例えばこの出会いを歓迎することが出来たら1万円上げる───とか言われたら俺はもう間違いなく1万円を貰いにこの出会いを歓迎すると思う。
けれど悲しいかな。
貰えるお金もなければ、見られたのは非常にまずーい状況。
俺はこの状況をどう回避すれば良いのか、非常に頭を悩ませていた。
「‥‥‥なにしてんの、恵美」
取り敢えずはこの状況を何とかすべきと考えた俺。恵美にそう声をかけると、尻もちを着いていた彼女は起き上がり、少しだけ苦笑いをしながら頭を摩る。
「にゃ、にゃはは!ゴメンゴメン!!折角2人水入らずの所を邪魔しちゃって」
「いや、別にいいけどさ。もしかして‥‥‥ずっと見てた?」
こうしてここにいる以上恐らく恵美には見られているのだろうけど、万が一があるかもしれない。
実は、今来たばっかりだったとか。例えば、難聴系ヒロインだから全然聞こえなかったとか。
そんな
「‥‥‥例えば、ほら。俺と田中がギャーギャー騒いでたこととか、さ」
「んー‥‥‥」
俺がそう言って恵美に確認を取ると、途端に目を瞑りこめかみに手を当てた恵美。しかし、そんな考え込んでいるような恵美の素振りは数秒で終わり、それと引き換えに見せられたのは人懐っこさを体現したような笑み。
そんな笑みを浮かべながら、恵美は一言。
「にゃは、しじみ汁は美味しかった?」
「バッチリ見てんじゃねえか」
そりゃそうだよな、じゃなければこんなところの電信柱に隠れておちおち尻もちなんて着いてないだろう。
いやあ、恥ずかしいな‥‥‥知り合いの女の子にこんな痴態を見られたのは非常に恥ずかし過ぎるぞ北沢啓輔!
「そ、そんな恥ずかしがることないじゃん!!しじみ汁美味しかったんだし、感無量でしょ?」
状況に絶望し、蹲り、頭を抱えた俺を必死にフォローしようとする恵美。フォローがフォローになっちゃいないがこういうのは誠意が肝だ。恵美のこういった姿勢は有難いとは思う。現に、少しだけ元気を取り戻せたからな。流石コミュ力抜群の女の子だ。こういう時に何をすれば良いのかということをよく分かってらっしゃる。
フォローがフォローになっちゃいないんだけどね!
「‥‥‥そっかぁ、覗いてたのか」
「うん」
悪びれもなく、頷く恵美を見て軽く殺意が湧くが何も暴力や暴言を吐くほどではない。
寧ろ田中との食事風景を見られただけだ。それだけでも充分恥ずかしいけど、死ぬほどではない。何せこれはデートじゃない、罰ゲームだからな!
「‥‥‥まあ、覗かれたところで大したことはないけど。感心はしないぜ」
「だからごめんってばー。まさか啓輔がこんな所で琴葉とご飯食べてるなんて思わなかったんだもん。スミに置けないっていうか、抜け目がないというか‥‥‥あれだね、チャレンジャーだねっ」
「お前後で酷いからな」
「にゃは、理不尽ってこういうことを言うんだね!」
悪戯っぽく笑みを見せる恵美を一瞥しながら時計を確認する。
気が付けば時計の針は2を指している。田中と話した後で、恵美と余計に喋ってしまったせいでかなりの時間を食ってしまったらしい。
依然として恵美が笑顔でこっちを見てるのが非常に気に食わないのだが、俺もそろそろ帰らなければいけない。
息を吸って、思い切り吐くことで己の気持ちを切り替えると、恵美が相も変わらない笑みで俺を見る。今度は何を企んでいるんだ‥‥‥なんて思いながら目の前の少女の笑みを眺めていると、またしても彼女が会話の主導権を握った。
「んじゃ、途中まで一緒に帰ろっか」
「は?」
いきなりそんなこと言われたら否が応でも会話の主導権を握られてしまう。唐突に発せられた衝撃発言に開いた口が塞がらないでいると、あっという間に距離を詰められた恵美に手を掴まれる。
いやあこれが女の子の手ですか、田中の時もそうでしたけど本当に女の子の手ってやわっこくて爪長くて素敵──って違う違う。
「その手は何だ」
「逃げるでしょ?」
「逃げねえよ。良いからその手を離せ。俺とお前は手を繋ぐ程の仲じゃないだろうが」
