ラブライブ!~合同企画短編集~【完結】   作:薮椿

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《薮椿より》
 本日は、原作『ラブライブ!サンシャイン!!』にて『ぶきような水瓶座』を投稿している、ジマリスさんの企画小説です!


待ってる。

 もう冬になろうかという時期なのに日中の外はそれほどの寒さは感じられない。

 家の近くには海岸がある。受験時期はこんがらがった頭を整理するためによく訪れたものだ。

 釣りをする人、遊ぶ子どもを見る親、あるいは僕のようにただ遠くを眺める人。海水浴シーズンはとっくに過ぎているのに、思ったよりも人がいる。

 風に吹かれながら、思ったよりも足を深く沈ませる砂の上を、ゆっくり、ゆっくりと歩く。

 はっきりとつけられた足の形は、波にさらわれて消えていく。

 

 松浦果南(まつうらかなん)という女性に告白してから、もう半年が経とうとしていた。

 

 

 目が覚めて最初に見えたのは、白い天井と揺れるカーテンだった。

 あれ、と思いながら起き上がると、ずきりと頭が痛んだ。

 意識がぼうっとして、ふらふらする。放っておけば落ちてしまいそうな頭を手で支える。

 そこで、ようやく私はどこかの病室のベッドの上に寝かされているのだと気づいた。

 どこだろうか、なぜここにいるのかという不安は、シャーっと開けられたカーテンの向こうにいる人物によって消された。

 

「果南……」

 

 すらっとした長い黒髪、キリっとした目つき。親友の黒澤(くろさわ)ダイヤが立っていた。

 

「私……」

「練習中にこけて、頭から倒れたんですわ」

 

 もやもやとした意識がだんだんとはっきりしてきて、思い出していく。曲の通し練習で足を踏み外して、勢いよく頭を打ってしまったのだ。

 何か大事なものが零れ落ちたような気がする。

 

「なかなか珍しい光景だったんじゃない?」

 

 ダイヤは盛大に息を吐きだした。

 

「最初に言う言葉がそれですか? こっちはさんざん心配したのに」

 

 呆れた顔の中に、安堵がにじみ出ている。

 必要もないのに、ダイヤが不自然なほど冷静を取り繕って髪を撫でながらいくつか言葉を交わしたあと、ダイヤがみんなを呼び戻すと、すぐにやってきた。

 私を見ると泣き出す子もいて、歓喜の声も響いて、看護師から怒られてしまった。

 ゆっくり休養することを告げられ、名残惜しそうな表情を見せながらも、みんなが追い払われる。

 そうなると当然のことながら、騒々しさはなくなり、少し寂しくなる。

 ここにいてはやることもない。早く治そう。そう思って、また寝る体勢に戻る。そのとき、こんこんと扉がノックされた。

 

「果南さん、入るよ」

 

 扉が静かに開いた。

 そろりと入ってきた男の人は、ゆっくりと音を立てないように近づいてくる。

 落ち着いたような足取りではあるが、見た目は逆に汗だくで、浅い呼吸を繰り返している。寝たまま、目だけ開けている私を認めて、彼は安堵のため息を漏らした。

 

「ごめん、起こしたかな」

「来てくれたんだ」 

 

 寂しかった気持ちが吹き飛ぶ。

 不謹慎だけれども、私のためにすぐにすっとんできてくれたのは嬉しい。

 

「来てくれたんだ、じゃないよ。頭を打ったって聞いたけど大丈夫?」

「うん。一応何日か入院して、問題ないか診てもらうけど」

 

 元気なところを見せようと、起き上がろうとしたけれど、彼は抑えてきた。そのときの慌てた顔といったら、普段の落ち着いた雰囲気からは想像ができないほどだ。

 彼は、私が働いてるダイビングショップの常連。優しく穏やかな性格の大学生。

 そして、私に告白してきた男性でもある。

 緊張で身体を固めて、まっすぐに、シンプルに『好きだ』と言われたのを鮮明に覚えている。

 かくいう私も、頬が赤くなって、身体が火照るのを感じて、その場では何も言えなかった。

 それから何度もデートのようなことをしてきたけれど、私はまだ答えを出せていない。

 早く返事をしなければ、とは思うが、どうにも心に決着がつけられない。

 関係か、立場か、心地よい今から何かが崩れてしまいそうで、一歩が踏み出せない。

 

『僕のために早く答えを出さなきゃ、なんて考えなくていいよ。果南さんがどう思うか、どうしたいか、はっきり決められたときでいい。僕はずっと待ってるから』

 

 彼は嘘をつかない。告白からかなり経った今でも、返事が彼の望むとおりにいかないかもしれないのに、待っててくれている。

 私はそれに甘えて、ぬるま湯から抜け出せない。

 残酷だとは思う。それでも、彼は表情も態度も変えずに、友達としての距離を保ったまま私と接してくれている。

 生殺しだよなぁ、なんて罪悪感が出てきたりして。

 

「やっぱり痛む?」

 

 ちょっと落ち込んだ私の表情に反応して、言葉をかけてくれた。

 少しだけ頭がずきずきするけど、それよりも別のところが痛い。

 これ以上心配をかけたくなくて、平気だと返す。

 嘘を言わない彼に、嘘で返してしまったことにまた胸が締めつけられる。

 できるだけ彼を見ないように、ふいと顔を逸らす。

 体調が悪いと判断したのか、彼は一言二言残してすぐに去っていった。

 

 

 数日に渡る検査の結果、果南さんの身体に異常はないと判断された。

 むしろ同年代の女の子と比べても健康すぎるということで、派手な運動を控えることを条件に退院の許可をもらえた。

 その話が出たのが月曜日のこと。ご家族は都合のつく次の休日まで、果南さんを病院にいさせるつもりだったが、早く外に出たいという彼女の駄々に負けたようだ。

 しかし他の人も空いてはおらず、そのことを果南さんから聞いた僕が、付き添いに立候補した。ちょうど授業があるのが昼からだったし、果南さんを一人にしておけないのは僕も同じだ。

 そうすると、彼女はやはり休日まで待つと引いたが、僕は半ば強引的に、むしろ喜んで役目を引き受けた。

 病室に着くと、彼女はすでに着替えを済ませていた。

 

「待たせた?」

「起きてからずっとね。こんなところにずっといたら、気が滅入っちゃう」

「言っとくけど、まだしばらくは安静だからね。朝のランニングも練習もなし。もちろんダイビングもだ」

「え~」

 

 可愛らしく頬を膨らませる彼女を置いて、僕は受付で手続きを済ませる。といっても、ほとんどのことはすでに果南さんのおじいさんがやってくれていたみたいで、僕は担当の看護師さんに、『果南さんにさせてはいけないこと』の説明を受けるくらいしかしていない。

 振り向くと、いつの間にか荷物まとめを終わらせて近くのソファに座っていた果南さんが手を振っていた。

 

「もう、子どもじゃないんだから」

「みんな、果南さんのことが心配なんだよ。ほら貸して」

 

 長ったらしい話を本人ではなく、僕だけが聞いていたことに不満があるのだろう。床に置かれていた鞄を拾い上げる。

 

「大丈夫だよ」

「いやいや、みなさんに任されたんだから、最大限に務めないとね」

 

 車で迎えに来られればよかったんだけど、家のは親が通勤に使っている。

 病院を出て、なにやら不満げな果南さんを連れて、駅前のバス停に向かう。

 ベンチに腰掛けて待っている間、果南さんはそわそわしだした。

 

「あのさ、ちょっとだけ駅の周り歩いてみない?」

「だめだよ。安静にって言われたし、バスだってもうちょっとで来るから」

 

 ふくれっ面になる。あざといと思えないのは、普段のさばさばした性格のおかげだろうか。

 

「バスは何回でも来るじゃん。それに、じーっとしてるだけじゃ、余計に身体に悪いよ。ね、だめ?」

 

 上目遣い攻撃である。

 それでくらっとくるあたり、僕もまだまだ甘い。惚れた弱みというやつか。お爺さんに心の中で謝罪。

 

