日が照りつけている癖に体感温度は全くもって上昇の気配を示すことの無いアンバランスな陽気が俺の身体を支配するその日の『波乱』は、誰に言った訳でもない田中の独り言から始まった。
「先生、ここに不良生徒がいます」
「......あん?」
朝のSHR後。
『不良生徒』という今では最早聞き慣れた言葉を俺に聴こえるように呟いた田中の独り言を俺はわけもなく拾い、問いかける。しかし、黒板の一点のみを見つめた田中の独り言は尚のこと続く。
「巷で聞いたんです。とある生花店で女の子とイチャイチャイチャイチャしてて。あまつさえ中学生時代は、その子と付き合ってた噂まであったとか」
「生花店‥‥‥?」
生花店と言えば。
そういえば俺の働いている場所は生花店と呼べる場所であったということを認識し、それと同時に俺は田中の発した言葉に目を見開く。
問題は後者だ。
誰だ!誰だよ俺と『そいつ』が付き合ってるなんて噂をしたの!!しかも中学時代!?それもうロリコンじゃん!!
「そうだ、店の名前も聞いたんです。確か、し───」
「よし分かった!分かったから黙れ!?その口まじで黙れ田中ァ!!!!」
俺は、見知らぬところで俺のプライバシーが田中に透け透けになっていることを咎めようとして思わず暴言を吐いた。
何故、俺のプライバシーがまたしても透け透けになっている?俺の情報はどうなっているんだ?敵は誰なんだ?そんな疑念に駆られていると、田中がこちらをまるで『何言ってんだこいつ』みたいな純真無垢な表情で問いかけてきた。
「どうしたの?ブラコンでシスコンの北沢くん」
「さり気なくこの前の話をネタにするのはやめてくれませんかねぇ......!それよりも俺が言いたいのはお前がブツブツブツブツ言ってたさっきのネタのことだ!!誰から聞いた!その手の話題は高校時代には何一つ話してないはずだぞ!?」
俺が先程までの田中の独り言を咎めると、田中がジト目でこちらを見やる。
「石崎くん」
「テメエ石崎この野郎───!!」
彼は何度も何度も俺のプライバシーを透け透けにしている前科がある。今日という今日はボッコボコのフルボッコにしても良いのではないかと拳を血に染める覚悟を決めていると、田中が怒りの表情でこちらを睨みつける。
「私、今まで北沢くんの愚行は何度も見逃してきたつもりだけど」
「おい待て、遅刻して何度も何度も痛い思いをしたのは気のせいか?」
「今日という今日は、許せない。年貢の納め時だよ北沢くん」
「更に待って、何時も許されてない気がするんですけどこれまた気のせいですかね?」
適度にツッコミを入れるも、今日の田中は動じない。鬼のような形相を平気で保っている。怖い。端的に言って、恐ろしい。
「......甘い。甘いよ北沢くんは。砂糖をふんだんに使ったコーヒーよりも甘いよ。まさか───」
その時、田中は躊躇いを見せる。しかし、石崎に全てを話されているということは、もはや逃げ場はなし。俺は両手を広げ、降伏の意思を示す。
「......ああ、そうだな。もう白状してやるよ。そういう事だよ」
「......やっぱりそうだったんだ。道理で毎日活き活き惰眠を貪って───」
「仕方ないんだ!俺には必要なことなんだよ!『大切な人』の為に!!」
「なっ───!?」
その瞬間、田中は頬を赤く染める。え、何で?
