戦いが終わり、艦娘たちは人間として市井に溶け込む。
人々は平和を謳歌し、未来に向かって進んでいた。
だが、すべての人が順風満帆な生活を送るとは限らなかった。
これは一人の元艦娘の失恋話――。
……警告。
『艦これからかなり逸脱しています』
このフレーズに不快感を催す人はブラウザバックをお願いします。
長きにわたる深海棲艦との戦いに終止符が打たれ、艦娘達は人間化し、提督たちもまた市井へと溶け込んでいった、そんな時代。
艦娘たちも、また、提督たちと結婚*1 するか、養子縁組*2 を行い、戸籍と名前―― 艦名や通名ではなく本物の名前 ――を得て一市民として市井に溶け込んでいった。
人々は深海棲艦からの襲撃にも怯えることなく、平和な時代を謳歌していた。
だが、多くの人々が未来に目を向ける中にあっても、元艦娘に対して偏見の目を持つ人々の存在も確かにあった。
「……そう。……お別れね、秀一さん」
「
そう呟くと秀一と呼ばれた男はレシートを持って店を出ていった。
「…………」
残された陽漣と呼ばれた女性の眼から滴が一つ、また一つと頬を伝わっていった。
女性は元艦娘であり、艦娘だった時の名を【陽炎】と言った。
『大型で非常に強い台風17号の接近に伴い、関東地方は本日午後から暴風圏内に入ります。台風は非常にゆっくりとした速度で……』
深夜放送のアナウンスが何処からか流れてくる。
降り続く雨が陽漣の顔を、身体を、全身を容赦なく濡らしていく。
傘は持っているが、差す心境にはなれない。
どうして……。
どうして……。
その言葉だけが陽漣の脳裏を駆け巡る。
オールナイトの映画館。
深夜営業の喫茶店。
目にした時計は――AM3時。
「叔父様に言わないと……」
目に付いた電話ボックスに入る。
ダイヤルの上で躊躇いのダンスを踊る、彼女の指。
5分、10分、15分。
彼女は力なく受話器を戻すとゆっくりと頭を振った。
電話、かけられない。
もう叔父様に迷惑はかけられないから。
思い浮かぶのは、妹とともに養子縁組してもらった、戦死した提督の弟―― そして陽炎が同居している家の主 ――の顔。
扉を開き外に出る。雨はますます強まって、心と身体を打ちのめす。
力なく街をさ迷う陽漣の全身を車のヘッドライトが照らし消えて行く。
ふと気がつくと、陽漣はいつしか市街地を抜け、駅で列車に乗っていた。
「これからどうしよう……」
そんな考えが頭の中を駆け巡る。
7時を周り車内に人が次第に増えてくる。
列車を降り、街を歩く陽漣。
ふと目にした、郊外型の大型ショッピングセンターに入る。
デパートの他に映画館、喫茶店、アミューズメントパークが入っている。
外の悪天候とは異なり、周囲に溢れる幸せそうな家族やアベック達。
その幸せそうな顔が、声が再び陽漣の心を苛む。
居たたまれなくなり外に飛び出す陽漣。
あてもなくさ迷い歩く――周囲の好奇の視線も気にする事なく。
再び列車に乗り、また降りる。
その動作を繰り返すうちに車内からどこか見覚えのある―― 懐かしさを感じさせる ――風景が目に付く。
無意識の内に列車を降りる。
繁華街を抜け閑静な住宅街を抜ける。
橋を渡り、林を通り抜る。
依然降り続いている雨。その雨も今の陽漣には意識の外。
とぼとぼと、無意識に歩く陽漣。
うつむきながら歩く。一歩一歩足下を見ながら。
その身に纏った気配は――母と逸れた幼子。
「……ここは……」
ふと我に返った陽漣が顔を上げる。
そこにある一軒の住宅。
門にかかる表札。
「……一ノ瀬提督の……」
陽漣が呟く。
提督の戦死に伴い異動した鎮守府の提督の家 ―― そして、人間化した陽炎が、提督と仮の兄妹として1年間暮らした家 ――であった。
いつのまにか足が向いていた場所。
もう来る事はないと思っていた懐かしい場所。
「……もう、戻れないわよね。我が侭言って出たんだし」
そう呟く陽漣の声とは裏腹に、その身体は門を開いていた。
玄関脇の古めかしい呼び鈴に手を伸ばし、引っ込める。
そして暫しの躊躇いの後、その手は呼び鈴を鳴らしていた。
台風の上陸による激しい降雨。
そんな外の様子を見つつ藤の安楽椅子に腰掛け、ワイングラスを傾ける20代後半の男がいる。
室内の蓄音機からラヴェルの『逝ける王女のためのパヴァーヌ』が流れていた。