「一時間だけだよ」

「うんっ」

 

 とたんにぱあっと明るい笑顔。

 ……うん、彼女の言う通り、じっとしているほうが彼女にとっては悪いのかも。

 自分を納得させて、僕は立ち上がった。

 

 果南さん曰く、病院食はまずくはないみたいだが、量が少ないらしい。

 よく体力を使う彼女にとっては地獄だろう。

 ツナサラダの、いわゆるおかずクレープをほおばりながら、不満を垂らす。

 もしかして、食べながら鬱憤を晴らしたかったのか。

 まあ、バスの中で大声を出すわけにもいかないし、こうやって発散しながらのほうが精神衛生上いいのかも。

 

「兄弟はいるんだっけ?」

「いないよ。ダイヤさんや高海(たかみ)さんみたいに姉妹がいるのが羨ましいって話したじゃないか」

「あー、そうだったっけ。たしか……」

「この間の、新曲PV撮影のときだよ」

 

 それまで額に指を当てていた果南さんが、ぱんと手を叩いた。

 

「撮影の段取り確認してるときだ!」

「僕たちが喋ってると高海さんが入ってきて……」

「みんなでダイヤに怒られたんだっけ」

「結局、ダイヤさんも会話に乗っかってきたんだけどね」

 

 ルビィは~ルビィは~って妹自慢を延々と聞かされて、最終的に国木田(くにきだ)さんが話を収めたんだ。

 ついこの前のことだから、記憶に新しい。

 あのときのダイヤさんの顔といったら、興奮で若干赤くなっていたのが普段とギャップがあって面白かった。

 

「あれから兄弟の話が一時期ブームになってさ、あなたがお兄さんだったらいいのに~って話題に上がってたよ」

「僕が?」

「特に千歌が、甘やかしてくれそうだって」

「いやいや、僕は厳しくいくよ」

「いーや、絶対に甘やかすよ。千歌に泣きつかれて勉強を教えたのは誰だったかな~」

 

 人差し指を向けて、果南さんはにやにやと笑う。

 

「あれは、ほら、良い点数を取らないと練習に参加できないって言ってたから」

「わざわざ家に行って教えることもないのに」

「高海さんのお母さんにも言われたよ」

梨子(りこ)ちゃんに作詞アドバイスをしたのは?」

「あれはたんに感想を言っただけ。男性から見てこの歌詞はどう思うか聞かれたから」

花丸(はなまる)ちゃんに本を貸したのは?」

「本の趣味が合うから、好きな小説を紹介しあっただけ。どれも大したことじゃないだろ」

 

 振り返ってみると、ずいぶんなところまで関わってきたものである。

 有名になってきた彼女たち『Aqours(アクア)』のファンに向けて、改めて自己紹介をするという企画で、どうしても人手が足りないということで、果南さんに頼まれてカメラマンをしたのが最初だ。

 それからは、彼女たちは僕を頭数に入れてくるようになった。

 しかしまったく迷惑ではない。彼女たちの歌や踊りを見られるのは贅沢だし、何より感動する。

 心の底から楽しんでいるAqoursのライブは、万人を惹きつける魅力がある。

 僕も少しは関わっていると感じられるのは、代えがたい満足感と達成感があった。

 だから、これは僕の自己満足でもある。

 

「それに、こうやって私のわがままに付き合ってくれるし」

「それは……」

 

 僕は一瞬言葉に詰まった。

 

「それは甘やかしてるかも。失敗だったかな」

「そうかも。私は嬉しいけど」

「そういうこと言うから、何かしたくなるんだよ」

 

 君が嬉しいと思って、笑ってくれるから言うとおりにしてしまう。

 僕がやりたいことだけど、それを甘やかしていると言われればそうなのかもしれない。

 

 一時間はすぐだった。

 後ろ髪を引かれる思いを懸命に追いやって、果南さんの『もうちょっと』という誘惑もギリギリのところで振り切って、なんとか帰路につかせることに成功した。

 果南さんの家は、駿河湾に浮かぶ淡島(あわしま)にあるため、船を乗っていかないと辿りつけない。

 最寄りの停留所までのバスでもそうだったけど、多少の揺れでも果南さんの身体を気にしてしまう。

 過保護だ。彼女は、本人の言う通り子どもじゃないし、しっかりしてる。

 風がすーっと全身を撫でる。その涼しさのおかげで、身体が火照っていたの自覚する。

 浮かれている。けどそれの何が悪い? 松浦果南という素敵な女性と二人きりでいれて、舞い上がらないほうがおかしい。

 船の揺れと風が、果南さんの髪をなびかせる。

 きれいな人だ、といつも思う。

 澄んだ海の中でもひときわ美しくて、泳ぐ魚より華麗で、力強くもある。

 

「今日は迎えに来てくれてありがと」

「いいんだよ。やりたくてやってることだから。下心もちょっとはある。半分はないかな。四割、いや三割」

 

 照れくさそうにする果南さんに、僕の頬も緩んだ。

 

 

 私たちの関係は、なんと言えるだろう。

 恋人未満ではあるが、何以上なのかは言いようがない。

 もちろん、そういうふうにしてしまっているのは私だ。

 彼からの告白への返しを保留にしているせいで、複雑な関係にしているのは否定できない。

 けど、まだどうするべきかは決めかねている。

 もし、その、彼とそういう関係になってしまったら、スクールアイドルと店と彼とを天秤にかける場面が必ず出てくる。

 すべてをうまく回せるほど器用じゃないのは自覚していた。

 船から降りて、家兼ショップに入ると、帰ってきたという感覚に刺激される。

 お客さんから、心配だったという声を聞いて、すぐに働けるように戻らないといけない気持ちが高まる。

 けど、問題がないことをちゃんと示してからじゃないと、彼にもおじいにも心配をかけちゃうし……

 

「ああ、いや、僕はここで。これから授業もありますし」

 

 この店の常連でもある彼は、おじいともすっかり仲良しになっていた。

 荷物を渡しながら、何か言われている彼に近づく。

 

「どうしたの?」

「ちょっと寄ってけって。お誘いはありがたいけど、もう大学に行かないといけないから」

「ほんのちょっとくらいならいいんじゃない?」

 

 彼は首を横に振った。

 

「誰かさんが駅回りを歩きたいとか言わなければ寄ってたかも」

「誰かさんが受け入れてくれたから時間がないってこと?」

 

 いじわるなことを言って、いじわるな笑みを浮かべると、彼は「そうだね」と苦笑した。

 

 

 暑かったり寒かったり、安定しないな。この上着だって、秋用に買ったものなのに、汗が出てきそうだ。

 しかし脱いでしまってシャツ一枚になれば寒くなるという絶妙な嫌がらせみたいな気温の中、僕はじっと座って待っていた。

 駅前にある、『幸せの木』を取り囲むような円形のベンチが、いつもの待ち合わせ場所だ。

 果南さんが退院してから、初めてのデート。

 何度も繰り返してきたのに、毎回緊張してしまうのはいかがなものか。

 

「ごめん、遅れちゃった」

 

 いつの間にか、手を合わせてぺこりと頭を下げる果南さんがいた。

 あまりにも時間を気にしすぎてて、目の前のことに気づかなかったようだ。

 そんなに待ってないよ、と定番のセリフを吐いて、彼女の服装に少し驚く。

 

「半袖……」

「ん?」

「寒くない?」

「全然。今日はあったかいし」

 

 果南さんのさわやかな笑顔に、僕は安心した。

 もうすっかり元通りだ。というか、入院していたときから彼女は変わらず元気だったけど。

 

 十回以上は駅前散策をしているのに、飽きがこない。

 商店街の興味ある店を回るだけでも相当なのに、Aqoursの他のメンバーのことを知るために、一人では入らないであろう店にも足を運ぶとなれば、とても回り切れない。

 