まあ、別に田中が顔を赤く染めようが俺としては不都合がないので続けるわけなんだがな。
困惑する田中を尻目に、俺は両手を翼の如く大きく広げて更に一言。
「その人の事が大切だから、禁忌に手を触れるんだ。いわばスマホで電話することだって、バイトすることだってその人の為の布石なんだよ......!」
「ふ、布石って......で、でも。駄目だよ、高校生がそんな───」
「もう、この際言ってやる。誤魔化す気は無い。俺の口からお前に伝える、白状するよ」
バレてしまったのなら、仕方ない。
「そう、全ては───」
☆☆☆☆☆
「......で、殴られたの?」
「いやあ、そりゃあ綺麗な右ストレートでしたよ。一瞬目の前とお空が真っ赤になりましたからね」
あの右ストレートは素晴らしかった。普段は演劇をやってるらしい田中だが、アイツなら、ボクシングだって出来てしまいそうで末恐ろしい。
と、そんな想像をしていると俺のバイトの先輩。黒髪ロングの美人がため息を吐いて、こちらに呆れた視線を送る。
「馬鹿でしょ」
「それを言ってくれるな」
俺だって自覚してるやい。もっと深く石崎から聞いたとされている事前情報を掘り下げて聞くべきだった。
まさか、俺がバイトを始めた理由が女の子との出会いを求める為とか言う不純な動機だったと噂されているだなんて、思いもしなかった。
否、予兆はあった。最初から田中がそのような事を言っていたのは分かる。これは俺の聞く力の乏しさによる災難なのだ。
序に石崎は止血した後直ぐにアップルパンチ(自称。特に他意はない)を脳天にぶちかましといた。無論、脳震盪を起こさない程度の、ゲンコツだ。偶には制裁を与えなければ、こちらの身とプライバシーが持たない。
と、そんなことを思って心の中で石崎に対する呪詛を唱えていると、レジに座っている黒髪ロングの美人───2つ年下の『渋谷凛』がこちらをまるで馬鹿でも見るかのような、否──実際に言われていた──目付きで睨む。
「大体、そんな噂をされているのは啓輔がことあるごとにこの店に来るからでしょ?自分のしでかした罪には責任を持ちなよ」
「俺に罪ってあったっけ......!?大体、ここまで俺のプライバシーが筒抜けになってるのは俺の某友人のせいなんだぞ?」
「友人に対してのブロックが甘いんだよ。啓輔は詰めが甘いからね」
「初耳だぞそれ」
そこまで詰めが甘いか俺。
「十分甘いよ、啓輔はさ」
そして、この笑顔だ。全く忌々しい。昔───俺がスポーツをやっていた頃からの腐れ縁のこの表情だけは昔と全く変わらない。
渋谷凛は、いわば親友のような関係だ。昔から同じ小学校で、関わることが多くて、成り行きで友達になって、今ではバイト仲間───尤も年上の俺が後輩で、年下の凛が先輩という変な構図なのだが。
「このド畜生め......」
「啓輔、世の中には『先輩』に言っていいことと悪いことがあるんだよ?」
「あああああ!!腹立つ!!無茶苦茶腹立つ!!3年前までランドセル背負ってた癖に!!あどけない表情して俺の裾掴んでた癖に!!」
分かっていることだけに、尚更腹が立つ。確かに渋谷はこの生花店の一人娘であり、仕事の経験も彼女の方が長い。しかし、年齢的には俺が年上という一種のジレンマに陥ったことにより、地団駄を踏み、悔しがると凛が少し顔を引き攣らせて、無理くり笑顔を作る。
「か...関係ないでしょ。全く、過去の話を持ち出すなんて啓輔も子供だね」
「.....さあて?子供はどっちだろうな。こうやってバイトしつつ将来に備えて目を腐らせている俺。方ややることがなかなか決まらずに部活動何にしようかなーって未来に夢を馳せウキウキしてる若人───」
その瞬間、渋谷の右ストレートが俺の頬を掠める。その軌道はまさに何処ぞの伊達のコークスクリューブローの軌道であり、それが髪に掠ってしまった俺の大事な髪の毛は、2〜3本抜けてしまった。いやあ、驚きだよ!啓輔心臓ひえっひえだよ!
「啓輔、アンタが私の弟や兄じゃなくて良かったね。もし血縁関係だったら危うく啓輔直伝のコークスクリュー、よそ見からのガゼルパンチでアンタをはっ倒してた所だよ」
「なりたくもねえよ。俺の妹は志保、弟は陸。これ重要だからな?最早俺はアイツら家族の為に生きているといっても過言じゃないんだからね?」
「はいはい、本当に啓輔は家族想いだね」
「あ、なんか今腹立った」
そう呟いた俺は、休憩にかこつけて外の空気を吸う。穏やかな空気が俺の肺を支配して、また俺の体に活力が戻ってくる。