「やだなー、アタシと啓輔の仲じゃん。1度楽しく話せれば友達!アタシ達は放課後も一緒に遊ぶ仲なのさっ!」
「今日含めて2回しか会ってない件について」
「細かいことは気にしなーい!」
お前はもっと気にした方が良いと思うんだ。
そうツッコミたくなる衝動を何とか抑えつつ、俺は改めて所恵美という少女について考える。
コミュ力抜群。可愛い女の子。茶髪ロングのアイドル。
そんな女の子が俺の手を握っていること自体が最早意外を通り越して異質なのだ。それにも関わらず俺はこの女の子に手を握られ、笑顔を向けられている。
‥‥‥出会いは公園。寧ろあの時は迷っていた俺に道を案内してくれるというおまけ付き。それだけで友達になれているとか、正直実感がないのだ。
何せ、俺は初対面の
「俺とお前が一緒に帰らなきゃいけない理由を教えてくれないか」
「理由?」
「そうだな‥‥‥例えば、用事があるとか。田中に近付くなとか」
田中は、アイドルである。
1年目とはいえその事実が変わることはなく、勿論人付き合いも増えていく。その中で、同じアイドル仲間の恵美が俺と田中の関係を一刀両断するのは何ら不思議なことではない。
片やアイドル、片や不良生徒だ。
しかし、そんな俺の考えは見当違いも甚だしいようで。
キョトンといった風に目を見開いた恵美は俺を見て一言。
「やだな、そんなコト言わないよ。何の因果があってアタシが琴葉の交友関係を阻害するのさ」
至極当たり前のことを言われてしまった。
尚も手を繋ぎながらそう言う恵美。俺は、そんな恵美のキョトンとした表情を見て、やってしまったという気持ちに至る。
田中と恵美の関係なんて何も分からないのにも関わらず、そんなことを言ってしまうのは失礼に値する。詰まるところ、俺は恵美に対して失礼なことをする──貸しを作ってしまったのだ。
「悪い‥‥‥」
「あーあー、心外だな。まさか啓輔がそーいうこと言うなんてー」
先程の抑揚のある声が一転、棒読みでそう言う恵美。温度差がある分、何処か怒っているという雰囲気が醸し出されており、凄みがある。
そんな光景を見てしまえば最後。
俺は彼女に謝るため必死に頭を捻った後に、弁明を行うため口を開いた。
「し、失言だったよ。これは所謂事故であってだな。単純に気になってしまったというか」
「気になって失礼なコト言っちゃうんだ」
耳が痛い。
オマケに胸も痛い。
これが自業自得というやつなのだろう。今の恵美の棒読みを聴いている俺の胸はズキリと痛みが走っている。ヒビが入りやすい俺のメンタルに、棒読みは効果抜群。そんな今の俺には、どれだけの羞恥や痛みに晒されようが恵美に謝る他なかった。
痛いのは志保のコークスクリューブローでお腹いっぱいだ。
「うぐ‥‥‥!わ、分かった。謝るし、詫びも入れる‥‥‥」
「詫びって?」
「‥‥‥言うことを聞く、とか」
「‥‥‥成程。じゃあ途中までアタシと一緒に帰ること!それで許そうじゃないかっ」
頭を下げて、謝ろうとした途端に先程までとは打って変わった弾んだ声が聞こえ、その声に俺は安堵感を得たのと同時に、『やはりか』という達観めいた気分に陥る。
弱みを握られてしまった以上、どうしようもない。そもそも田中と恵美の仲を軽んじてしまった俺の責任だ。この件に関しては逃げようもないし、逃げるつもりもない。
俺は両手を上げて降参の意を示した。
「‥‥‥それで恵美の機嫌が直るなら」
「やたっ!じゃあ途中まで一緒に行こっか!」
指パッチンを決め込み、笑顔になる恵美。恐らくこれを花のような笑みと呼ぶんだろうな‥‥‥なんて考えを抱きながら、頭を上げた俺は恵美と共に途中までの道のりを歩き出していった。
「にゃは、こうして歩いているとあの時のこと思い出すよね」
「あの時‥‥‥ああ、道案内の時のことか」
俺がこの女の子に対しての印象をコミュ力抜群のJKと固めたシアターまでの道のり。ミックスジュースやら流行りのファッションなんかの話をしていた恵美は本当に楽しそうに笑っていたのを確かに覚えている。