「あそこのクレープ美味しいんだ。ダイヤと鞠莉(まり)と来た時もお互いのやつを……」

「聞いたよそれ」

「あれ、そうだった?」

「ダイヤさんが抹茶クレープのやつで、鞠莉さんがバナナだろ? ついこの間じゃないか。忘れるには早すぎるよ」

 

 果南さんの退院日に連れまわされたときに、楽し気に言っていたのを覚えている。

 あのときの果南さんはいつも以上に饒舌で、いろいろなことを言っていたから、何を喋ったか忘れてたのか。

 初めて会った日から、僕が告白してから、いつ何を話したかこんがらがるほどに、僕たちの一緒にいる時間はどんどん長くなっている。

 僕にとっては、すべてが昨日のことのように思い出せるけど。

 

「こうやって出かけるのは、けっこう久しぶりだね」

 

 前に行ったのは、確か一か月ほど前だ。

 普段は二週間に一度くらいだから、一、二回ぶんぶり。

 僕としてはことあるごとに顔を見せていたから久しぶりという感覚がないが、まあそこは個人の感じ方それぞれだろう。

 

「前は一時間だけだったからね」

「一時間?」

 

 果南さんは首を傾げた。

 

「君がわがままを言って、この駅の周りを一時間だけ回ったじゃないか」

「あー……っと、えっと……」

「ほら、兄弟の話もした」

「ルビィとダイヤが羨ましいってやつ?」

「じゃなくて、僕が兄だったらってやつ」

 

 あー、と納得して手を叩く果南さんだったが、またすぐに首をひねった。

 

「そもそも、その話したっけ?」

 

 僕は眉をひそめる。 

 ついこの間交わした会話を覚えていないのか。

 僕の様子に、彼女も奇妙な感覚に囚われたのか、目が泳ぐ。

 

「あ……れ……?」

 

 果南さんの顔が青ざめていく。

 

「した? した……よね。そうだよね。千歌が、甘やかしてくれそうだって言ってたって、私言ったよね……」

 

 自分の言ったことが信じられないというように、彼女はしきりに首を触り、頬を撫で、頭を掻いた。

 荒い呼吸を繰り返す果南さんのことを、僕はただ見ることしかできない。 

 

「なんで? なんで忘れてたんだろう……」

 

 正体のわからない嫌な予感が背中を走る。

 異変が起きてる。それも良くない類の異常だ。

 ここで、僕まで慌てふためくと歯止めがきかなくなる。できるだけ落ち着いて、パニックに陥っている彼女を刺激しないように、優しく声をかける。

 

「まだ本調子じゃない?」

「う、ううん、大丈夫大丈夫。ほら行こ」

 

 無理に笑顔を作って、手を引く果南さん。僕はその手を逆に留めた。

 

「果南さん」 

「大丈夫。大丈夫だから……っ」

 

 何かがおかしいことは、果南さんが一番わかってる。

 笑顔は崩れ、歯を食いしばって、それでも僕を連れて行こうとする。

 だめだ。平気だと楽観的になって、何も見ていないふりをするわけにはいかない。僕は力を込めて意地でも動かない。

 僕を心配させないように、いつもと同じ日を過ごそうとしているのだろうけど、どうしても心配してしまうよ、果南さん。

 

「……ごめん」

 

 謝る彼女の顔は、僕がいままでに見たことのない悲愴に塗れていた。

 

 結局その日は、混乱したままの果南さんを送って終わった。

 次の日には、すぐに病院に向かわせたけど、結果は前と変わらず、まったく問題のない超健康体だと言われた。

 でも違和感は拭い去れず、むしろ日に日に増していった。

 まず、待ち合わせの時間に遅刻することが多くなってきた。いや、それだけならそう大してわめくようなことじゃない。家のことで忙しい日はあるし、遅れるならちゃんと連絡もしてくる。

 だがその連絡がどんどん遅れていっている。定刻を過ぎてからメールが飛んでくることもしばしばあった。

 それだけじゃない。何度か行った店でも、何度か食べたものでも、まるで初めてかのような反応を示すようになった。前に聞いた同じ話をすることも少なくない。

 僕と果南さんの間にあるズレはどんどん大きくなっていく。

 思い過ごしならいいけど……僕はスマホを取り出した。ある人物の電話番号を呼び出して、通話ボタンを押す。

 

「ダイヤさん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 

 

 ふう、と一息ついて汗をぬぐう。

 練習はハードになっていくけれど、それもみんなが成長していっているからこそできることだ。

 私はもともと体力には自信があったから、身体を動かすのには慣れていた。みんなが倒れこむほどのメニューでも、まだ一通りこなせるくらいには。

 

「果南さん、お身体は大丈夫ですか?」

 

 身体が冷える前にストレッチをしたあと、ダイヤが話しかけてきた。

 

「ああ、頭のこと? すっかり平気だよ。頑丈なのが取り柄だからね」

「あの人がしっかり送り迎えしてくれたおかげですわね」

「あの人? あの人ってだれ?」

 

 私がそう言うと、ダイヤが固まった。

 

「あの……例の彼です。一緒に帰ったんでしょう?」

「いや、あの日は一人で帰ったよ」

 

 ダイヤは目を見開いた。ごくりと唾をのんで、そわそわしだした。

 

「いえ、あの……本当に覚えていませんか?」

 

 一語一語区切るように言う。

 本当に、というのが気になった。平日で誰も都合がつかなかったけど、じっとしているのが退屈だったから、一人で退院したはずだ。

 

「すぐには帰らずに、駅の周りを歩いたりしたんでしたよね?」

「うん、ちょっとだけね。一人だったけど、まあ楽しかったよ」

 

 そう言っても、ダイヤはむしろ表情をこわばらせた。

 それからいくつかの質問をしてきた。いつどこで誰と何をしたか、というような世間話……というより探りを入れてくるような質問。

 妙だと思いながら答えていくと、ますますダイヤの顔が険しくなる。

 少しの間何かを考えて、たった一言。

 

「帰ったら、よく思い出してください」

 

 それだけ言って、ダイヤは背中を向けた。

 

 

 夕方、授業の途中で、ダイヤさんからメールがあった。

 急だが、果南さんのことで、どうしてもいま話がしたいとのことだ。

 時間はある。それにダイヤさんがすぐにというからには、よほどのことなのだろう。

 了承して、二人とも知っているカフェで待ち合わせることにした。

 授業を終えて急いで向かうと、 ガラス張りの窓の向こうにその姿が見えた。

 手を振る彼女に僕も応えて店に入り、まっすぐ彼女の座るテーブルへ駆け寄る。

 

「急に呼び出して、申し訳ありません」

「それで、果南さんは?」

 

 僕は息を整えて、椅子に腰かけながら口を開く。

 

「まずは……」

「単刀直入に」

 

 挨拶も世間話もなしなのは礼儀知らずだが、今の僕には余裕がなかった。

 わざわざ電話ではなく直接。しかも日を考えるでなく、すぐに会いたいと。嫌なフラグが立てられまくってる。

 悪いことは早めに聞き、対処をするに限る……と言い聞かせているが、実際には焦っているだけだ。

 

「取り乱さずに聞いてください」

 

 僕は頷いて、先を促す。

 

「果南さんは、確かに記憶があいまいになっています」

 

 ごくり、と喉が鳴った。

 疑っていたとおり、単なるど忘れなどではなく、果南さんの記憶が消えていっているのだ。

 ただし。僕は次の言葉を予測して緊張した。

 

「ただし、忘れているのは……」

 

 ダイヤさんはゆっくりと息をのんだ。

 

「あなたのことだけでした」

 

 僕は静かにこめかみを抑えて、うずくまらないように肘をつく。血管がどくどく脈打つ。

 そこでようやく呼吸をしていないことに気付き、大きく息を吐いた。足元が崩れたかのように、奇妙な浮遊感が襲ってくる。

 突きつけられた事実に、心と頭が追いついていない。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫に……っ」

 

