カワルユウキ   作:送検

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第15話 でぃす いず でーと?

 

 

 

胸を焼くような痛みだと、かつて少年はその事象に対して語った。

息が苦しくて、呼吸が乱れ、罪悪感と共に頭が重くなる。

次第に楽しいことを考えることも辛くなり、どうしようも無くなった身体がまるで自身の周りに重力がかかったかのように重くなる。

そんなことを考えてしまうような痛みだから、当然少年はその痛みを発した状況も鮮烈に覚えている。

 

 

 

 

 

 

あれは、そうだ。とある昼下がりのこと。

 

 

家族が大変なことになっていた時、少年は母の甘言に甘え、いつも通りの日常を送っていた。まだまだ小さい弟の顔を拝んだ後に、妹と共に学校へと向かう。そうして校舎を通り、妹と別れて教室へ入ると腐れ縁の友達と野球をしたりしなかったり。

兎に角野球中心の生活だ。

今考えたら有り得ないと一蹴するような話ではあるのだが、当時の少年からしたらこれは当たり前だった。野球が出来て、家族が居て、毎日が笑顔で。そんな当たり前を当たり前だと感じていた昼下がりの事。

妹が泣いていた。

当然、嫌いでもないし好きでもあった俺はお小遣いで買ったプリンを落とし、妹の側へ駆け寄る。

何が起こったのだろうか、いじめられたのか。けんかしたのか。そんな思いが俺の頭を支配した時、ぽつりと妹は一言───

 

 

 

 

 

 

『お父さん、なんで居なくなったの?』

 

 

 

その時から、少年は何処か当たり前を当たり前のように感じられなくなった。

その時から、少年の胸の中は焼けるような痛みと恨みのような何かがぐるぐると蠢いている。

 

思えば、俺自身が今の考え方に落ち着いたのはここからなのかもしれない───なんて思ってしまうくらいには、この出来事は忘れられないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

それが何時になったら忘れられるのか。

 

 

 

 

 

 

その答えは、既に分かっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝覚めが悪く、朝早くに目が覚めると目の前を支配したのは暗闇。

その暗闇に抗うかのように光を求めて手を動かす。すると俺の右手に当たったのは電気を付けるための紐。ビンゴ、とここぞとばかりに力強く引っ張り、その流れで脱力するとベッドへと身体が沈み込み、明かりと共に、俺の視界が明瞭になった。

 

休日。

予定があるということに味を占めて、早く惰眠を貪ったのが幸いしたか。今日はいつもの寝坊助っぷりが吃驚な程に早く起きることが出来た。早寝早起きはリンクしているのだ───ということを感じながら、俺は重い腰を上げて、少し早めではあるがリビングへと向かうことを決める。

 

「‥‥‥クレイジー」

 

時計を見て、悪態を吐く。

時刻は4時。電車は始発どころかテレビすらもやっていない始末だ。こんな状態でリビングで何をするのかと言われても、正味インスタントコーヒーを作る程度しか脳のない俺には選択肢が限られてくる。

無論、行うべきことはコーヒーを飲むことだ。スマホ?寝ながら音楽聴いてたらいつの間にか充電が切れていた。恐らく2時間はスマホを使えないだろうさ。

 

 

 

 

 

階段を降りて、リビングへと向かう。幸いにもそこに暗闇は無く、誰かが既に起きているということが俺にも理解出来た。

さて、誰だろうとリビングから顔を覗かせると、そこに居たのは我が家の大黒柱、マッマがコーヒーを啜りながら何かの資料を読んでいた。

 

「おはよ、母さん」

 

そう一言発して、母さんが座るリビングへと向かうと、母さんが俺の方を振り向く。

 

「啓輔」

 

「早いよ、明かりがついてたからびっくりしちゃった」

 

現在時刻は先程時計を見て理解している。

明朝、普通ならまだ皆寝ているであろう時間。

事実、志保と陸は寝ている。会話の声しかしないのが、その最たる証拠である。

 

「で、何を見ているの?」

 

「ランドセルよ。来年、陸も小学生になるから」

 

母さんが笑みを見せて、俺にその資料を見せる。

そこにはランドセルを筆頭とした小学生に必要な筆記用具諸々のチラシ。

その紙には丸が幾つか付けられており、黒のランドセルに丸を付けていることから黒が候補に入っているのは容易に想像が付いた。

 

「ははん、さては俺のランドセルが赤だから今度は黒にするってか?」

 

「‥‥‥啓輔、寧ろそこは紺色だと思わない?」

 

「りっくん、ランドセル、紺‥‥‥て、天使だ!!マリアージュ!!

 

「まあ、ランドセルは消耗品だし大事にしてくれているのは有難いんだけど‥‥‥志保の時もランドセルは買ったんだし陸にもちゃんと買うわよ」

 

「ほうほう‥‥‥いやぁ、さっすが我らのおかーさん!家族を大切にする理想の人!ははっ、素晴らしいね!!」

 

いや、割と本気でそう思ってるから。

3人の子どもを女手1つで育てて、ましてや片方は途中まで親不孝やってた不良生徒だ。

それにも関わらず優しく、厳しく育ててくれた母さんには──母さんにだけは本当に頭が上がらない。

 

「んんっ‥‥‥俺の個人的感情は置いといて、来年は陸も小学生だもんね」

 

「ええ」

 

「だから、色々用意しなきゃいけないし、けど成長が見られるのは嬉しい‥‥‥そう、嬉しい悲鳴だ」

 