そして、それは今も同じ。楽しそうに笑って、会話を提供して、さりげなく人を気遣うことも忘れない。そんな恵美だからこそ、こうして会話が弾んでいるのだろう。
人に恵まれていると個人的には感じている。友達は少ないが、家族然り、田中然り、恵美や渋谷、腐れ縁然り、どいつもこいつも持っている自分の色が濃く、飽きさせない。
交友関係において、話題を提供してくれる存在だったり、楽しく会話できる存在は非常に有難いものだ。そして、それを交友関係の中で行うことが出来ている俺は、例に漏れずその恩恵を受けていると自負している。
みんな、良い奴だ。
それは口には出しちゃいないが、俺の心の中にしっかりと内在している。
それを身体的な意味でしっかり表現出来ているのかと問われれば──その確証はないんだけどな。
「道案内が終わった時から思ってたんだけどさ、啓輔って琴葉と仲良いよね」
「え?」
隣を歩く恵美にそう言われ、思わず足を止める。恵美から田中関連の話が出てくるのはこのリア充と連れ立って歩く以上ある程度は予測できた。問題は恵美から言われた『道案内が終わった時から』というワードである。
確かに恵美の言っていることは事実ではあるが、道案内の時は田中とのことを話した覚えはない。それにもかかわらず恵美がそう言ったということが俺には不思議でならなかった訳だ。
因みに、俺は田中とはそれなりに仲の良い関係性を築けているんじゃないのかなとは思っている。前に石崎に茶化されたときは否定したけど、そもそも仲が本当に悪けりゃ話もしないし、テストで勝負もしない。
尤も、田中さんがどう思っているのかは知らんけど。
「俺ってお前に田中とのことちゃんと話したっけ」
「え、ちゃんと?啓輔、琴葉と結婚するの?」
「お前が今、どれだけ的外れなことを言ってるのかは‥‥‥分かってるよな?」
速断速答で恵美の戯言を一刀両断すれば、恵美の口からは『にゃははー』と、先程の快活な笑い声とは程遠い間延びした空笑いが聞こえる。そんな様子にため息を吐きつつ、俺は恵美に対して正直に言葉を並べる。
「気がつけば田中が俺の席の隣で話しかけてきていたんだよ」
「そうなの?」
「‥‥‥すまん、あんまり記憶がないんだ」
恵美から驚きの声が上がるのも仕方ない。あんな可愛い女の子がクラスの不良生徒に話しかけるなんてどこのラブコメだとか、昔の俺が聞き手の立場にいるなら絶対に言うだろうし。
けど、一度でもそんな奇天烈な経験をしてしまえば人の価値観なんてものは簡単に塗り替えられてしまう。今の俺なら石崎が『知らない女の子が俺に好きって言ったんだよ!』って言われても信じて見せる。それだけの自信が俺にはあった。
そして、俺は1年前───厳密に言うところの田中と初めての会話をするまでの記憶に霞がかかっている。
理由は分かっている。あの時の俺は極端に一つの方向を向きすぎてしまっていたから、その方向の記憶しかないのだ。
切り捨てて、抱き締めて、必要性を感じて。
いつかの俺は一生懸命が過ぎたって母さんが言っていたのを覚えている。
馬鹿にも程がある愚行をしでかして、勝手にどん底に堕ちた。そんな俺に『楽しい』を与えてくれたのが、他の誰でもない田中なんだ。
「なんつーか、その時1杯1杯でさ。1年前の俺が今こんなに学校でも外でもはっちゃけてるなんて思ってもみなかった」
楽しいを与えてくれた田中が俺にチョップを打ち込むようになった。
田中の恐怖が脳裏を掠めるようになってからというものの、石崎との会話も少し弾むようになった。
毎日が楽しくなったし、胸が弾んだ。
「不思議だよな、人生って。こうも簡単に予想が裏切られる。こうも簡単に未来が変わる‥‥‥何気にそれってすごい事だと思うんだ」
そこまで話した所で恵美が口をぽっかりと開けていたことに気が付く。いかん、柄にもなく浸ってしまったか───と軽く自己嫌悪に陥っていると、その様子をおかしく思ったのか恵美が俺を見て、クスリと笑みを見せる。
「すまん、浸ってた」
「ん、別に大丈夫だよ。普通に分かるなーって思ってさ」
え───分かるのか。
つーか分かられてしまうのか!?
