え? 次回作は五十鈴のはず?
……予定は未定というでしょ。
鉛色の低い雲が立ち込める湖。
その湖面を見下ろす岬の先端にある一つの墓石。
過ぎ去った昔を懐かしむかのように佇む女が一人。
「また、来てしまったわ……」
先に逝った、今は亡き伴侶に一人ごちる。
「提督、貴方の最後の言葉……俺に囚われて不幸になるな。って言われたあの言葉、守れたかな」
過ぎ去りし過去を懐かしむかの如く、遠い視線。
「提督、貴方が逝ってから随分経ちます……。私も大分老けてきましたよ。貴方が逝ってから、いろんなことがありました。覚えていますか? 武蔵さん、あの人もいい年になりましたけど、まだ現役で後輩を指導していますよ。それから……」
1年ぶりに訪れた墓前に徒然に語りかける。
「……色々ありました。でも私にはあの頃が一番良かったです。貴方がいて、仲間がいて……」
そう語りかける女の、その瞳が様々な感情を入り交じらせ、貌に複雑な色を生み出す。その色が女の姿を実際の年齢以上に老け込んだように見せる。
その傍に咲いていた一輪の花。
その花を見つめながら。
……この花、そう言えば提督がお好きな花でしたね。色の儚さが良いって……。
ふと昔を思い出す。
「あぁ、この花は良いな。この色が良い」
「この花ですか? ……儚い色ですね。確かにずいぶん珍しい花とは思いますが……」
「ああ、この花は一日しか咲かないらしいな、だがその短い命を精一杯生きてるからな……」
「……一瞬の命ですか。儚い色なのに輝いているように見えるのは精一杯生きているからなんですね」
「ああ、俺も、こんな風に生きられたら良いな」
「え? 縁起でもないですよ。そんな短い命だなんて。提督にはもっと長生きして頂かないと」
女が過去を振り返る。
……あの時、何故提督がそう仰ったのかわかりませんでした。でも、今ならわかります。……精一杯戦ってきた貴方の身体はもう限界だったんですね……。提督、貴方はあの花にご自身を重ねていらっしゃったのですね。
提督、貴方と結婚してから、もともと優しかった貴方が、急くように優しくなっていきました。
次第に優しさを増して来る貴方に不安を感じ始めたのもあの頃でした。
その不安が現実になったのは、ここに来て5年目でしたね。
冬にしては穏やかな日だった。
体調を崩していた男が小康状態になったのを見計らい、暖炉にくべる薪を取りに林に入る。
薪を作り、家に戻り――。
様子を見にきていた妹分の元艦娘が飛び出し、男の急変を知らせる。
そのまま医師の許に走らせ、男の許に駆け――その最後を看取った。
弱々しく微笑む男の顔。
自分のほうが不安だったろうに、心配掛けさせまいとして……。
「もう駄目だな。自分で、判……る」
差し出される細い腕。
「駄目、諦めないで! 提督、しっかりして!」
差し出された腕を意識して強く握り返す。
「……私は、本当に幸せだった。愛する人に看取られて……こんなに穏やかに、死を迎えられるとは」
ゆっくりと、一言一言切って呟くその姿。
「……駄目。……私が貴方に、どれだけ支えられて来たか……貴方はまだ、死んだら……」
「……愛、してい、る」
「私も……愛しています。――」
「……大淀、残り少ない願いだ……聞いてくれるか?」
「最後なんて……馬鹿なこと、言わないで」
「あの場所に連れて行ってくれないか……」
「でも……」
「……最後は俺の好きな場所で逝きたい。叶えてくれ」
女が提督を背負って湖に面した草原に着いたときにはもう提督は周囲の風景も見えないほど衰弱していた。
「ここは何処だ? ……いい匂いだ。……草原か」
お気に入りの場所につきながら、周囲がわからない提督に代わり、その様子を伝える大淀。
涙が提督を心配させることはわかりきっていたのに、どうしても堪えられなかった。
提督が差し伸べるその手を取り、握り返す。提督の尽きることの無い優しさを湛えた瞳が見つめていた。