「あれから、もう3年か……」
男が呟く。
「陽炎が出ていった時も、こんな天気だったな……」
「……そうね……」
部屋に入ってきた20代前半の女性が応じる。
「うん? いつからいた?」
「いま来たとこ」
「陽炎、どうしているのかな……」
「こら、もう陽炎ちゃんじゃないわよ。陽漣ちゃんよ。沈んだ漣ちゃんを忘れたくないって言った陽炎ちゃんのお願いで、貴方が考えた名前でしょ? ここに居なくてもちゃんと呼んであげないと」
「そうだったな。今頃何しているのかな……」
その男の呟きに窓を見る女性。男が雨が流れる窓を見ながらなおも独り言ちる。
「あの時もっと俺がしっかりしていれば雪風ちゃん――っと、今は
「本当につらい時ほど明るく振る舞うから、あの娘。長女だからって周りに気を使いすぎるところあるのよね。長門さんが言ってたわよ。『陽炎は言わば鋳物の剣。提督よ、扱いには気を付けるのだぞ』と伝えてくれって。陽漣ちゃん。折れなきゃ良いけど……」
「……過ぎた事でくよくよしても仕方ないがなぁ」
安楽椅子を揺らす男を見て女性が微笑む。
「それにしても……提督ってホント似合わないわよね、安楽椅子が。陽漣ちゃんにも言われていなかった?」
女性が苦笑する。
「おいおい、いい加減名前で呼んでくれないかな、結婚したんだから提督から名前に変えてくれよ、川内」
提督と呼ばれた男が苦笑する。そんな男の言葉に
「ごめん、つい癖で」
ちょろっと舌を出す川内と呼ばれた女性。
「でもあなたも私の事、川内って呼んでる。そんなあなたには……お仕置き」
そう言うと、笑いながら男に勢いよく飛びつき、グラスを奪い一息に中身を飲み干す。
「こ、こら。――むぐっ」
そのまま男に口移しでワインを含ませる。
「じゃぁ、私の名前を言って。あなた」
「仰せのままに。
女性を椅子に座らせると立ち上がり仰々しい礼と共に名前を呼ぶ男
「やっぱり似合わないわね」
そんな姿を見て苦笑する川乃と呼ばれた女性。
傍目からは見えないが、鎮守府で提督だった男の第一艦隊旗艦を務め、幾たびも激戦に赴いた強者だった。
玄関でベルが鳴ったのはそんな日の夕暮れ時だった。
「誰だろう? こんな天気なのに」
顔を見合わせる2人。
悪天候の中で来客を待たせる訳にもいかないので家の主たる男が慌てて玄関に行き二重ロックを外し、鉄板と鉄鋲を打った重い樫の扉を開く。
そこに見える、懐かしい顔。
信じられない光景――立ち尽くす、ずぶ濡れになった陽漣の姿。
「陽漣!」
開かれた扉の向こうに立つ懐かしい兄の姿。
「こんにちは。お久しぶりです、お邪魔してもいいですか?」
「どうしたんだ? こんな悪天候の中。ああ、こんなに濡れちゃって……。早くあがりなさい。川乃、すぐに風呂の支度!」
川乃と呼ばれた女性が階段を降りて玄関に来る。
「どうしたの、あなた……? !! 陽漣ちゃん! どうしたの!?」
(川……お姉さん……)
「ごめんなさい、お姉さん。新婚の2人の邪魔をする気はなかったんですけど……」
思わず口に出る言葉。
「何言ってるの。もう、私たちの間で変な遠慮しないの! すぐにお風呂沸かすから。お話はまずその冷えた身体暖めてからにしなさい。あなた、ホットパンチお願い!」
「分かってる!」
昔と変わらぬ息の合った2人の様子。
少し胸に苦しさを覚える陽漣。
「陽漣ちゃん?」
川乃がシャワーを浴びる陽漣をガラス越しに見ながら声をかける。
「はい……」
「バスタオルここに置いておくわね。下着や着替えなんかもおいておくから。……昔のだからサイズが合うか分からないけど」
(ありがとう……お姉さん)
身体も心も、汚れも想い出も全て洗い流す。
もう、秀一さんの事なんか忘れよう――。
しかし、その想い出は忘れられない。
初めての出会い。初めてのデート。イヴの夜。一緒に住まないか、と告げる彼の表情。永遠に続くかと思われた楽しい日々。それらすべての想い出が、走馬灯のように駆け巡る――。
流れる熱い想い。
鏡を見れば泣いている自分がそこにいる。
「……心配かけちゃうな、こんな顔じゃ」
ワインにレモンと蜂蜜を入れお湯で割る。
久々に会った陽漣。
濡れ鼠になっていたのが気にかかる。
……何があったのだろう?