ううむ、それはなんともまあ恥ずかしい話である。ただの意見ならまだしも、分かられてしまったその言葉は軽く浸っていた俺が不意に口に出したもの。求められてもいない言葉に理解を得られたところで困るのは自業自得な俺の方である。
「う、嘘だろお前‥‥‥JKでそんな達観的になれるとか理解力の鬼か‥‥‥!?」
「いやそれブーメランだって!アタシだって啓輔の口からそんな言葉が出るとは思わなかったし‥‥‥」
それにね、と一息吐いた後に恵美は続ける。
「理解はできるんだよ。アタシもね、今がこんなに充実するなんて思ってなかったから」
「そうなのか?」
「アタシね、読モやってたんだ」
「ど‥‥‥どくも?」
「あ、読者モデルの話ね。それでもって家ではカテキョのセンセに色々勉強教えて貰って、兎に角普通に学校生活を送ってたんだ」
成程、読者モデルに家庭教師か。
一見してみると何とも厳しいスケジュールに見えるのだが、本人が好きでやっているのなら話は別だ。
存外好きというもの程時間の流れは早く思えてくるし、つまらないと感じるものは時間が長く感じる。こういうの、なんて言ってたっけかな。まあ、そんな感じの言葉があったはずだ。
そういえば渋谷とか志保にも勉強を教えたりしてたな。
勿論、今以上の学力向上は必須だが、将来的には教える立場に立つのもありかもしれないな、なんて思ったり。
「放課後は友達と一緒に遊んで、学校でも楽しんで。その生活はフツーに楽しかったよ?けど‥‥‥今はもっと楽しい。アイドルが、滅茶苦茶楽しいんだ!」
「‥‥‥そっか」
活力のある恵美の言葉は、聴いているだけで楽しくなってくる。トークセンスも、笑顔も、同級生ならイチコロだろう。それに、何より親しみやすい雰囲気がある。これは紛れもない恵美の持ち味であり、美点なのだろう。
そんな恵美の明朗快活っぷりに、すっかり絆されてしまった俺は思わず吹き出してしまう。それに気が付いた恵美は『あっ』と声を上げた後に、頭に手を置いて舌を出した。
「ゴメンゴメン!こっちも浸っちゃったね!」
「良い話を聞かせて貰ったからな、構わねえよ」
俺のよりか余程建設的で段階的な話だった。こちらも浸って言葉を発してしまった以上恵美の話は聞くべきであるし、そもそも恵美の話は浸ったものではない。経験談に基づいた感想だ。そして、その話を鬱陶しいとも思わない。
強いて言うとするのなら、年甲斐もなく高尚な考えを持っているっていう感心だろう。コミュ力含め、お前本当に高校生かって思いたくなったぞ。
「まあ、俺も偉そうなこと言える立場じゃないから。ボキャブラリーに富んだ言葉は言えないけど‥‥‥その楽しいって気持ち、大切にな」
「大切‥‥‥?」
「そう。大切に‥‥‥ほら、人間50年とか言うじゃん。お前が思っている以上に時が過ぎるのは早くて儚いものなんだ。俺ももう18歳‥‥‥初めてケーキ作ろうとしたらとんでもないもの作って志保にぶん殴られたのが昨日のことのようだよ‥‥‥」
本当に時の流れは早い。
ケーキを初めて作ったのが16歳の頃なら、志保に反抗的になられ始めたのが1年の冬頃。小学生の頃はあれだけ可愛かった志保は今ではクールビューティが過ぎる別嬪さんになった。
それら全てはまるで昨日のことのようで、時の流れがあっという間だということを認識させる。嬉しいことではあるが、哀愁を感じないと言えば嘘になる。
ずっと──こんな時間が過ごせれば良いな、なんてことを思っていた。
否、幼い頃は今以上に幸せになれると盲信していた。
時の流れを感じるのと同時に、自分が想っていた昔の幸せがどれだけ浅ましく、自己中心的な考えだったのかを痛感させられるからだ。
「ねえ」
ふと、一言。
ぽつりと呟いた一言と同時に、恵美が立ち止まる。
隣を歩いていた俺は恵美に2.3歩程の距離をつけた後に立ち止まり、恵美の方を振り向いた。