状況によって、志保と一緒に家事を分担することも多い俺。

そんな俺は歳を重ねていくにつれ、笑顔で子どもを育ててくれていた母さんの苦労を少しずつ知り始めている。

仕事して、家計のやりくりをして、それがどれだけ大変なのか──俺は知っているから。

 

 

 

「‥‥‥けど、大丈夫?」

 

 

 

だから、俺は普段らしからぬ一声を掛けてしまったのだろうと思う。

馬鹿だ。

そんなこと聞いても、母さんが本音をさらけ出すことなんてないって、今までの経験から分かっているのに。

 

「啓輔?」

 

「無理してない?倒れそうになってない?疲れてない?‥‥‥俺達なら、ちゃんと協力して上手くやってるから、頑張りすぎないでよ」

 

マザコンなのかもしれない。

けど、俺は心配せずには居られなかった。

いつだって笑顔な母さん。

けど、その笑顔を続けられるのが不思議なくらいの苦労を母さんはしている筈だから。

それなのに、何でこうして笑みを崩さないでいてくれるのか。

理屈では分かっていても、本当の意味は未だに理解出来ていない。

 

と、そんなことを考えていると不意に母さんが立ち上がる。

何をするのか──そんなことを思いつつも信頼している故に、ぽけーっと突っ立っていると、不意に胸に抱き寄せられた。

待って。

予想外だ。

 

「むぐ」

 

「啓輔は暖かいね」

 

「‥‥‥人間だもの、母さん」

 

主に体温的に。

しかし、母さんはそういう意味で言ったわけではないらしく更に俺の頭を撫でて、続ける。

 

「根本的に勘違いをしているのは、誰に似たんだろ‥‥‥」

 

「俺のアイデンティティかな、てへっ」

 

「全く、啓輔が暖かいのは確かに体温のせいだけどそれだけじゃないの。言葉にだって、行動にだって、それが顕著に現れてる。お母さん───啓輔がそういう人に育ってくれて、本当に嬉しいの‥‥‥分かる?」

 

母さんは、そう言って俺の頭を撫でた。

優しくて暖かいその手で撫でられる。それは俺にとっては予想通り。

親の手だ。暖かさを感じるのは半ば当たり前のことでもある。

そう、そこまでは予想通りだったのだが──

 

 

 

「‥‥‥予想外だよ、母さん。俺まさかそんな風に思われてたなんて思わなかった」

 

「ふふ、自己評価が低いもの。我が家の頼れる長男は」

 

「志保も友達もそう言われてましたけどそんなことは決してないから。変な冗談はやめてください」

 

否定を敢行するものの、母さんはくすくすと笑い声を上げるのみで全く取り合おうとしない。

すると、母さんはもう一言───

 

「もっとやりたいことをやっても良いの」

 

そう言って、俺を抱き締める力をより強めた。

 

「‥‥‥母さん?」

 

「色んな心配をかけまいと何も言わないでくれているのは分かってる。それが、おかあさんの一言位で簡単に言うようなことじゃないのも分かってる‥‥‥けど」

 

「うん」

 

「話ならいつでも聞くから。だから、啓輔には私の心配なんてしないで、友達を作って、学校生活を楽しんで、大学にも行きたいなら行って──色々な楽しい思い出を作って欲しいの」

 

その言葉に胸が痛む。

母さんのことを心配したのにも関わらず、逆に心配されてしまったことから何処か申し訳なさのようなものを感じたからだろう。

こうなってしまえば俺の口からは否定の言葉は出せない。

無言の肯定、というやつだろう。俺は母さんを見据えると、学校生活を楽しむ──その意味を込めて、縦に頷いた。

 

「‥‥‥ごめん、朝っぱらから暗い話なんてしちゃって」

 

悲しみに暮れる暇なんてないんだ。

俺は長男。

どんな時があっても家族の前では強く、優しいお兄ちゃんじゃなきゃ行けないんだからな。

エゴ?プライド?

まあ、そんなものだろう。けど、それを恥ずかしいなんて思ったことは1度してない。

 

「けど、随分前にも言っただろ?俺が家族を支える長男になるって。その代わり、志保や陸にはしたいことを出来るように、俺が真人間になる───ち、遅刻はちょっと多いけどさ」

 

「‥‥‥ええ」

 

「だから俺も家族のことも心配しないでくれ。シッホとりっくんは、俺がちゃんと見てるから」

 

最後に一言、そう言って俺はコーヒーを入れに台所へ向かう。

気が付けば、時刻は5時を少し過ぎていた。

日が上りはじめ、外を明るく照らし始める。

その光景に見とれながら、俺は一日の始まりを迎えるべく伸びをして、笑顔を作ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥それが俺のやりたいことなんだからさ」

 

誰に言うまでもない、そんな一言を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折角りっくん&ランドセルのマリアージュでテンションが上がったのに二度寝する馬鹿が何処にいるんだ。

 

そう自分で自分を奮い立たせ、椅子に座ること1時間。支度をするといって洗面台に行った母さんを見送りながらコップ片手にぼーっとしていると、不意に聴こえた階段の音。

その音に気が付き意識を覚醒させると、そこには志保が寝間着姿で突っ立っていた。

朝特有の眠たげな表情は既に霧散しており、流石我が妹だ──等と心の中で志保しゅごいと褒めて遣わしていると、不意に妹が一言。

 

「準備にしては些か早いと思うのだけど」

 

そう言って、俺の向かいの席に座り。俺を『じっ』と擬音でも付きそうな目付きで俺を睨みつけた。

おかしいな。

お兄ちゃん、志保を怒らせるようなことを何もしてないはずなんだけどな。

 

「‥‥‥俺が準備をしていると、不都合でもあるのかい?」

 

「柄にもないことをしないで。実は兄さんの皮を被った別人じゃないのかって疑ってしまうでしょう」

 

「お兄ちゃんは啓輔だから‥‥‥!ガチモンの啓輔だからッ‥‥‥!」

 

「どうだか‥‥‥で、こんな早くから起きて、何用?まさか朝からやることなくてベッドに行こうか迷ってたところ‥‥‥とか?」

 

そう言って、首を傾げる志保。

俺がこんな時間に起きるのはそんなに意外なのかと怒りたい気分なのだが、別に良い。

俺は兄貴だからな!

