乾いた咳の音が天井まで届いて、こほん、こほんと空間を揺らす。勢いよく射出された病原菌が恐らく飛び散り、部屋の空気を悪くしていく。それは喉の奥を刺すような、粘っこくて刺々しい空気の醸成。呼吸すら憚られるような、居心地の悪い空間への変貌。鼻をかむ音はまるで轟音のようで、かんだ本人すら想像以上の音量に驚いているのだから、傍聴者はそれ以上に吃驚、ないし居心地の悪い印象を与えてしまっているかもしれない。
せっかく来ていただいたのに。麻弥は申し訳なく思い、顔を歪めた。
「すみません、こんな有様で……」
「いやいや、いいよ別に。分かってて来たんだし」
日菜は手をひらひらと降り、麻弥の憂慮を笑い飛ばした。「お見舞いって、そういうものなんでしょ?」
「ですが」
「あ、そうそう! これ、お見舞いの品だよ」
もう片方の手に下げていたビニール袋を持ち上げると、その中身を一個ずつ取り出して麻弥に見せ付ける。
「これが今日発売の音楽雑誌でしょ、それから野菜スティックにコーラ……ああ麻弥ちゃん、麻弥ちゃんちって生姜ある?」
「確かあったと思いますよ」
「えーっ、そうなんだ。麻弥ちゃんちって食材あるんだね」
「そりゃありますよ。いつのだかわからないやつもありますけど……」
乾いた笑みを浮かべる麻弥。日菜は袋から最後の見舞い品を取り出した。
「で、これが激辛カップ麺ね」
「えっ」
思わず、麻弥は顎を落とした。途中までは出てくる見舞い品に対して嬉しさと申し訳なさが同居した体で身を縮こまらせていたのだが、そういう態度は赤くて黒いパッケージを見た瞬間に吹き飛んでしまった。
そう、赤くて黒。商品名のフォントは「本当にあった怖い話」のようなおどろおどろしいもので、印刷された髑髏のマークはこの食品が危険物質であることを伝えているかのようだ。そして実際、危険物とはあたらずも遠からじであるから始末に終えない。
少なくとも病人が食べていいものではないだろう。むしろ余計に体調を崩しそうだ。麻弥はカップ麺をしばらく見つめ、それから何か、信じられないものを見るような目つきで日菜を見た。
日菜は笑っていた。
「食べたら元気になるかもしれないよ?」
「ある意味ではそうかもしれませんけどね……」
こういった辛い系のラーメン愛好者、もとい中毒者、何なら乱用者の言い分。──激辛ラーメンを摂ることによって初めて健康になれる。明らかに度を越した量の刺激物を体内と脳味噌にぶち込むことによって神経をバグらせ、全ての刺激を幸福と感じられるようになる。風が肌に当たって涼しい、故に幸福。呼吸で入ってきた空気が体内を通り抜けていく、その感触が心地よいから幸福。耳がうるさい車の走行音をちゃんと聞き取れている、だから幸福。体内器官が正常に動いていることに感謝。生きていられることが幸福。……身体が健康であることを鮮明に認識させてくれるから、逆説的に激辛ラーメンを摂ると健康になることができるのだ。
「いや、それはなんかおかしいです」
麻弥が呆れながら言うと、日菜は「おもしろいよねー」と冗談めたく笑う。一見筋が通っているようで、その実ただの詭弁論。順接の使い方も逆接の使い方もおかしいし、第一それは健康ではない。自傷行為を行うと健康になれると言っているのと変わらない。というか、つまりそれは激辛ラーメンは食べる自傷行為と言っているようなもので、少なくとも病人食では絶対にないことの証左だ。
「どこで聞いてきたんですか、その論理」
麻弥が尋ねると、日菜は「こないだやってたニュースの特集で見たんだ」と間延びした口調で返した。
「インタビューに答えてた人が面白くてね。試しに行ってみたら美味しくてさー」
「それでハマってしまった、と」
「うん! 麻弥ちゃんも食べる?」
「遠慮します」
きっぱりと首を振る。日菜は「じょーだんだよー」くすりとすると、
「これはあたしが食べるけど、麻弥ちゃん何か食べたいものあるー?」
「いえ、大丈夫ですよ。ジブンお腹空いてないですし」
「ふーん?」
