招カザル来訪シャ~頼れる相棒は世界を喰らう者~ 作:あったかお風呂
ベルフラウ・マルティーニは私室の椅子に座りながら、少し緊張した面持ちで自身の夫を見つめていた。
彼女にとって年に一回の大切な日を迎えたベルフラウはつばを飲み込むと口を開く。
「ねぇ、イリ。今日が何の日か憶えてる?」
今日は他でもない、ベルフラウとイリの結婚記念日。
あの名も無き島で結婚式を挙げて結ばれ、晴れて夫婦となった日なのだ。
あの日の事は今でも忘れない。
嬉し涙を流す恩師、祝福してくれた仲間たちや島民たち。
白くて綺麗なドレスと愛を誓い合った白くて小さい最愛の存在。そして──誓いのキス。
あの光景を思い出しただけでベルフラウはとても幸せな気持ちになるのだ。
イリもきっとあの日の事を忘れずに憶えてくれているだろうと期待するベルフラウは、夫の返事を楽しみにしながら待つ。
「キリキリギシッ! 当然! 暗記! 既知! 全知全能タル我ガ憶エテイナイハズガアルマイ! 今日ハ……我ガ初メテアティノ手料理、焼キ魚ヲ喰ラッタ日デアル!」
だが、夫から返ってきた答えはまるで的外れなものだった。
マルティーニ家に仕える使用人は鼻歌を歌いながら、ベルフラウの私室前の窓を拭いていた。
「ふーんふふーんふーん……綺麗になった! 流石私、今日も完璧! 今日は頑張ったご褒美に──」
独り言で自画自賛する使用人が自分へのご褒美を考えていると、当主の部屋の中から大声が響いた。
「イリの馬鹿! もう知らない!」
その声と共に扉が勢いよく開くと、当主が部屋の中から飛び出してきた。
驚いて飛び上がりそうになった使用人は、廊下を走っていく当主が丁度自分の前を通った時──その頬に涙が流れていたのが見えた気がした。
イリはベルフラウが去って開いたままの扉をじっと見つめていた。
どうやら自分がベルフラウの機嫌を損ねたらしいことと、返した答えが間違っていたらしいことはわかるが、正しい答えは思い浮かばない。
「何ガ違ウ? ……焼キ魚ヲ喰ラッタノハ明日ダッタカ?」
イリはあの名も無き島にいた時に初めてアティに作ってもらった手料理である焼き魚を食べたのが今日ではなく明日だったことを思い出した。
だがベルフラウがその間違いで機嫌を損ねるだろうか、そもそもベルフラウが言っているのは焼き魚云々の日ではないのではないかと思うが、イリが考えても今日が何の日なのかさっぱりわからない。
「……結論、総論……他者ニ聞クシカアルマイ」
どうすればいいか考えた末、イリは他人に頼ることにした。
昔のイリなら絶対にしなかったそれはきっと、イリが進歩した証なのだ。
イリがまず訪れたのは、自身の下僕であるパッフェルの所だった。
「今日が何の日かわからない、ですか」
パッフェルは主人が自分のところに聞きに来たことを意外に思いつつも、イリの話を聞いていた。
「パッフェルヨ。ベルノ機嫌ヲ直ス必要ガアル。思イ当タルコトハアルカ?」
勿論、パッフェルには今日が何の日なのか分かっていた。
ベルフラウがわざわざ言い出したのだから、結婚記念日かイリと出会った日くらいだろうと想像がつく。
そしてパッフェルの記憶が正しければ、ベルフラウはイリと出会った日と同じ日を結婚式の日に選んでいたはずだから、答えは一つだ。
「ご主人様。私はその答えを知っています」
「ギシシ! 知ッテイタカ! ナラバ──」
『教エルガイイ』と続けようとしたイリの言葉はパッフェルに遮られる。
「でも私からは教えられません」
「……貴様ハ我ノ下僕トシテシカ生キルコトヲ許サレテイナイ。従エ! 服従セヨ!」
パッフェルはイリの下僕となることを条件に生かされ、拾われた。
そのパッフェルが答えを教えることを拒否したことにイリが怒るが、パッフェルは物怖じない。
「私から答えを教えるのは簡単ですよ。でも、それじゃ意味がないんです」
「無意味? 答エヲ知ッテモ無意味……? 理解不能」
「ご主人様がご自分で考えて答えを見つけないと意味がありません。奥様もそのほうが喜ばれると思います」
ただ他人から答えを得ても意味がない──パッフェルからそれを聞いたイリは困惑する。
「我自ラガ答エヲ……ソウスレバ、ベルガ喜ブノカ?」
「はい。奥様はそれを望んでいるかと」
「……ソウカ」
それでベルフラウが喜ぶならと、パッフェルから直接答えを聞くことを辞めたイリは答えを得るため、別の場所へ移動を始めた。
次にイリがやって来たのは自身の娘であるフランネルの私室だった。
「フランネルヨ。入ッテモヨイカ」
「お父様? ……どうぞ、入って」
