提督が自らの命を絶とうとしてから、季節は何度か巡った。紅葉が散り、雪が積もる。冬の寒さが和らぎ、桜が咲き、散っていく。彼は、再び大切なものを失う恐怖から、自らの心に分厚い壁を築いた。それは、自己を守るための「沈黙の防壁」だった。
執務室の扉には「緊急時以外立ち入り禁止」の札が掛かり、いつも開かれていた扉は固く閉ざされ、書類は執務室前の棚に置かれることになった。中にいる提督の気配は、決裁済の籠にたまっていく書類と、時折聞こえるため息交じりの小さな声だけだった。妖精たちが運ぶ食事が完食されていることが艦娘達にとって唯一の希望だった。
提督は鎮守府を維持し艦隊を保つための最低限の、或いは形式的な職務をこなすだけで、艦娘たちと個人的な交流を持つことは避けた。それが、自分を罰し、これ以上誰かを傷つけないための唯一の方法だと信じていたからだ。
執務室の扉を見つめながら、艦娘たちが囁き合う。
「提督さん……今日も出てこないっぽい」
夕立が心配そうに呟いた。
「そうだね……何とか昔の提督に戻って欲しいけど」
時雨が静かに応じる。
「こんな時、昔なら矢矧さんが何とか……」
村雨がそう口にした瞬間、
「それは言っちゃダメ。矢矧さんを失った事を一番悔いているのは提督だよ?」
白露がすかさず、しかし優しい声でたしなめた。
それは自信と威厳に満ち、頼りがいがあった提督が引きこもってから、不安に駆られた艦娘達の、そこかしこで見られた光景の一部だった。
しかし、涼月だけは違った。提督の冷たい拒絶にもひるむことなく、彼女は毎朝、時間になると執務室の前にやってきた。ノックもせず、ただ静かに扉を開け、机の上の花瓶に花を活け、温かいお茶を置いていく。茶器から立ち上る湯気が、ほんの一瞬だけ、部屋の重く淀んだ空気を揺らす。彼女は決して話しかけることはなく、提督もまた、彼女に視線を向けることすらなかった。
最初の数ヶ月間、提督は書類仕事に没頭し、涼月が持ってくる花瓶と茶器を意識的に無視していた。彼の視界に入るのは、数字と文字、そして窓の外の曇った景色だけだ。涼月が去った後、冷めきったお茶は手つかずで残り、新鮮な花が萎れていくことにも、提督の心は動かなかった。
提督が心を閉ざしてから季節が巡り、二度目の春の終わりが近づいた頃、提督は書類仕事に疲れてふと顔を上げた。窓の外には、満月が静かに輝いている。その月明かりに照らされ、机の隅に置かれた花瓶に活けられたカモミールが、まるで生きているかのように輝いていることに気づいた。
彼は、その花が放つ、ささやかだが確かな生命の輝きに、一瞬だけ現実を忘れた。
「カモミールか。……矢矧が好きだったな。確か花言葉は……」
提督の脳裏に、かつての優しい笑顔が蘇る。彼はすぐさま意識を書類に戻そうとしたが、涼月の献身的な想いが、彼の築いた「沈黙の防壁」の隙間に、一滴の温かい水のように染み込んだのを感じた。
それから数週間後。提督はいつものように書類を前にしていたが、ふと、横に置かれた温かいお茶に手が伸びた。それは、涼月が置いていってからまだ温かい状態だった。一口飲むと、その穏やかな香りと温かさが、張り詰めた提督の精神をわずかに緩める。
彼は、初めてそのお茶を飲み干した。
数時間後、提督が執務室から決裁済みの籠を出したとき、控えめに待機していた妖精を呼び止めた。
「待て」
「はい、提督」
提督は顔を上げず、小さな声で、まるで独り言のように呟いた。
「今朝の……茶だが」
妖精は息をのんで言葉の続きを待つ。提督は言葉を選び、重い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……美味かったと、伝えておけ」
それだけを言うと、提督はすぐに扉を閉ざした。提督からの初めての「言葉」だった。その報告を聞いた涼月の瞳に、初めて喜びの光が揺らめいた。
提督は、この間接的な応答こそが、自分を罰し、これ以上誰かを愛さないようにするための「沈黙の防壁」を、音もなく、少しずつ、確実に溶かしていたのだと、まだ気づいていなかった。しかし、涼月との間に生まれた、言葉にはできない、しかし強固な絆は、彼の心を少しずつ、確実に変えていた。
To be continued……