 一瞬で怒りと苦悩が噴き出してくる。大丈夫に見えるか、と叫びたい衝動に襲われ、ダイヤさんを睨んでしまった。

 彼女が怯えた表情をして、びくりと身体を震わせる。とたんに罪悪感が湧き上がり、僕を冷静にさせた。

 

「大丈夫じゃない」

 

 浮きかけた腰を落ち着けて、深呼吸。沈黙が二人の間を支配する。

 ダイヤさんの持ってきた情報は、希望的観測を含めたいくつかの予想の中で、一番最悪な答えだ。

 

「果南さんは……」

「新しいことから忘れていってる」

 

 ダイヤさんの言葉を継いだ僕に、彼女は目を大きくした。

 

「そこまで知っていたんですか」

「知ってたというより、推測してた。それしかないことはすでに気づいてた」

 

 何度も果南さんに探りを入れたなかで、もっとも辻褄があうのがそれだ。

 

「けど認めたくなかった」

 

 僕はまた頭を抱えて肘をつく。

 動けずにいる僕に、ダイヤさんからの言葉はなかった。

 

 

 退院の日をよく思い出して、なんておかしいことを訊いてきたもんだと思ったが、ダイヤの驚き訝しんでいる顔は、冗談ではなく真剣そのものだった。

 

「変なの」

 

 そう呟いて、使っていないノートを出してペンを握る。

 覚えていることを思いつくまま書いて、空白の部分を埋めようとする。

 一番古い記憶から掘り起こして、すらすらと書いてみせる。ほら、一ページ、二ページ、三ページも埋まってきた。

 頭を打って退院した日だって、あのときは一人で帰って……

 そこで、ふと手が止まってしまった。

 頭を打って何日か入院したあと、問題ないって言われて退院して……それから彼に会ったんだっけ?

 あれ?

 退院した日は誰にも会わなかったんだっけ?

 ううん、まっすぐに家には向かわなかった。病院食は少なかったから、そこらへんでなにか食べようと……

 安静にしていなきゃいけないのに、誰かにおねだりして、帰るのを少し遅らせてもらったんじゃ……

 

『一時間だけだよ』

 

 声が反響して、はっと思い出す。そうだ、あの日は彼が私と一緒にいてくれたんだ。

 そんな大事なことが、今の今まですっかり抜け落ちていた。

 

『よく思い出してください』

 

 ダイヤに言われたことの意味がわかって、悪寒が走る。

 私、彼のことを忘れていっている。

 とたんに冷や汗がふきだして、呼吸が浅くなる。

 そんな馬鹿なことあるわけない……今だって単純にど忘れしていただけ。

 必死に頭を回転させる。

 あの日、私は彼と一緒に食べ歩いて、他愛もない冗談の言い合いもした。

 けど、何を食べて、何を言われた?

 彼の顔を思い浮かべる。彼の言ったことを思い浮かべる。けれど表情にも声にもノイズがかかって、振り払えない。

 

「いやだ……」

 

 彼のしてくれたことも言ってくれたことも、感触も顔も消えていく。そんなことを想像して、焦燥が押し寄せてくる。

 不安がこみ上げて、涙が流れる。一粒、ぽたりとノートに落ちて、文字を滲ませていく。

 ぎゅうっとスマホに着けたストラップを握る。尖った部分が手に食い込んで痛い。

 忘れたくない。忘れたくなんてないのに、埋まらない溝が記憶の中にある。

 

「やだよ……やだよ……」

 

 それ以上、ペンは動かなかった。

 

 

 僕という存在が自分の中から消えていっていることを、果南さん自身も知ることとなった。

 もともと隠せるつもりもなかったが、ダイヤさんからした話が決定的だったようだ。 

 忘れていることすら、結局は忘却の対象となっているのだが。

 何度も重ねたデートの記憶が消えていた。

 行った場所や交わした言葉も、僕と一緒にいた時間がほとんどなくなったものになってしまっている。

 たちが悪いのは、頭を打ってからの記憶もなくなっていることだ。

 これでは新しく思い出を作ることもできない。

 会うたびにだんだんと遠慮がちになっていき、ついには敬語で話すまでに戻ってしまったときには、すでに二人での外出はデートという体裁を失っていた。

 記憶を復活させるためのお出かけは、皮肉にも彼女の後退を僕に示すだけとなっている。 

 前回覚えていたことでも、今回は忘れていると知るたびに焦りを感じる。

 かろうじて、僕が誰かはわかるようだけれど、それもいつまで保っていられるかわからない。

 

「毎日、覚えてることをノートに書いてるんです」

 

 申し訳なさそうに目を伏せながら、果南さんは言った。

 

「あなたとどんなことをしたか。思い出せるかぎりを。けどやっぱり、あなたのことだけどんどん思い出せなくなってる。もう、何行かしか書けなくなってるんです」

 

 そのノートを、彼女は見せてくれた。

 一ページ目からめくると、文字でびっしりと埋められていた。

 一番上に書いてある日付からみて、最初に書いたときは三ページと少しにわたって書かれている。

 それはしだいに、日が進むにつれて短くなっていく。忘れないようにと、文字が濃くなっていく。

 どれだけ苦しんだか。ぐちゃぐちゃになっていく文字と、しわがついたページを見ればわかる。

 

「学校にいるときとか、働いてるときとか、完全にあなたを忘れるときもあるんです。メール見ても思い出せないときがあって……顔を見てようやく思い出せる」

 

 果南さんは僕の腕を掴む。

 

「ごめん……っ、ごめんなさいっ」

 

 ぼろぼろと流れる涙は、僕の袖をわずかに濡らす。

 辛いのは、果南さんだ。

 一生懸命に繋ぎとめようとした記憶の糸が、次の瞬間には無情にも途切れている。

 だから、僕は言えなかった。

 そのノートのこと、だんだんと思い出せなくなっていること。

 それは昨日も聞いたことだと、どうしても言えなかった。

 

 

 記憶がなくなっていると気づくたびに、果南さんは取り乱したり、ぼうっとすることがあった。

 そのせいで、こけたり、事故に巻き込まれたりするかもしれないと考えると、気が気じゃない。

 ならば迎えに行こうと提案したものの、却下された。

 

『絶対に行きますから。だから待っててください』

 

 意地だ。忘れてたまるものかという意地。

 果南さんは、僕のことを覚えててくれると約束した。だから、僕も代わりに約束した。

 

『待つよ。ずっと待ってる』

 

 どんどん忘れていっているなら、どんどんと思い出す可能性だってある。

 折れて崩れそうな心を、なんとか希望で繋ぐ毎日。

 日に日に他人になっていく様を見て、擦り切れていっているのは自覚していた。

 今日がだめなら明日はなんとかなる。それが、今日がだめなら明日もだめだろうに変わっていく。

 もう何十度目になるか、腕時計とスマホを見る。メールや電話は来ていないが、まだ待ち合わせの時間までかなりある。

 今日は大丈夫かと訊くのが怖い。もしも、 僕のことを忘れ去って、お前は誰だと返されたら、僕には縋るものがなくなってしまう。

 か細い希望の糸が切れたら、あとは落ちていくだけだ。

 今だって、いつ来るかより、来るかどうかを心配している。

 バスが到着した。

 ぞろぞろと降りてくる人たちの顔を、一人ひとり凝視する。

 いた。果南さんが飛び降りるような勢いでバスから飛び出し、こちらに向かってくる。

 僕の顔を見ると、そのままの勢いで笑顔と謝罪の混じった顔を見せてくる。

 よかった、来てくれた。

 僕はほっと胸をなでおろし、彼女に近づいていく。

 

「果南さん、早いね。僕も待ち合わせ時間より早く来たから、人のこと言えないけど」

 

 嬉しさのあまり、こみ上げる感情を抑えきれずに早口になる。

 しかし、それ以上彼女は近づいてこない。

 小首をかしげて、眉をひそめたままの表情で固まっていた。

 

「えっと、あの、ごめんなさい。誰でしたっけ?」

 

 ぷつん、と何かが切れたような気がした。

 

△ 

 

 時計のアラームが鳴る。

 スマホと、ベッドの傍らに置いていた小さな置時計の二つが、私を起こした。

 今日は、いつもと変わらない休日だったはず。それなのに、絶対に起きるように設置された二つのアラームがやけに気になった。

 腕に何か抱えている。ノートだ。力が入れられたせいで少し曲がったノートを抱いたまま、私は眠っていたらしい。

 それの表紙に書かれている『絶対に忘れない!』という文字を見て、はっと気づく。

 そうだ。今日はあの人に会う約束をしていたんだ!