以前勝手に入って怒られたことがあるのか、ドアを開ける前にイリが声をかけるとフランネルが入室を促す。
イリが部屋の中へ入ると、勉強中だったのか机の上の本と睨めっこをしていたフランネルが振り向いた。
「フランネル……相談ガアル」
「相談!? お父様が私に!?」
イリが自分に相談に来るのが珍しいのか、パッフェルと同じくフランネルも意外そうに驚く。
「我ダケデハ解答不可……知恵ヲ貸セ」
「お父様が分からないことね……それで、相談ってなんですの?」
フランネルは意外そうに思いつつも、父親に頼られたのが嬉しいようで口元を曲げながら興味津々に聞く。
「実ハ……」
「なるほどね。事情は分かりましたわ。私もパッフェルが言った通り、お父様が自分で答えを見つけるべきだと思う」
今日が何の日かわからずベルフラウを悲しませてしまったこと、パッフェルからその答えは自分で見つけるべきだと言われたことをイリがフランネルに説明すると、娘もパッフェルの言葉に同意する。
「フランネルモソウ思ウノカ。シカシ我ニハ見当ガツカヌ」
「うーん……私が思うに、お父様は乙女心ってものを分かってないのよ」
「乙女心……?」
「そう、乙女心ですわ! というわけで……これよ!! 『恋する乙女は片手で龍をも殺す』! スカーレル師匠から授かったこの本を読んで乙女心を勉強しなさい!」
立ち上がって本棚をごそごそと漁ったフランネルが取り出したのは、ご存知帝国女子御用達のバイブル『恋する乙女は片手で龍をも殺す』である。
師匠と呼んでいる通り、フランネルは母の仲間の一人スカーレルからこの本を布教されたようだ。
「書物……? 解析……? コレデ乙女心トヤラガ理解可能ナノカ?」
「読む前よりはだいぶましになるはずよ」
娘にそう言われて『恋する乙女は片手で龍をも殺す』を読み始めたイリは本に書かれた文章を追いかける。
全ては乙女心とやらを理解するため、ベルフラウを喜ばせるためだ。
だが──。
「……理解不能」
状況描写等はイリでも理解出来た。
だが、心理描写となるとイリの中に入ってこない。
何故主人公の女の子が恋をしているのか、何故ドキドキしているのか、どうして切ないのか、どうして想い人を目で追ってしまうのか分からない。
「読んでも解りませんの? しょうがないわ! 私がお父様にみっちり教えてあげる!」
父の様子を見かねたのか、今まで読んでいた本を閉じて勉強を中断したフランネルは、イリの読んでいる恋愛小説を覗き込むと説明を始める。
「此処ノ意味ガ解ラヌ」
「ここはね、主人公の女の子が──」
小説の主人公の心理をイリに説明するフランネルは内心燃えていた。
必ず父に多少なりとも乙女心を理解させてみせると。
『恋する乙女は片手で龍をも殺す』のファンとして、スカーレルにこの本を布教された身として、使命を果たしてみせると。
ベルフラウは執務室の隅で膝を抱えて座っていた。
自身の膝に顔をうずめるベルフラウの頬の涙の跡が、天井のシャンデリアに照らされて輝く。
「イリのばか……」
か細く呟いた彼女の心はきゅうきゅうと締め付けられる。
結婚記念日の今日を楽しみにしていたベルフラウは、夫に今日が何の日か聞いたときにちゃんと結婚記念日だと答えてくれると期待していた。
だが夫は一体何といったのだったか。
『今日ハ……我ガ初メテアティノ手料理、焼キ魚ヲ喰ラッタ日デアル!』
あまりに見当違いなその答えにベルフラウは唖然とした。
ベルフラウにとっては焼き魚を喰った日などどうでも良いし、何より他の女の名前が出たのが信じられなかった。
そもそもベルフラウの記憶が正しければ、アティが焼いた魚を食べたのはあの島に漂流した日の翌日のはずである。
大切なこの日に夫が結婚記念日だと答えられなかったばかりか、恩師とはいえ自分以外の女の名前を言ったことでベルフラウは妻としての自尊心を傷つけられる。
とても悲しくて、惨めだった。
自分だけ楽しみにして期待していたのが馬鹿みたいに思えてしまう。
以前イリが、『ベルフラウハ永遠ニ我ノモノダト知レ』と言ってくれたのはなんだったのかと思ってしまう。
もしかして妻である自分のことを言葉通りモノとしてしか見ていないのではないかと疑ってしまう。
愛し合っていると思っていたのは自分だけだったのではないか、自分だけが相手を愛しているのではないかと考えてしまう。
そんなマイナス思考に陥っていたせいか、嗚咽ともにベルフラウの瞳から再び涙があふれ出してきた。
「イリ……イリぃ」
それでも口から出てきたのは夫の名だった。
