室内にはバニラエッセンスの香りが広がる。正直この香りは嫌いではない。
視界にはシンクでボールの中身を一生懸命かき混ぜている一色と由比ヶ浜とそれを見守る雪ノ下先輩の姿が目に映り、ボールの中身をかき混ぜる粘り気のある音と不定期にヘラがボールに当たる音が室内に響く。
嗅覚と視覚と聴覚を刺激されできあがるクッキーには少し期待感が出てくる。
家庭科室の使用許可はすぐに取れた。
さすがは成績優秀者の雪ノ下先輩。しかも材料まで好きに使って良いと来た。
どんだけ教師の信用獲得してんの? もしかして校長先生の娘って設定じゃないよね?
そんな事を妄想していると声をかけられた。
「せんぱーい、砂糖とってもらっていいですか?」
そしてなぜ一色がここに居るのか。
家庭科室へ移動中に葉山先輩を呼びに来たジャージ姿の一色と遭遇し、何しているかを聞かれたわけだ。
俺は濁したが由比ヶ浜がペラペラとしゃべり、私もと言う流れでこういう状況になってしまった訳だが。
まぁ一色も葉山先輩に料理できるアピールしたいのだろう。
最初は雪ノ下先輩が手本を見せた、雪ノ下先輩の説明は丁寧親切だったのだが、それでも理解出来なかったのが由比ヶ浜結衣という人間だった。
そしてこの世に存在たらしめてしまった由比ヶ浜製の黒焦げクッキー。
君は発がん物質を作り出すのが得意なフレンズなんだね。捨てるしかなくね?
えっ? これ食べるの? 体中の働く細胞が拒否反応起こしてんだけど? 拒否権はない? あっ……さいですか……がんばれ俺の中にいる細胞たち。
斯くして悲劇は起こってしまった。俺と葉山先輩の犠牲をともなって。
冗談はさておき、起こった悲劇を繰り返さぬ為、反省するというのが人間という生き物である。
ということで、今度はお菓子作りが得意と自負する一色がお手本役として抜擢された。
雪ノ下先輩が一度手順を一通り見せてやらせたのと違い、一色は一緒に作っていき、ひとつの工程ごとに確認を入れていくスタイルだ。
「せんぱい、クッキーは何味が好きですか?」
「あー、味はマッ缶味がいいな。少し固ければなおよし」
「へぇ〜そうなんですね。……葉山せんぱ〜い!! 葉山先輩はどういったクッキーが好みですかぁ〜!!」
俺に聞いたときと葉山先輩に聞いたときとで声色と言葉の躍動感が違うんですけれど……何この差。
「ははっ、いろはが作った物ならなんでもいいよ」
すでに下の名前呼びかよ。イケメンは流石だわ。
「分かりました〜、頑張って作っちゃいますね〜」
「一色さん? 趣旨をはき違えてないかしら?」
「そんな事はないですよ〜。しっかり由比ヶ浜先輩にお手本みせるんですからね」
一色の隣には由比ヶ浜その隣に雪ノ下先輩がいる。
1つの行程を行いながら一色が説明をしていき、雪ノ下先輩が補足とストッパーを担っている構成だ。
由比ヶ浜は説明を聞きながらふむふむとメモを取っていく。
メモを取るのは一色からの提案だった。
絶対忘れるとお菓子作りの経験者が語るのだから説得力がある。
「由比ヶ浜先輩、絶対にアレンジしようとは考えないで下さいね! アレンジするのは目を閉じてクッキーが作れるようになってからですよ! それまではレシピ通り作りましょうっ!」
「う、うん。桃缶は〜……?」
「ダメよ」
雪ノ下先輩が桃缶を手に取る由比ヶ浜を即座に止めた。
「ですよね〜……」
目を閉じてってなに? 心眼でクッキー作るの? そこまでクッキー作りに青春費やしたくねぇよ。ってか桃缶どっから出てきた。
大体材料を出し終わり俺は口直しに雪ノ下先輩が作ったクッキーを頬張る。
「うめぇ」
味も、食感も完璧すぎてぐぅの音すら出ない。究極のクッキーなんじゃねぇかこれ? 海原先生も唸るぞ。
「流石雪ノ下さんだな」
いつの間にか近くにいた葉山先輩に目を向ける。
「ほんとに完璧超人過ぎて引きますよ」
「そうだな、彼女はひとりで何でも出来てしまう」
そう呟く葉山先輩の表情はどこか遠くを見ているようだった。
ふと葉山先輩の依頼内容を思い出し俺はその疑問を口にする。