 よかった。忘れてない。まだ彼の存在が、私の中に残っている。

 壁一面には、今日やるべきこと、思い出すべきことを書いた紙を貼っていた。

 それを見ながら、必死に、彼の名前と姿、言葉を心に留めて、いったんノートを机に置いてから服を着替える。

 今まで気になっていなかったことが、当たり前にあるものがすべて私を止めようとしているみたいで、焦りと怒りが心を支配した。

 服がハンガーにかかっているのにいらいらした。

 家の出入り口に扉があるのにいらいらした。 

 家から対岸まで船を使わないといけないことにいらいらした。

 バス停まで少し距離があるのにいらいらした。

 バスが来るのも、出発するのも、走っている速度も、すべてが遅いのにいらいらした。

 駅に着き、扉が開いた瞬間、急いで降りて駆ける。

 髪が乱れるのも構わずに走る。それよりも大事なことが待っているから。

 焦がれていた姿がそこにいた。

 まだ時間には十五分ほどあるのに、そわそわと、腕時計と辺りを交互に見ている。

 安心させなきゃ。覚えてる。あなたに会いたくてここに来た。忘れないようにいろいろ手段を講じたんだ。

 あなたは何て言うかな。困ったような顔をするかな。嬉しそうにはにかむかな。

 駆け寄りながら、声をかけようと口を開いた。

 開いたけれど、声が出なかった。

 いや、正確には、何を話すつもりだったのか、わからなくなったのだ。

 あれ? 私は、なんのためにここにいるんだっけ。息せき切って、髪も振り乱してまで、なんでここにいるんだろう。

 向こうから、男の人が近づいてきて、軽く手を振った。

 

「果南さん、早いね。僕も待ち合わせ時間より早く来たから、人のこと言えないけど」

「えっと、あの、ごめんなさい。誰でしたっけ?」

 

 どこかで会っただろうか。

 記憶をたどっても、彼はいない。親戚でもいないし、友達でもないはずだ。ショップのお客さん……かな?

 だけど、私の言葉に明らかなショックを受けたようで、男の人ははっと息をのんで、何かを言おうと口を震わせる。

 数秒、話そうとして、手を伸ばそうとして、結局彼は光を失った目を伏せた。

 

「いえ……ごめんなさい。知り合いに似ていたものですから」

 

 今にも泣きそうな顔をして、がっくりと肩を落とした男の人は、引きずるような足取りで去っていった。

 

 

 悪い意味で、不安と緊張が消し飛んでしまった。

 そうなれば、身体も心も温度を意識し始め、冷たくなる。

 風は頬に突き刺さるほど寒いし、ため息は白く染まって空へ消えていく。

 果南さんに言われた言葉が、頭の中でリフレインしていた。

 

『えっと、あの、ごめんなさい。誰でしたっけ?』

 

 ついにここまできてしまったかと、沈んだ気持ちであてもなく歩く。

 彼女は勉学やお店のことなどのライフワークに関しては覚えている。

 何より同じ学校の友達やスクールアイドル仲間のことも忘れていないのは喜ばしいことじゃないか。

 忘れてるのは僕のことだけだ。

 他のことを忘れる代わりに、僕に関する記憶が身代わりになったのかも。なんて、納得できるほど僕の心は強くなくて、歯を食いしばると目から涙が零れ落ちた。

 ショックがでかすぎる。

 覚悟はしていたはずなのに、いざ初対面のような顔をされるとくるものがある。

 あまりに落胆しすぎて、それ以上松浦さんの顔も見れなくて、声も聞けないほどだった。

 積み重ねてきた時間も会話も、松浦さんと過ごした何もかもがなくなったと認めたくなくて、意味を探す。

 どこへ向かうでもなく歩く。止まっていると、先ほどの果南さんの顔が脳の底から追いかけてくる。

 駅の南口を出て、別のことを考えようと何かを探す。けれど、浮かんでくるのは果南さんのことだけだった。

 あのファミレスも雑貨店も喫茶店もボウリング場も、目に入ってくる建物だけでなく、道路でさえも、彼女と一緒にいた場所だ。

 振り払おうとするたびに、思い出が溢れてくる。

 僕も同じく忘れられたら幸せだろうか。

 君といたことを、なかったことにできれば、全部元通りになるだろうか。

 果南さんを頭から追い出そうとしても、知らなかったころに戻れるわけがない。

 ましてや、僕は果南さんのことが好きなのだ。 

 学校でのことや、スクールアイドルのこと、家族やダイビングショップの話をするときの楽しそうな表情が好きだった。

 一緒にいるときに見せる、柔らかい表情が好きだった。

 透明な海のような綺麗な心が、今を謳歌している幸せな顔が、僕を見てくれる目が、僕の心を掴んで離さない。

 苦しい。苦しい。苦しい。

 果南さんを想えば想うほど、胸は張り裂けそうで、全身が切り刻まれるようで、頭は破裂しそうになる。

 だけど、どうしても忘れられないんだ。忘れたくないんだ。

 

「果南さん」

 

 口から彼女の名前が漏れた。それは白い息とともに暗い空へと消えていく。

 いつの間にか、満点の星空が瞬くほどに時間が経っていた。身体は冷え切って、動かすのが辛かった。

 帰ろう。

 ここには何もない。

 

 

 自室に戻ると、奇妙な光景が広がっていた。

 壁のいたるところに、紙が貼られていたのだ。

 何日の何時にどこへ行けだとか、誰かの名前だとかが書いてある。

 私の字だ。

 寝ぼけてやってしまったのだろうか。気味悪く感じて、紙をはがして、ごみ箱に突っ込む。

 ふと机の上を見やると、確かにこれみよがしにノートが置かれてあった。

 表紙には、私の字で『絶対に忘れない!』と濃く書かれている。けど、こんなものを用意した覚えはない。

 どうやら最近は寝ぼけているか、変な行動を起こすことが多くなっているらしい。

 頭を打った影響だろうか。もう一度病院で診てもらったほうがいいかもしれないかも。

 ノートもごみ箱に捨て……ようとしたところで手が止まった。

 捨ててしまえば、取り返しがつかなくなる。そんな気がして、仕方なく机の引き出しにそれをしまった。

 

 

「で、そこでばばーんって!」

「ばばーん……ね」

「そう、ばばーん!」

 

 カメラを持つ僕に、高海さんはそう指示する。

 彼女の感覚的な説明は僕のセンスと合わないみたいで、結局最後はダイヤさん筆頭に他のメンバーにアドバイスをもらって修正するのがいつものことだ。

 今日は、新曲撮影のお手伝いにお呼ばれした。

 普段、練習風景などのみんなの様子を撮る際には三脚で十分なのだが、今回は躍動感が必要だそうで、二年生に頼み込まれた。

 このときには既に僕に対する果南さんの態度がおかしいことは、みんなが承知の上だったが、デリケートなことだと察して聞いてこないのが幸いだった。果南さんにも聞いていないみたいで、記憶が消えていることを知っているのは、相談に乗ってもらったダイヤさんと鞠莉さんだけ。

 

「果南、あなたのことを忘れてしまったのね」

 

 撮影前のストレッチを終えた鞠莉さんが話しかけてくる。

 僕はカメラが正常に作動するか確認するふりをして、試撮影をしながら答えた。

 

「追い打ちをかけたいのか?」

「そんなつもりは……」

「冗談冗談」

 

 軽く笑い飛ばそうとしたけど、ぎこちなかったのは自分でもわかる。

 鞠莉さんは笑いもせず、安心もせず、眉をひそめたままだ。

 