「あなた、出来たの?」
「まあ、こんなもんだろう」
「……これ、アルコール強くない?」
「そうかな? ……確かに。少し強い」
「珍しいわね、ホットパンチで失敗するなんて」
「面目ない」
「……そんなに陽漣ちゃんが心配?」
「……」
……見透かされている。そういう川乃も――。
風呂から上がり、リビングでホットパンチを飲む陽漣。
「暖かい……」
3年前、失恋した時にも飲ませてくれた、変わらぬ味。
……あの時は顔を真っ赤にしただけだったけど。
「……落着いた? 何があったか話してくれないか? 陽漣」
穏やかな口調で問う兄。その優しい口調に、
「……ごめんなさい」
答えられない自分。
……今はまだ辛すぎる。
「……分かった。言いたくないなら、これ以上は聞かない事にする」
ありがとう。心の中でそう呟く。
「ただ日向さん(陽炎が同居している元提督の叔父)の所には連絡しておかないといけないだろうな。心配しているだろうから」
「駄目! それはやめて! そんな事したらここも出て行くから!」
自分でも驚くような激しい口調。
胸を過ぎる、あの時の叔父様の笑顔。
もう、私たちの為に機会を逃して欲しくない。
「ひ、陽漣!?」
「陽漣ちゃん!?」
珍しいほど激しい感情を見せた陽漣に驚く2人。
「……ごめんなさい。でも……」
「……分かった。何処にも言わない」
(どうするの?)
(落着くまで待つしかないだろう? そのうち話してくれるさ。陽漣なら)
(そうね)
互いに目で言葉を交わし、その話を打ち切る。
「さて……。夕食にでもしようか。今日は俺の当番か……陽漣、何にする?」
「えっ?」
「せっかく陽漣が来たんだから、夕食、陽漣の好きなものでいいよ」
「えっ? ……でも……」
「いいのよ、まだ献立決まっていなかったんだから」
久しぶりの3人の食卓。
ジュッっと肉の焼ける音がする。
リビングにまで広がるいい匂い。
向こうで何か話している2人の女性。時々聞こえる笑い声。
「夕食、出来たぞ~」
兄の呼ぶ声に答える返事。リビングからダイニングキッチンへ歩いてくる足音。
兄が黙って料理を食卓へと並べる。
食卓の上に並んだ料理。
湯気を立てるパンプキンスープとライ麦パン。メインのおかずは、陽漣の好きなハンバーグ。デザートにも陽漣の好きなライチを添える。
「うわ~。兄さんのハンバーグだ。久しぶり~」
3人が揃った所で、いただきますの声。談笑を交えながらの夕飯が始まる。
陽漣と川乃に花開く料理談義。それを暖かい視線で見守る提督。
「ねえ、兄さん?」
「何?」
「後で作り方教えてね? 私じゃこんな風にハンバーグ、焼けなかったから」
「良いよ。でも、陽漣ともそんなに作り方は違わないと思うけどな」
「パンは……諦めるけど。体重が必要だから」
「そうよね。パン生地だけは提督が作っているもの。体重掛けた方が良いから」
「おいおい、体重差は15kg位だぞ」
『それだけあれば、充分よ』
2人の息がぴたりと合う。そして笑い声。
もう一度3人の生活が始まる、そんな予感を生むかつての日常によく似た光景――3年前とよく似た光景。
この家を飛び出した私を受け入れてくれる、家族以上の2人。
その夜。
「何があったのかな……しばらく前の手紙じゃ、恋人とも上手くいってるからそろそろ婚約するって言っていたのに」
「そうね……陽漣ちゃん、めったな事じゃ泣かない娘だから。よっぽどの事があったんでしょうね」
「しばらくは、様子を見るしかないか。下手に詮索してもいい結果は生まない」
「そうね。……でも、さすがに慣れているわね、こういう娘の扱い」
「君の時で経験済みだからね。君の妹さんにも身を持って教えてもらったし、それに……」
「それに?」
「陽漣は俺の妹だからね」
その夜、陽漣は、昔の部屋で声を立てずに泣いていた。