麻弥の言い分に日菜はぱちくりと瞬きしたが、麻弥ちゃんがそう言うならいっか、と流した。病人だからとか以前に、もともと麻弥は小食だからである。
日菜はカップ麺とコーラを手に台所へと向かった。
それから数分が経過し、麻弥の寝室には脂と豚と唐辛子の混じった香りがたち込めていた。ズズズ、と啜る音が途切れ途切れに部屋に響いて、日菜は熱さと辛さに顔をしかめながら、しかし美味しそうにラーメンを食していた。こびりついたら容易には取れなさそうな、ある意味で芳醇な香りが鼻腔をついて、麻弥はやっぱり何かリクエストしておいた方がよかったかもしれませんと思った。が、カップの中のどす黒い赤色のスープが視界に入って、少し沸きかけていた食欲が一瞬にして減退。まるで溶岩か、あるいは血液か、いずれにせよ人間の食べ物には失礼ながら思えなくて、見ただけで辛さがこみあげてくる。何なら辛いどころか痛みすら想像してしまい、それを洗い流そうと、麻弥は日菜が淹れた生姜コーラを一気に煽った。
甘ったるい合成甘味料の味が口の中に広がっていく。そして、それを一気につんざくような生姜の風味。片手鍋に入った黒い液体はまだまだ残っていて、こちらはこちらで熱されたカラメルの香りを振り撒いている。匂いがこびりつく前に、しっかり換気をしなければいけませんね。空になった紙コップを手に、麻弥がそんなことを考えていると、
「そういえば、あの件はどうなってるの?」
日菜が尋ねた。麻弥は「あの件……、ああ、あの件ですか」一瞬固まってから、要領を得たというふうに何度か頷いて、確認。
「アイドルのプロデュースの話ですよね?」
「そーだよ」と首肯。「どうなったのかなって思って」
日菜は麺を持ち上げる手を一旦止めて、麻弥の方をじっと見やる。麻弥は「あー……」ばつの悪い表情。
「恥ずかしながら、全然進んでいなくてですね……」
「へえ?」
日菜はラーメンを啜る作業を再開する。赤と黒にまみれた麺を割り箸で持ち上げ、ズズズと音を立てて吸引。赤くて黒くて白い引き伸ばされた小麦粉を体内に取り入れていく。顔をしかめ、額には汗が滲んでいて、しかし日菜は、今度は容器を口元に持ってきて傾ける。溶岩の直接摂取。激辛スープを飲んでいく。それを眺めながら、麻弥は黒くて甘ったるい滋養強壮ドリンクを紙コップに注いで、ちびちびと飲む。
お互いある程度の量を飲んだところで容器を置き、全く同じタイミングで「ぷはあ」息をつく。なんだかそれがおかしくて、二人は仄かに笑いあった。
「で、進んでいないって、どのくらいなの?」
その表情のまま日菜が尋ねる。たちまち麻弥の笑みは苦笑へと変貌した。
「全然ですよ。本当に、……どういう方向性のアイドルにするかとか、イメージカラーは何色にするとか、バンドとしてはどういう方向性で売っていくかとか、そういうとこからです」
「ふーん。アイドルのプロデュースって大変なんだね」
「正確には、アイドルじゃなくてバンドアイドルのプロデュースなんですけどね」
日菜は相槌の代わりにラーメンを啜る音で返した。麻弥は語る。
「まあ、プロデューサーって言っても本当のプロデューサーってわけじゃないので、ジブンごときがプロデューサーは大変って言うのも違う気がするんですけど……。……今回のは事務所が新しくデビューさせるバンドアイドルの立ち上げに携わるだけですし、それだけでプロデューサーを名乗るのもなんか違うなって、思わないといえば嘘になるんですが」
「まあでも、そこは事務所の意向ってヤツでしょ?」麺をごっくんした日菜が言った。容器の中にもう麺は残っておらず、もう赤黒いドロドロのスープしか入っていない。
「麻弥ちゃんがプロデューサーになったのって、「あのパスパレの大和麻弥プロデュース!」って売り文句をつけたいがためでしょ?」
「いや、まあ、そうだとは思うんですが」
「だから、あんまり気負わなくていいんじゃない? プロデューサーでもただのパスパレのメンバーでも、麻弥ちゃんは麻弥ちゃんなんだしさ」
そう言って、日菜は残った汁を飲み干した。