太陽が、俺の顔を照りつける。それと同時に、凛は何気なく、俺に語りかける。
「.....啓輔の弟妹になった子は幸せだろうね」
「いきなりどうした」
というか、何で。
そう思い、カウンターを振り返るとその先には半ば呆れ気味の凛が苦笑して、こちらを見つめていた。
「普段バイトをしてお金を稼ぎつつも、しっかりと妹弟の面倒を見てくれる優しい兄貴なんて、きっといてくれるだけでありがたいよ。まあ、啓輔はそれなりに頼りがいあるしね」
そう言って、ぷっと吹き出す凛を見て若干の殺意に駆られるのは最早俺自身の問題なのだろう。煽り耐性が先の石崎の件で既に擦り切れていた俺はこめかみに力を入れて無理矢理笑顔を作る。
「そっかぁ.....頼りがいがある、ねえ?」
瞬間、俺は凛の元へ近づき、頬を引っ張る。
「嘲笑しながらそう言っても信ぴょう性の欠けらも無い事に気付きやがれ!!」
「痛っ──ちょっと啓輔その右頬貸して?生意気なその口、私も抓って‥‥‥引き裂いてあげるから」
「はっ‥‥‥できるもんならやってみろよ!その非力なパワーで俺の強靭な頬を引きちぎれるならぁ痛゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!」
俺と、凛の日常はこんなものだ。
決して、あらぬ噂の通りに仲睦まじいわけでもなく、かといって殺伐とした空気でもない。
お互い軽口と軽い喧嘩をこなす程度に仲が良い、昔から.....ではないがこの関係性をずっと続けている。
故に、俺は思う。
渋谷凛といるこの日常は、決して悪いものではないと。胸を張ってまでは言えないが、少なくともここでは正直な自分をさらけ出せる。
尤も、仮に俺と凛の関係が腐れ縁なんかでは無い初対面なんかだったらあの鋭い眼差しで軽く小便ちびるまであるんだけどな。
この関係を『親友』というべきか、『後輩』というべきか、はたまた『親密』と言うべきなのか、俺は迷っている。
☆☆☆☆☆
さて、花屋のバイトを終わらせて、それでもチクチクと心臓を抉るようにやってくる凛のカットボールのような口撃を何とか回避しつつ帰路についていると、俺のポケットが振動する。
「ふぉぉぉぉっ!?」
あまりに唐突な出来事な訳でもないのに変な声を出してしまう。なんだろう、最近電話に対応する事に田中のせいで滅茶苦茶抵抗を感じるんだけど。
「......畜生め」
内容を見てみるとそこには妹からの電話が来ていた。こんな時間に、妹からのお電話。なんだろう、なんか嫌な予感がする。部屋に隠しといた石崎の回し物、俗に言うところのムフフなビデオでも見つかったか?
......
勿論、ここで着信拒否なんてしたら帰ってきた志保に凛以上に内角を抉るようなカットボールもとい口撃が俺を襲うので、大人しく電話に出ておく。
おうこら、そこのハムスター。情けないゴミクズを見るかのような目つきは止めないか。これは北沢啓輔という人間にしか分からない懸案事項なんだからな。え、ハムスター......?ハムスターって外にいるものなの?......いや、きっとバイト疲れで気が滅入っているからあんな幻覚を見るのだろう。そう思った俺は頬を1度叩いて電話に出る。
「言っておくけど俺に罪はないからな。あれはクラスメイトiのアホが贈ってきた回しものだ」
真実を早口に捲し立てると、志保が電話越しに困惑の声を上げる。
『......は?何を言っているの兄さん』
......どうやら、要件は俺の危惧していたものとは違ったらしい。1度、落ち着くために深呼吸をして気を取り直す。
「悪い、妄言だ。で、どうかしたのか?」
『今、何処にいるの?』
「うん、外にいる」
『私は外の何処にいるのか、聞いたつもりなんだけれど』
おっと、確かに家にいなきゃ外にいますわな。言葉の真意をしっかり読み取れよ北沢啓輔。昔からそうだ.....そんなんだから昔からお前は妹の尻に敷かれてるんだろうが。
尻......尻、か。うん、深く考えるな。言葉の喩えだろうが。
『今、物凄い不快な気分に陥ったのだけれど』
「気のせいだ。それと、今スーパーの前にいるんだが......追加で買い物か?」
『ええ、ケチャップを1つ。何処かのお兄ちゃんがりっくんにケチャップアートを教えたせいで買っておいたケチャップが切れたから』
やや辛辣に言葉が返ってくるも、今の彼女の言葉には『冷酷』さが全くといっていいほどない。これは何時もの妹から察するにあまり怒ってはいないという事だ。