「そういえば、葉山先輩の依頼ってあのメールを止めて欲しいって事ですか? 犯人を見つけることですか?」
「そうだな。その選択肢だと前者だな」
まぁ、後者を言われると流石に無理だって回答しかいえねぇしな。
LHCをハッキングできるほどのハッカーがいれば話は別だが。
「なるほど。なんか流れるきっかけとかあったんですか?」
「いや、そんなきっかけみたいな事はなにもなかったな」
そうなるとさすがに打ち止めだな。
物事には何かしらきっかけがあるんだがどうも今の情報だけでは何も想像がつかない。
これは雪ノ下先輩と相談する必要がありそうだ。
***
一色と雪ノ下先輩のダブルチーム戦法の甲斐もあり、由比ヶ浜はそこそこな仕上がりのクッキーを焼くことが出来た。問題はそれを家でも再現できるかどうかだ。
まぁ、メモ通りやればできると一色は言っていたから多分大丈夫だろう。
あとは作ったクッキーの処理を俺と葉山先輩が担っている訳だが、なにぶん量が多い。女子三人が作った分のクッキー処理って結構キツい。
少し女子にも手伝って貰って雑談を交えながらクッキーを処理していたが一向に減る気配がない。
さすがにクッキーに飽きてきて少し休憩をしていた所、一色と葉山先輩が話している声が聞こえた。
「葉山先輩、そういえばそろそろ職場体験ですよね。戸部先輩から聞きましたよ〜」
「あぁ、そうだな。班人数が合わなくて漏れる奴らがいたのが惜しまれるが……」
何気に耳に入ってきたその内容に疑問が湧き、なにお前話聞いてたの?気持ちワルとか思われないよな……と思いつつ一色と葉山先輩の会話に割って入ることにした。
「すいません葉山先輩、班決めってなんの話ですかね?」
「あぁ、2年生はそろそろ職場体験があるんだ。そこで班決めがあったんだが、ひとつの班に人数制限があってな」
なるほどな、職場体験の班決めであぶれる事を避けたい奴があのメールを送ったのだったら合点がいく。
「さっきの話、もしかしたらその職場体験の班決めが関わってるかも知れないですね。葉山先輩と一緒の班になれるようにわざとメールを流したとか」
「なんだって!? そんな小さな事であんな酷いメールを送る奴がいるのか!?」
葉山先輩は若干声を荒げた声を俺に向ける。
多分それは仲間を疑いたくなかった葉山先輩にとってはとても耳の痛い事なのだろう。
「そんな小さな事でもその人にとっては大きい事なのかも知れないです。小さい事というのは結局俺たちの私感でしかないんですよ」
「せんぱ〜い、一体何の話をしてるんですか?」
「あぁ、気にすんな。ちとくら依頼の解決に向けて動いてるだけだ」
「まだ奉仕部のお手伝いなんてやってるんですかぁ〜? もうグループチャットも落ち着いた事ですし……そろそろいいんじゃないですかね?」
あっ、そうだった。
一色にはまだ俺が奉仕部に入った事を伝えてなかった。
「俺、奉仕部に入部したから」
「……っは?」
すっとんきょんな声を上げて一色が呆ける。
「ちょちょちょちょっとまってくださいーっ! せんぱいっ!! そんな話聞いてないんですけれど!!」
一気に焦った表情でまくし立てる一色
そりゃ言ってなかったしな。
ってかどこの漫才だよ何秒バズーカかよ。
「そりゃ言ってなかったしな、まぁその話は後でやるわ」
「ほんとほんとですよ! せんぱいっ!! ちゃんとしっかりきっちり隅から隅まで聞かせて貰いますからね!!!!」
あーうっせぇなー。小町かよ。
「はははっ、仲が良いな、お前ら」
「まぁ、同級生なもんで」
「そうか。それよりも、比企谷の話を信じるならばどうすればいい? すでに班決めは決まってしまってる」
そう、……班決めの段階であればまだどうにか動けたがそうでないとなると……
ふと由比ヶ浜と雪ノ下先輩の会話が聞こえてきた。
「雪ノ下さんのクッキー本当に美味しいね! プロが作ったみたい」
「あなたも努力すればこれくらい作れるようになるわ。努力あるのみよ」
「うんっ! がんばる」