麻弥は、
「そうなんですけどね……。ですが、ジブンだからこそプロデューサーって言うにはちょっとっていうか……何かを一から生み出そうとするのって、分かっていたつもりでしたけど、やっぱり難しいですね」
「そうかな? まあでも、あたしと麻弥ちゃんは違うし、そうかもね」
「そういえば日菜さん、高三のときに学園祭バンドのプロデュースしてましたよね」
「あー、あったねそんなこと。でも、あのときは全員知り合いだったし、やりやすかったって言えばやりやすかったかなー」
「それでも、メンバーを集めてバンド結成させたのは日菜さんじゃないですか。ジブン、日菜さんのそういうところ、凄いと思いますよ。ジブン、寝ずに考えても、何も浮かんでこなかったので……」
「へー。それで、麻弥ちゃんは風邪を引いたと」
ぴたりと麻弥の動きが止まる。どうやら図星であるようだ。
日菜は笑う。
「まあ、麻弥ちゃんのことだし、生活習慣のせいだろうなって思ってたよ。でも、千聖ちゃんが聞いたら怒るだろうなあ」
「すみません日菜さん、このことは千聖さんには内密に……」
「いいよいいよ、分かってるって」
でも千聖ちゃんってこういうのの察し上手いし、あたしが黙ってたくらいじゃすぐバレると思うんだけどな、とは、日菜は言わなかった。そうしないだけの優しさは持っていた。
麻弥は胸をなでおろすと、話題を元に戻そうと口を開く。
「日菜さんのときと違って、今回はメンバーを集める前にグループのコンセプトを考えなければならないんですよ。メンバーをオーディションや研究生から決めなくてはならないので」
「どういうアイドルにしたいかって方向性が決まらないと、スカウトもオーディションもできないからね」
「そうなんです、けどね……」
麻弥はそこで言葉を噤み、大げさにうなだれて肩をすくめた。おまけに、首をゆっくりと横に振ってみせた。何を伝えたいのかは明白だ。
「今、それってどこまで決まってるの?」
小首を傾げて、日菜は尋ねる。麻弥は「ええとですね……」頭を掻いて、
「まず方向性、というか事務所の方から言われたことなんですけど、「大ガールズバンド時代に新風を巻き起こすようなフレッシュさ溢れるバンド」「誰も見たことのない革新的なアイドル」というのがコンセプトでして」
「えらくふわふわしてない?」
「そうなんですよ。ですから、具体的なことはジブンで考えていかなきゃいけないんですけど」
「それが思いつかない、のかあ」
「お恥ずかしながら……」
肩を落として、しょぼくれたふうにしてみせる麻弥。いやに抽象的な発注からして、この事務所にはよくあるいい加減なところが出てきたのかと見れなくもないが、しかし仮に詳細まで指示されたコンセプトであったなら、それは事務所プロデュースと何ら変わりはないだろう。本当に麻弥は名前を貸しただけになってしまう。真に大和麻弥プロデュースのバンドアイドルグループを作りたいのであれば、やはり指示はなるべくアバウトにして、麻弥に思考を促す方が適切なのだろう。
麻弥はパスパレの音楽担当として定評がある。そんな彼女が手掛けるバンドアイドルとなれば、アイドルファンのみならず音楽通の人にも興味を訴えられるのではないか。そのためには、事務所の色よりも麻弥の色が濃く出ていた方が良いのだろう。
日菜は手元に目線を落とした。汁のなくなったカップ容器があった。白いカップのところどころに唐辛子の赤黒い粉が張り付いていて、依然として強烈な油と肉と香辛料の匂いを放っている。
「イメージカラーが赤と黒と白のスリーピースってどう?」日菜が提案した。
「ユニット名は、激辛カップラーメンズ!」
「アイドルってより、学生バンドですよねそれ」
「えー。じゃあ、金色とか鈍色とか虹色とか瑠璃色とか」
「キワモノみたいなアイドルになりそうですね……」
もちろん、麻弥は取り合わない。新奇を衒うのはいいが、ただ奇抜なだけでは話にならない。求められているのは業界をあっと驚かせる、邪道を正道にしてしまうような力を持ったアイデアなのだ。
