自身の記憶力と勝負しながらお読み下さい。
「お前は矛盾しているよ。全ての生き物を救うと言いながら、たった一つの命のために自分を使い
潰そうとする。お前にとってどっちが大切なんだ?」
クロスが告げたそれは、イリが全く考えたことのなかった事だった。
全ての生き物を救う。それは崇高な夢。
一つの生き物を救う。それは大切な行為。
けれど、前者のためには自分の命を秤に乗せる事すらしてはいけない。だけど、後者は前者の一部であり、後者を捨てたら前者を成し遂げられなくなる。
以前、あやふやな問題は時が経てば分かることがあると思った。時が経てば今よりも確実に、過ぎた時の分だけの積み重ねがあるから。
けれど、この問題は時が経てば分かるものなのか?
既に答えは出ていて、それに納得したくないだけの話なのかもしれない。
それとも、始めから答えのない問題なのかもしれない。
こんな事を考えていても、全か一、どちらが大切なのか答えは出ない。
こんな簡単な矛盾を今まで自覚していなかった事と、知識の足りなさを再度突きつけられた感覚に頭を抱えたくなる。
「…悪いな。こんな質問して」
イリが考えに耽って答えを出せずにいると、クロスは申し訳なさそうな顔をして謝る。
イリには、何故クロスが謝るのかは分からなかったが、自分のせいで謝っている事だけは分かった。自分の不甲斐なさに唇を噛みながらも、答えが見出せないから何も言えない。それが本当に悔しくて、答えが出せない自分にイラついて、溢れ出そうな感情の穴を塞ぐので精一杯になる。
「…いえ、すみません」
だからこう言って俯くことしかイリには出来ない。ここで涙を見せたら、おそらくクロスはまた謝る。
ぶっきらぼうな態度からは想像出来ないくらいに彼は優しい。優しくなければ謝ることなど出来ないはずだ。
「それはそうと、だ」
唐突にクロスがわざとらしく前置きをおく。
イリは疑問符を浮かべながら続く言葉を待つ。
「アイツ、逃げたみたいだな」
イリの背後を指差しながらクロスは言う。
振り返ってみると、いつの間にかあの男は消えていた。男が居た痕跡を示すのは、錆びた赤色の落書きだけで、物の一つもありゃしない。
「ぅえ?」
物の一つもありゃしない。
………つまりは、全て持って行ったということで。今のイリは何も纏っていない訳で。認めたくはないが、着るものは無いらしい。
それはそうと、裸でクロスと向き合って会話をしていた事実に気付いた。途端に、今まで忘れていた分の恥ずかしさまでイリに襲い掛かってきた。
チラリとクロスを見る。いつもと変わらぬ様子でイリを見ていた。その目が自身の裸体を記憶してしまっている。
そう分かっていても、これ以上見られたくなくてイリは膝を抱えてうずくまる。
「何してんだ?」
純粋な疑問を浮かべるクロスに叫びたくなるが、叫んでも現状が好転することはないので恥辱に震えながらも大人しく説明する。
「あの店まで戻る。そこで適当な服でも見繕えばいいだろう」
説明を聞いたクロスは、面倒臭そうに顔を顰めてからイリに背中を向けて言った。そのまま歩き始めたので、人とすれ違わないように祈りつつイリは慌てて追う。
誰ともすれ違うことなくもと来た道を辿り、怪しいさ満点な店の前に戻ってきた。クロスはそのまま店のドアを開けて進む。中に人がいることは確定しきっているので入りたくないイリだが、入らぬことには衣服という安寧を得ることはできないので、腹を括ってクロスの後ろに続く。
店内に入ると、外装に違わぬ平凡ぶりを見せ付けた内装が目に入った。
壁に立てかけられている商品棚に、所狭しとばかりに詰め込まれた商品群。床も壁も、最低限な綺麗さを保っている。
そんな店内の一番奥に座っている強面な男が、ガラクタをいじりながらこちらに顔を向けていた。
「いらっしゃい…ってお前か。忘れ物でもあったか?」