ちょっとしたオイタは気にしないのがお兄ちゃんだから、そんなことで怒ったりはしない。

本当の兄は、動かざる山の如く些細なことにも動じないのが肝要だと俺は思うんだ。

 

両手を広げ、志保を見据える。相も変わらず笑顔の一欠片すらも見せない志保。その中で俺は一言。

 

「そうとも限らないんだぜ我が愛しのマイシスター」

 

「端的に言って気持ち悪い」

 

「お兄ちゃんは今猛烈に死にたくなったよ」

 

酷い。

まあ、その遠慮のなさが志保の美点でもあるのだが。

 

「‥‥‥田中のことだ。どうせ1時間前には来んだろ?なら俺はその先を行く‥‥‥志保、俺はその上を行かなきゃいけないんだよ‥‥‥!」

 

「どんな使命があってそんな一大決心をしたのやら‥‥‥私には到底理解出来ないわ」

 

だと思う。

いきなりそんなことを言われても困惑するのみだろうし。

とはいえ俺も何も考えていないわけじゃないんだ。

志保に服装を指摘されて、まともな服装を必死で考えた。

不可抗力ながらも朝早く起きて今日に備えている。

 

「お兄ちゃんな、もうちょっと真面目に生きていこうと思うんだよ」

 

「真面目?」

 

「そう、真面目だ。いや何回もそう言ってるけど、今度は真面目に‥‥‥そうだな、例えば志保を1人の女の子として見てみるとして」

 

「は?」

 

「‥‥‥志保って、そこはかとなく可愛い感じがして──こう、なんだ。可愛いよね!」

 

「‥‥‥兄さん」

 

「えーっと、後は‥‥‥うん、志保って良いお嫁さんになる──」

 

「兄さん!」

 

志保らしからぬ声が俺の動きを止める。

唖然としていると、志保は浮かない顔でぺたぺたと俺の頬を触る。

一通り頬を触り終えると右手でこめかみを抑え、志保は大きなため息を吐いた。

 

「今日の兄さんは何処かおかしいわ。まさかその状態で琴葉さんに会うつもり?」

 

「いやいや、寧ろ絶好調だろ。今なら田中の良いところ10個言えるぜ?」

 

「それは人として当たり前──だからそうじゃなくて‥‥‥」

 

どうやら志保の期待に添えた一言は言えなかったらしい。

頭を横にふるふると振った志保。今度は俺を鋭い目で睨み付けて一言。

 

「私、別に兄さんには期待してないの」

 

「ねえ、泣くよ?俺一応メンタルはボロ雑巾レベルだからね?頭豆腐の角にぶつけて死んじゃうレベルだからね?」

 

「ただ、普通に日常を過ごして。偶の非日常をそれなりに過ごして。兎に角楽に過ごして欲しい──意味、分かる?」

 

「意味なんて一欠片も分からないけど俺の発言に対して何らかのアクションを起こせよ愚妹──とは思った」

 

「面白い冗談ね、ふふっ」

 

鼻で笑いやがった志保をどうするかは怒りに身を任せそうになっている俺が決めるべきではなかろう。怒りに任せて頬を抓ったところで俺がどうなるかなんてのは今までの経験則から分かりきっている。

どうせ、やられキャラの中ボスみたいに必殺パンチで倒れるんだ。

良いことなんて志保のそっち方面での成長を感じられるくらい。それだけで痛い思いするなんて、俺は嫌だ。

 

大きなため息を吐いて、天井のシミを数える。

鼻腔を擽るコーヒー香りと、思わず頬を弛緩させてしまうような家特有の空気。

慣れ親しんだこの家の心地好い香りが、俺の心を落ち着かせた。

 

 

 

 

 

「‥‥‥仮に兄さんが無理をしているとして」

 

暫しの静寂。

それを断ち切ったのは志保だった。

朝のこの時間は生活音が鳴らない。

それは、母さんがまだ支度を始めたばかりであることだったり。

りっくんが以前として目を覚ましていないこと等も影響しているのだろう。

その中で俺は志保の声が鮮明に響き、同時にその声がいつもの声より1トーン落ちた声だということも理解することが出来た。

 

今の志保は真面目そのもので話している。

長年家族をやってんだからな。それくらいは察するに難くない。

 

「それで兄さんが倒れてしまう位の負担がかかっているのなら、私自身のやるべきことも少し増やすのは当たり前の事よ」

 

とはいえ、今のこの状況。

基本人が真面目に話している時は真面目に返すことで通っている俺とはいえ、こればかりはまともに返す訳にはいかない。

折角大好きな妹がやりたいことをやってくれているのだ。

それに水を差すようなことはしたくない。これも、俗に言うエゴやプライドに値するのだろう。

何ともまあ、やっすいプライドだとは自覚しているが。

 

「やりたいことをやる!お兄ちゃんが出来ていなかったことを真面目に真摯に取り組んでる志保は俺の自慢の妹だよ」

 

「誤魔化しにしては拙い言葉選びね。昨日手抜きしてカレーライスをお肉抜きにして、代わりに大豆を投入しようとしたのりっくんにバラすわよ?」

 

「大豆は畑のお肉だろ‥‥‥っ!?」

 

あれは決して手抜きなんかじゃない!