「難しくない?」
「そうなんですけど、そういうお仕事ですからね……」
やっぱり、難しい仕事を麻弥ちゃんに押し付けただけなんじゃないかな。日菜はもう何度目になるかわからない、事務所スタッフに対する疑念を抱いたが、いつものことか、と流した。こういう不平不満は、鮮度が落ちた後で笑い話にでもすればいい。
「でもね、麻弥ちゃん」
日菜は麻弥の瞳を覗き込むようにして、
「今は仕事のこと考えるのはなしっ」撥音。麻弥は狼狽。
「どうしてですか?」
「だって、仕事のこと考えすぎて体調崩しちゃったんでしょ? 今はゆっくり休む時間だよ」
その忠告は流石に的を射ていた。
「ぴーんってしてないと、頭がきゅぴーんってならないからね」
「そうですね」麻弥は頷いた。「確かに、休んだ方が思考も働くかもしれませんね」
「うんうん、休んだ方がいいよ」
日菜の促しに、麻弥は「ごほっ、ごほっ」咳き込んでウイルスを四散。「……そうします」布団を被り、後頭を枕に安置させる。
「お休み麻弥ちゃん、この辺のゴミはあたしが捨てとくよ」との言に「ありがとうございます」と返し、……あれ、ゴミといっても、その大半は日菜さんが持ち込んだものでは。思うも、しかしそれは見舞いの品としてであるし、その例外である激辛ラーメンについても自分から捨てに行ってくれているならとやかく言うことではないし、何よりせっかく来てくださって片付けまでしてくれている日菜さんに悪くてできやしない、むしろ。
麻弥は今一度、日菜に「ありがとうございます」と伝えた。「二度も言わなくてもいいよ」との嬉しそうな声音を聞きながら、ゆっくりと麻弥は瞼を閉じた。
〇
そして、日菜に叩き起こされた。
「起きて! ねえ起きて麻弥ちゃん」
ドンドンドンと体に衝撃。揺らされて、肌とシーツがズリズリと摩擦。蹴とばされる微睡み。強引な起床。もたらされる半覚醒。
「どうしたんですか日菜さん……」ゆっくりと起き上がり、裸眼のまま日菜を見る。視界はぼんやりとして曖昧であり、薄暗い、本当に薄暗い部屋が、認識のし辛さを助長していた。当然、時計など見えるべくもない。
「今何時ですか?」
尋ねた麻弥に、日菜は、
「麻弥ちゃん! 台風が来たよ!」麻弥の肩を掴んで、至近距離でまくし立てた。瞳が爛々と輝いていた。
「台風ですか?」麻弥は困惑の表情を浮かべた。「さっき、寝る前は台風が来るなんて話、全く聞いてませんでしたが……」
通常、台風というのは上陸、あるいは接近前に少なくとも天気予報なりなんなりで情報が流れるものである。唐突に台風が到来することなんて、普通はない。
しかし、そこで携帯が鳴った。聞いたことのない着信音だ。眼鏡を掛け、見てみると、気象庁からの緊急速報メールが表示されていた。
「花咲川が氾濫危険水位に達しました」「避難勧告が発令されました」「直ちに身の安全を確保してください」「警戒レベル5」「避難」「危険」「避難」「避難」「避難」……すべからく、危険と安全確保を訴える内容。外では風切り音が鳴り響き、家の壁一枚隔てて麻弥の耳に届く。空気を思いっきり殴りつけているような音だ。暴力的な風、故に暴風。叩きつけるような雨音が、暴力的な印象を強めさせていた。
ざあざあ、ごうごう。音に煽られて、麻弥は寝室のカーテンを開き、外の様子を確認する。十分休息を摂ったからか、体はすんなり動いた。
外は、やはり、荒れ狂っていた。屋内から確認できる外の様子など、外にいるときのそれと比べるとどうしても実感が薄く、どこかスクリーンの向こう側の出来事のように感じてしまうものだが、こうも窓枠がガタガタきかせているとそうもいかない。ぐっと暗い中、暴風、豪雨に晒されて、養生テープも雨戸も閉めていないのであるから、窓が割れるのも時間の問題であるように思われた。
麻弥はそれを見ながら、呆然と立ちつくした。これは、いったい、どういうことなんでしょう。
起きたらいきなり、予兆もなく本当にいきなり被災していたのだから無理もない。窓ガラスには目を見開いて戦慄する麻弥がうっすら写っている。