「そうだよ。全部忘れてる。全部ね」

 

 果南さんは身体が固いメンバーの手助けをしている。

 彼女は僕のことを、なにかと手伝ってくれる地元民にしか認識していないだろう。

 『僕』が映らなくなってから、まだそんなに経っていないはずなのに、長らく話していない気がする。

 

「今日はごめんなさい。しばらくは遠慮するように言っておくべきだったわ」

「いいや、黙っておくようにって言ったのは僕だし」

「もし訊かれたら、みんなにはなんて答えるつもり?」

「喧嘩した」

「……いつかはばれるわ」

「だろうね」

「喧嘩したくらいであなたのことを知らないなんていうほど、果南は薄情じゃないもの」

「知ってる」

 

 Aqoursの誰に言っても嘘だとわかるだろう。 

 だけどこれはもう、どうしようもないことで、すでに手遅れになった問題だ。

 ならわざわざ本当のことを言って、みんなを悩ませる必要もない。

 ダイヤさんと鞠莉さんを巻き込んだことさえ、後悔しているのだ。

 

「一番大事な人にばれてもすぐ忘れられるのが幸いかな」

「幸い? 最悪の間違いじゃなくて?」

「どっちも同じようなもんだよ」

「そんな目をしながらだと、説得力がないわよ」

 

 どんな目だ。と問うように鞠莉さんを見る。

 

「捨てられた子犬の目」

「見たことあるの」

「ノン。けどよく使われる表現でしょ?」

 

 確かによく聞くけど、結局どういう意味なのか。 

 人間の勝手を呪う目か、あるいはこの世の不条理を憎む目だろうか。

 それとも、なるべくしてなった現状を痛感して、諦めた目だろうか。

 

「鞠莉さーん! 撮影始めますよー!」

 

 僕の言葉は、高海さんの号令で遮られた。

 

 撮影は滞りなく終わった。必要な分は撮り終え、あとは他に撮ったものと合わせて編集するだけである。

 時間は、ようやく午前が終わろうというころで、太陽も空高くで照っている。

 休日ということもあって、撮影終了後はAqoursメンバーでご飯を食べようと盛り上がった。

 僕も誘われたけど、片づけしたあと用事があるからと言って拒否する。軽いブーイングを受けたけど、手伝いを頼んだ手前か強く言ってこなかった。

 ならせめて片づけを手伝うと言ってきたみんなを、せっかくの休日なんだから楽しんでおいでと制する。

 用事なんて嘘だ。本来あるはずのそれは、なくなってしまった。ここに来ておきながら一人になりたいだけだ。

 片づけだって、カメラと、念のためと出して使わなかった三脚やらマイクを鞄にしまうだけ。

 それを担いで、とぼとぼと帰路につく。

 

 

 撮影後で昼食を食べて店を出るころ、まだ陽は照っていた。

 まだクリスマスには早いのに、駅前の木に飾り付けられたオーナメントが目につく。

 少しだけ話があると鞠莉に言われた私は残って、あとのみんなはバスに乗って帰っていった。

 

「それで、話って?」

 

 円形のベンチに腰かけて、隣を叩く。私は察して座った。

 

「こうやって一緒にスクールアイドルの活動をして、談笑して、なんて去年の私が聞いたら驚くでしょうね」

 

 いつもの飄々とした中に、真剣な声色が混じっている。

 鞠莉が言っているのは、今の三年生三人でスクールアイドルをしていたころのことだろう。

 解散してからは、その誰もが、主に私が二人を避けていた。そのときに比べると、真逆の世界になったものだ。

 

「あれで一度は分かれてしまったけど、あの経験があったからこそ、今の私たちがあるって思ってるわ」

「うん、私も同じ」

 

 みんなが悩んで、怒って、何かしらの答えを見つける。それを言葉にして伝えるということの大切さを学ぶには遠回りしすぎたかもしれないけど、必要な遠回りだったと思う。

 

「引きずるのはよくないけど、前に進むためには、ときに過去に戻る必要もあるのよ」

 

 それを知ってるわよね?

 そんな目を向けて、鞠莉はしばらく黙った。

 知ってる。知ってるよ。

 けれど、鞠莉の口ぶりは、それをもう一度思い出してほしいという言葉が含められているような気がした。

 大事な大事な感情を忘れてる。そういう言い方だった。

 何かが頭の中ではまった。めちゃめちゃに崩されたパズルのピースが直っていく錯覚が、一瞬頭に閃く。まだ穴があって、だけど周りにピースは散らばっていない。

 

「忘れないで。果南のことをずっと待ってる人がいるってこと」

「鞠莉……?」

「私から言えるのはそれだけ。じゃ、いい報告を待ってるわ」

 

 ウインクをして、鞠莉は歩き去っていった。

 いつの間にか私の全身に力が入っていて、拳が握られていた。

 

 

 いったん帰宅したけれど、もやもやが晴れない。

 いてもたってもいられなくなって家を出て、少し歩く。

 もう冬になろうかという時期なのに日中の外はそれほどの寒さは感じられない。

 家の近くには、海岸がある。受験時期は、こんがらがった頭を整理するためによく訪れたものだ。

 釣りをする人、遊ぶ子どもを見る親、あるいは僕のようにただ遠くを眺める人。海水浴シーズンはとっくに過ぎているのに、思ったよりも人がいる。

 風に吹かれながら、思ったよりも足を深く沈ませる砂の上を、ゆっくり、ゆっくりと歩く。

 ふと足が止まった。

 積まれた石がある。拳くらいの大きさのが四つ。

 賽の河原というものを思い出した。

 子どもが親より先に死んだ場合、三途の川で石を積み上げなければならないというものだ。十個積み上げないといけないが、完成間近で鬼が石を崩してしまう。

 築き上げた希望が目の前で永遠に潰されていく救いのない話。

 それを見て、もう歩く気が完全に失せて砂利の上に腰かけた。足を立てると、ジャラジャラと音を立てて砂利が崩れる。

 駿河湾の向こうで、太陽が輝いていた。それがあまりにも眩しくて、視線をずらす。

 聞こえるのは波が奏でる音だけ。

 追って波立つ音と、引いた時に聞こえる、炭酸が抜けるような石を撫でる音。それは砂浜や海で何度も聞いた。

 五感は、ときとして不意に記憶の引き出しを開ける。僕は果南さんのことを思い出していた。

 最初はちょっとした興味だった。スキューバダイビングができると聞いて、単なる好奇心で体験をした。

 海の中は僕が思っていたよりも、いや、僕が見てきたものの中で一番輝いていて綺麗だった。

 ……正直に言うと、二番目だ。ダイビングをするたびに、果南さんに見惚れていたのだから。

 そのときの衝撃をまだ覚えている。海を駆ける彼女の姿は何よりも美しく、僕はあっさりと恋に落ちた。実はマーメイドなのだと言われても、信じたかもしれない。

 意を決して、僕から話せるようになるまでに長い時間を要したけれど、そのおかげで仲良くなれた。

 仲良くなれたと……思っていた。

 それは思い違いで迷惑だったのかも。

 何時間経っただろうか。陽は沈んで、さすがに冷え込んでくる。空を見上げると星が見えていた。

 

「ハァイ」

 

 星が遮られた。視界に入り込んできた金髪と整った顔で、すぐに鞠莉さんだとわかった。

 

「もう帰ったんじゃないのか」

「たまにはあなたと話をするのもいいな~って思って。果南抜きでね。ね、ダイヤ」

 

 彼女が後ろを振り返る。

 言った通り、もう一人の人物がそこに立っていた。

 

「ダイヤさん」

「こんばんは」

 

 首をすくめて、両手をこすらせている。

 白い息が出るまではまだ足りないけど、肌寒さを感じるには十分な気温だ。

 服を見るに、暑かった午前のものと同じだから、体感ではさらに刺さるだろう。

 

