轟沈表現あります。ご注意ください。
春の柔らかな日差しが、鎮守府の執務室に差し込んでいる。提督はペンを走らせながら、ふと窓の外に目をやった。穏やかな海を眺める彼の隣には、静かにお茶を淹れる涼月の姿がある。雪の夜に交わした契りから季節は巡り、二人の間には言葉にしなくとも通じ合う、穏やかな空気が流れていた。
しかし、その穏やかな空気は、一人の来訪者によってかき乱されることになる。
「艦娘ですか。……異動してくる艦娘がいるとは聞いていませんし、何処からかの伝令でしょうか」
衛兵司令の妖精から報告を受け、涼月が門へと向かう。そこに立っていたのは、少し緊張した面持ちで鎮守府を見つめる一人の女性だった。その瞳の奥に、涼月はどこか懐かしく、そして切ない面影を見出した。
「私は、こちらの鎮守府に所属していた矢矧の妹艦、酒匂と申します。姉がお世話になった提督に、ご挨拶と……お渡ししたいものがあり、参りました」
その名を聞いた瞬間、涼月の胸が小さく痛んだ。彼女は酒匂を執務室へと案内しながら、これから訪れる時間が、自分たちにとって決して避けては通れないものであることを予感していた。
執務室の扉が開き、酒匂の姿を認めた提督は息を呑んだ。面影が一瞬あの日の矢矧と重なって見えた。
酒匂は深々と頭を下げ、一冊の古びた手帳を提督の前に差し出した。
「姉が没した海域で見つかった、姉の遺品です。最後の航海の記録が……。そして、巻末にこちらの提督と、涼月さんへの言葉が遺されていました」
提督は震える手でそれを受け取る。ページをめくると、そこには見慣れた、しかし今はもう見ることのできない矢矧の筆跡があった。
提督はその記録を読みながら、かつての戦いを思い返す。
戦闘の記録、仲間たちとの何気ない会話、そして――。
提督は、最後のページに綴られた言葉を読み上げることができなかった。彼の脳裏に、あの日の荒れ狂う海と、炎に包まれる艦隊の光景が蘇る。嵐を突いた、夜間の奇襲戦だったが、今一歩及ばず、逆襲に遭い艦隊に大きな被害を出した戦いだった。
あの日、矢矧は殿となって、戦場から撤退する涼月を逃し沈んだ。あの時の選択が、今も彼の胸を締め付けていた。
「……すまない」
絞り出すような声に、酒匂は静かに首を振った。
「姉は、提督の判断を誇りに思う。と、日記の最後にありました。そして、涼月さんが無事であろうことを心から慶ぶ、と」
「俺g、私が……命じたんだ」
提督の声が苦渋に満ちる。
「涼月を守れ、と。矢矧は……ただ、忠実に、それに応えた……。矢矧であれば、私が着任した当初から苦楽を共にしてきた彼女であれば、どのような困難な命令にも応え、そして生還する術を見つけるだろう、そんな甘えがあった。その甘えが、結果として彼女を死なせてしまった」
その重い告白を、涼月は提督の手を握ることで受け止めた。
「矢矧さんは、私に『あなたは提督の光だから』と、そう言ってくれました。彼女が繋いでくれたこの命です。だから、私は……生きて、提督の隣にいることを選びました。それが、私の戦いです」
酒匂は涙を堪えながら、姉が涼月に宛てた最後の言葉を読み上げた。
「最後に走り書きで『涼月へ。あなたが提督の隣にいる限り、私は安心して逝ける。どうか、私の分まで、彼を照らし続けて』と書かれていました。それと涼月さん宛てに『この身果て 君の笑顔に 託しおく 彼の歩みを 照らす灯火』、提督宛てに『君が辺の 心許せる 安らぎを 重き荷下ろし ただ愛しませ』との首がありました」
その言葉は、部屋にいた三人の心に深く、静かに染み渡っていった。
その夜、提督は一人、執務室の窓から月を眺めていた。矢矧の日記を傍らに置き、自問自答を繰り返していた。あの選択は正しかったのか。犠牲の上に成り立つこの平穏を、自分は享受する資格があるのか。
彼は机の引き出しから、一枚の和紙をそっと取り出した。
あの雪の夜、涼月が彼に手渡したものだ。そこに記された歌と、己が返した誓いの言葉が、昨日のことのように蘇る。
― 雪の夜 盃交わす 契りかな そばに侍るは 三世を経ても ―
「想いの絆は、永遠に、か……」
提督は自嘲するように呟いた。あの時、涼月を前に語った言葉が、今は虚しく響く。矢矧の犠牲という現実を前に、あの誓いさえもが色褪せて見えた。
絆とは、誰かの死の上に成り立つものなのか。
提督の脳裏に浮かんだ光景。それは矢矧を失ったあの日の夜のことだった。
自らの命を断ち、矢矧の後を追おうとした、あの狂気に満ちた自分自身の姿。こめかみに冷たい銃口を当て、引き金を引く寸前、まるで幻のように飛び込んできた白い影――それが涼月だった。彼女の必死な形相が、今も鮮明に焼き付いている。あの時、涼月がいなければ、自分はもうこの世にいなかった。その事実を誰にも話さず、ただ憔悴しきった自分を、涼月はそっと見守り続けてくれていた。気づけば、彼女は自身の心の最も深い場所を占めるようになっていた……。