きちんと掃除されて、でも家具の配置や残していった品は少しも変わっていない部屋。
何かあって陽漣がいつ戻ってきてもいいように、ってね。
そういう2人に、ありがとうって言ったら当たり前だよ。家族なんだからって。
「……兄さん達、昔とちっとも変わっていない……。我が侭言って家を出た私なのに……こんな風に迎えてもらえるなんて思わなかった……。やっぱり、兄さんの所に来て良かった……。でも……もうこれ以上ここには居られない……2人の邪魔、したくない……。……どうしよう……」
微かに、だが確かに聞こえた泣き声。
……陽漣。
次第に感じた、あの時―― 当時はまだ艦娘の陽炎だった ――とよく似た精彩を欠いた陽漣の表情や声、仕草。
今回も恐らく ――。
ベットから降り、ガウンを羽織る。
眠っている川乃。
或いは眠ったふりで黙認してくれているのか。
廊下にわずかに開いた扉から漏れている光と影。
陽漣はまだ眠りの国へ出かけていない。
ノックの後、ドアを開く。
「こんばんは」
ナイトガウンを羽織った兄の姿。
――聞かれた。……兄さんには聞かれたくなかった。
「……兄さん。……ごめんなさい」
赤く腫らした目を擦る。
「いや。……それより、何かあったんじゃないのか? 中々泣かないお前がそんな風に目を腫らすなんて」
「……大丈夫だから。……本当に大丈夫だから心配しないで」
「俺じゃ頼りないかも知れないけど、これでも少しは力になれるつもりだ。話すだけでも楽になれる事だってある」
暫しの躊躇い ――。
「……あのね」
「うん?」
「……やっぱり、いい。大丈夫だから、心配しないで」
「……そうか。何か話す気になったら遠慮なく話してくれ」
「ごめん。……話す気になったら、聞いてもらうから。……今は放っておいて」
翌日、陽漣は落ち着きを取り戻し、家を出て行く前と同じ生活が始まった。
時折、陽漣は何か言いたそうだったが、2人が改めて聞く素振りはなかった
陽漣が戻って2日が過ぎた。
夕食とその後の団欒を経てシンデレラの魔法が解けた頃、3人は自分達の部屋に戻っていった。
深夜、2人の寝室の電話が鳴りひびく。
「……はい、一ノ瀬です」
男が枕元の電話を取る。目を覚まし、シーツをかい抱きながら起き上がろうとする川乃を制する。
「……日向さん? 陽漣の……」
その言葉に男だけでなく川乃の表情も変わる。
「陽漣、ですか?」
言葉を濁す男。
「陽漣がどうかしましたか? ……行方不明?」
言葉に詰まる。
「……え? 捜索願、ですか……!?」
捜索願、か。 ――仕方ないな。陽漣、ごめん。
受話器を持ち直す。
「………はい、ここにおります」
男が答える。隣の川乃の耳に微かに入る声は、以前聴いた陽漣の保護者の声。
「……事情ですか……いえ、特に聞いては……。陽漣がいつか話してくれると思いましたので。……ええ、……そんな事が……分かりました。ではしばらくここで……ええ、その件ですが、もしよろしければ……ええ、そうです。陽漣が望めば。ですが。ええ……はい。……よろしいのですか? ありがとうございます」
電話が切られると同時に尋ねる川乃。
「どうしたの?」
事情を話す男。
「……そう、そんな事が……でもよかったの? 陽漣ちゃんとの約束破って。何処にも言わないんじゃなかったの?」
「仕方がないさ。先方からここに掛けてきたんだ。日向さんも此処に居なかったら捜索願出すつもりだった様だから。そんな事になったら陽漣には。ね」
「後のほうで何話してたの?」
「ああ、陽漣の今後について、すこしね」
「それで、ここで暮らすの? 陽漣ちゃんは?」
「川乃に隠し事はできないな。ああ、陽漣が望めばね」
陽漣が戻ってから1週間が経った夜の事だった。
外は強い嵐になっていた。