本気で怒った志保は、怖い。目のハイライトは消えていつの間にか、俺は尻餅を着くか、土下座をしている。そして悪魔のような無表情で見下ろされて冷酷な声色で一言だけ言われるんだ。
『正座』
この怖さは、1度体験してみなければ分からない。そう思ってしまう俺は文字通り、志保の尻に敷かれてるんだろうということが自分でも理解できる。
閑話休題───
「美味しかっただろ?愛情がこもってて」
『因みに誰の、と聞いてもいいかしら』
「99パーセントのりっくん成分と1パーセントの兄貴成分」
俺がそう言うと、志保はため息を吐いて、一言───
『100パーセントりっくんを希望するわ』
そうして、志保は電話をぷつりと切ってしまった。
「俺の愛情はいらないってか」
全く、失礼しちゃうぜ。俺だって陸と一緒にハンバーグ作ったんだぜ?そもそも100パーセントりっくん成分っていったらハンバーグを作るための工程を全て陸が背負わなければいけなくなる。
レシピを見ながらハンバーグ作りに悪戦苦闘するりっくん......見てみたい気持ちはあるが、子供が1人で火を使うのは危険です。お兄ちゃんが許しません。
「ま、それはいいとしてだ」
ケチャップだったっけかな。それを買いに行かなければ志保の冷酷な目付きと声色が俺の五体を蝕むであろう。俺は、バイトで疲れた体に鞭打ちながらスーパーへと歩を進める。
何時もなら買い物カゴを持っていくのだが、今回買いに行くのはケチャップだけ。故にカゴは持ち運ばず自動ドアを潜ると、店内をぐるりと見渡す。
すると、意外な人物がスーパーの食品売り場で食材を吟味していた。
「......げ」
なんということでしょう。
そこには本日のお昼時、俺にあらぬ疑いをかけて最後には右ストレートを食らわせてきた田中琴葉さんがいらっしゃるではありませんか。
先の件といい、今年に入って田中のせいで何かとトラウマを植え付けられてしまっている俺としてはここで一発逃亡と洒落こみたい所なのだが、志保のケチャップの1件もある。
まさに四面楚歌、背水の陣、ABCD包囲網って所だ。さっきから頭の中では最近まで聞いてた牛さんの歌が聞こえてくる。これが巷でよく聞く『はい、お前詰んだ〜♪』って奴なのだろうか。
どうする、北沢啓輔。
田中琴葉に近付くか。
妹沢志保に『正座』させられるか。
それとも───
☆☆☆☆☆
悪いことをしてしまった───
私、田中琴葉は気分転換にお母さんに頼まれた食材を吟味しながら1人の男に対して、そんな気持ちを抱いていた。
北沢啓輔───。
その男は普段から、不真面目、不勤勉、寝坊助とダメな要素ばかり目立つ人間だ。授業は不真面目に取り組むし、高校生になって、何かを継続したことを見たことがないし、月イチのペースで寝坊は当たり前。その愚行は隣の席にいる私にとっては許容しがたい事実であり、性格だった。
勿論、彼にだって言い分はあると思う。彼には弟妹がいて、何かと忙しい。友達と遊びに行く時間が無い程忙しい───という話を聞いたことがある。それ故の遅刻ならば、致し方ない面もあるし、部活なんて以ての外だろう。授業中に寝るのはあまり褒められたものではないが、それでもノートはしっかり取っているみたいだし(石崎くん談)。
けど、だからといって、世間的に彼の行為が許される訳じゃない。遅刻はしては行けない。授業はしっかり受ける。最低限、これだけでもやって欲しいというのは本音だし、高校生のルールであろう。
そんなことを考えている最中、私はたまたま出くわした石崎くんからとんでもない情報を得てしまったのだ。
それが、バイトと女の子の話である。
『よーよー、田中ちゃん!最近啓輔と仲いいね!折角だから付き合っちゃいなよ!』
彼の言動や、行動には嘘はない。一見ニコニコした笑みを振りまいた軽薄そうな男と思われがちだが、色んな人と友達だったり、野球を一生懸命やってたりと、クラスの男女からの評価はなかなか高い。
それ故か、当初は彼の『こういった』言葉───俗に言う茶化し等に一種の抵抗を感じていた私だが、今ではちょっとした挨拶みたいなものとして、軽く受け流せる程度には、慣れた。
『あはは......まあ、まちまちかな?』
『そうかいそうかい!ならいいけど、もし啓輔を狙ってんなら早くした方がいいぜー?何せ、アイツはバイト先でも女の子とお話してるからなぁ?』
『え』
バイト?
初耳なのだが。
ましてや、女の子?