後方から声。「すっごいおっきい台風なんだって」その声色はどこか喜々としていた。「観測史上最大だとか、地球史上最大規模だとか」
麻弥は振り向いて、
「それは、随分と眉唾ですね」
「スポーツ新聞の記事だけどねー」日菜は可笑しそうに口元に手を当て、
「でも、本当にそうかもしれないよ?」
──再び、風の音。まるで日菜の発言を裏付けるように、どかんと家をぶん殴る。雨が屋根をしばき続ける。麻弥は息を飲んで、ごくり。唾も飲み込んで、そしてそのまま、息を張り詰める。
「ねえ麻弥ちゃん」そこへ、日菜が呼びかける。まるでオフの日に遊びに誘うかのような軽い口調で。
「街がどうなってるか見に行こうよ」
いや、実際、それは遊びのお誘いだった。オフの日の場合と違うのは、無意味に命を賭した危険な遊びであるということだが。
「いや、危ないですよ」当たり前のように麻弥は首を振った。「何か起きたらどうするんですか」
「大丈夫だよ!」日菜はへらへらと、しかし力強く断定。「それに、麻弥ちゃん外にまだ出てないでしょ?」
「はあ。まあ、そうですが……」
返答に、日菜はにやりと口角を吊り上げて、「出てみようよ!」ぱたぱたと玄関に向かって駆け出す。
「日菜さん!?」
麻弥は面食らって、後ろ姿を追いかける。寝室から廊下へ、トイレや場や機材のコレクションルームを尻目に玄関に到着、待っていた日菜は解錠し、ドアノブに手をかけていた。
「開けるよ」
麻弥は、しかし、その手を止めることはしなかった。既に追いついているのだから、日菜を止めるくらい容易い(姉関連でなければ、日菜はやめてと言えば基本的にやめてくれる人間であることを麻弥は知っている)筈なのだが、麻弥はそうしなかった。
結果として、ドアは何事もなく開かれて、暴風豪雨が屋内に侵入。二人の髪の毛が舞い上がり、麻弥は反射的に目を瞑る。一方の日菜は半目になりながらも不敵な笑みを浮かべ、麻弥の肩を叩いた。
「見て、麻弥ちゃん」
麻弥は恐る恐る瞼を上げて、視界が徐々に明らかになると同時に、絶句。ついには目をまん丸に見開くくらいに持ち上げた。
空の色が紫色だった。
いや、紫色じゃない。赤色、橙色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色、赤色に移り変わっていて、サイケデリック。異界の空みたい。地球史上最大規模というこの台風は、空の色をも異常にしてしまっているのか。
風が吹き荒れる。遮るものは何もない。麻弥は下半身に力を込め、ふっ飛ばされないよう踏ん張りを入れる。
「麻弥ちゃーん!」
そんな中、日菜の声。外の方から聞こえてきて、しかしその方に目を向けても見えるのは家の壁。死角になっていて、外に出なければ姿は視認できなさそう。
麻弥は足を踏み出した。風に吹かれ、短い髪をたなびかせ、というよりは吹きさらされながら、改めて声のした方に顔を向ける。
そこにはガレージがあった。保管されているのは麻弥の愛車、学生時代に一括購入した黄色の軽自動車。それの助手席に日菜が座っていて、麻弥と目が合った瞬間「おーい、麻弥ちゃーん!」手をぶんぶんと振った。
麻弥は車に乗った。運転席に腰を下ろし、少しばかり濡れた髪を腕で拭う。車内には放送のやってないラジオの砂嵐のようなノイズが流れていて、麻弥はオーディオへと切り替えた。
「はい、これ」日菜から車のキーが手渡されて、「なんで持ってるんですか」「まあまあいいじゃん、そんなことは」
麻弥は何も言わず、車を発進させた。
「どこへ行きますか」
「うーん、CiRCLEとかどう?」
「いいですね。そうしましょう」
オーディオは七〇年代のロックンロールを流していた。少しでも洋楽に触れたことがあるなら誰もが知っているであろう名盤だ。天井に降りかかる雨音がうるさいとはいえ、放送のやってないラジオよりは遥かにマシである。