幸せそうにクッキーを頬張る由比ヶ浜の姿を見て思いつく。
そうだ決まってしまったことで不利益が被る人間にする事は決まっている。
「そうか、菓子折だ」
「どういうことだ比企谷?」
「葉山先輩、班決めであぶれた奴らはきっとこう考えるはずです『葉山隼人と自分の関係は、自分がいついなくなってもどうでもいいと思われている軽薄な関係なんだ』っていう風に。そういう奴らの対処は基本相手にしてあげれば良いと思うんですよ。お菓子の差し入れなんて渡せば自分に気をかけてくれているって事で治まってくれると思いますよ」
よくあるイージーモードってやつだ。構ってあげれば解決だ。
「なるほど。一理あるな」
「些細な事には些細な事で返してしまいましょうって事で、ここにあるクッキーをそいつらにあげることにしましょう。俺しばらくクッキーは良いんで……」
「はははっ、本音はそれか」
「そうっすよ。これ以上は食えそうにないんで」
「そうだな、それじゃこれはそいつらにあげることにするか」
そして俺たちは、雪ノ下と由比ヶ浜、ついでに一色にも依頼の内容と解決方法を共有した。
「比企谷君、いつの間にか勝手に依頼を終わらせるのはちょっと勝手が過ぎるんじゃないかしら?」
あれ? せっかく雪ノ下先輩に楽させようとしたのになぜに怒られるの?
解せぬ……
「……でも助かったわ。ありがとう」
デレただけだった。ちょっと嬉しい。
「むっ……せんぱい、鼻の下伸びてますよ」
半目で俺を覗く一色に気づき、俺は表情筋に力を入れる。
「んなことはねぇよ」
「そんな事よりも今日は帰りサイゼ行きますからね。ちゃんと聞かせて貰いますからね〜」
ニッコリと笑っている表情に温もりが感じられなかった。早くも雪ノ下先輩の技を盗むとはさすがだな。
「えっこれからサイゼ行くの? もうクッキーでお腹いっぱいなんですけれど……」
一同の笑い声が家庭科室内に響いた。
その後、本当にサイゼに行く羽目になり、根掘り葉掘り聞かされると思いきや途中から全く目的のない会話を延々と繰り広げて満足したら帰るというよくわからない結末だった。一色は何がしたかったのだろうか。
***
それからしばらくして葉山先輩からメールで事態は収まったとの連絡が入った。
推測が当たっていたことに安堵の息を漏らし携帯をしまう。
ちょうど部室前に差し掛かったところで由比ヶ浜と遭遇する。
「あっ、ヒッキーちょうどよかった」
俺の前へ小走りで駆け寄ってくる由比ヶ浜。
小走りで走っても揺れるその胸部にドギマギを隠せない。
「ヒッキー、これ」
奉仕部の部室前で由比ヶ浜が俺に手紙と手作りと思わしきクッキーの包みを出す。
一瞬俺に?っと考えたがそうでないことを思いだし少し絶望した。
「おっ、作ってきたのか」
「うん、会心の出来だとおもうっ!多分……」
流石に食えるよな? いや渡す前に一度確認するか、小町の命がかかってるのだ。
「わかった、ちゃんと届ける」
俺は鞄の中にその包みを入れた。
「ありがとう、ヒッキー」
タイミングを見計らったかのように部室から声が聞こえる。
「あなたたち、こそこそと何をしているの?」
「いや、なんでも……」
えっ?なんでいるの分かったの?雪ノ下先輩もしかして能力者ですかな?
若干気まずさを感じつつも俺たちは部室へと入った。
「由比ヶ浜さん、紅茶入れるけれど、いかがかしら?」
「うん。いるー! ゆきのん!」
「ゆ、ゆきのん??」
あー俺のヒッキーの時と同じ流れだ。
さすがの雪ノ下先輩も頭追いついてないな。めったに見れる物でもないし少し観察しおくか。
「由比ヶ浜さん、私の名前をちゃんと呼んで貰っても良いかしら?」
「ゆきのんはゆきのんだよ」
「だから……」
「ダメ?」
あー、なんかどっかの金貸し企業のつぶらな瞳チワワなCMを思い出すくらいの潤んだ瞳をして雪ノ下先輩を見つめる由比ヶ浜。
「もう好きにして……」
おぉ……雪ノ下先輩が折れた。由比ヶ浜強い。
そしてこの日を境に由比ヶ浜が部室に入り浸る様になった。とても百合百合しいことだ。