艦これ短編集――艦娘のごった煮――   作:fire-cat

38 / 47
三年の黄昏(阿賀野)

 鎮守府の岸壁を、秋風が吹き抜けていく。海に面した高台には、燃えるような彼岸花が群生していた。

 阿賀野は、今日も日暮れの桟橋で、提督が官舎へ帰る姿を見送っていた。

 

「提督、お疲れ様です」

 

 交わされるのは、いつも形式的なやり取り。提督の瞳には、常に戦況と鎮守府の運営という「大局」が映っている。その視線の先に、一隻の軽巡洋艦である自分の「想い」が入り込む余地など、どこにもなかった。

 しかし、稀に、執務室で報告を終えた阿賀野に、提督が不意に優しい声をかけることがあった。

「今日の海域は厳しかったな。暖かくして休め」

 と。任務完了の労いとは違う、人間的な響きを持つその一言。その一瞬の温もりが、彼女の心を三年間、縛り続けてきたのだ。

 いつか渡そうと懐に忍ばせた手紙。そこには、艦娘としてではなく「一人の女として」、たった数行の言葉が綴られていた。阿賀野はそれを、油の染みた手袋越しに、くしゃりと握りつぶした。

 届かぬ想いを抱えたまま、自分の影法師を踏んで遠回りをして自室に戻る。この道は、提督がよくランニングをする演習場や、執務室の窓が見える場所を避け、提督への想いを認めてしまう「心の戦場」から逃れるための、彼女だけの避難路だった。

 

 提督が就任して、もうすぐ三年が経つ。鎮守府の規律は厳しく、提督と艦娘の私的な交流は許されない。時折、他の艦娘から「この秋には、提督の任地替えの噂がある」という話が聞こえてきた。それは、阿賀野にとって「提督との永遠の別れ」を意味していた。

 

 そして提督の任地替えの噂は事実となった。同時に「この鎮守府から誰かが一緒に行くらしい」と噂も変わり、「誰々が行くらしい」「いや、その子じゃなくて誰々らしい」と具体的な艦娘の名前が出るようになっていった。

 時には阿賀野の姉妹艦の名が挙がることもあったが、阿賀野自身の名前が挙がることは一度もなかった。

 

 覆せない運命が近づく秋。彼女は無理に明るく振る舞い、仲間たちの噂話から顔を背ける。これ以上、情を深くすれば、別れが辛くなるだけだから。

 

 提督の任地替えも間近に迫ったある夜。遠征から戻った阿賀野は、艤装を解き、静かに手鏡に向かう。窓の外では、空に鰯雲が激しく流れていた。今日もまた、激しい海戦を生き延びた。

 鏡に映るのは、戦うための「兵器」ではない。化粧をする、ごく普通の「女」の顔。誰のためでもなく、ただ兵器ではない自分自身を確かめるために、そっと口紅を引く。冷たいガラスには、冴え冴えとした月光が映り込んでいた。

 ふと、去年の冬の海戦を思い出す。あの極寒の海で、自分はただ提督の命令に従って進んだ。その時、無線越しに聞こえた「必ず帰ってこい」という、任務を超えた一言の重さ。それが、彼女の心を支える唯一の「ぬくもり」だった。

 しかし、今はそのぬくもりを直接求めることは許されない。

 そう。三年という月日の中で、この想いを諦めようと何度も努めた。しかし結局、心のぬくもりを求める時、彼女の胸に蘇るのは、遠い提督の背中だけだった。

 

(提督……どうか、お元気でいてください)

 

 阿賀野は、一人、冷たい胸元をかき抱いた。それは、三年間懐で温め続けた手紙を握りつぶした感触にも似ていた。兵器としての任務と、女としての恋心を、自らの手で封印する儀式にも似ていた。

 

 

 三年の時を刻んだ黄昏は、やがて夜の闇に溶けて、新しい黎明を迎える。彼女が、艦娘として、再び海へ出るために。

 

 

 

<FIN>

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。