窓の外は、やはり酷い有様だ。異様な空の色にしてもそうなのだが、その下で吹き荒れる風もなんだか色がついているように見える。でなくても雨粒で外が見えづらいというのに。ワイパーをずっとかけていないと満足に運転もできやしない。ちらりと麻弥が隣を見やると、日菜は楽しそうに外の風景を眺めている。
いったい、何を考えているんでしょう。麻弥は思った。
別に怒っているわけじゃない。あくまでこれは純粋な疑問。麻弥は日菜のことを聡明な人だと思っている。一見思いつきで行動しているように見えても、その実何らかの目的に沿った上での行動であることが殆どだ。……殆ど、だろうか? ともかく、自らを危険に晒すような行動を軽率に犯すような人ではないと麻弥は考えている。
平たく言って、麻弥は日菜のことを信用しているのだ。台風が吹き荒れる中外出を提案したのも意図があってのことだろうと考えているし、だからこそ麻弥は提案に乗った。しかし肝心の意図の内容については、まだ察しがついていないのだった。
車がびしょびしょの道路を滑るように走る。その横には、今にも溢れ出しそうな花咲川が勢いよく流れている。氾濫危険水位に達したとは聞いていたが、しかしこうして実際に見てみると、本当に氾濫しそうでびっくりする。
日菜はかじりつくようにその光景を眺めていたが、ふと、
「あれ、麻弥ちゃんちの鍵って締まってたっけ」
「あ」
そういえば締めずに出かけた気がする。……まさか開けっ放しのままだとは思いませんけど、でも、ただ閉じてるだけの施錠してないドアなら風雨は侵入する気がする。
「少なくとも、氾濫したら間違いなく浸水しますよね……」
「どうするの? 戻る?」日菜が尋ねてくる。
「そうですね」と答えようとして、麻弥は、しかし口を噤んだ。CiRCLEが見えたのだ。
その姿が余りにも異様だったので、麻弥は暫し呆気にとられた。
CiRCLEは営業を行っていた。どこかのバンドがライブを行うらしく、店前はお客さんでそこそこごった返していた。
彼ら彼女は誰一人傘をさしていなかった。合羽も被っていなかった。何故ならその必要がなかったからだ。
CiRCLE一体の上空だけ、雲がまるでなかった。空の色は底まで鮮やかな青だった。当然雨など降っているわけがなかった。
「台風の目だ!」
日菜が叫んだ。台風のごく中心のみに存在する、雨も風も全くない穏やかな空間。まさか、それがCiRCLEの上に広がっていると言うのか。そんなに大きい規模でもない、高校生バンドでもライブできるような箱の上だけに?
「行ってみようよ」
日菜が言った。麻弥は了承するしかなかった。
車内を流れるロックンロールは、ちょうどハットのリズムが抜けたところであった。
店内に入ると、受付をしていたのはお馴染みのベテランスタッフであった。
「あっ、二人とも! 久しぶりだね!」
「お久しぶりです、まりなさん」
「お久しぶりでーす」
麻弥はぺこりと会釈、日菜は手を軽く振って挨拶。地下の方からドタバタと音が聞こえ、知り合いやらそうでないスタッフやらが忙しそうにしている。
「二人は、今日は練習?」
まりなが尋ねる。麻弥は「いえ、そういうわけではないんですが」首を振って、それから外の、青々しい空に目を向ける。
「CiRCLEって台風でも営業してるんですね」
「えっ、台風?」まりなは眉根を寄せて、
「台風が来たらうちは臨時休業になるよ? でも、今日は来てないよね?」
「えっ」頓狂な声。今度は麻弥が困惑する。
それを見たまりなもより困惑。困惑と困惑の相乗化。
「今日は朝からずっと晴れだよ? 絶好のライブ日和って感じの快晴だったと思うんだけどな……」
「ところで、そのライブって誰のライブなの?」
そこに、横入りする日菜の質問。だがそれは突飛な質問というわけではなく、……入口がごった返すくらいお客さんが入るバンドというのは珍しい。特に学生やアマチュアのバンドが多くライブするCiRCLEにおいてその光景が見られるのは、RoseliaやAfterglow、ハロハピやポピパ、パスパレといった今でも活躍しているバンドくらいだった。