子どもの野菜嫌いは深刻なんだ。

その中で如何に野菜を美味しく食べられるか、如何に野菜を使った料理で子どもの野菜嫌いを克服させられるか‥‥‥そこが料理を家族に作る醍醐味だろう!?

 

「志保‥‥‥お前は子どもの野菜嫌いを舐めてるぜ」

 

「りっくんは星型の人参を美味しそうに食べてくれたけど」

 

「え゛」

 

「大体、子どもの野菜嫌いが深刻なんじゃないの。昔の兄さんの野菜嫌いが深刻なのよ。ゴーヤ、ピーマン、ゴボウ、ブロッコリー‥‥‥運動してた頃のお弁当の献立選びに相当困ったって母さんが言ってたけど」

 

「母さん!?」

 

悲報である。

母さんが俺の元野菜嫌いを妹にバラした。

まさかこんな所で妹に野菜嫌いがバレるなんて思わなかったってのが本音なのだが──と、内心パニック状態になっていると志保が立ち上がり、座った状態の俺に歩み寄る。

 

「兄さん」

 

志保が俺の隣にまで歩み、見下ろす。

鋭い視線が見下ろすその様は何処ぞのお嬢だ。

正味興奮するような性癖なんぞ持ってはいないが、志保が俺を見下ろすその様に、思わずこくりと唾を飲み込むと、志保が一言。

 

「ボタン、外れてる」

 

胸元に手をかけ、開いていた服のボタンを志保が閉じた。

不覚だ。

兄さん、意図的にやった訳じゃないんだ。許しておくれ。

 

「話を逸らそうとしたって言いたいことを言うまで会話は終わらないから」

 

「‥‥‥うむ」

 

誤魔化し大作戦は見事失敗に終わりました。

主に俺のボタン外れのせいで。

時間を巻き戻したい気分ではあるが、実際に時を止められることはない。

志保は尚も俺を見下ろして続ける。

 

「自分のことに気を遣って、自分のやりたいことを‥‥‥範囲が限られてはいるけど兄さんだって出来る。だから偶には今日みたいに自由に、やりたいことをやってくれた方が余程妹‥‥‥いえ、保護者として安心できるの」

 

「待って、保護者とか言わないで」

 

折角良い事言ってくれてたのに最後の一言で台無しだから。

そんな俺の様子や言葉など気にしてないかとでも言いたげな涼しい顔で、最後に志保は俺に微笑みかけた。

 

「琴葉さんとご飯に行くなんて意外だったけど‥‥‥楽しんできてね、兄さん」

 

その笑顔は、大切な人に向ける時に決まって微笑む志保らしい表情で。

その笑顔が向けられていることに、幸せを感じるのと同時に一考───

 

「‥‥‥志保」

 

「?」

 

「俺、そんな笑顔を見せてくれる志保をお嫁に出したくないよ!」

 

「売られた喧嘩は買うから表に出て。目覚まし代わりに思いっきりコークスクリューかましてあげるから」

 

「うっひゃっひゃ!面白い冗談は止めろって!」

 

「冗談にして痛みを紛らわせるか、事実として受け止めるか、2択にしてあげるから選びなさい」

 

誰か助けて!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間苦もあれば楽もある。

そんな言葉の通り、志保のコークスクリューを受けて苦の感情を得た俺は、その後の『楽』を得るために都会の喧騒の中を歩いていった。

尤も、志保の件は俺の自業自得とも取れるが。

 

「‥‥‥ここか」

 

現地集合。

田中から突きつけられた約束通りの時間と集合場所にここに立っている俺は、恰も道場破りをするかのような面持ちで、店のドアの前に立つ。

 

なかなか古風な店だ。

レストランではなく、定食屋。

そもそも外食にも行くことの少ない俺からしたら全てが真新しい。故に胸が弾み、引戸を思い切り開けてしまうのは仕方の無いことだろうと思う。

 

「あ、北沢君」

 

「田中」

 

意外と直ぐに見つかった田中さん。

彼女こそ、今回の俺のターゲット。

この女の子とご飯を食べて、無難に話して、無難に罰ゲームを享受する。

それが今回の俺のミッションなのだ。

戦意はある。志保に物理的な喝を入れてもらったせいで有り余っているまであるからな。

そんな戦意を田中に伝えるべく、向かいの席に座った俺は好戦的だと自画自賛したくなってしまうような言葉を伝える。

 

「ようよう、田中さんや。こんな所に呼び出しておいて覚悟は出来てんだろうなぁ、ああん?」

 

「覚悟というか、お腹が減った」

 

「遅くなってごめんなさい」

 

戦意、一瞬で挫かれる。

ある意味挫折にも近い感情だ。

今まで湧き上がっていた想いが、田中の現実的な一言により一気に冷めた。なんでこんなに好戦的だったのか俺にも分からない。

そう考え、自らの浅はかな行為に愕然としていると田中が俺を見てクスリと笑う。

 

「時間はピッタリだし、気にしてないよ。それよりも──北沢君」

 

「?」

 

「お金はちゃんと持ってきた?」

 

「お前俺を乞食とでも思ってんの?」

 

失礼な奴だと心底思う。

バイト戦士を舐めないで欲しい。

これでもお金はちゃんと貯めてるし浪費もしていない。

自分で言うのもなんだが、そこら辺の男子よりも金銭感覚は養ってるつもりなんだがな。

 