「大淀、楽しい日々をありがとう。俺は、君と逢えて幸せだった」
声に出せば、涙声しかでない。それは更に提督を心配させてしまう。これ以上、心配をかけるわけには、行かない。
応えを返す代わりに、提督を抱きしめる。
涙が提督の頬を濡らす。
「……大淀、泣くな。例えこの身体は滅びるとも、俺は大淀、君と一緒にいるから」
優しさゆえの言葉。そう思っていた。
「『想いは絆によって未来へと紡がれていく。想いの絆は永遠に、限りある肉体と共に生き続ける、永久に生きる唯一の魂なんだ』って、言っただろ?」
その言葉――目の前の男が現役の提督の頃から幾度も聞かされ、仲間達にも、生まれてきた子供達にも同じように伝えた言葉。
その言葉を信じて生きてきた。それを否定することは、今までの人生を否定することになる。
それでも否定したかった。だが否定することも、肯定することも出来ない。共有しうる時間は僅かしかなかった。だからこそ、何も言えなかった。
沈黙をどう受け取ったのだろう。苦しい息の下で男が絞り出すような声で囁いて来た。
「……最後の願いだ、大淀。俺に囚われて不幸になるな」
自分が誰かを傷つけて生きていくことを何よりも恐れていた己の提督の言葉だった。だが……
「……」
大淀は返答できなかった。提督と離れる。その恐怖が大淀に重く圧し掛かる。
愛別離苦。そんな言葉が思い浮かぶ。
――人生には四つの苦がある。
そう言った昔の賢人の言葉を聞いたのは、艦時代だったか、目の前の提督の鎮守府時代の事だったか……。
当時はわからなかった。が、今は……。
苦しい息の下から男の声が聞こえる。
「……大淀、君は意外と不器用なところがあるからな。……よもやないとは思うが、俺の跡を追う等と考えたら許さんからな。俺の分まで生き抜いて、くれ、よ……」
考えていたことを見抜かれていた。提督の変なところでの勘のよさは変わらなかった。
「わか、り…ました」
「……良かった……あり…が…とう」
「提督? あなたっ! ――!!」
今でも鮮明に思い出す、あのときの次第に冷たくなるあの感触。あの穏やかだった声。
……埒も無い……。
大淀が首を振る。
その視線が花に移り、その手が思い出の花を摘み取る。
手のひらに置いたその花を風に舞わせる。
その風に舞う花弁に大淀が語りかける。
……出来れば湖に咲いて。……あの人が眠る、あの湖に。
「……行ってみようかな、久しぶりに」
波打つ湖面。訪れる人も無いその辺に咲き乱れる草花の群落。
その地に咲く花びらが、久方ぶりに風以外のもの――大淀の歩み――に散らされる。
……ここに来るのは何年ぶりだろう。
男が周囲を見回す。
……変わらない風景、ね。
2人で暮らした当時、何度も訪れた思い出の場所。
大淀が最後に来たのは、男が亡くなった直後――提督が気に入っていたこの場所に遺品を埋めた時。
岬の墓地に遺髪を埋め、遺体を湖に葬った後、最後に遺品をこの地に埋めた。
それ以後、大淀は湖の辺の白樺林に居を構えるにもかかわらず、この地を訪れたことは無かった。
確か、この辺りに……。
男との懐かしい思い出の記憶を頼りに、探るように辺りを見回す。やがて目的のものを見つけ――。
平たい石の上に腹這いになり四肢を伸ばす。
良くこうやっていましたね。一緒に山に行ったりしてこんな石を見つけると二人して寝転んで、偶に抱き合ったりして……。
昔を思い出し、苦笑する。
日が山間に沈みかける。鳥達の鳴き声も聞こえなくなり、急速に周囲に静けさが増した。
その寂しさに耐え切れなくなった大淀が
「……まだ、ここに独りで来るのは辛いですね」
そう呟き、周囲を見回し、静かに立ち去る。
湖から見える山のふもとに日が沈み、辺りが闇に包まれる。
闇を払いのけるかのように赤々と燃える暖炉の炎とくべられた薪。その薪が爆ぜる様子を見るとは無しに見つめる大淀。
その爆ぜる薪が亡き提督と過ごした日々を思い起こす。
手に持つ琥珀色の液体を満たしたグラスを傾ける。