あの観客たちは、この中のバンドのファンの人達なのだろうか。まあパスパレは除くとして、他のガルパ参加バンドのどこかがライブを行うのだろうか。麻弥は身を乗り出してまりなの答えを待った。天気のことも気になるが、これについても気になっているのだ。
まりなはきょとんとした。
「あれ、二人とも知らないの? 今日は最近勢いが凄いアイドルのライブだよ」
二人は顔を見合わせた。……アイドル。CiRCLEでライブをやるということは、バンドアイドルだろうか。
「なんてグループなんですか?」
麻弥が尋ねると、まりなはすぐに教えてくれた。
聞いたことのないユニット名であった。広いようで狭いこの業界、ライブハウスであろうとこれだけ客を呼べるバンドアイドルとなると名前を知っていてもおかしくないのだが、全く知らないグループであったのだ。
「あれ、二人とも知らないの?」
少々驚いたふうにしてみせて、まりなは、「このバンドはね……」どこか得意げな口調で説明を始めた。
「さっきも言ったけど、最近の勢いが本当に凄いバンドなんだ。ちょっと前にデビューしたばっかりの新人なんだけど、パフォーマンスも演奏技術も凄くて、熱狂的で、……大ガールズバンド史上最大とか、地球史上最大のアイドルバンドとか、言われてるみたいだよ」
「そ、そうなんですか」
ますます、妙ですね。麻弥は思う。そんな評判のバンドなら、それこそ何も情報がないのはおかしい筈なんですが。
「ああでも、パフォーマンスについては実際に見たほうが早いよね」
まりながその台詞を言い終わる、ちょうどそのとき、地下から大きな歓声が聞こえてきた。さっきの台風にも負けず劣らずの音量だ。
「おっ、ちょうどライブが始まるみたいだね」地下に繋がる階段に目を向けるまりな。
麻弥は眉をもたげて、「ええ?」信じられないというような視線。
「さっきお客さんたち、まだ外に並んでましたよ? なのにもう始まるんですか?」
「でも、本当に始まりそうだよ」と日菜。下から響くびりびりとした振動。まるで天変地異。震度の弱い地震みたいで、それだけで分かるファンの熱気。今か今かと待ち構えている観客の興奮が足元越しにびんびん伝わってくる。
「見に行ったら? チケットはもう完売してるんだけど、関係者席なら空いてるから」
まりなは関係者チケットを二枚麻弥に渡した。「サービスだよ」にこにこ笑って、「ライブを見たら、きっとびっくりすると思うよ」
「そんな凄いんですか」
「うん。なんたって、アイドル業界に新風を巻き起こしたって言われているくらいだからね」
その言葉に、麻弥はぱちくりと瞬きをした。
関係者席扉を開くと、案の定と言えばいいのか、既に中は熱狂に包まれていた。爆発的な感情の雄叫び、とするには甲高い声が混じりすぎている気がしなくもないが、ともあれそんな悲鳴もとい歓声が室内の空気を埋め尽くさんとしていた。ペンライトの色は赤、白、黒、あるいは橙、黄、緑、青、藍、紫、金色や瑠璃色、虹色なんてのもあって、雑多。まとまりのない色彩からではバンドの方向性は見えてこない。
「おー、凄いねー」日菜が感心したように言った。
「デビューしたばっかりなのに、もうこんなわーってなってるんだ」
「そうですね」麻弥は同意。客席へと視線を下ろしたままの格好で、「パスパレも最初の頃は、ここまで人気でもありませんでしたからね」昔を懐かしむようなことを宣い、目線をステージの方へと移していく。
そこには、この熱狂の根本的要因。件のアイドルバンドのメンバーの姿。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードの五人制。パスパレと同一である。
服装は、これが驚くことに、メンバーによってバラバラであった。ボーカルこそフリフリのいかにもなアイドル衣装を着ているが、その他の面々は革ジャンにショートパンツであったり、重厚そうなドレスであったり、ただの私服だったりしていて、やはりまとまりはなくて、ボーカルが発声。今日は集まってくれてありがとう、という旨のMC。少し舌足らずな印象の声質。