そう考える提督の耳に扉を叩く音が聞こえた。それに続く、涼月の声。
「提督、少しだけ、お時間をいただけますか」
「涼月か。何かあったのか?」
「いえ。提督がお疲れのご様子だったので」
扉越しに聞こえる涼月の声は提督を心配していることが明らかな声だった。
「大したことは……」
ない。と言いかけた提督だったが、思い直して涼月を部屋に招き入れる。
「いや、入ってくれ」
「失礼します」
そっと扉が開き、涼月が入ってくる。彼女の手には、小さな燭台と一枚の和紙があった。
涼月が燭台に火を灯し、机の上に置いた。その柔らかな光が、提督の苦悩に満ちた横顔を照らす。
「提督、どうかされたのですか」
涼月のその言葉に、提督が幾度か口を濁しながら、意を決したように言葉を紡いだ。
「涼月、聞いてくれるか?」
頷く涼月。その頷きを確認し提督が語り始める。
「俺は……怖いんだ、涼月」
提督が初めて弱音を吐露した。
「矢矧だけじゃない。仲間の犠牲の上で成り立った恵まれた生活……それを甘受していてもよいのだろうか? それは罪深いことではないか……? とな。私が師事した提督は、いつか運命の歯車が回り、その順番が来たら、貴様も味方を護り、その足許に埋もれるように死ね。仲間をより良き未来へ押し上げるように死ぬんだ。そう言って、散っていった。だが私は生き残っている。多くの仲間たちの想いを背負って、俺は前に進めているのか? この手は、何かを掴むたびに、何かを零してきているんじゃないか、とな……」
蹲り肩を震わせる提督を痛ましそうに見ていた涼月だったが、意を決したようにキッと提督を見据えた。
「宜しいですか、提督。不本意でありましょうが、私の話を聞いて頂けませんか? 私の話がお気に障ることもあるかと思います。御気分を害されたのなら、どんな処罰でも受けます。ただ、どうか最後まで聞いて下さい」
いつになく硬い口調の涼月に、解ったと、蹲ったまま居住まいをただす提督。
「提督。提督が今、ご自分を否定されることは、散っていった矢矧さんをはじめとする戦友の皆さんや恩師の生き様まで否定することになるのではありませんか?」
身じろぎしない提督を見つめる涼月が言葉を紡ぎ続ける。
「提督が今日まで歩んでこられた道は、苦く辛い記憶も、今こうして胸を苛む記憶もあったでしょう。それだけではなく楽しい思い出もあるはずです。その一つ一つが、皆さんと確かに結んだ『絆』そのものではありませんか」
少し肩を震わす提督を見つめる涼月。
「提督は、今、ここに生きていらっしゃいます。生きているんです!」
提督の肩に手を伸ばす涼月。
「提督が最後まで生きて、御自身の経験と、仲間の生き様を後世に語り継ぐこと、それが散っていった皆さんの生きてきた証を伝えることになる。提督が仰っていた事じゃありませんか!」
涼月の想いが言葉となり迸った。
「生きてきた証……」
涼月の言葉を反芻する提督。
「提督は、今、この鎮守府を率いる長という立場にあります。それは提督が努力し、凄惨な戦場を生き抜いてきたからではありませんか? あなたが努力し、生きてきた集大成、それが今の立場です。提督、あなたがいくら後悔しても、最早過ぎ去った時は戻りません。答えにはなっていないかもしれませんが、提督が仲間を犠牲にしたというのであれば、その犠牲を無駄にしないためにも提督は仲間の分まで生きなければなりません。それがその地位を得た者の宿命だと私は思うのです」
目を瞑り胸を押さえる涼月。
「……耳が痛い言葉だな、涼月」
提督の言葉に、涼月は一瞬顔を歪め、しかし目を逸らさずに胸を押さえた。
「……はい。耳が痛いのは、承知の上です。ですが、それでも、言わずにはいられませんでした。どうか……どうか、ご自分を責めることだけは、おやめください。私は艦隊から外されても、解体を命じられても構いません。ですが、提督がご自分の過去を、仲間との絆を、否定なさることだけは、私には耐えられません!」
そう言うと上半身を深く折り曲げる涼月。
「……未熟な私の指揮で、何人もの艦娘を沈めてしまった。仕方のない犠牲だ、全力を尽くした、そう自分に言い聞かせ……いつか運命の歯車が回り、その順番が来たら、私も味方を護り、その足許に埋もれるように死のう。靖国に行けたら先に散っていったあいつらに詫びを入れよう。と、そう思っていた。だがな、いつしか私は、戦場に臨む者が持つべき狂気と冷静さに、ただ逃げ込んでいただけだったのかもしれない」
提督は一度言葉を切り、絞り出すように続けた。
