった。
ふと、このあたりに住む人々で、囲碁をたしなむのはほんの少しの人だろうと思った。ヒカルの家も、ヒカルが佐為に会うまでは囲碁のいの字も無いような環境だったから、それが現代においてごく普通のことなのだと思う。だけどほんの少しだけでも、皆んなに囲碁を知ってもらいたい。そしてたくさんの強い棋士たちと、もっともっと熱くなれるような楽しい勝負ができたら。
もう10分くらい走って暑くなってきた。たった今想像した未来に気分も高揚してくる。
(いつか、オレと塔矢、みんなで囲碁を広められたらいいな。)
今はもちろん自分が強くなるのが先決だ。今のヒカルの段位は三段で、まだまだ塔矢にだって追いついてない。しかし、ときどきはこうやって想像するのも楽しいなと思った。
勝手知ったるわが地元、考え事をしている間にも足が見馴れた道をどんどん走ってくれる。
2ヶ月後、2回目の北斗杯が開催されることが決まり、ヒカルは心身ともに向上していた。街を走るヒカルを照らす太陽は優しい色をしている。輝く太陽は未来への象徴であり希望だ。ヒカルは未来が明るく輝いていると信じて疑わなかった。
後ろに伸びるヒカルの影は、まだ薄暗い曖昧な姿をしている。これから徐々にその輪郭は濃くはっきりと姿をあらわすだろうが、ヒカルは後ろを振り向かず、その影に気づくことはなかった。
実はこのお話、pixivにも投稿しておりまして、そちらの方が話はすでに第六局まで進んでいます(※投稿時)。こちらにはその訂正後のものを投稿しています。pixivの方で見ていただいたら先が読めるのですが、おそらくこちらの方が訂正後なだけあって完成度があるかと思いますので、よろしければこちらでお待ちください。