「日替わり定食頼む金くらい持ってるっての‥‥‥あ、すいません。日替わり定食ひとつお願いしまーす」

 

店員さんに注文を通し、後は料理を待つだけ。待つという行為を苦にすることはない性格なのだが、外食に行くのなんて久々なもので些か勝手に慣れていない。

家で料理を作れちまう人が3人も居れば外食もそれ程必要ないってのが実情なのだ。

 

「田中は?」

 

「もう頼んだから大丈夫」

 

成程。

既に頼んでいるのか。

準備が早いな。

 

「ちゃんとしじみ汁も頼んだよ」

 

「報告しなくても結構だよ」

 

尤も、田中がそんな渋い料理を好むなんて思わなかったのだが。

美味しいのは分かるけど、店で頼もうとは思わない。

田中はどうなのだろう。1日に1回はしじみ汁を飲まなければやってられないのだろうか。

そんなどうでもいい妄想をしていると、とある女の子が店内へと入っていった。

黒髪ロングの少女。

大人びた雰囲気を醸し出しつつも、何処か幼さも感じるその顔つき。誰かは知らないが、綺麗な女の子というのが第一印象であった。

 

「‥‥‥あ」

 

「友達か?」

 

「同じ765プロのメンバー。努力家な女の子なんだよ」

 

「因みにお幾つで?」

 

「14歳」

 

え?

 

「‥‥‥すまん、もう一度」

 

「14歳」

 

「エリートッ!?」

 

アイドルのエリートだ。

中学生ながら己のやりたいことを職として戦う少女。

俺なんかより何倍も凄いのは、恐らく当たり前のことだろう。

 

「因みに、饂飩が大好きなんだ」

 

「なんだそりゃ‥‥‥ひょっとして誕生日プレゼントも饂飩が良いってか?」

 

「静香ちゃんなら言いかねないかも」

 

「ウッソだろお前」

 

因みにうどんが大好きらしい。

心底どうでも良いわ。

そもそもそれを知ってどうするのか。話す機会があった時に話題を提供しろってか?俺が彼女と話すことなんて余程のことがない限り有り得んだろう。話したとしてもうどんを話題に出来るかどうか。

彼女と仮に話す機会があって、どうしてうどんを話題に出来るのか。『あ、うどん好きなんでしたっけ』って話題提供するんか?恐らくそんなことを言ったら確実に疑われるぞ。

 

それに、彼女はアイドルであり俺は一般人だ。

当然壁もある。

饂飩好きなのを知ったところで、さして俺に影響がある訳でもない。

恐らく1日経てば黒髪ロングの女の子がうどん好きだった──なんてことすらも忘れていることだろう。

 

悲しいことに、俺の記憶力はクソザコナメクジだ。

 

「それにしても、その静香さんとやらは珍しい奴だな」

 

「え、どうして?」

 

「うどんが好きだから」

 

「‥‥‥うどんが好きな人って結構居ると思うけど」

 

「数ある料理の中から?ハンバーグとかオムライスとかしじみ汁とか、そんな数ある名料理の中からうどんを選べちゃうあの子が珍しくないとでも?」

 

「む‥‥‥それは暗に私も珍しいって言ってるの?」

 

「安心しろ、別にそうとは言ってない‥‥‥ただ、うどん好きって公言出来てしまう奴が珍しいって言っただけだから」

 

人の好みなんぞ千差万別だ。

貶す必要も無いし、褒める必要も無い。

ただ、俺が感じたのは静香という少女が数ある料理の中からたったひとつ、うどんをチョイスしたのが珍しいというのみ。

別に失礼なことを言った訳では無いと思うんだが、田中がムッとした表情を浮かべたってことは俺がズレてるのかもしれん。

だとしたら改善しなければ。

危うく友人関係の希薄さがバレる。

 

「お待たせ致しました」

 

と、そんなことを考えている間に料理が運ばれる。

俺が頼んだのは日替わり定食。

ご飯が主食の、美味しそうな奴だ。

 

「待ってましたよこの時を‥‥‥」

 

割り箸をパキッとした音とともに2つに割り、料理を待ち構える。

店員さんが俺と田中が座る席の元にまで歩み、料理を置く。

そして俺は、その置かれた料理に思わず目を見開いたのだ。

 

「──は?」

 

何せ、そこに置かれたのは俺が頼んだ日替わり定食ではなく。ひとつの丼が俺の目の前に置かれたのだったからな。

巫山戯んな。

ご飯が主食なんだろ。

どうして、どんな理由でご飯がうどんになるんだ。

意味が分からんぞ、俺は。

 

「饂飩‥‥‥だと?」

 

「あの方からの奢りです」

 

「はぁ、奢りぃ?」

 

奢らされるような恩も貸しもないのだが。

しかし、店員は俺にしきりにうどんを勧める。

得体が知れない分、食欲より恐怖の方が勝っているのだが、この心情を理解してくれる方は残念ながらこの空間にはいない。

田中すらも首を傾げているしな。

どうしようも無い。

 

「いらないよ。大体俺はうどんじゃなくて定食を食いに来たんだ。なんだようどんって。いつからこの店はうどんを一般客に薦め───」

 

「───発音が違う」

 

「ぴっ!?」

 

突如聴こえたドスの効いた声に、俺は思わず身震いした。

何処の誰がそんな声を出したのか、それは俺とて理解してはいる。

あのうどんを啜っているエリートさんだ。アイツが俺を声で脅したのだろう。

 

「‥‥‥」

 

そして、睨みつけてきやがった。

クソ、なんだってんだよ。

そんなに俺は悪いことをしたのか?