イリからの反応に傷つけられても好きで、愛おしくて……たまらず夫を求めて呼ぶ声が漏れてしまっていた。
「ベル。我ダ」
ベルフラウの呼び声が届いたのか、彼女の耳に聞こえたのは執務室の扉の外側にいるイリの声だ。
娘から乙女心についての授業を受けたイリは、『まあ……最初にしては及第点ね! 早くお母様の所に行ってきなさい!』と後押しされてベルフラウに会いに来たのだ。
イリの声を聞いたベルフラウはうずめていた膝から顔を上げると、口元が緩む。さっきまでの落ち込み様はどこへやら、イリが自分に会いに来たというだけで嬉しくなってしまっていた。
「……入って」
我ながら現金だなと思いつつ、ベルフラウは入室の許可を出す。
だがその声はいかにも不機嫌そうなものだった。
今のベルフラウは夫に怒っているのだ。
だから夫が来て嬉しい気持ちは表情にも声にも出さず怒っている演技をする。
「……ベル。謝罪スル。スマナカッタ」
「謝るだけ? 今日が何の日かは思い出したのかしら?」
イリからの謝罪を聞いてもベルフラウは背を向けて言葉を返す。
「今日ハ我トベルガ結婚ヲシタ日ダロウ」
「……思い出してくれたんだ。そうよ、今日は私とイリが夫婦になった日なの。ずっと一緒にいるって約束した日なの。お互いに愛し続けるって誓い合った日なのよ」
イリが今度は正しい答えを返すと、ようやくベルフラウが振り向く。
彼女の眼は充血していて、何度も泣いていたことがイリにもわかる。
「再度謝罪シヨウ。ベルヲ悲シマセテシマッタ」
「……いいのよ。ちゃんと思い出してくれたんだもの」
「ベル。左手ヲ差シ出セ」
イリが結婚記念日を思い出したことに喜ぶベルフラウが微笑むと、夫に左手を差し出すように要求されて首を傾げながらもその通りに従った。
蝋のように透き通ったシミの無い細い手がイリへと差し出されると、その手が強い光に包まれる。
思わず目を閉じたベルフラウがゆっくり目を開けると、しなやかな薬指に先ほどまでは無かった白銀に輝く指輪がはめられていた。
「……指輪……」
ベルフラウが右手の人差し指で左手の薬指に通されている指輪に触れると、銀色一色だったそれの外側に赤く発光する一本のラインが浮かび上がった。
「夫ハ妻ニ指輪ヲ送ルト聞ク。故ニ……」
「うぅ……ああああ……うああああああ……」
左手の薬指に指輪をはめられることの意味が分からぬベルフラウではない。
もしかしたらと想像したところにイリの言葉を聞いて、ベルフラウの内の感情が決壊した。
「ベル!? 嫌ダッタカ!? 再ビベルヲ悲シマセテシマッタ。難解……難儀……」
ベルフラウがボロボロと泣きだすと、また悲しませてしまったのかとイリが妻の顔を覗き込む。
「違うの……そうじゃないの……嬉しくて……嬉しくて……」
首を横に振って否定するベルフラウの顔は腫れた目と涙で美貌が台無しになっていた。
それを自覚しているのか、両手で顔を隠そうとするベルフラウだったが、イリはそれを魔力の糸で退ける。
「ベル。我ニ顔ヲ見セヨ」
「でも……! 今の顔はイリに見せられな──」
拒否の言葉を口にしようとしたベルフラウだったが、その口がイリの口と重なったことで強引に止められてしまった。
そのままベルフラウとイリが見つめ合っていると、執務室の扉が開いて二人の娘フランネルが顔を覗かせた。
「お父様! お母様! お夕食が冷めてしまいま──お邪魔しましたわ!!」
突然無遠慮に扉が開く。
夕食の時間になっても来ない両親を呼びに来たフランネルだったが、キスしたままの二人を見ると踵を返して出て行ってしまった。
慌てて離れたベルフラウとイリは再び閉じた扉を見る。
「ギシッキリキリ……夕食カ」
「ねぇ……イリ。夕食はいいから……続きをしましょう?」
「了承シタ」
ベルフラウが潤んだ瞳で夫に愛を求める。
天井からつるされたシャンデリアのよって床に映し出される二つの影が再び一つになった。
このあと滅茶苦茶イチャイチャした。
■ベルフラウ
この日以来、指輪を撫でて微笑む当主の姿が頻繁に目撃される。
■イリ
この年以降の結婚記念日はちゃんと覚えていたそうな。
ちなみに毎年イチャイチャした。
■フランネル
両親分のご飯はフランネルが美味しくいただきました。
■パッフェル
主人に答えを教えなかったときは正直死を覚悟した。
■スカーレル
パッフェルがマルティーニ家のメイドになった為、彼が死亡する原因となる事件が起きていない。
つまり無事生存!やったね!
■焼き魚
二話でアティが焼いた魚。
他者と関わることが無かったイリにとっては、初めて食べた他者に作ってもらった料理。