『あ、やべ、口滑った』
瞬間、真顔になる石崎くんをじっと睨み、1歩歩み寄る。説明してもらおうじゃないか。
『教えて?石崎くん』
『せ、せやな......』
困惑する石崎くんを尋も......こほん、問い詰めて見たところ、北沢啓輔という人間はどうやらバイトをしているらしい。
石崎くん曰く、中3のころからバイト的なものを始め、高校生かられっきとしたバイトとして採用されると某生花店で女の子とイチャイチャイチャイチャしていたらしい。
もし、忙しいといっていたことがバイトなのだとしたら。その目的が妹弟の為ではなく、女の子の為だとしたら。私は彼を止める権利がある。
こうなってしまった私を止めることは出来ないってことは私が1番知っている。情動に、熱情に身を任せることがよろしくないことは分かっている。
それでも、私は。私自身を止めることは出来なかったのだ。
『あ、でも別にそういう関係になってるわけじゃないぞ?寧ろ噂のままに終わったっていうか......って、ちょ.....マテオ!』
自分の席へと向かう。後ろで石崎くんが何かを言っているがそんなことは知らない。窓際1番後ろの席に腰掛けると、私は群青色の空をじっと見ていた北沢くんを一瞥して誰に語りかけるまでもなく、実際にはちょっとだけ語りかけるように石崎くんから聞いたことを復唱した。
『先生、ここに不良生徒がいます』
『......あん?』
それから先は、お察しだ。
家族の為にバイトをしていたという事実を確認しないまま、決めつけてしまった私は自分を恥じた。砂糖をふんだんに使ったコーヒーよりも甘かったのは、私なのであった。
家族の為にバイトをしているのなら仕方ない。というか、賞賛に値するし、これに関しては怒る気もない。
それなのに、唐突に白状し始めた北沢くんに驚き、あまつさえ大切な人の話を『彼女』のことと盛大に勘違いしてしまった私は羞恥で顔が熱くなった。
そして、それを悟られないように北沢くんの目を塞ごうとした故の右ストレートだ。早急に保健室に連れて行って、何とか事なきを得たが、お陰様で見事なまでの罪悪感が私の心を支配してしまったのだ。
「はあ......」
あれから、色々と都合が合わなくてちゃんと謝ることが出来なかった。明日、ちゃんと謝らなければ。
うん、大丈夫。北沢くんなら、多分、きっと許してくれる。
ただひたすらにそう思い続けつつ、自らを奮い立たせるためにぐっと握りこぶしを作る。
そして、そろそろキャベツを選ばなきゃ......と、キープしておいたキャベツを買い物カゴに入れようと手を伸ばしたその時だった。
「ママー、ここに変な人がいるよー」
「こ、こらっ!指をささないの!」
子供連れの家族がそう言った声に思わず、咄嗟に振り向いてしまう。
すると、目の前には先程まで頭の中に浮かんでいた男が、買い物カゴで顔を隠して、そろーり、そろーりと忍び足で私の横を通過しようとしていた。
「......」
こんなカモフラージュで、だまくらかせるとでも思っていたのだろうか。
「......」
「......お、おーう、ワタシ、アメリカカラキマシター、ジュテーム!ボンジュール!シルププレー!サヨナラホームラーン!!」
アメリカ人なのか、フランス人なのか分からない時点でアウトだろう。そして最後のは全く関係の無い野球用語だ。
「......じーっ」
「......むーん」
やがて買い物カゴのカモフラージュを解いた北沢くんが顔を背けて変なうめき声を上げる。そんな北沢くんの目を私はじっと見つめる。
「北沢くん?」
「......はい」
不味い、自分でも笑顔になっているのがわかる。尤も、この笑みは楽しく愉快......と言ったものとは程遠いそれなのだろうが。
「何してるの?」
そう尋ねると、観念した北沢くんはため息を吐いて俯く。
「ええっと、この度は妹からケチャップの調達を頼まれた次第でありまして......」
「うん」
「意気揚々とスーパーに行ってみたらキャベツを厳選している田中さんを見かけましてですね......」
「それで?」
「あ、これやべー......って思った俺は何とか野菜コーナーの近くの調味料、ケチャップを買う為に買い物カゴをカモフラージュに使って......」
「全然カモフラージュになってなかったよ」
「いや、案外お前さん騙されてたって......って怖い怖いッ!田中さん!?謝るからどうかその笑顔をヤメテ!精神的にやられちゃうから!俺、メンタルボロ雑巾だから!」
ごめんなさいごめんなさいと呪詛のように私に言ってくる北沢くんを尻目に、私は溜まった息を吐き出す。ため息は基本よろしくはないが、あまりの急展開にこうでもしないと事に対応出来そうになかった。
「何も隠れる必要は無かったでしょうに」
「自由だろ、俺がそこで何しようが......」
「それで子供に不審者と間違われてたら本末転倒でしょう」
「うぐ......」
北沢くんはそう言うと、バツが悪そうに顔を背ける。その表情がなんだか面白くて、私は少しだけ表情が緩んだ。
初めて出会った時からそう。北沢くんには何か不思議な力があるのだろうか。例えば、出会った人、話した人を笑顔にするような力。そんな何かが北沢くんにあったのだとしたら、きっと北沢くんに会う度に笑ってしまう私はその何かに見事にやられてしまっているのだろうか。
「北沢くん、顔は大丈夫?あの時は、ごめんなさい」
私がいつの間にか、謝罪の弁を述べると北沢くんはいつも通りの切れ長の目付きを私に向けて、少しだけ呆れた表情で。
「お陰様で、何とか」
そして、ため息を吐いて北沢くんは笑顔を見せた。
北沢啓輔は、不真面目で、不勤勉で、寝坊助だ。それでも、彼の内面は優しくて、妹弟想いで、寝坊助なのも理由がある。
そんな彼は、私とって大切な友達であり、大切なクラスの一員だ。
......