察するにここの店主であろう男は、クロスに親しげに話しかける。対するクロスは首を振るだけの杜撰な対応であるが、店主は慣れているのか気分を害した様子も見せずに、訊いてもいない商品の解説を始める。
「この商品だがよ、この紐を引っ張るとバーンと弾が飛び出してな…何だこの子?」
店主は、クロスの背から頭だけを出して覗き込んでいるイリに気付いたようで、強面な顔に困惑をうつす。
「コイツがさっきのだ」
微妙に説明になっていないクロスの言葉に、店主はますます眉を顰める。
このままクロスに説明を任せたら、グダグダになって何時までも全裸なままな気がしたイリは、体を隠したまま説明を始める。
「―――という訳でして、こちらに私の体を隠せるものがあればもらえないかと」
男に脅されたこと、その男になんやかんやあって服を盗られたことを話したイリは、本題とばかりに頭を下げてお願いした。
そんなイリの話を黙って聞いていた店主は、首を捻ってから背後にある扉をくぐってイリの視界から消えた。
待つこと数分、扉を開けて出てきた店長の腕には服が乗っていた。店長はその服を店の隅っこに置いて元の位置に戻った。
「悪いがそこで着替えてくれ」
そう言うと店長は後ろを向いてガラクタ遊びに興じ始めた。それを確認したイリは、クロスに絶対にこちらを向くな、と前置きしてから店の隅っこに行って着替え始めた。手持ち無沙汰になったクロスは、棚にある商品を物色しながらイリを待つ。
少し経って、クロスはイリの気配を背後に感じた。
大方、驚かそうしているのだろうと思ったクロスは振り向く。
視界に入ったのは黒っぽい姿。白の少女はどこへ行った?と少年が首を傾げてしまうの無理はない。
しかし、その姿こそ少女のもの。
灰色のフードで隠された、透き通るような白い髪がフードの奥で妖しく輝いていても。微妙にサイズの合わない布製の黒い上着が股下まで伸びていて、服に着られている感じは拭えなくても。反対に、膝下丈の灰色フレアスカートから覗くふくらはぎは黒で覆われていて、幼さの中に妖艶さを漂わせていてもだ。
少女は不安そうに瞳を揺らしてクロスを見上げている。その様だけが妙に子供っぽくて、彼女がイリだということを感じられた。
頭を掻きつつも、キチンと着られているか心配なのだろうか、と思ったクロスは声を掛ける。
「変じゃないぞ」
「そうですか……よかったぁ」
納得したように小さく息を吐くイリを見て、どうやら今回は正解らしい、とクロスも息を吐いた。
「ほぉ…やっぱり別嬪さんだな」
二人が息を吐いたタイミングで、いつの間にか近くでイリの顔を覗き込んでいた店主がしみじみと呟いた。
その声に反応したクロスは、相変わらず喧嘩を売る発言をする。
「浮気か?」
「…変な勘繰りが上手くなったじゃねえか」
どうしてこう、クロスさんは人の神経を逆なでするような発言をするんだろう。
呆れ顔でイリはそう思う。
幸いにして、店主は慣れている様で怒りはしなかったが、初対面の相手にやらかしたらと思うと気が気でない。イリ自身、自分には常識がないとは理解してきたが、もしかしたらクロスも常識がないのかもしれないと思いつつ、もしかしたらクロスの発言は普通なのかもしれないという疑念もある。
だから、機会を窺って店主に確かめてもらおうと思いつつも、落ち着ける格好になれたお礼を言う。
「気にすんな。お嬢ちゃんみたいな小さい子は大人に甘えときゃいいんだ」
店主はそう言って、フード越しにイリの頭を撫でる。
その感触のこそばゆさに、落ち着かない気持ちになるがジッとする。
ふと、クロスが腰につけているポーチを漁っているのに気付く。
「何をしているんですか?」
イリの声に反応し、クロスはポーチに目を落としながら答える。
「金を探してる」
「金?」
「ああ」