 

「北沢くん?」

 

「‥‥‥アイツ、めっさ鋭い眼光を俺に向けてきたんですけど」

 

「え、それ大丈夫?」

 

うん、大丈夫ではないな。

生憎俺の心は女の子の厳しい視線をなんでもないように躱せる程鋼鉄ではない。良くも悪くも俺の心は硝子だ。間違いない。

一悶着あったところで、店の人はカウンターへと戻ってしまった。俺の目の前に残ったのはうどんが入ったひとつの丼のみ。

蒸気の暖かさだけが、俺の救いだった。

 

「‥‥‥しゃあねえ、食ったろうやないかい」

 

出されたものは残したら非常に勿体ない。

そんな貧乏性な精神を胸に、恐る恐るうどんを啜る。

すると、口の中に広がったのはコシがあり、食べ応えバッチリなうどんの感触と、絡むようにうどんにまとわりつく出汁の味。

 

これは──

 

「‥‥‥やるじゃねえか、こんにゃろ」

 

「美味しい?」

 

「奴がここの饂飩を啜る理由が分かった」

 

認めよう、絶品だ。

とはいえ未だにあの人が俺にうどんを奢った理由が分からないわけなのだが。

中学生に奢られるなんて、とんだヒモ男もいたもんだと軽く自虐的な考えに至りつつ女の子を見ると、ドヤ顔でサムズアップをする黒髪少女が存在していた。

 

喧しいわ、そのドヤ顔サムズアップ止めんかい。

 

「‥‥‥仲良いね」

 

「饂飩で通じあったところで嬉しくともなんともないがな」

 

「でも、初対面の人と仲良くなったのは確かだよ。北沢君って、信頼関係を作るのは本当に上手だよね」

 

「はは、初耳だよ。そんな特技持ってた覚えないんだけどな」

 

俺がそんな風に思われていたのも初耳だ。

母さん然り、田中然り、他人の印象ってのは分からないもんだな。

次から次へと予想外の言葉が出てくる。

 

「‥‥‥やっぱりスポーツしてた名残なのかな」

 

「スポーツ?」

 

「北沢君、野球やってたんだよね?」

 

「‥‥‥野球、か」

 

野球。

かつて俺が最も夢中になっていたポピュラースポーツ。

打って、投げて、走って、守る。

その一連の動きに、かつての俺は魅せられた。

 

「頑張ってた?」

 

「そりゃあ、もう」

 

一時期は引くくらいボール追っかけてたから。

ホームランボールもファウルボールも自打球もなんのその。

兎に角、白球に食らいついていった──俺にとっては思い出深い球技だ。

 

「とはいえ、もうやろうとは思わないし‥‥‥関係ないと思うんだけどな」

 

「‥‥‥もしかして、あんまり友達を作らないのと関係してたりする?」

 

「そういうのないから。俺がぼっちなのは元からだ」

 

友達作らないのは元々だし。

積極的に友達作ろうとしない性格も災いしているのだろう。

石崎から始まり、渋谷、田中、恵美、七尾と決まって俺は受け身で接している。

そんな中で友達と言える奴が数える程だがいるのは、恐らく奇跡と呼んでも過言ではないのだろう。

 

「そっか、ごめん。深掘りするような事しちゃって」

 

「構わんよ」

 

気になることを聞こうとすることは別に悪いことじゃない。俺だって気にすることじゃないし、別に構わないというのが本音だ。

 

ここで漸く日替わり定食がやってくる。

今度はご飯が主食の、れっきとした定食。

うどんは美味しかったけど、高校生の食欲が並盛のうどんで充たされる訳がない。

俺は先程使った割り箸を使って、炊きたてのお米とおかずのハンバーグを食べ始めた。

 

「‥‥‥それに、いつも田中には世話になってるしな」

 

「え」

 

「忘れたとは言わせねえぞ‥‥‥あれだけ俺を弄んどいてさぁ、今のこれもどちらかと言えば公開処刑だからな」

 

「公開処刑!?」

 

そうだ。

まあ、今となっちゃそんなに気にしてないけど──と続けて、軽口を終えようとすると、田中の顔が不意に赤くなった。

え、何かやった?

軽口叩いただけだよね?

もしかして田中って軽口で快楽を得るような──

 

「そ‥‥‥そっか。公開処刑‥‥‥か」

 

「え、ちょっと田中さん?」

 

「そうだよね、この状況ってよくよく考えたら‥‥‥」

 

「う、うーん?」

 

あれー?

軽口のつもりだったのになんか展開がおかしくなってるぞ?

大体、何でお誘いする時は恥ずかしがる素振りなんて欠片も見せてなかったのにそんな表情を今更になってするの?

可愛いが過ぎるから止めろ──なんて内心を程々に田中に自制を促すと、俯いてぶつぶつ言っていた田中が目を見開いた状態で俺の顔を見て、一言。

 

「き、北沢君」

 

「はい」

 

「やっぱりこれってデート───」

 

「オーライ田中ァ!!これ以上その件について述べるのは止めろォ!!!」

 

爆弾発言をしそうになったので、止めた。

それも無理矢理だ。

田中の肩を掴み、揺さぶる。

うどんを食っている少女が食い入るように見ているが、そんなの知ったことか。

 

「他意ないって言ったよね!?どーして今更そんなこと言うのさ!!」

 

「だ、だってあの時はその場の流れで言っちゃったから!!まさか北沢君が何でも言うこと聞くなんて言うとは思わなかったから!!」

 

「人のせいにすんなよ!?いや確かにこの状況はおかしいし志保も『は?』って言ってたけど!!」

 

そこでようやく落ち着いたのか。

田中は1度呼吸を整え、視線を右往左往させた後に赤面した表情のまま『う〜‥‥‥』と唸りながら俯いた‥‥‥

 

チックショウ可愛いなぁッ!!

