奥沢美咲が熱中症になる話
その日はとても暑かった。
八月の血気盛んな太陽は何がそんなに腹立しいのかとめどなく街を怒鳴りつけていて、立ち上る陽炎で風景がぐにゃりとたわんでいた。せめて風が吹いたならカンカンな太陽もちょっとは頭を冷やせたんだろうけど、生憎全くの無風状態で、日差しはどんどん強くなるばかりだった。
ただでさえミッシェルを着てバンド練習に臨んでいたあたしの身体はくたくたのほかほかで、そこにこの天候の追撃だから、ここは灼熱地獄か何かか、と絶望しそうになったのをよく覚えている。実際スタジオからの帰路で照り付けられてみると、そこは確かに灼熱地獄。用意していたスポーツドリンクはとっくに飲み干してしまっていて、あたしに出来る抵抗は、せいぜい帽子を目深に被ることくらいだった。見かねて、隣を歩く花音さんが心配そうにあたしの顔を覗き込む。
「大丈夫、美咲ちゃん?」
視界の中央を、花音さんの端正な顔立ちが占拠する。距離が近い。「大丈夫ですよ」と返答しようとしていたのに、声を発することが出来なかった。
天然ものの睫毛は長くて細くて、一種の美術品みたい。アメジストみたいな瞳はあたしを気遣うようにゆらゆらと揺れていて、綺麗だな、と思った。
普段まじまじと顔を見つめる機会なんてなかったけれど、こうして見てみると、花音さんは顔がいい。
まあそんなこと、注視するまでもなく遠目からでもわかることなんだけどさ。それでも、至近距離に見せ付けられると改めてそう思わずにはいられない。
「美咲ちゃん?」
いや、それだけじゃない。花音さんは声も可愛い。ふわふわで甘くて、人を丸呑みにしてしまうような声。言葉の代わりに砂糖を口から吐き出しているかのよう。あるいはマシュマロだろうか。純白でふよふよしてて可愛いし。
単に甘いだけじゃなくて、聞いていると若干の酩酊感すら生じてくるし、お酒と例えてもいいかもしれない。あたしは飲んだことないから分からないけど。
「美咲ちゃん!」
花音さんが声を張り上げる。それで、あたしも現実に引き戻される。
「本当に大丈夫なの? 美咲ちゃん、すっごく顔赤いよ?」
花音さんの瞳はさっきよりも焦燥が色濃く滲んでいた。あたしの返答次第では救急車を呼びかねない表情だ。
「話しかけても、ぼーっとしちゃって返事もしないし……」
それは、花音さんに見惚れていたからで。ついでに言えば、顔が赤いのもおそらくは暑さのせいだけじゃなくて。だけど花音さんにしてみればそんなことは知る由もないんだから、あたしの体調は、つまりそういうことなんだと解釈しても不思議じゃなかった。
あたしは簡素な笑みを浮かべた。端正な顔立ちを前にして引っ込んでしまった言葉をようやく放つ。
「あー……大丈夫ですよ。もうほんと、全然」
我ながらずいぶん白々しいな、と思った。適切なタイミングで言えばまだしも説得力があったんだろうけど、今となっては手遅れ感が否めない。
案の定、花音さんはきょとんと首を傾げた。
「えっ? でも……」
瞬きして、あたしの顔を見つめる。「じいっ」と効果音が聞こえてきそうな眼差しがどうにもくすぐったい。肌をゆっくりと撫でられているみたいだ。
「あの、ほんとに大丈夫なんで」
たまらなくなって言うも、届いた様子はない。というか、あたしとしても言葉を重ねるごとに説得力が落ちていくというか、悪い手ごたえだけが積み重なっている感じがする。となるとあたしに出来るのは、作った笑顔のまま冷や汗をかくことくらいで。
花音さんはというと、難しい表情を浮かべたままあたしに真剣な視線を飛ばしているままで。
「……美咲ちゃん」
唐突に、花音さんがあたしの名前を呼んだ。ドラマの最終盤、崖の上で犯人を断定する刑事のような、静かな口調なのにどこか重い響きを持って聞こえる、そんな声。
思わず姿勢を正したあたしに向かって、花音さんは。
「ちょっと、失礼するね」
すっと腕を伸ばすと、両手をあたしの頬に当てた。
ハンドクリームの花の香りがふんわりと鼻孔を抜けていく。あつさでとろけそうだった頬の細胞が一瞬で修復されるくらい、花音さんの手は冷たかった。
しかし固まっていく細胞とは対照的に、あたしの心臓は急な展開に驚いて跳ね上がっていた。
なんで、どうして、いきなり、花音さんはあたしの頬に手を。しかもなんだかいい香りがするし、冷たくて気持ちいいし、ええもうなんかやばい。まずいよ、これは。何がまずいのかは全く分からないけど、あたしの中の冷静な部分が警鐘を鳴らしている。とにかく、これはまずい。
混乱しているあたしに、花音さんは言った。
「美咲ちゃん、やっぱり熱いよ。放っておいたら熱中症になっちゃうよ」
砂糖の海の中にスパイスを数的垂らしたような声。頬をぷくっと膨らませていて、ほんの少し吊り上がった眉。本人としては睨みつけているつもりなんだろうけど、生来の可愛さからかどうにもふわふわした印象が拭えない、そんな顔。
「休まなきゃ、駄目だよ」
あたしを気遣う言葉がめくりめくって、ふやかされていくような感覚。
「いつも美咲ちゃんはいっぱい頑張ってるけど……」
まるで、脳みそを砂糖漬けにされてしまったみたいに。
「たまには、私にも頼ってね」
そこで、初めて花音さんは笑った。
「いつも美咲ちゃんには苦労をかけてるから。たまには、お返しさせてね?」
ぐずぐずに溶かされているような気がした。目の前には世界中の「可愛い」を詰め込んだかのようなモンスターがいて、あたしは交戦するも強大な可愛らしさの前にはどうすることも出来ず、ぱくりと飲み込まれて消化されていく。もちろん花音さんは花音であってモンスターなんかじゃなくて、だからこそ余計にあたしは溶かされている。最終的には理性も何もかもが溶かされて、「花音さん、凄い」という敬意、あるいは畏怖だけが残される。
心の奥底で、何か重要な、しかし案外どうでもいいとも思える何かが、ぷつりと切れたような感覚。
何故だかおかしくなって、あたしは笑みを浮かべて言った。
「花音さんの手、冷たくて気持ちいいですね」
「えっ!? そ、そうなんだ……」
ぼんっと、それまで白雪のようだった肌が一瞬にして染め上がる。頬に張り付いていたひんやりがだんだん剥がれていく。自分のしていたことがどんなに恥ずかしいことだったのかようやく認識したんだろう。花音さんは手を引っ込めようとしていた。
けれど、あたしはもう少し、この感触を楽しんでいたかった。
「花音さん」
少々の申し訳なさを添えつつ、花音さんの手首を掴んで固定する。
「ふえぇ……?」
困惑したように、花音さんはあたしを見た。その瞳からはさっきまでの芯の強い光は消え失せていて、代わりに小動物めいた震えがあった。
あたしは言った。
「もう少し、このままで」
花音さんは。
「……!」
一瞬、目を丸く見開くと。
「…………うんっ」
わたあめみたいな笑顔を浮かべて、うなずいた。
あたしは、冬の残り香が漂う晴れの日に桜の蕾を発見したときに似た、心がゆったりと綻んでいく感覚を覚えた。今日は春先どころか、真夏のピーク真っ盛りなんだけど。
おかしいこともあるもんだなあと、ぼんやりとした頭で考えていた。