「やれやれ。先週台風が来たと思ったら、もう次の台風か。今年は台風の当たり年だな」
男が呟く。
「兄さん、お姉さん、ちょっといいかな……」
遅めの夕食を終えた直後、思いつめた陽漣の声がダイニングキッチンに響いた。
「何?」
「あのね……ここに来た理由なんだけど……」
「無理に話さなくてもいいよ、陽漣」
「……うん、でも2人には知っていて欲しくて……」
「……分かった」
「ここより、向こうで話そうか」
「……うん」
そう言うと3人はリビングへと向かった。陽漣が3年前、家を出る決意を話した場所でもあった。
ティーカップに紅茶が注がれた。飲むとはなしにそれを見つめる陽漣。決意を込めたその瞳。
「私に付き合っていた彼がいた事は知ってるわよね?」
「ああ、婚約寸前だったそうじゃないか」
「……うん」
陽漣の瞳に透き通った薄い膜が張り詰めてくる。
(馬鹿!)
陽漣に悟られない様、川乃が夫の足を蹴る。
「それで……その人、秀一さんって言うんだけど……秀一さんがおじいさんからお店を貰うから2人一緒に暮らそうって言ってくれたの。すごく嬉しかった。でも、その家の人が興信所を使って私の事色々と調べたらしいの。艦娘だった事とか、昔提督達と一緒に暮らしていた事とか。それで……秀一さんに、もっと身元がしっかりした人間の娘を選びなさいって……。艦娘と一緒になるならお店を譲らないって言ったらしいの」
「それで、その秀一さんはなんて言ったの?」
「私と一緒になれないのなら死のうって。だから……すべてをあげた事は悔やんではいないけど……」
「けど。……陽漣は、どうしたいの?」
「分からない……でも……」
「でも?」
「秀一さん、一人っ子だから……駆け落ちとかそういうの出来ないし……向こうの御両親の事もあるから……。彼の幸せの為なら、諦めようって……けど」
「諦めきれない?」
「うん……」
想い出が過ぎっていく。
初めて一緒に過ごした夜。翌朝目覚めて隣にあった彼の姿、彼の笑顔。
陽漣の中で、海竜が目覚めつつあった。
「……もし私が艦娘でなかったら、好きな人と……結婚……できた、の、かな? ……元艦娘だからって……何で……何で好きな人と結婚できないの!? 教えてよ! ねえ、教えてよ! 兄さん」
陽漣が兄の胸にしがみつき同じ言葉を繰り返しながら泣き出していた。
「兄さん、兄さん……」
2人には、掛ける言葉が無かった。どんな言葉でも空しいだけのような気がした。
(こういう時、一体どんな言葉をかければいいんだ……)
(こんな時どうすればいいのかしら……)
そして、同じ考えが浮かんだ……。
(あいつが生きていてくれたら……)
(あのひとが生きていてくれたら……)
無力感を感じながらもその手は陽漣の栗色の髪を撫でる――髪は家を出て行った時から大分伸び、時の移ろいを感じさせる。
時間が経過し、陽漣が顔を上げる。
「……取り乱しちゃってゴメンね。でも、こんな事話せるの、2人しかいないの。ゴメンね」
「……そうか……辛かったな……もう何も心配はないから。辛い事があったらいつでも話しなさい。どんな事があっても絶対に俺と川乃だけは味方だから」
そう語る兄の表情は、春の日差しを思わせる柔らかさであった。
「ありがとう、兄さん。……いいな、お姉さんは」
いぶかしむ川乃に、
「兄さんの腕の中って泣き易いから。素直になれるもん」
川乃が陽漣を抱き寄せ、その髪を撫でる。
陽漣の双眸から再び涙が零れ落ち ――。
「……ところで、陽漣」
「何、兄さん」
「 一つ聞きたいんだが? ……ここに来た日、日向さんの所に電話しようとした時に陽漣がそれを止めたのは何故?」
陽漣の肩が震えた。
「日向さんに何か言われていたのか?」
「叔父様、元々私が彼と付き合う事に反対してたんだ……。彼の家が旧家だから、こういう事になるんじゃないかって。だから……それに……」