「家はこっちじゃなかったはずだけど」

「ここに来て、あなたの前に立って、あなた以外に用があるとお思いですか?」

 

 海が見たくなったのかも。という冗談を飲み込んで、僕は彼女の次の言葉を待った。

 暗いせいで顔に影が差しているが、申し訳なさそうに曲げた困り眉ははっきり見えた。

 

「ご家族に訊いたら、ここにいると」

 

 それだけ言って、二人とも黙った。

 わざわざここまで来て、僕に言いたいことがあるのではないかと思ったが、違う。

 僕が話すのを待っているんだ。

 僕は立ち上がって、ぽつりと、呟くように口を開く。

 

「僕が告白してから、果南さんはよく謝るようになった。先延ばしにしてごめんなさいってね」

 

 僕は待つと言って、実際に待ったけれど、それがむしろ果南さんに決断を迫らせた。いろんなものを天秤にかけさせて、彼女を苦しめたのかもしれない。

 

「もしかしたら僕は邪魔だったのかも。忘れたほうがよかったのかもしれないな」

 

 大きくため息をついて、鞠莉さんは僕の前に立った。

 

「先に謝っておくわね。ごめんなさい」

 

 言って、一度頭を下げてから、パシンと音が鳴った。

 頬が熱をもって、じんじんと痺れる。

 ビンタされたと気づいたのは、彼女の平手を見たのと、頬に走る痛みを自覚してからだった。

 

「なにを……」

「大事なことを忘れてたから、衝撃をあたえれば治るかなって」

「僕は忘れてないよ。全部、全部覚えてる!」

「だったら!」

 

 僕の叫びもかき消すほど声を荒げた鞠莉さんの目には涙が浮かんでいた。

 

「果南がどれだけあなたのことを想ってたかもわかるでしょ!? 忘れてたほうがいいなんて、冗談でも言わないで!」

「でも忘れられたんだ。僕は忘れ去られた! それが現実なんだ!」

 

 まだまばらにいる人たちが、こちらを見る。

 それでもかまわずに、僕は悲鳴をあげるように、感情のままに叫んだ。

 

「覚悟はしてたよ。忘れられても、記憶を取り戻してやるぞって。懸命に戦ったよ! だけど誰が誰をどれだけ想おうが、どれだけ頑張ろうが、これが現実だ」

 

 果南さんから、僕の存在が消えていくことに焦って、無力を感じて、結局は負けた。

 僕は負けたんだ。

 襲ってきたのが、不条理か運命か、神のいたずらか、なんにせよ僕は勝てなかった。

 尻すぼみになった僕の言葉に、鞠莉さんは返すことなく、場が静まる。 

 次に口を開いたのは、ダイヤさんだった。

 

「私は、あなたより果南さんのことを知っているという自信がありますわ。小さいころから苦楽を共にして、強いところも弱いところも、何が好きで何が嫌いか、お互いのあらゆることを知り尽くしています」

 

 それはそうだろう。むしろ、果南さんが関わる限りの人で、僕が一番付き合いが短い。

 彼女は僕に近づく。

 

「……そのつもりでした」

 

 ダイヤさんは笑った。

 

「でも、あなたに向けるような笑顔を、わたくしは見たことがありません。あなたのことを話すときの顔を、わたくしは知りませんでした。正直、嫉妬してしまいますわ。人生の半分以上も一緒にいた親友の新しい面を、出会ってから半年そこらのあなたが見つけてしまったことに」

 

 棘のあるような言葉とは裏腹に、言い方も表情も柔らかい。

 

「しかし、あなたのことを知るにつれて、納得させられました。お人よしで、自分のことを第一に思わなくて、頼られたら断らない、損でお節介な性格」

「褒めてる?」

「もちろんですわ。少なくとも、果南さんが特別な感情を抱くのは仕方ないと思えるほど、あなたのことを評価していますのよ」

 

 少し驚いた。

 僕のせいで、果南さんと彼女たちが過ごす時間は確実に減っている。憎まれこそすれ、良く思われるとは考えてなかったからだ。

 

「果南さんがあなたを大切に思っていることもまた、現実なのです。果南さんをそんなふうにしてしまったあなたに、残酷なことを言っても?」

 

 どうぞ、と手を向ける。

 

「諦めないでください。あなたを信じている果南さんを、どうか……」

 

 そこで、ダイヤさんは口をつぐんだ。

 その言葉の先は、彼女自身にもわからないのだろう。

 言いたいこと、言うべきことがありすぎて、頭と心がぐちゃぐちゃになる。

 そんなことは前にもあった。

 

『聞いてほしいことがあるんだ』

 

 とある日、果南さんは言った。

 

『たぶん、えっと……』

 

 おろおろと手を動かしながら、顔を赤く染めて、目も泳いでいる。

 深呼吸して、ようやく落ち着いたと思ったら、こんどは胸の前で指をもじもじさせる。

 

『すき……なんだけど。たぶんね? だけど、私にはまだ今ある何かを崩す覚悟がないんだ。だから、お断りというかそんなんじゃなくてね、むしろ離れたくないっていうか……そう、あなたとは離れたくない。嫌いじゃないってことだけ、知っていてほしいんだ』

 

 手をぶんぶんと振る。首をさする。頭を掻く。

 切羽詰まって動揺していることを全身で表しながら、えーっとえーっと、と言葉を紡ごうとしている。

 

『えっと、何が言いたかったんだろうね?』

 

 しどろもどろになる彼女を可愛いと思いながら……

 

『僕は……』

 

 普通の人生を歩んでいく中で告白ほど勇気を振り絞るべきものはない。

 拒否や嫌悪される可能性も考えながら、それを恐いと思いながら、それでも告白した。

 学生、ショップの店員、スクールアイドル。みっちり満たされている彼女の人生の中に、僕が入る隙間があって、僕が入ることが許されることを願った。

 少しでも果南さんが僕のことを考えてくれるなら、これ以上はないと思った。

 

「僕は……」

 

 悩んでくれるということは、少なくともその時だけは、果南さんの中に僕の居場所がある。僕はそれだけでいい。

 だから僕は……

 

「待つよ。答えが出るまで、僕はずっと待ってる」

 

 そのときに言った言葉が、口をついて出た。

 そうだ。僕はまだ、答えをもらっていない。

 自分の気持ちだけ伝えて、まだ果南さんの口から何も聞けてない。

 忘れられたから終わりだなんて、そんなの勝手だ。

 忘れられても想い続けるのも勝手だ。

 同じ勝手なら、僕のしたいことをする。

 忘れられたらいいのに、なんて大嘘だ。果南さんのことを手放したくない。

 ダイヤさん。果南さんを諦めるなってのは、確かに残酷だよ。現れない人をいつまでも待つって、拷問にも等しい。 

 それでも僕は誓った。ずっと待つって誓った。誓ったはずなんだ。

 

「ごめん、ダイヤさん、鞠莉さん。行かなきゃ。もう暗いから、ほんとは送っていきたいんだけど」

「いいから急ぐ!」

 

 二人同時に凛とした声を響かせた。その顔は、怒っているようにも笑っているように見えた。

 指示通り、 僕は来た道を急いで戻る。

 家から駅まで、自転車なら二十分くらいか。全力で飛ばせばもっと短いはず。

 

「果南さん」

 

 呟いて、僕は走り出した。

 

 

 部屋に戻っても、鞠莉に言われたことが引っ掛かって、立ち尽くしていた。

 いつも悩んだときは走りにいったりするのに、そんなことをしてる場合じゃないと、身体が動かない。

 ポケットに入れていたスマホを机に置いて、固まる。

 

『果南さん』

 

 誰かが私の名前を呼んだ気がした。

 男の人の声。 

 どこかで聞いたような、というレベルではなく、もっと間近で聞いたはずの声。

 止まっていた時間が動き出したかのように、すっと手が動いた。

 それをするつもりはないのに、手が勝手に引き出しを開ける。

 そこには、一冊のノートが収められていた。

 『絶対に忘れない!』と表紙にでかでかと書かれている。その字はまぎれもなく私のだ。

 めくっていくと、知らない名前と、その人と過ごした日のことが書かれている。

 ページが進むにつれ、字は少なくなって、濃くなって、乱れていく。

 誰かの存在を取りこぼさないように、必死で書いたことを思い出す。

 ……思い出す? 思い出すって? 私は何かを忘れてる?