.........
そして私は、昔の北沢啓輔を知っている。
少なくとも、貴方はそんな暗い表情をするような人間ではなかったと私は記憶している。
あの時の貴方の目は輝いていた。そして、そんな貴方の一言に、勇気づけられたのだ。
本当の意味で、私を勇気づけてくれた。
今の私がこうある原点が北沢啓輔なのに、今の北沢啓輔がそうでないことに、私はなんとも言えない、複雑な心境を抱いていた。
☆☆☆☆☆
結局、こうなることは分かっていたのだろう。あれこれ考えて時間を無作為に潰している時点で俺の末路は決まっていたのだ。
まあ、何が言いたいのかと言うと。先程まであれほどまで頭の中で考えていた出来事は、考えずとも答えが決まっているのであってだな......
「で、兄さん?分かっているわよね?」
田中にバレずにケチャップを取りに行こうとした時点で時間がかかってしまい、妹沢志保を怒らせてしまうことは分かっており、ケチャップを買おうが買わまいが俺がこうして尻餅を着いてしまっているのは最早既定事項だったというわけで───
「せ、せやな......お兄ちゃんなんの事だか分からないよ」
「そう......残念ね。疲労で頭がパンクしてしまっているのかしら」
「そ、そう!そうなんだよー!最近俺右と左が分かんなくて!学校行こうと思ってたら公園のベンチで寝てたりとか結構あるんだよね!」
俺が慌てて弁解をすると志保の冷酷な目付きが更に過激さを増す。
「兄さんの方向音痴は昔からでしょう......全く、少し放っておいたらすぐにこれ。兄さんは本当に......お間抜けというか、阿呆というか、お馬鹿というか」
「......すまん」
「......全く」
志保はそう言うと、俺と同じ目線に座り込み後ろに回り込む。
そして、一言。
「肩で良い?」
「肩?」
どういうことだろうか。志保がいきなり座り込んで俺の後ろに回り込んでいる時点で俺の頭はパンクしてるんだけど、どういう意味なのか分からない。
いきなりの謎行動に困惑していると、志保が肩を思いっきり抓る。
「ぎゃああああ!?」
「疲れているって!言ったのは!何処の誰よッ!」
「お、俺俺!」
慌てて俺がそう弁解すると、志保は人生最大とでも言っても過言ではないため息を吐いて、俺の肩を拳で軽く殴る。うん、軽くでも痛いです。
軽く殴っても痛い志保の肩パンに悶絶していると、志保が後ろから俺に一言───
「肩、貸して。疲れているんでしょう?」
少し、恥じらいを持つかのような声色でそう言った。
「え、物理的には無理なんだが」
「もう、突っ込まないわ......そうよ、分かっていたじゃない。兄さんが人類史に類を見ない阿呆って事は」
乾いた笑いと同時に、なんだか非常に失礼な事を叩き込まれてる気がするだけれど、まあいいか。
「んで、お前は俺に何をしてくれるんだ?」
そう言って、振り向くと志保の手が俺の顔を強制的に押し戻す。その手には力は入っていなかったが、何となく押し戻される。
1拍間が空いて、志保は無機質な声で俺に言う。
「肩をマッサージしてあげるって言ってるの」
「おお」
志保の肩マッサージなんて何年ぶりだろうか。小さい頃、純真無垢な笑顔で肩たたきをしてくれた志保が懐かしい。
「じゃあ、お願いしようかな」
俺がそう言って肩の力を抜いて目を閉じると、肩が指に押される心地良い感覚が俺を襲う。その感覚はとても気持ち良く、それと同時に懐かしい感覚でもあった。
過去に俺が純粋なスポーツ少年でいた時、疲れた身体を癒してくれたのは母さんの美味しい料理と、マイエンジェルである志保と陸の笑顔と、時々やってくれる志保のマッサージだった。最初は拙い手つきで、お世辞にも上手いとは言えなかったが、それでも俺は幸せだった。
家族に囲まれて、何も考えないでいられる時間は確かに幸せだったのだ。
「......あ、いい。そこいいわー」
「中年のような声を出すの、やめてくれないかしら」