「楽しいことって、沢山あるけどさ。人生って1回きりだから──やっぱり弾けてみたいじゃん」
「お前の場合の『弾ける』ってのがどういう意味なのかは知らないが、概ねは同意できるかな」
輪廻転生やら異世界転生やら色々な概念はあるが、それは確かなことではない。確かなのは現在しかない、ならその現在を思い切り楽しもうという概念は呆れるほど理解できる。
なら、現在を楽しんで充実させてやろうという気概が伝わってきた恵美の発言に頷きながら言葉を返すと、『でしょ?』という言葉の後に恵美が続ける。
「だから人と話しているとそういうこととか分かったりするんだ。楽しく話してても普通に話してても、ある程度の‥‥‥我?があって、その時に話す将来の夢とかでやりたいこととかが分かっちゃうもんなんだよ」
「へえ‥‥‥」
「でも、不思議。啓輔はビックリする位受け身でさ。自分から話さないから──アタシ、啓輔の好きなこととか、将来の夢とか‥‥‥そういうのが全然分からないんだよね。強いて言うならシスコン」
「お前、俺をそんなふうに見てたのな」
「誰だって思うでしょそれは」
恵美の鋭いツッコミは初めて聞いた気がする。
そんなことを思いつつ、核心に迫られつつあった俺は何となく気まずくなり、頬をポリポリとかく。
すると恵美はその笑顔に陰を落として。
明朗快活とは程遠い、苦い笑いを見せて。
「‥‥‥啓輔にはさ、あるの?家族のこと以外でやりたいこと」
立ち止まり俺を見つめる恵美の表情はその快活な様子を失っている。どこか心配そうに苦笑いをする彼女の表情には、本当に人を心配するとき特有の真心が見え隠れしているのだ。
心は実際に見えるものではないが感じることはできる。受け取った本人の感受性次第ではどのようにも解釈することができる心。そんな恵美の苦笑いから察せられる心を、『俺』は心配と受け取った。
間違いかもわからない。が、ここで質問の意図を聞くほど野暮な性格でもなかった俺は、恵美の顔をしっかりと見据える。
「‥‥‥うむ」
「‥‥‥にゃはは、冗談!なんとなーく聞いてみただけ──」
「
「え」
「家族が幸せなら、それでいい」
幸せになれるなら、悪魔に魂売ったって良い。
嘘でも方便でもない。
本気だ。
家族の幸せに勝る幸せは今の俺にはない。
極論、母さんと志保と陸が幸せならそれでいい。
「‥‥‥お、もう駅か。時が過ぎるのははえーなぁオイ」
気が付けば最寄りの駅に辿り着いてしまった俺と恵美。相も変わらず彼女と話していると時すらも忘れてしまうようで、俺は改めてリア充の凄さ。陽キャラの素晴らしさを学んでいた。
環境は人を変えるとは良く言ったものだが、確かにこの子1人友達になるだけで人生は随分と変わるだろう。
さて、先程まで苦笑いをしていた恵美は憑き物が落ちたかのように先程までの笑みを取り戻していた。普通にしてれば顔立ちはクール、しかし話していくと人懐っこい笑顔が持ち味の陽キャ、コミュ力抜群のJKということが分かる。それでもってあのようなアンニュイな顔を見せられる──うん、百面相っていうのはコイツのことを言うんだろうな。
「あっという間だね。もっとお話したかったんだけどなー」
「やめてくれ、恵美と話してたら要らんことまで喋っちまいそうだ」
「お?そんなこと言っていいのかな?」
「ごめんなさい」
迂闊だった。
今の俺は所謂罰ゲーマー。恵美の言いつけの元、会話をしていることを忘れてはいけない。今、この場面の主導権は奴が握っているのだ。
頭を下げ、許しを請う俺。それをあざ笑うかのように恵美は『ふふっ』と笑い声を零す。
「今日は楽しかったよ!また一緒に帰ろうね!」
「御免被るぜ‥‥‥またな、恵美」
「まーたそういうことを言う‥‥‥ま、いっか!じゃーね啓輔!」
最後の最後の山場を超えれば、後は下り坂。恵美が提示した罰ゲームを終えた俺は、そう言って駅に向かっていく恵美を後目に、自らの家族が待つ家へと向かい、歩を進めていった。