 

「‥‥‥田中。そういうところだぞ、お前が真面目で時々ポンコツとか言われる所以」

 

「‥‥‥ポンコツって言うのは北沢君だけだよ」

 

「なら俺にそのポンコツを見せるのを止めろ」

 

全く、ちょっと気を許したらこれだよ!

これだから田中は困る。

大体アンタが言い出した事だろ、ご飯食べに行こうって言って、行きつけだかなんだか知らないが店まで指定して。

自分で決めたことくらいしっかり責任を持って欲しいものだ。

俺だって球技大会の時は決めたことに責任持って真面目にやったんだからな。まあ、結果はお察しだったが。ただ単に負けて、押し倒しただけ。俺の黒歴史ランキング3位に入る恥である。

 

「良いか、お前のそういうポンコツな所も魅力ではあるけど自分が決めたことくらい責任を取りなさい。今日のこれは罰ゲーム、デートじゃない。分かったな?」

 

「‥‥‥うん」

 

俺から一向に視線を合わせようとはしない田中であったが、冷静さは幾分か取り戻したのだろう。頬の赤みが取れ、目を逸らす程度で済む位には回復している。

しかし、会話は一向に成り立っておらず。

そのもどかしさに俺は頭をかいて、田中から目を逸らした。

詰まるところ、この状況が俺にも恥ずかしく感じてきた訳だ。

 

「だぁ、なんで無口になるかなぁ」

 

「‥‥‥い」

 

「?」

 

「意識、したら‥‥‥会話が」

 

なあ、知ってるか田中さんや。

世間じゃそれを『可愛いが過ぎる』って言うんだぜ。

俺は今幸せだよ。

まさかこんな所で腐れ縁の言ってた非現実的な光景に出会えるなんてな。

案外石崎の言うことも間違いではないってことなんだな。

後で馬鹿にしたこと謝っとかなきゃ。

 

「‥‥‥うーん、眼福」

 

「えっ」

 

「何でもない。それよりも何も会話しないってんなら俺が会話するぞ、良いんだな」

 

「‥‥‥うん、もし良ければ」

 

こく、こく、と首を縦に振り田中が首肯する。

よろしい。ならば話してみせようではないか。

人間死ぬ気になれば大抵の事は出来る。

尤も、今のこの状況を死ぬ気でやる必要なんかさしてないのだが。

 

「‥‥‥じゃあ、少し昔話」

 

「昔話?」

 

とはいえ、ネタは浮かんだのだから仕方ない。

中途半端は良くないということは教えられている。俺は田中の目をしっかりと見据えると、自身や他者の様々な経験を引っ提げた昔話を話し始めた。

 

「むかーしむかし、ある所に野球好きのお兄ちゃんがいました。しかし、妹はそもそも運動神経が良い方ではなく、家事とお母さんの手伝いが大好きで、弟はサッカーが好きでした。お兄ちゃんは野球でぼっちになった挙句、そのあまりの孤独さに耐えかねて野球をやめたとさ、めでたしめでたし」

 

「‥‥‥北沢君」

 

「?」

 

「重いよ、昔話にしては重すぎる」

 

「そうか?『花咲かじいさん』も『マッチ売りの少女』もこれくらい重い話だったろ。てか、普通にハッピーエンドじゃないか」

 

死人が出るんだぞあのお話。

それに比べたら俺の話なんて可愛いものだろ。

俺の話なんてアリとキリギリスと同じだぜ?

教訓、改心系のお話にしてはよく出来た話だろうて。

 

「孤独で野球を辞めるのがハッピーなのかな‥‥‥」

 

「ハッピーよ、それで家族の笑顔が拝めるならな」

 

総じて俺という人間は出来た人間とは言いきれない。

しかし、そんな俺にも幸せはある。

どんな人間にも『幸福』は付き物だ。

まあ、それと同時に──若しくはそれ以上の『不幸』の感情が、幸福を恰もなかったかのように凌駕してしまうことも往々にしてある訳なのだが。

 

「人ってのは何時も幸せを求める癖に目先の幸せには無頓着だからな。実は幸せが足元に転がってましたー、なんてオチもあったりするぜ?」

 

「幸せ‥‥‥か」

 

「お前は沢山ありそうだな」

 

「そんなことはないよ」

 

即答。

田中みたいな女の子でも不幸だと思うことはあるということだ。

良いじゃないか。人は不幸を乗り越えることで幸福に出会える可能性がある。

ドン底の中でもがき苦しみ、その先にある一筋の光が見えた時──その時の感情はきっと幸福になるはずだから。

だから人は諦められないのだろう。

尤も、それが万人に通用する言葉ではないのは分かっているが。

 

「‥‥‥まあ、あれだ。田中も時に足元を見たり周りを隈無く探してみれば良い。そしたらお前が本当に知りたいこと、やりたいことがアイドル以外にも見つかるかもしれない。そしたらそれは人生の転機だ、歓迎すべきことだ」

 

「うん」

 

「何が言いたいのかって?そりゃあ田中さん、あれよ。人生を楽しめって話さ」

 

「聴いてないよ、別に‥‥‥」

 

うるせい。

なんか言葉に迷ったんだよ。

 

苦笑いの表情を浮かべた田中。

その笑みは次第に真顔に変貌し、天井へと視線が映る。

 