 ごとん、とスマホが机から落ちてしまった。ちゃんと置いておいたはずなのに……

 照明に照らされて輝く小さな何かが、キンと音を立てて床に倒れる。

 銀のイルカだ。

 スマホに着けられるよう、紐が結ばれている、銀色のイルカのストラップ。

 動いてないはずなのに、それが宙で揺れている光景が鮮明に浮かんだ。

 頭の中で、ぱちりとピースがはまった。

 

『あなたもほら、友達とかとさ、遊んだりしないの?』

 

 いつかどこかで、そんなことを『誰か』に訊いた気がする。

 その『誰か』にもたくさんの友達がいるのに、会いたいと思ったときに一緒にいてくれるから、迷惑になってないかと心配になった。

 

 『果南さんに会えるのが一番だからね』

 

 そう言って、『誰か』は笑った。

 『誰か』は、そういうことを普通のように言ってのける人だった。

 

 『今日来ていただいたお礼です』

 

 それよりも前、まだ私たちがお互いのことをそれほど知らないとき、私と『誰か』は一緒に出掛けた。

 『誰か』は小さい箱を差し出してきた。

 欲しかったけど、買わないままだったそれを、『誰か』はプレゼントしてくれた。

 嬉しかった。

 それをもらったこと。

 ちらりと見ただけのはずのそれを買ってくれるほど、『誰か』が私を見てくれていること。

 お礼だなんて言って、気を遣わせないようにしてくれた『誰か』の優しさも。

 

 『松浦さん、あなたのことが好きです』

 

 『誰か』を意識するきっかけになった最初の言葉。

 勇気を振り絞ってぶつけてきたその言葉も感情も、すべてが混じりっ気のない本当のことだと知ることができて、言いようのない暖かさに胸を満たされた。

 ただひたすらに、まっすぐな澄んだ心を見せてくれる人。

 そんな人だから、私は……

 そんな人なのに、私は……

 

『待つよ』

 

 はにかんで、彼は言った。

 

『僕はずっと待ってる』

 

 気づいたときには、すでに身体は動いていた。

 無理を言って船を出してもらって、対岸に着くやいなや駆けだす。

 バスは待ってられない。彼を待たせられない。

 心臓が破裂しそうになって、肺が爆発しそうになっても、走る速度は落とせない。

 商店街を風のように抜けていく。こんなに速く走れるなんて、自分でも知らなかった。

 ここまで来ればもう少しだ。

 いつもなら、同じ場所にいるはず。あのベンチで座っているはず。

 空はもうすっかり暗くなっていた。そのせいで気づくのが遅れたけど、行きかう人の中で一人、誰かを待つ彼の姿があった。

 それまでのスピードはどこへやら、私の一歩が重くなる。

 何を言えばいいんだろう。

 謝罪も感謝も、断られたらと考えると足がすくむ。

 待っててくれているのも、私に罵声を浴びせるためかも。

 彼のことを考えれば、それはありえないとわかるけど、嫌なことを考えると膨らんでいく。

 

「あ……」

 

 ぱっと目が合う。

 私は彼がこっちに気づいたことに、彼は私が来たことに驚きの声を上げた。

 彼が近づいてくる。

 何を言われるだろうか。私の身体は硬直して、逃げることも駆け寄ることもできない。

 目の前まで来たときは、息が止まりそうだった。

 怯えて下がりそうな足をどうにかして留まらせる。たとえどれだけ罵られようと、受け入れる義務がある。

 受け入れなきゃ、それこそここまで来たことも、ここまで待たせたことも無意味になってしまう。

 覚悟を決めて、彼の目を見る。感情をこらえようと震える唇を結んだ。

 さあ、何がきてもいい。そう決心したのに……

 

「こんばんは」

 

 いつものように、普通の日みたいに、にこりと笑って挨拶してくる。

 一言で、不安が一気に崩れていった。

 

「ばか……ばかだよ。来ないかもしれないのに……」

 

 彼は頷いた。

 

「それでも来てくれた」

 

 心が脈打つ。身体が熱くなる。

 

「私は……っ、あなたのことを忘れてしまってたのに……っ」

「それでも思い出してくれた」

 

 彼はそっと、私の手を掴む。

 どれくらいここにいたんだろう。彼の手はとても冷たい。でも離したくはなかった。

 

「ご、ごめ……っ、ごめんなさいっ、ごめんなさい!」

 

 様々な感情がないまぜになって、縋るように彼の裾を握りしめる。

 彼は泣き叫ぶ私の頭を引き寄せて、胸に押し付ける。

 鼓動が聞こえる。とくんとくんと早鐘を打っている。

 落ち着くまでに何分かかっただろう。彼の上着はしわくちゃになって、私の涙の跡がついていた。

 まだしゃくりを上げる私を抱きとめながら、しかし彼は何も言わない。

 

「もしまた忘れたら?」

 

 待っていてくれたことは嬉しいけど、私は彼をひどく傷つけてしまった。

 もう待たなくていい。拒否しても文句は言わない。

 離れたくないくせに、突き放すように私は言葉をつづけた。

 でも彼は……

 

「今度は迎えに行く」

「それでも忘れるかも」

「何度でも迎えに行く」

「拒否するかもしれないよ」

「それなら、ダイヤさんや鞠莉さんや、君のお爺さん経由で呼び出すさ。店の前や通学路で待ち伏せしてもいい」

 

 彼は深呼吸した。

 

「何度でも何度でも、君を呼ぶよ」

 

 いつも通りの、シンプルな言葉。

 意味はわかる。けど、何が彼を突き動かすのかわからなかった。

 

「どうして? どうしてそこまでしてくれるの?」

 

 彼は一瞬驚いたような顔をした。

 なんでそんな簡単なことがわからないんだ? とでもいうように。

 

「君のことが好きだから」

 

 その言葉をこぼさないように、言ったことを噛みしめるように、私がちゃんと理解できるように、ゆっくりと言った。

 ああ、もう。

 彼はそういうことを普通に言ってのける人だ。

 落ち着いてて、優しくて、ちょっと抜けてる人。

 私を好きでいてくれる人。私を待っててくれる人。私の手を引いてくれる人。

 今までの私は、彼の言動の一つひとつにドキドキして、はっきりとした言葉を返せずに右往左往していた。

 でも、私の気持ちはすでに決まってたんだ。

 

「私も、私も好き」

 

 言うと同時に、抱き着くのはそのままに、手を背中に回す。

 彼の存在を感じたくて、力の加減も忘れて、抱きしめる。

 彼も逃げずに抱き返してくれる。何よりも優しくて、暖かくて、確かな感触だった。

 

「こんな私でもいい?」

「そんな君だから、好きになったんだ」

 

 たったそれだけの言葉で身体が熱くなる。痺れるように心が震える。

 けど嫌じゃない。ううん、嬉しい。

 幸せが心を満たして、彼の身体を離さなくて、目から溢れる。

 願わくばこの瞬間が永遠に続けばいいのに、なんて言葉を漫画や映画で何度も見たことがある。

 その意味がようやくわかった。

 本当に時が止まってしまえという意味ではなく、表情がわかるこの距離で、話ができるこの関係で、一緒にいられて幸せでいられるこの時間が、未来でも変わらないようにと願っているんだ。

 この先が見たい。

 未来はどうなっているだろう。そんなことは誰にだってわからない。わかるはずがない。

 けれど一つだけ確かなことがある。

 何年後だろうと何十年後だろうと、気の遠くなるような未来であろうと、私はあなたを覚えてる。

 あなたの隣で、あなたのことをずっとずっと覚えてる。

 今もこれからも、ずっと。

 

 ずっと。

 

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