※
どんな奴にも好きなものがひとつはある。
俺の場合、それが家族『じゃなきゃ』いけない。
それだけの話だ。
一人で自宅までの帰り道をぽつぽつ歩いていた俺は今日までの俺自身を回想すべく過去の消えたり都合よく書き換えられた記憶を引っ張り出していた。
その過程では、かつての俺がとても楽しい何かをしていたことだったり、幼少期の頃の黒歴史を思い出したりと、俺の頭の中は、ありとあらゆる記憶を思い出していく記憶のバイキング状態と化していた。
それでもやはり1つ。完全に消えてしまったつながりが思い出せずに悶える。
知るべきだと感じた。
球技大会の時に感じた田中との微かな繋がり。最初は知らなくても良い事だと思っていた。俺の霞がかかった過去の記憶なんぞ思い起こすだけ無駄と感じたからだ。
しかし、そんな思いは田中の真摯さによって打ち消される。
過去に受けた感謝を忘れずに『ありがとう』と言ってくれた。シチューの買い出しの際に含ませていた言葉を、勇気を出して伝えてくれたのだ。それなのに、俺は思い出せない、思い出す気にもならない──なんて言葉で逃げたくはなかった。
大体──
「あんな顔してたのにこれ以上知らぬ存ぜぬで済ませられるかっつーのォ!!」
あの時の田中の俯き加減の顔をいつまでも忘れられないでいる。
いつも毅然とした態度で、笑顔は可愛くて、それでも時々ポンコツな田中。
そんな田中が勇気を出して言ってくれた一言に応えたい。応えて見せたい。そんなことがあったなって言って田中を笑わせてやりたい。
なら思い出すのが筋だろ。例えそれを思い出して辛い記憶を思い出したとしても、それは折角親身になってくれる友達に不誠実であっていい理由にはなりゃしない。
どれだけの時間をかけたって、俺はその出来事を思い出したかった。それは同情ともとれるのか、若しくはただの愚行か。一度は考えたものの理由探しに必要性を感じなくなってからはそれを考えることを止めた。その理由が何であれ、俺がその出来事を思い出し、田中に笑っていて欲しいという俺の思いは一緒だということを悟った故である。
しかし、記憶というものほど当てにならないものはない。本当に見つけたいものはここぞという時に見つからず、こんな時に限ってどうでも良いことを思い出してしまう──また、そのきっかけが転がっていくことは良くある出来事で。
「すいませーん!!」
「ん?」
遠くから声が聞こえ、声のした方である右横を振り向くと、足元に軟式の白球が転がってきた。
泥色になったボールは努力の証。そんなボールが転がってきた瞬間、俺は何故声をかけられたのかを悟った。
ボールだ。そして、声のした方ではグローブを嵌めた少年達が手を振りながら、俺に返球を催促していた。
「‥‥‥放っとくわけにはいかないからなあ」
その白球を拾うことに、抵抗感がある。
他人からしたらたかがボール位──と思うかもしれない。けれども、俺にとってそれは大きなことなんだ。
そのボールやたまに公園に落ちているバットなんかで良い思いも悪い思いも経験した俺にとっては、ある意味での『ワケあり』だから。
その『ワケあり』は思い出でもあり、それと同時に出来ることなら封じ込めておきたいものでもあるから。
その『思い出』を手に取った瞬間、気分は最悪なものになるから。
『そうか。啓輔は野球が好きなのか』
うん。
『なら一生懸命練習しないとな。どれ、一緒にキャッチボールでもするか』
うん。
『大きくなった姿が楽しみだな‥‥‥』
消えろ
「‥‥‥」
ボールを握る度に湧き上がるこの想いの正体は、やるせなさなのか苦痛なのか。複雑に混じり合い、確立されてしまった今の俺の心ではそれを知ることはできない。
どれだけの言葉を尽くしたところで、たった1度の出来事で全てが壊れてしまうこと。どれだけ優しい約束をしたところで、たったひとつの行いで全てが淀んで見えてしまうということを。