それは、志保のマッサージが上手なのが悪いのだ。妹フィルターにかけなくとも、志保のマッサージは上手になったと個人的には思う。流石、何時も母さんのマッサージをしているだけあるな。ここまで来たら、最早職人芸だ。
「学校、楽しいかー?」
「.....兄さんは?」
質問を質問で返すのはあんまりよろしくはないのだが、妹と話す時にそんな事を気にする事はない。俺は乾いた笑いを上げて、肩を竦める。
「まあ、いつも通りってとこだろうか」
登校したら石崎に野球部に勧誘されて。
田中と挨拶して。
時々、田中にプライベートを突っ込まれて。
石崎にアップルパンチを繰り出したり。
『何時かは変わってしまうであろう』この日常も、今はそんなに悪くは無い。
「ああ、そう。最近女の子とよく話すんだよ」
「兄さんが?」
「そう、田中って言うんだけど......まあ、話してて悪い気はしなかったりする」
2年生になってからよく話すようになった隣人、田中琴葉。彼女と話している時間は俺的にはなかなかの暇つぶしになる。
と、そんなことを考えているとマッサージの力が少しだけ強くなるのと同時に、後ろから志保の声が聞こえる。
「兄さんらしい答え方ね。素直に『楽しい』って言ったらいいのに」
「楽しい......か」
そんな思い、俺にあるんですかね?
記憶のそこらじゅうをほじくり返しても、楽しかった思い出なんてのは限られているし、それこそ高校生になってからはそんな未体験の楽しい思い出なんてのは作れた試しがないのだが。
「それに、俺は家族と過ごせるこんな時間が1番楽しいからな。これを経験しちまうと、なかなか楽しいなんて言えるのは出てこなくなっちまう」
例えばりっくんと遊んだりとか!
志保と一緒に料理作ったりとか!!
家族総出でどっか行ったりとかな!!!
「ああ、また志保と釣りに行きてえなあ。あの時の悔しそうな表情の志保をもう一度見てみたァ痛い!!痛いよ志保さん!分かった!俺が悪かったからそんな強くマッサージしないで!!」
俺が痛みに悶えながら志保に制止を訴えかけると、耳元にぞわりとした感触が。恐る恐る、聞き耳を立てると、志保が俺の耳元で囁く。
「兄さん?記憶って殴れば消える可能性があるのよ?例えば......そうね、海馬の付近とか」
「そんなこと言いながら頭を撫でるんじゃありません!!怖いからっ!」
今、この瞬間、俺は悪魔を見たような気がします。
もともと志保は怖かったけど、ここまで殺気に満ちた志保は見たことがない。冷酷な目付きで見られ、『正座』と言われるよりも恐怖を感じる。
何はともあれここは話題転換の必要がある。これ以上のこの話題を続けるのは危険だと察した故だ。
「さ、さあ!今度は志保の番だ!学校生活についてあらかた聞かせてもらおうではないかっ!」
形勢逆転、またはリセットを求めて志保にそう尋ねると、案の定今までの雰囲気が変わっていつも通りの穏やかな雰囲気が訪れる。
志保に釣りワードはNGだ。
心のメモ帳に書いておかねばな。まあ、直ぐに忘れて痛い目見るのが俺。啓輔クオリティなんだけどさ。
と、内心俺の思慮浅さを恨んでいると志保が無機質な声で一言───
「普通」
「一言で済ませやがりましたねぇ!」
普段あまり学校の事を話さない俺があれだけ話した意味って一体なんだったんだろうな。きっと、上手く志保の術中に嵌ってしまっただけなのだろう。今までの経験からしてそうだ。
「制限もへったくれもないでしょう。兄さんが喋りすぎて、私は普通に喋った。それだけの事よ」
案の定そうだった。
なあ、普通って何なんだろうな。
「......別に兄さんの心配してるような事にはなってないから大丈夫よ」
「......本当だな?」
例えば、あることないこと言われてたりとか。
例えば、ぼっちだったりとか。
「ええ、本当よ。だから大丈夫」
若干怪しいところだが、信じようではないか。あんまり深く介入するのも良くないしな。
と、肩のマッサージが終わると今度は何故か頭を抱え込まれた。え、何すんの?ヘッドロックですか?
