おねむになりながら、お読み下さい。
「あの…聞いて欲しい事があるんです」
それはラヴァエが話し始めてから、初めてイリの方から出た話だった。しかし、その表情は硬くなり、文脈的にも楽しいお話なんてものではなさそうである。十中八九、この部屋が閑散としている原因に関連する事だ。
だが、それこそがこの雑談の目標なのだから、概ね達成できたと考えても良いだろう。
「うん。話してみなよ」
まあ、新たに目標が出来ないとは言っていない。次なる目標は悩みの解決だ。
こうするのは彼女のいつもの癖だ。行き当たりばったりで誘惑しても人は堕ちない事を、嫌というほど学んだからだ。故に彼女は一つ一つ最終目標に向かって詰めていく。
………何かしらの抵抗があるのか、白の少女は二、三度口を開きかけては閉じてを繰り返して話そうとしない。それでも頭を撫でながら待っていると、俯きながらワンピースの裾をギュッと握り締めて語り始めた。
「私…先程、頭が焼き切れそうなくらいに熱を持って、目の前にいる……邪魔者を退けたいと思ったんです。いつも私を気にかけて下さってるおばさまとおじさまの事を、あの一時だけは明確に敵視したんです。私の中にこんなおぞましい心が眠っていたなんて…知らなくて、いつかこの心がある事で途轍もなく後悔しそうで怖いんです」
そこまで言い終えるとスイッチが切れたように黙った。元より静かだった部屋は、話す者が居なくなると呼吸音のみしか聞こえなくなった。そんな状態が数十秒続いたが、ラヴァエが静寂に溶け込むように小さく口を開いた。
「…君、ううんイリちゃんはとても賢くて…とても無垢なんだね」
壊れ物を扱うような慎重さで、ラヴァエはイリの肩から手を離す。
「本当はもっとゆっくり知った方が良いんだろうけど、これくらいは良いよね」
自問自答を声に出しながらラヴァエは立ち上がり、残忍な目でイリを射抜く。
「イリちゃんが抱いた思い…それは『怒り』だよ。理性によって象られた人を、本能によって暴れる獣に変えてしまうものの内の一つ」
イリは引き止めようと手を伸ばしたが、掴んだのは空のみ。ラヴァエに触れる事を躊躇ってしまった故の結果。何故躊躇ってしまったのか正確には分からない。分かるとしたらラヴァエの纏う雰囲気が徐々に変わってきている、ということだけ。
だが変容が始まった時点で…手が触れようが触れまいが、コレは必然だった。
「…サービスでもう一つの方も教えてあげる。『性欲』…純粋で無垢なイリちゃんの体を、汚したくて穢したくて堪らないボクの感情。ねえ…意識が混濁するくらいにイリちゃんを侵して良いかなぁ?」
快楽に溺れた粘ついた瞳がイリに絡みつく。
「それでラヴァエさんが救われるなら」
だが、情欲に彩られた少女の艶やかな声すら、無垢なる
この少女は本当に無垢なだけなのか?
一度疑念を覚えてしまったらお終い。
ラヴァエは熱に浮かされていた頭が冷えていくのを感じた。
「……分かってるの?イリちゃんの綺麗な体の隅々まで、ボクの指を這わせたいって言ってるんだけど?」
「お好きになさって下さい」
目の前の少女の自分の体に無頓着な答えに、遂に少女の本質を理解した。
この少女がラヴァエのやろうとしている事を理解しているかいないかという些事は関係ないのだと。
少女が『救い』という概念にこだわるのは、幼い子供が人を助ける英雄に憧れるのと同じで微笑ましいものだと思っていた。
それは違う。
この言葉は少女の身に宿った『呪い』だ。この少女は、例え陵辱されようと、例え苦しみの果てに絶命すると知っていても『救い』とう言葉が絡めば受け入れてしまうと、そう信じてしまえる。
それほどまでに敏感に少女の異常を感知してしまえた。
「…どうしたんですか?」
「…ッ」
無垢なる
これ以上、関わり合いになりたくない。己の不幸が霞む―――?
「違う」
「え?」
「ボクは不幸なんかじゃない…父さん母さん兄さん姉さんみんなみんないた。みんなボクの体を愛してくれた。ワタシは幸せなの。父さん母さん兄さん姉さんみんなみんないた。みんなボクの体を愛してくれた。ワタシは幸せなの。父さん母さん兄さん姉さんみんなみんないた。みんなボクの体を愛してくれた。ワタシは幸せなの」
本当に『幸せ』なら確かめるまでもない事を、ラヴァエは確かめる為に淡々と儀式を行った。何度も何度も行ってきたのだろう。言葉は滑らかに意味もなく滑っていった。
間違いなく歪んでいる行い。けれど、イリには手が出せない。
彼女は『幸せ』と言った。それが本当ではないのはイリの目から見て明らかだ。だが、あくまでそれはイリの主観であり、彼女の主観ではない。イリの目が正しい保障はないし、彼女の主張が間違っている確証もない。
『幸せ』な人は『救う』ものではない。『救われた』から『幸せ』なのだ。
だから100%の確証が出来るまで手は出せない。現状維持くらいしかイリには出来ない。
『魔』と遭遇した時もそうだ。
あの時イリは、生き残る為に『魔』を殺す少年を止める言葉を持たず、本能のまま人を殺す『魔』を止める術も持たなかった。
結局、最小限の犠牲で済ます為に、単身『魔』に突撃して無理矢理少年の矛先を逸らすことしか出来なかった。
無論、これも現状維持である。
イリの世界が動き始めたのは感じる。けれど『救う』術を持たず流されることしか出来ない。それが堪らなく悔しい。
人を救う力があれば、魔を救う力があれば、獣を救う力があれば……
この数日それだけを渇望している。
ただ、渇望するだけではダメだという事は知っている。行動しなければいけない事も知っている。
だけど、どんな行動をすればいいのかが分からない。
この矮小な命を捧げてみたところで得るものなど、同じ価値のものしかありえないと確信している。だけど、イリが持っている中で一番価値があるのは自分の命で、それ以外は価値すら見出せないガラクタとも確信している。
全てを救うには己が身一つでは何もかもが足りない。目の前に居る彼女が救われるべきなのかすら分からないのだから。
「帰るね」
唐突に声が聞こえた。
思考の淵から戻ると、正気に戻ったらしいラヴァエが窓から出ようとしているところだった。
「…はい」
「ん、あてにならないかもしれないけど助言を一つ。一度さ…両親に君の思いの丈を打ち明けてみたら?」
ラヴァエは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
まるで、数分前まで正気を失っていたなんて嘘の様だ。
「…はい」
だけど忘れてはいけない。
「じゃあね」
そう言って飛び降りていったラヴァエの後ろ姿にイリは思う。
今はまだ私は無力。
だけど…すぐに力を身につけてあなたを、全てを、正すから。
―――そのためなら
「おい、あのクソビッチは帰ったな?」
音もなく定位置にいた少年にイリは決意を持って告げる。
「私を外に連れ出してください」
親愛など簡単に捨てられる
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