気がつけば、頬に伝わる一筋の流れ。
その筋に指が触れる。
「……涙、久しぶりに流しましたね。……悲しいのは、提督がいない所為で、すから、ね」
否定する大淀の心。
「違いますね。提督のことを忘れかけてた私に対してですよね」
微かな自嘲。
忘れまいと誓った、提督の声や温もり。その想い出も、歳月を経るごとに摩滅し別のものへとすりかわっていく。
思い出される声や温もり、仕草が次第に擦れ、色褪せていることを大淀は自覚していた。
独り、部屋に戻る。その歩みが止まる。その先にある扉。己の提督とともに寝食を共にした部屋。そして――最後を過ごした部屋――。
その部屋で暮らすことに耐えられなくなった大淀が寝室を移してからは一度も開けられることなく年月が経っていた。
躊躇いがちに扉に手を触れ。引っ込める。
そして暫しの躊躇いの後、その手が扉を開く。
微かに鼻につくかび臭い匂い。
明かりを灯し、当時と変わらぬ部屋を見回す。
記憶を辿るかのように一歩、また一歩と歩みだし、その歩みが止まる。
視線の先にあるのは、提督の使っていた机の上に置かれた古びた箱。
ふと思い出す在りし日。
「そう言えば、提督、その箱、どうされたんですか?」
「ん? この箱か?」
「ええ。鎮守府をお辞めになったころからも大切に持ってこられているので。何が入ってるのかな? って。貴重品類は別にあるので」
「気になるか?」
見つめる男の悪戯っぽい表情。
「すこし」
「……内緒、だ」
「……妻の私にもですか?」
「そうだな。大淀、君には特に内緒だ。勝手に開けるんじゃないぞ」
大切な人との思い出の品と察せられ――。
「そんなに大切なものなら別のところにおいたほうが良いのでは?」
何とはなしに不機嫌になり――。
それっきりになっていた。
……何が入っているのかしら?
躊躇いがちに伸びる手。そっと箱に触れ――。
錆びつき用を成さなくなった鍵を外す。
中に入っていたのは――古ぼけたフルート。
大淀が瞑目し、中空を見つめる。
あの時の……。
脳裏によみがえる一つの情景――鎮守府の皆での冬のコンサート。
提督がタキシードに着替え、演奏する艦娘がドレス姿に。
ドレス姿を冷やかされる長門とどこか妖艶さを湛えた陸奥が演奏したピアノの連弾、如何にもといった雰囲気を纏った熊野のハープと普段とは異なった姿で、顔を赤らめ困惑しながらも堂々とした演奏を披露した鈴谷のヴィオラ――
思い出せば、懐かしい日々。
大淀もフルートを提督と一緒に演奏し、拍手喝采を浴びた。
……あれからでしたね、二人してフルートの演奏をはじめたのは。
……何時からかあのフルートを見なくなったと思っていたら……。
微かに微笑む大淀の表情と頬に伝う一筋の涙。
……俺に囚われて不幸になるな、か。……随分無茶な願いでしたよ。後を追ったほうが楽でした。
でも、提督、貴方の後を追う事はしませんでした。提督は誰かを傷つけて生きていくことを何よりも恐れていましたからね。
……後を追ったら許していただけませんでしたよね?
……いつか、私も提督の下に還る時が来るでしょう。それまで、待っていて、頂けますよね?
大淀の手が伸びる。
ゆっくりとそのフルートを手に取り、口を近付ける。
流れるように美しい。そして少し悲しい調べが、周囲を満たし始めていた。
蛇足
鎮守府の皆での冬のコンサート曲
スメタナ 連作交響詩《わが祖国》より「ヴィジェフラド」
ドビュッシー 《小組曲》より「小舟にて」
チャイコフスキー《くるみ割り人形》より「花のワルツ」
ドビュッシー 《フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ》
前作は、水面に拡がる長い黒髪が浮かんだのが切欠。長い黒髪という事で扶桑さん嫁にしたかったけど断念。
理由がこの話まで出来てしまった事。……扶桑さん、これ以上不幸にしたく無かったんじゃ〜。