「こんな……こんな辞令があっていいものか!?」
提督が率いる鎮守府は、常に資材と燃料の不足に喘いでいた。
しかし提督は、その乏しい資源を緻密にやりくりし、何年もかけて、誰もが羨む巨艦、大和を最高練度の艦娘に育て上げた。彼女は提督の夢であり、このささやかな鎮守府の誇りそのものだった。
その実力ゆえに、大和の名は中央にまで知れ渡り、より大規模な鎮守府から執拗な異動要請が届くようになった。そして本日、ついに、その無慈悲な辞令が下った。
潮騒だけが響く静かな執務室で、提督は一枚の書類を大和に手渡した。彼女は無言で受け取る。その白い手袋に覆われた指先が、僅かに震えているのが見えた。提督は平静を装うが、喉が張り付いて声が上ずる。
「大和……達者でな。向こうに行っても、無理して風邪などひくんじゃないぞ」
提督は、長年使い込まれて傷のついた執務机の上で、冷たい辞令書に判を押す。まるで鉛の塊を持ち上げるかのように重いペン先が、二人の別離を決定づける。貧しい鎮守府で積み重ねてきた全てを、一枚の紙切れが切り裂く。育てた娘を手放す父親のように、彼の声は情けなく震えた。
ふと、提督は過去の記憶に囚われる。大和がまだ練度も低く、遠征や演習に明け暮れていた頃。資材難にあっても、訓練だけは決して手を抜かなかった。提督はいつも、艦娘たちと共に鎮守府の裏山を駆けていたものだ。
あの時のように、自分が辛い時は、大和も隣で共に涙を流してくれる。そんな確かな信頼が、二人にはあった。
提督は、大和の艤装にそっと触れた。冷たい鋼鉄の感触が、別離という現実を突きつける。
「この鎮守府での日々を……俺との思い出を、決して忘れるんじゃないぞ」
夜間遠征から帰投した日、静かな月の光の下、入渠ドックの順番を待ちながら二人で語り合った夜の静けさ。提督は、その記憶を宝物のように胸の奥にしまっていた。
大和は、無言で深く頷く。しかし、提督の心には新たな不安が黒い染みのように広がっていく。
(向こうの提督は、よい人物だろうか)
提督の評判は聞こえてこないが、鎮守府の噂は聞こえている。
資材も潤沢で艦隊も第四艦隊まで精鋭が揃い他の鎮守府との演習も盛んらしい。
厳しい訓練も資材不足の苦労も分かち合った自分とは違う。潤沢な資材で、彼女を丁重に扱うだろう。だが、それが大和にとって本当に幸せなのだろうか。慣れない環境で、彼女が戸惑いはしないだろうか。
「……達者でな」
提督は、もう一度同じ言葉を絞り出した。そして、いつか再び会える日が来ることを心から願った。戦場で、あるいは艦隊再編で、もう一度二人が共に戦える日が来ることを。
その時、大和が初めて自らの意志で口を開いた。
「提督。……や、大和は、あなたといつかまたお会いできる日を、心からお待ちしております」
その声は震えていたが、凛とした響きには彼女の決意と提督への変わらぬ忠誠が宿っていた。
「大和……ああ。また、必ず会おう」
別れ際、提督は大和の長い髪に手を伸ばし、優しく撫でた。微かに香る鋼鉄と油の匂いが、彼女と共に過ごした日々の証だった。それは、彼女の成長と門出を祝う、提督の精一杯の、そして最後の愛情表現だった。
大和は、提督に深く敬礼し、毅然と背を向けた。一瞬、彼女の鋼鉄の艤装が、提督の方を向きかけたように見えたが、それはすぐに抑え込まれた。新しい鎮守府へと向かう輸送艦に乗り込む彼女の姿が、夕暮れの水平線に消えるまで、提督はただ岸壁に立ち尽くしていた。
彼の鎮守府は、その日、希望という名の柱を一本、失った。
救いようのないその後の話も思い浮かんでしまった……。
この後、大和を失った鎮守府は深海棲艦の強襲を受けた。彼女がいれば迎撃できたはずの敵艦隊。だが、軽巡・駆逐艦が主力となった艦隊では戦力不足は否めず、あえなく壊滅。提督も戦死し、鎮守府は解体に追い込まれ、戦線は大幅な後退を余儀なくされた。
提督の戦死を知り、嘆き悲しむ大和。
戦線の後退という事態を重く見た大本営の調査で、「大和の残留があれば、鎮守府の壊滅、少なくとも提督の戦死と戦線の後退は免れた可能性が高い」との結論が出される。さらに綿密な調査の結果、異動辞令そのものが不当な圧力によるものと発覚。執拗な異動要請を行った提督は降格処分の上、一兵卒として南方の最前線へと送られた。
だが、その事実を知らされた大和の唇から漏れたのは、感謝でも安堵でもなく、乾いた笑い声だった。大和は狂ったように笑い声をあげ続けた。
そして、いつしか彼女は姿を晦ませ……。
南方戦線の深海棲艦の中に、巨大な砲門を有し驚異的な命中率を誇る「戦艦棲姫」が現れたのは、その数ヶ月後のことだった……。