「それに?」
「叔父様、もうすぐシアトルに行くの……」
「シアトル? また、なんで?」
「叔父様、N響のコンサートマスター候補だったのは知っているでしょ。亡くなった提督も血筋なのか那珂ちゃんたちとよくコンサート開いていたし、現役だったころ兄さんたちも見に来てたわよね。私が兄さんの鎮守府に移った後もあちこちの楽団で指揮を振るっていたんだ。それで、今度シアトル交響楽団のコンサートマスターに就任できたの……。叔父様、海外の名門楽団でコンサートマスターになることが長年の夢だったから。その長年の夢がかなったの。だから、こんな時に心配かけたくなくって……」
「じゃあ、これからどうするの? 陽漣ちゃん」
川乃が尋ねる。
「分からない……」
「それなら、一緒に暮らさないか。また昔みたいに?」
「……でも、雪陽の事もあるし……」
「雪陽ちゃん?」
「うん。……雪陽、車椅子だから私が面倒見ないと」
「そんなに具合悪いの?」
「……雪陽、もう、両足切断して義足にしないと駄目なの。最後の戦いで足を失ったでしょ。高速修復材で足は復活したけど、無理矢理復活させた所為で組織が壊死しかかっているんだって……。戦っていた時みたいに小まめに修復材を使っていればよかったんだけど、艦娘の時はよく分からなかったんだ。戦争が終わっって行き場を失っていた雪陽を、私達を探していた叔父様が引き取って暫くしてから症状が出始めたらしいんだけど、その頃には艦娘じゃなくなって修復材も使えなかったから。だから……私がついていないと……」
「……そうやって1人でなんでも抱え込むのね、陽漣ちゃんは。自分を鎧って辛くない?」
「……陽漣。陽漣はもう少し、人に甘える事を覚えた方が良い。陽漣は何かと人から頼られる事が多かったな。多少の無理を頼んでも断らないし、一度頼まれた事は責任を持って果たす。頼みごとをするのにこんな理想的な相手はそうはいないからな」
いったんティーカップを口につけ、陽漣の眼を覗き込む。
「もちろんそれも陽漣の良い所だし、そこは俺も気に入っている。でもな、陽漣自身はどうなんだ? 一度過労で倒れた時甘えたのが、最初だって言っていたな。あれから一度も他人を頼った事がないんじゃないのか?」
「……」
「……図星、か」
応えはない。
「そんな風に肩肘を張らないで、陽漣が抱えているものを少しでも俺達に預けてみないか?」
「でも……迷惑でしょ? 妹2人じゃ」
「そんな事ないさ。雪陽、人間化してから通信制の高校に通っているって言っていたな」
「……うん」
「これでも元は師範学校出身の変わり種提督だ。元雪風位の年齢の娘の勉強程度は見てやれるさ」
「ねえ、陽漣ちゃん。……もし、雪陽ちゃんと2人だけで生活していて、陽漣ちゃんがまた過労で倒れたりしたらどうするの? 雪陽ちゃん、私の所為でって、傷つくんじゃないかしら?」
「……」
「ここは雪陽ちゃんの面倒を見るには適当だと思うけどな? 此処と同じくらいの大きさでバリアフリーがしっかりしている戸建の家は日本にはそうはないと自負している。ここで、3人で雪陽ちゃんの面倒見ないか? 陽漣。……1人で雪陽ちゃんの面倒見るのは無理だよ」
「……」
「……ねぇ、陽漣ちゃん。提督はこんな雨の時は、あなたの事ばかり気にしていたの。あの時俺がもっとしっかりしていればって。雪陽ちゃんも引き取っていられたらって。あの時、陽漣ちゃん、雪陽ちゃんと再会してから、ものすごく悩んでいたでしょ? あの時は私達、雪陽ちゃんを引き取れなかった。陽漣ちゃんも車椅子の雪陽ちゃん放っておけずに日向さんの家にお世話になることに決めたのよね。でも、それまで悩んでいたのは知っているから、その負担を少なく出来たのに。って」
「……兄さん」
顔を上げる。そこには陽漣を見つめる2人の瞳。