「???」
イリは金って何だろう、と首を傾げ、また知らない事だ、と溜め息を吐く。
クロスは挙動不審なイリに気付いた様子はなく、説明を求めるなら未だ頭を撫で続ける店主になるのだろうが、自分から非常識を名乗るのも気が引ける。
だが、
そう思い、心の中で深呼吸。そして、背後にいる店主に質問する。
「金って何ですか?」
…返事はない。
恐る恐る振り向くと、店主は洞穴の様に大きく口を開けて固まっていた。そう、まるで何かに怯えているような表情。
金というものは危険なのかもしれない。
そう思い再度振り向くと、クロスは金色の小石みたいなものを握っていた。
「これで足りるか?」
金色の小石を突き出してクロスは言う。
「あ…ああ」
店主は金色の小石を受け取る。
そのやり取りを二人に挟まれたまま目で追っていたイリは、とりあえず危険なものではなかったようだ、とホッとした。だが、店主の表情を思い出すと、金について訊くことは憚られる。
「宿を探すぞ」
イリがうんうんと悩んでいると、クロスが次の目的を告げる。
相変わらず、何を思ってその目的になったのか分からないが、意見できるほど旅慣れているわけではない。イリに出来ることといえば、水を向けないことくらいだろう。
それを理解しているイリは黙って着いていく事に徹する。
挨拶も何もしないで店を出たクロスに続き、頭だけ下げて後を追った。
薄暗い道を抜け、人の行き来もある大通りに辿り着いた。
クロスは軽く辺りを見渡してから、薪を担いでいる青年に声をかけた。
「仕事中すまないが、宿を取れる場所を知らないか?」
「着いてきてくれ」
それだけ告げて男は歩き出す。
道すがら青年はとりとめのない話をする。
村の特色、自分自身の事、昨今の情勢など、話す種が尽きることはないのかと不思議に思うくらいによく喋った。
宿に着いたのか、不意に話を止めた青年は振り返って目を細める。
「ところで、その子の髪を見せてくれないか?」
その声色は先ほどまでの調子であったが、イリに対する敵意だけは伝わってきた。
何故、敵意をぶつけられるか検討もつかないイリは、背後からクロスの背中を見上げる。クロスは、全てを知っていたかのように落ち着いて応えた。
「見せるまでもない。コイツの髪は白色だ」
その言葉を聞いた瞬間、青年の目にはっきりと嫌悪感が浮かんだ。
「泊めることは出来ない」
青年はそれだけ告げると、イリを睨み付けながら去っていく。
突然の豹変に置いてけぼりにされたイリは、馬鹿みたいにその背中を見つめることしか出来なかった。
「白い髪は忌み子の証なんだ」
憐憫の眼差しでイリを見つめながら、クロスは呟く。
「忌み…子?」
「ああ。昔、白い髪の女が起こした悲劇があったんだ」
遠い過去を振り返るようにしみじみとクロスは話す。そこらの大人よりは若さそうな少年がそんな目をするのはおかしいはずだが、この時のイリには、クロスは昔の悲劇とやらを見たことがあると確信した。
「その女は人のことを誰よりも考えていた。誰よりも考えていたからこそ、誰にもその考えは理解されなかった」
クロスは、イリに対する説明とも自身に対する独白とも受け取れる物言いを目を閉じながらつぶやく。
イリにはクロスがこの話に対して何を思っているかは分からない。この話は今のイリには理解できないから。誰よりも人のことを考えていたのなら、誰よりもその考えは人のためになるはずだ。
だが、そこで思考を捨ててはいけない。大前提として自分には一般常識というものが欠如しているのだから、自分の考えは白黒で、人の考えは白だ。故に疑うべきは自分。
「行くぞ。逆戻りだ」
そう言ってクロスは前を行く。その背中は大きくて堂々としている。
…今のイリに出来るのは、人生の先輩たる背中を追うことだけだ。
ご読了ありがとうございました。