「親しかった艦娘を何人も失って思い知らされた。……大切な存在を作ると、それを失う苦痛に耐えられない、とな。二度とこんな苦しみを味わいたくないと、そう強く思った。だから気づいたんだ。私は狂気に逃げることで、心を麻痺させていただけだと。私の狂気に巻き込んで失うことがないように、もう二度と、誰のことも特別には思うまいと……そう、決めていたんだ」
提督の視線は、涼月の足元に注がれていた。
「提督となってからずっと苦楽を共にしてきた矢矧には、特に気を付けてきた。それなのに、いつの間にか、矢矧に頼り甘えて、彼女を特別な存在にしてしまっていたんだな。矢矧を失ってから、改めて思い知らされた。矢矧が特別な、大切な存在になってしまっていた事、そしてこれ以上大切な存在を作ると、それを失う苦痛に耐えられない、とな。二度とこんな苦しみを味わいたくないと、そう強く思った。……それなのに、いつの間にか、涼月、お前を懐に入れていた。半身に等しかった矢矧よりも、ずっと深く、な。愛縁機縁とは、よく言ったものだ。本当に、不思議な巡り合わせだよ」
提督は、まるで遠い日を思うように、静かに息を吐いた。
「涼月。もし君がいなかったら、私は今頃どうなっていただろうな……」
そう言い、顔を上げる提督。
「先程の言葉、私を想っていってくれた言葉だという事が痛いほど伝わってきた。ありがとう。……何か話があったのだろう? 座ってくれ」
涼月は黙って提督の隣に座ると、涼月は提督の目をまっすぐに見つめた。
「失ったものばかりを数えないでください。遺された想いが、今ここにあります。私がいます。矢矧さんは、私を『光』だと言ってくれました。提督を照らす光であれ、と。その矢矧さんが繋いでくださった命で、私が今、ここにいます。提督が暗闇を進む時は私が道を照らします。絶望に打ち震える時は私が寄り添い温めます。提督と矢矧さんが繋いでくれたこの命で、私は提督の隣で未来を紡ぎます。それが、皆への一番の答えになると、信じていますから」
そう言うと、持っていた和紙を提督に手渡した。
― 月影に 君が遺せし 光をば 胸に抱きて 永久を祈らむ ―
「これは……」
「矢矧さんや、皆の想いに応えるための、私の新しい誓いです」
提督はその歌を丁寧に畳み懐に仕舞う。そして涼月の手を強く握り返した。
「受動的な生き方は、仲間の犠牲の上に積むべきものではない。涼月、君が言うように、過ぎ去った時はもう戻らない。しかし、自分が納得できるように、今まで、自分の行ってきた行為と釣り合うだけの結果を積み上げるために、これからの人生を生きることは出来る、か」
提督の視線が涼月と交差する。
涼月の視線は、柔らかで、愛し子を見守る慈母のような視線だった。
「……ああ、そうだな。俺たちの絆は、あいつらの命によって紡がれている。だからこそ、俺たちは生き続けなければならない。想いを、未来へと繋ぐために」
「はい。私の想いは、あの冬の日のままにあります」
二人の影が、蝋燭の光の中で一つに重なった。
翌朝、鎮守府の裏手にある、海の見える丘に三人の姿があった。そこには、この海で散っていった、この鎮守府の艦娘たちを弔う慰霊碑が静かに佇んでいる。
酒匂は持参した一輪の花を、矢矧の名が刻まれたプレートの前に手向けた。
提督と涼月は、一つの盃に酒を注ぎ、慰霊碑にそっと供える。
「矢矧……お前の想いは、確かに受け取った」
提督の声は、昨日までの迷いが消え、穏やかで力強かった。
「お前が守ってくれた光と共に、俺たちは未来を紡いでいく。だから、安らかに見ていてくれ」
涼月も静かに手を合わせる。心の中で、今は亡き戦友に語りかけた。
(矢矧さん、見ていてください。私は、あなたの分まで、提督の隣で笑っていますから)
酒匂は、そんな二人を涙ながらも晴れやかな表情で見守っていた。姉の最期の願いが、確かにここに在ることを感じていた。
風が吹き、桜の花びらが舞い散る。
彼らは慰霊碑に背を向け、広大な海を見据えた。その視線の先には、新しい一日を告げる、希望の光が満ちていた。
To be continued……
時系列的には
雪の盃→月のまどろみ→春風の誓い→月影の誓い
並び替えました。
提督、無意識に矢矧に甘え、絶対的な信頼を置いていました。応急修理要員は積んでいたんですが、足りませんでした……。
涼月宛ての首の別候補
①逝く我に 未練はあらじ 我が分まで あの人照らせ 君の光で
②逝く我に 心残りは なかりけり 君の笑顔が 光となれり
③逝く我に 残す願いは ただひとつ 君が隣で 彼を照らせよ
④命果つ その瞬間も 迷いなく 君の光が 彼を導く
pixiv版とは登場人物が異なっています。
pixiv版もこちらに合わせました。