「うん、私にもやりたいことが増えるかもしれない‥‥‥けど、先ずはその未来を切り拓くために、今を精一杯頑張らなきゃ」

 

「切り拓く、とな」

 

「そう、切り拓く‥‥‥今を頑張れない人に明日はない──なんて誰かが言ってたの、頭に残っているんだ。その言葉、本当にその通りだなって。頭にすーっと落ちていく感じがしたんだ」

 

田中の視線が俺の方へと向けられる。

その視線は真面目そのもので、またしてもその視線を見た俺は頭が痛くなる。

最近はずっとコレだ。

この女の子の目を見た時、何処か既視感に襲われた後に頭が痛くなる。どうしてか理由を考えると更に頭が痛くなる。

いや、まあ昔出会ったのは田中さんから聴いたんだけど。

それが影響してるんかね。

 

「だから私は今を頑張るよ。アイドルとして活躍できるように。そして‥‥‥うん、北沢くんが志保ちゃんのアイドル姿を見た時に、私も一緒に見てもらえるような──そんなアイドルに」

 

兎に角だ。

今の田中の意気込みは決して否定できない、寧ろ棹らすべき意気込みである。

田中らしい──と言える程俺はこの子を深く知っている訳では無い。

しかしながら、そんな俺でも今の田中の考えが賞賛できるものだということくらいは分かる。

 

だから。

 

「良いね、その意気だ」

 

その答えを、俺は歓迎した。

志保のライブの時に田中が出れるなんて確証はどこにもないのに。

田中の勇姿が見れるのか、そんな確証どこにもないのに。

 

「‥‥‥ま、まあ志保ちゃんがライブする時に私が歌えるのかは全く分からないんだけど」

 

「せやな」

 

「志保ちゃんと付きっきりでレッスンしたら──」

 

「そこまでするなっての‥‥‥」

 

まあ、田中のことを深く知らないっていうのは前々から思っている事だけど。

いつも真面目っぽいけど偶に──こんな風にポンコツになっちゃう田中さんがいるってことは、俺にも分かる。

そして、そんな田中とお話することは、今では俺の生活の1部となっていること。

 

田中を知って、田中と話すことが俺の日常になった。

 

話すことをあまりしなかった俺が、である。

それって本当に小さいことなのかもしれないけど、俺にとっては劇的な変化なんだ。

 

感謝すべき事なんだ。

 

「‥‥‥さ、そろそろ帰るかな」

 

大盛りを頼んだ訳でもない日替わり定食は割と直ぐに平らげることが出来た。

途中から何やら田中さんの様子がおかしくなってしまったしここは早めに帰ってしまうのが良いだろう。

さっきから静香さんとやらの視線もドギツいものがあるし。

ホントに、いちいち突き刺してくるよね。志保然り、静香さん然り。

 

「もう帰っちゃうの?」

 

「へっ、さっきまでデートがー、羞恥心がー、とか言ってたヤツが良く言うぜ」

 

うぅ‥‥‥と呻き頭を抱える田中。

今の田中には『デート』という言葉は禁句らしい。

現にその言葉を放ったせいで田中さんの顔がトメィトゥみたいだ。

信じられないね。余裕でご飯食べに行こうとか誘った癖に。

 

「‥‥‥けど、北沢くん」

 

「?」

 

「来てくれてありがとう。楽しかったよ」

 

「罰ゲームで御礼を言われるのかね‥‥‥」

 

とはいえ、嬉しくないわけがない。

罰ゲームとはいえ綺麗で可愛い女の子とデート。

石崎には悪いがこの前借りたギャルゲーよりも田中の方が可愛いね。

 

グッバイゲーム。今、俺はこの瞬間が幸せだよ。

 

「こっちの台詞だ、また機会があったら行こう」

 

「‥‥‥うん!」

 

今度は今日イチと形容できるニコリとした笑みでそう言った田中。

その笑顔を一瞥した俺は、今度こそ先に会計を済ませて店を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空が明るく、雲ひとつない。

俺の今の気分を表したかのような天気は、図らずも俺の視線を釘付けにする。

今の俺は、この空の如く雲ひとつないハッピーな気分だった。

なら、この後の1日もハッピーとなるか。

そこまで考えて伸びをした所で、俺はあることに気が付いた。

 

「‥‥‥」

 

視線。

勿論、確信めいたものがある訳では無い。

何となく察したのだ。何処か好奇心の塊のようなキラキラした視線が俺に突き刺さる変な感覚を。

 

1度その視線を気にしてしまえば最後。

誰が俺を見ているのか、というのが気になってしまい身体がむず痒くなる。

こういう時は、決まってその好奇心を発散しなければならない。

1度気にしてしまったものは最後までやりきらなければ気が済まない性格が災いしてしまったのだろう。

俺はその視線の正体を追及せねば気が済まなかったのだ。

 

立ち止まる。

そして大きく息を吸う。

そして俺は──

 

「誰じゃい!!!」

 

気配のした電信柱の影に向かって思い切り叫んだ。

すると、物音と同時に誰かが電信柱の影から躍り出てすっ転んだ。

女の子、茶髪にグラサン。

それだけの情報から普通は名前を絞り込むことは出来ないだろう。

しかし、俺には分かった。

この状況、それを覗く洒落た格好をしている茶髪の少女。

 

「いたた‥‥‥なんで急に大声出すのさ」

 

友人の少ない俺にとって、数少ない友人の顔を思い出すことは容易だった。

 

 

 

 

 

 

──覗きとは、悪趣味じゃあないか。

 

 

「恵美」

 

 

 

 

 

 

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