「私からも、お願い。陽漣ちゃん、ここでまた一緒に暮らそう?」
「……お姉さん。……少し考えさせて」
そう呟くと、陽漣は自分の部屋へ消えた。
「兄さんの気持ち、気づかなかった。……もしあの時、ここに残っていたら……」
そんな気持ちが浮かぶも、
「……ううん。そうしたら、兄さん達にも迷惑だったわよね、きっと」
そう納得させる。
「でも……」
陽漣の心の彷徨は続く。
「……陽漣ちゃん、どうするのかしら?」
「あの時と同じだよ。最後は陽漣が決める事だから。ここに残るのも出て行くのも」
「……寂しくないの? 陽漣ちゃんが出ていったら」
「…………それも……仕方ない…さ。……全ては、陽漣が決める事だ」
深夜、電話をかける声。
「――事情は全て陽漣に話して貰いました。ええ、どうするかは、陽漣の判断に委ねるつもりです。……ええ。その事でお願いがあるのですが……ええ、そうです。雪陽ちゃんのことです。もし宜しければ雪陽ちゃんも一緒に引き取らせて頂きたいのですが……はい、姉妹一緒の方が…………よろしいのですか? 申し訳ありません、こちらの都合の良い事ばかり。…………いえ、こちらこそ今後ともよろしくお願い致します。……それでは失礼致します」
受話器を置く。
不安な表情を隠せない川乃。
「雪陽ちゃんの件は日向さんの許可を頂いたよ。後は陽漣の気持ち次第だ」
「そう」
川乃の安堵した表情。
翌朝――。
「おはよう、提督、お姉さん」
「おはよう、陽漣ちゃん」
電話に応対している提督も、眼で応えを返す。
「……昨日の話なんだけど……」
「どうするの? 陽漣ちゃん」
「うん……」
足下を見ながら続ける。
「本当に迷惑じゃなかったら、……また一緒に……」
「よかった。じゃ、雪陽ちゃんの部屋とか色々と準備しないとね」
「……でも叔父様になんて言ったらいいのかな、色々お世話になったのに突然飛び出しちゃって。心配しているだろうな……」
電話を掛け終えた提督が来る。
「まぁ、何とかなるだろう。正直に言ったら?」
「……うん。そうするしかないのかな」
ポツリと答える陽漣。
「……私、片づけしたら部屋にいるね」
陽漣が自室に戻ったのを見計らい――。
「――はい。そういう事になりましたので。……ええ、ではこちらから雪陽ちゃんを……えっ? ……はい、分かりました。よろしくお願いします」
「どうだった? 日向さん」
「昼過ぎには雪陽ちゃんを連れてくるらしい」
「じゃあ、それまでに準備しておかないとね。……陽漣ちゃんに内緒で」
その昼――。
玄関でベルが鳴った。
「は~い」
陽漣が応対に出る。
扉が開かれる。
目に飛び込んだのは――車椅子の少女と、その背後にいる長身の壮年男性。
「お姉ちゃん!」
「雪陽!」
暫し呆然となる陽漣。
「陽漣、元気だったか? ……お邪魔しても良いかな」
豊かなバスが玄関に響く。
「叔父様! ……どうして此処が?」
川乃と男が階段を降りてくる。
「遠いところ、わざわざお越し頂き申し訳ありません。日向さん」
「……兄さん?」
不審気な陽漣。その直後、気付く。
「!! 話したのね、私が此処に居る事! 2人の事信じてたのに!」
「……」
2人の返事は、ない。
「違うよ、陽漣。私が聞いたんだ。3日間連絡がなかったから心当たりを全部。一ノ瀬さん達からは一度も連絡はなかった」
「……えっ?」
「……秀一さんとの事は、全て聞いた」
「……ごめんなさい、叔父様。心配かけて」
「いや、別に構わんよ。それより一ノ瀬さん達には話したのか?」
「……うん」
「そうか。……陽漣、人生にも色々な出会いがある。愛縁奇縁、互いに愛し合う様になるのも時の巡り合わせによる縁だ。別れるのもまた同じさ。冬の寒さもいつまでも続く訳じゃない。冬の寒さが厳しいほど後に来る春は素晴らしいものになる。今、これだけ辛い思いをしていれば、陽漣、この後に来る幸せはより素晴らしいものになる。陽漣はまだ若い、これからも素敵な出会いはあるさ」