「し、志保さん?」
骨は残してください、と何時も妹に謝る時に使う常套句のような何かを発しようとすると、志保は耳元で囁く。
「心配性な兄さん。私だってもう中学生なんだから私なんて放っておけばいいのに」
「.....そうは行かないな。高校生になったらそれは考えてやるよ。まあ、一筋縄では行かないと思うけど」
俺は、志保も陸も大好きだ。
だから二人とも同じ位に心配してしまう。時々過保護だと思われたりもするだろうけど、それくらいの心配はお兄ちゃんとしてさせて欲しい。
少しの間だけど、志保には寂しい思いをさせたから。
「......遅刻魔で寝坊助な兄さん。毎日毎日無理して家の手伝い、しなくてもいいのに」
「んー、遅刻魔は昔からだからな......それに、好きでやらなきゃ手伝いなんて続かないぞ?」
最初は惰性だったけど。
次第に美味しそうにご飯を頬張る皆の姿を見たり、何かをした時の達成感が癖になり、調理やら諸々の手伝いが楽しくなった。
尤も、家庭科の授業は嫌いなんだが。作る料理を制限されてしまったり、座学の授業が非常に億劫だから。
結局のところ、家族みんなには美味しいご飯を食べてもらいたいっていう俺の好きでやってる願望なんだ。
まあ、一周回って善意の押し付けとか思われたら泣いちゃうけど。
そう思い、心の中で涙を流していると、ふと頭を抱えていた感覚が消えて、肩に重心が乗っかる。
「兄さん」
「‥‥‥やっぱりあったんじゃないか」
志保なりの気持ちの表し方なのだろう。小学校3年生から少しずつクールに育っていったけど、志保だってまだまだ年頃の女の子だ。真正面から気持ちを表すのが難しく感じる時ってある。そして、それを1度経験した身として、言いたいことを言えるようにフォローしたり、聞いたりすること位は俺にだって出来る。
「何かあったんだな?俺でいいなら聞くぞ」
そう言うと、重心がこくりこくりと動いて、続ける。
「私、オーディションに受かった」
「おおっ」
おめでとう。そう言おうとした俺を遮って、志保は更に続ける。
「‥‥‥やっていいの?」
「妹が夢を叶えようとして、それを応援しない兄貴がいてたまるか」
重心に手を添えて、撫でるように動かす。すると、少しだけ『それ』はぴくりと反応するも、そこから動く気配はない。
「だから、気にすんなよ。家のことは任せろ。んでもって、自分の本当に進みたい道を突き進んで......俺をファン第1号にしてくれ。あわよくば初サインも俺のものな」
んでもって家宝として崇め奉るんだ。ライブに行くのも楽しそうだ。
そんなことを想像して少しだけ笑うと、志保も少しだけだが、くすくすと笑い声を上げる。
「ええ‥‥‥兄さんがファン1号よ。サインだって、特別に家で崇めても文句言わないわ」
「志保様しゅごい!───なんて言っても?」
「馬鹿な兄さん、そんなことを言ったら私に頭ぶち砕かれるって分かってる筈なのに」
「おかーさん助けてー!!この子俺にジャッジメントしようとしてる!!助け──ふげぇ!?」
ストレートは飛ぶ。
そんな言葉が相応しい志保の右ストレートは俺の頭ではなく肩を直撃する。
いつの間にか背中に当たっていた重心は消え失せ、その代わりに背中に残ったのは鈍い痛み。その痛みが響いた瞬間、俺の身体は地面に打ち付けられ、それと同時に見たのはこの前見た夢と同じ光景。
鋭い目付きで俺を睨み、見下ろす志保の姿であった。
「‥‥‥取り敢えず兄さん、頭を差し出して?」
「急に怖い事言うなよ‥‥‥ねえ、謝るから。お兄ちゃん謝るからっ!」
何はともあれ、北沢志保はアイドルとなりその道を邁進していく。きっと、これからの彼女には様々な困難が襲うだろうけれど、きっと大丈夫。
こんなにも、可愛くて、誠実で、真面目な子だ。どんな困難があっても諦めず、その道を突き進んでいくことだろう。
ちゃんと、支えてやらんとな。
そんな決意を胸に、志保の拳に打ち砕かれた今日この頃であった。