ディスプレイに虫が寄らない事を祈りつつお読み下さい。
ドアの閉まる音が鼓膜を打つ。その余韻に浸っている内に気付いた。
あの少年がいない。何故だろう、と疑問に思い―――また気付いた。
少年は部屋を出て行った。
その事実に至るまで…いや、気付くまでかかった時間の長さにイリは思わず苦笑する。どれほど自分は動揺しているのだ、と。
少年が残した言葉――生き物を救うためには強くなくてはいけない――
それが間違いだとは言えない。だが、少女の心に立ち込めた暗雲は晴れない。
少女は無事な左手でそっとボロボロな右腕を触る。
この怪我が出来たのは私が無力だったから。それは
思わず想像してしまった少女は蒼白な顔で嘔吐く。
力はやっぱり必要なのかもしれない。けれども、他者を傷つける技術など身に付けたくも無い。
力を持つことを肯定するのは、他者を傷つけることを肯定するのと同義な気がする。けれども、力を持つことを否定するのは、他者が傷つくのを容認しているような気がする。
そんな堂々巡りの思考に共鳴するかのように等間隔で痛みを伝えてくる腕が、思考をやめさせてくれない。だから嫌でも考える。
考えて考えて考えて考えた。それでも答えはでない。
「…イリ」
その声に半ば無意識的に顔を上げた少女は、心配そうな顔をした養母を目に入れた。
その顔を目に入れた瞬間、今まで悩んでいたのが嘘かの様な綺麗な笑みを少女は見せた。
「何ですか?」
その、日常に埋没した声色のなんと完璧な事か。息をするように苦悩さえも封じ込めて、他人に気付かれることもなく紛れる。誰もがその内心を疑うことなどないだろう。
それは養母も例外ではない。
心配そうな顔を崩さないものの、少女の内心を訝しがる様子はない。
誤魔化せたかな?
仮面の様に笑みを貼り付けたままイリは小さく息を吐く。
この苦悩は悟られるべきではない。何故なら少女は救う側なのだから、これ以上心配をかける訳にはいかない。
そして、これから始まる日常の会話を思い描き……裏切られた。
「何か悩んでいない?」
笑みにひびが入った。
大丈夫落ち着いて落ち着いて落ち着いて。ずっと私は俯いて硬い顔で考え事をしていた。何か悩んでいると思うのが普通。だから落ち着いて否定すれば良い。理由などはいくらでも浮かべられる。
酷いパニックに晒された少女の内面は嵐の様に荒れ狂っていたが、それも一瞬だけ。すぐにリカバリーして否定の言葉を紡いだ。
…外面のリカバリーを忘れて。
平時と変わらぬ声で紡がれた音は日常を約束するものではなく、余計に心と顔の乖離を感じさせるだけだった。
当然養母もそれに気付いて否定する。それをイリは否定する。
否定し否定し否定し否定し否定し否定し否定し―――結局はイリが折れた。
「悩んでいます」
その表情が映すのは、多大なる罪悪感とそれを隠れ蓑にして少し顔を覗かせる嬉しさ。何故罪悪感を抱くのかをできない寂しさを感じつつも、女性は先を促す。
「…ある人に、人を救うには他者を上回る力が必要だと言われました。その考えは今まで私の中に存在して…いえ、疎んで遠ざけていました。でも…その考えを聞いた瞬間、間違っていない、と思ったんです」
そこまで話し終えた少女は、一際強い悪感情を影に落とした。それは、罪悪感だったり失望だったり恐怖だったりした。
そんな、少女自身も制御できていないであろうチグハグな感情は加速していく。
「暴力は間違ってる。間違ってるのに、間違ってないって思った!!私は救わなければいけない。数多の命を…全部。その道に暴力なんていらないのにッ!!なんで…なんでなんでなんで、否定できないんですか…?」
ただ思うままに紡いだ言葉はさながら慟哭の様であった。それは女性の心を抉り、一人の人間の人生、という錘を自覚させるには充分すぎるほどだった。
そんな荒れ狂う感情を御するのは並大抵なことではなかっただろう。だが、未だ籠の中にいる少女はそれを成し遂げた。少女は我慢強かった。女性が悩みを訊かなかったら、そのままこの感情を抱え続けただろう。
だが…果たして我慢強かった、で片付けていいものだろうか?
確かに、彼女は聡明でヘタな大人より落ち着いている。それでも彼女は、未だ華奢で未熟な少女なのだ。そんな幼い子が、荒れ狂う感情を他人に悟られずに封じ込められるものだろうか?
…そんな事、大人にだって簡単には出来ないだろう。
ソレが出来る…出来てしまうのは、
一瞬薄ら寒いものを覚えた女性は、様々な感情がひしめき合って青褪めた顔をした
イリは紛れも無い
ご飯を食べれば頬が綻び、頭を撫でれば照れ臭そうにし、怒れば落ち込み、からかえばむくれる。そんな面だってある。
だからこそ、いつの間にか『偽者の母親』だとしても『愛娘』に何かしてあげたくなったのだから。
そう思った瞬間、重圧に押し潰されそうな心を飛び出して、声が出た。
「イリ、あなたはどうやったら人を救えると思うの?」
「…考え中です」
罰の悪そうな顔でイリは呟いた。
その様子に女性は苦笑しつつ、言葉を続ける。
「ならあなたの考える、救い、って何なの?」
「誰も傷つかないことです」
今度は淀みなく答えた少女に、女性は聖女のあり方を見た気がしたが、今は関係ない。一つだけ、少女より長く生きている女性から送りたい言葉があるのだ。それはとても単純な事で、だからこそ忘れやすくて気付かない。『誰か』が教えてくれれば直ぐに気付くもの。
「イリ。ここまで訊いといて無責任かもしれないけど、あなたの考えてることに答えなんて無いわ。答えがあるのならあなたは悩まないわ」
女性の言葉を聞いても、予見していた聡い少女は狼狽しなかった。その代わり、悲しそうに口元を緩めた。そのまま機械的なお礼の言葉を吐き出そうとした少女を遮る形で、少女にとって初の『誰か』になるべくして口を開いた。
「答えを見つけてから進むんじゃない…答えを見つけるために進むの。お腹空いたでしょう?ご飯持って来るね」
唯一自分が信じている事柄を少女が受け入れてくれますように…
少女の顔を見ずに、それだけを願って背を向けた。
答えを見つけるために進む。
少女はその考えをじっくりと噛み締める。
単純に考えれば、答えを見つけることを先送りにする逃げの言葉。
だが、そこまで短絡的な言葉には聞こえなかった。そう思うのは、胸に響いたものがあったからなのだろうか?分からない。
目尻が下がり、唇が自然に弧を描く。この【苦笑】という表情が起こる原理も分からない。そう…私には分からないものだらけだ。
きっと、大人になればもっといろんな事が分かるんだろう。私と比べて生きた時間が長いし、考えた時間も長いから。
大人は私よりずっと先を進んでいる。その道程で様々な寄り道をして、様々な答えを得たんだろう。
たった今気付いた。
きっと…またあやふやな表現だけど、おばさまが言いたかったのは、今分からない事でも時が経てば分かる事がある…そんな意味かもしれない。
その私に都合の良い甘っちょろい考えは、あやふやだらけの私に優しく染み込んで、ちょっと休憩しよっか?と頭を撫でる。あやふやな悩みは明日考えればいい。
今はただ眠いのだから。
うん。おばさまには悪いけど、今日くらいはおやすみなさい。完璧な私は明日から活動再会です。
ご読了ありがとうございました。