そんな天啓を得た俺は、その天啓を己のプライオリティとして、決して家族は裏切らないように。どれだけの馬鹿をやらかしても家族には、家族にだけは笑顔でいようと
それでも、その考えが頭の中にあっても本当に切り捨てなければいけないものを切り捨てられず、3年もの間俺は家族を苦しめた。
それを忘れてはならない。一生かけても償えない、俺の汚点だ。
当然、あの人には感謝している。
恨むことはない。憎むこともない。大人には大人の事情があり、当時も今も子どもである俺に止められることなんてひとつもないから。やむを得ない事情を憎み、己の精神に負荷をかけるほど俺は馬鹿じゃない。
ただ、もうあの人は他人ってだけ。それでいい。
それでこの件は吹っ切れてるから。
寧ろ感謝したいくらいだ。この件がきっかけになり、俺が野球をやることで家族にどれだけの負荷がかかるのかを知れたから。
妹の涙に、気がつくことができたから。
家族が大切だということに気付けたのだから、それで良いんだ。
人間、良いことも悪いこともいつかは変わってしまうもの。それはどんな人間にも抑えることのできない自明の理。必然と共にやってくる酷く儚い空虚な現実だ。
そんな時はいずれ家族にもやってくる。それぞれの未来を歩むことで、俺達の関係性も嫌というほど変わっていく。何もかもが、変化せずにはいられない──それは北沢啓輔とて例外ではないのだ。
「‥‥‥‥‥‥」
野球ボールを拾う。
それは一般的な小中学生が使う軟式球。硬球を使って野球をしたことが少ない俺には違いはさほど分からないが、硬球よりか全然打ちやすいということを腐れ縁から聞いたことがある。
ボールを触ること自体も久しく、ボール特有の丸みに感慨のような何かを感じていると、少年が両手を広げボールを急かす。
「くださーい!!」
感慨に耽っている場合ではない、そう感じた俺はボールを投げる時のように縫い目に沿って人差し指と中指を添え、振りかぶる。
肩のストレッチはまるでしていなかったが、一球しか投げない上に、今後野球をする予定はない。序に肩にはちょっぴり自信があることから、ストレッチ軽視の考えに至る。
迷いもなく振りかぶり、俺は白球を中坊に向かって投げた。
以前は光り輝くように見えた白い流れ星が今一度輝いて見えることは、なかった。
結果は、ノーバウンド送球。50mという距離がありながらも普通に返球できたということは、俺の肩は中学3年生のまま変わっていないということ。
まだまだ俺の肩は健在らしい。
「ありがとうございまーす!」
少年から、感謝の声が響き渡る。
その純粋な姿は見ていて気持ちが良くて、帽子を取り頭を下げるその行為には一種の清々しささえ感じられる。
そんな清々しさを肌で感じた俺は、その少年の礼に応え、自分という存在を証明するかのように大きく手を横に振り、そして一言。
「気をつけろーい!」
大きく声を張り上げて、俺は今一度目的地に向かって歩き出す。
真っ直ぐを見つめ、ひたすら歩き出す。
思い出してしまった過去を振り返らないように──ひとつ、ひとつ。
脆く、今にも壊れてしまいそうな己の道を、踏みしめた。
志保パパごめん。円満解決なんて無理よりの無理、啓輔君もそこまで器用じゃない。作者も書けないそんなの。
少なくとも急に出ていった親に子どもが良い印象を抱くわけがないって補足。
事実大変だし。この件で母が仕事に出て、あんな広い部屋に志保が1人、鍵っ子だった時もあったはずでしょ?
そら誰にも頼らなくなるわよ。それでもりっくんをちゃんと可愛がり、経済状況まで考えて家事もする志保はマジで神。
志保のお母さんも、志保も、りっくんも本当に報われて欲しいわね。
んで、遅れて本当にごめんなさいってどうでもいいことを書く人間界の塵芥。
ここというタイミングでうみみ走法が出来ないという致命的な欠陥を抱えた駄作者ですが、今後ともよろしくお願い致します。