そう語る口調は、優しくそして絶対の真理を説くが如く揺らぎないものだった。その口調のまま――。
「……陽漣、一つ言わせてもらう。……秀一さんの事を思い出にするのは構わないが、その事だけに囚われるのはやめなさい。過去に囚われ続けると現在と未来を共に喪う事になる。わかるね?」
「……」
「……これが強者の論理、部外者の勝手な言い分という事は百も承知だ。だが、年長者として敢えて言わせてもらった」
そう語り終えた表情は、暖かく、すべてを包み込むが如き慈愛に満ちていた。
「……ありがとう」
「それじゃ私はこのまま成田に向かうから」
「え? お義父さん。……もう行っちゃうの?」
不安そうな雪陽。
「ああ、引き継ぎやメンバーの打合わせがあるから、赴任する前に1度向こうに行かないとな」
「でも、今日1日いてくれても……」
「後の事は一ノ瀬さんとよく相談してあるから心配要らないよ、雪陽。それじゃ2人とも元気でな」
海外生活で身に纏った、普通の人には出せない余裕――或は、物言わぬ迫力――ある仕草と足取りで、玄関を後にする。
「……我が侭な事ばかり言ってごめんなさい。……今まで長い間雪陽共々お世話になりました。本当にありがとうございました」
「日向さん」
男が声を掛ける。
「何か?」
その歩みが止まる。
「もしよろしければ、陽漣の演奏を聞いて行かれては如何ですか? ……陽漣、どうかな?」
「叔父様さえよかったら」
暫しの思案の後――。
玄関へ踵が返された。
ショパンの『別れの曲』――陽漣が特別な時にしか弾かない曲。
――建造された鎮守府にいた熊野から指導を受け、熊野が轟沈した後は陽炎が一人の後輩に指導した曲。
終戦後、鎮守府が解散する時に弾かれーーその後弾かれたのは、3年前の別れの日。
「お粗末様でした」
「……陽漣、これからもピアノの勉強は続けなさい。やはり陽漣には素質がある。一ノ瀬さん、陽漣と雪陽をお願いします」
「はい。承知しております」
「それじゃ、今度こそお別れだ。2人とも元気でな」
「……本当に……本当にお世話になりました、叔父……お父さん」
男の顔が一瞬変化する。しかし次の瞬間にはいつも見慣れた余裕ある表情に戻った。
「viel Glück! 我が愛しき娘達よ」
そう言い残し、車へと戻る。
門柱の側から車が走り出した。
「……行っちゃった、お義父さん」
ポツリと雪陽が呟く。
不安げな視線を姉とその背後にいるはずの2人に向ける。
2人と談笑している姉。その笑顔は、雪陽にとって初めて見る顔。
姉さんのあんな笑顔、初めて。艦娘の時も見たことなかった。2人に会うのは久しぶりだけど、信頼できる人達なのは知っているから、大丈夫!
「今日からお世話になります。元陽炎型駆逐艦8番艦『雪風』。今は雪陽です! どうぞ、宜しくお願い致しますっ!」
雪陽が挨拶する。
「よろしく、雪陽ちゃん」
「よろしくね、雪陽ちゃん」
手を差し伸べ、握手をする3人。
そんな3人を見つめ――。
「今日から雪陽と一緒にお世話になります。改めて、今後ともよろしくお願いします。兄さん、お姉さん」
戦争の影響で、携帯電話なんて民間には普及していません。
外で連絡するときはダイヤル式の公衆電話が主流です。
文明の利器はぶっちゃけると1985年から1990年代前半のレベル。
……今の若者は教科書でしか知らない世界でしょう。
川乃=元艦娘川内の川
陽漣=陽炎+漣
雪陽=雪風+丹陽
陽炎の役は阿賀野⇒榛名⇒陽炎
川乃の役は榛名⇒飛龍⇒神通⇒川内
雪陽の役は酒匂⇒長波⇒時津風⇒雪風
と迷走していました。たいしたことないのにね。
元作投稿したのは1998年か……。