照明の問題からか、メンバーの表情は光に遮られて伺いしれない。何ならそもそもの顔立ちすらも麻弥は見れていない。
挨拶もそこそこに、ボーカルの子は早速音楽を始めようとして、メンバーと眼と眼を合わせる、頷き合い、改めて正面を向き、曲名のタイトルコール、上がる歓声、それを打ち消すかのようなギターの音、ドラムのフレーズ。ベースの低音、キーボードのメロディ。
麻弥は唖然とした。何故ならこれは、あまりにも、アイドルが出す音にしては、いやそもアイドル云々を抜きにしても、非常に暴力的な音。鉄の塊で人を殴りつけているかのような、釘バットをぶん回すならず者のような、叩きつけるように吹き荒れる暴風のような──刺激的な音。
一つ一つの音が凶悪な自我を放っていて、そこから生まれるのは種類の違う唐辛子を鍋にぶち込み煮込んだかのような音楽。しゅわしゅわして甘いサイダーのような音楽ではもちろんない。むしろそういうのとは対極。けれども、神経毒であるのは共通。
深く没入させていく。パスパレの場合はポップでキュートで心の強い、カラフルな音の洪水に。こちらの場合は殺人的で暴力的で刺激的で、麻薬のような危険物。だってこんなのを聞いているのに体はまだ動いている。体内器官が正常に働いている。騒音の中にあって、観客の狂騒もしっかり聞き取れている。会場獣の熱気を肌で感じている、その感触が心地いい。身体がなんと健康だ。
故に幸福を感じる。言葉ではとても言い表せないような幸福を鮮明に実感する。……刺激物をキメすぎて、神経がバグってしまっているのが自分でも分かる。しかしながら、麻弥はそれを是認した。聞く自傷行為だと分かっているにも関わらず、この幸福感に身を任せた。同時に、まりなの言っていたことついて深く納得した。
アイドルバンドに新風を巻き起こした。……それは、そうでしょうね。こんなことやってて話題にならないわけないですもん。今までのアイドルバンドのイメージを破壊するかのような音楽性ですよ。今までのアイドルとは全然方向性が違うように見えます。
でも、よく考えたらそれでも問題はないんですよね。アイドルだからといってアイドルらしいことをする必要はない、っていうと語弊がありますけど、無理にアイドルらしくなろうとする必要はないですから。アイドルグループの一員として活動していれば、それはもうアイドルです。アイドルをやれているのかと悩んだり落ち込んだりするのなんて、それは単なる杞憂なんですよね。
ですからこれも、アイドルとしての一つのあり方なのかもしれません。何せバンドアイドルは、バンドでもあるんですから。こういう音楽性のバンドは確かに過去にも存在していましたし、いろんなバンドがいるならいろんなアイドルがいてもいいのでしょう。新風ってくらいなんですから、既存のアイドルバンドでは考えられなかった方向性なのも当たり前ですしね。
それにしても、これは新風を吹かせるっていうには些か暴力的すぎないでしょうか。そんな生易しいものじゃないです、これ。強風、暴風、いや台風です。麻弥は先程の台風直下の町中の惨状を思い出し、それから目の前のライブの様子と重ね合わせて、「これは台風ですよ」小さく呟いた。
途端、ライブに異変が発生した。
風切り音が鳴り響いた。
ごうごうと、殴りつけるような暴風が吹いた。
みるみるそれは渦を巻き、やがてだんだんと上昇気流を形成していった。
渦の中心はステージ上のアイドルたちだった。
彼女たちは何事もなく、というより周りに何が起こっているか気にも留めない様子で演奏を続けていた。
風はどんどん強くなる。観客たちは近くの何らかにしがみつくか、何もなければ自分の足腰で踏ん張るかして抵抗していたが、やがて風圧に負けて吹き飛ばされていく。渦を巻く風に流されて、回って回って、そのまま上昇気流で宙へと飛ぶ。それでも壇上のアイドルたちは演奏を続ける。どころか、むしろヒートアップしていく。
暴風は収まるところを知らない。もはやこれは竜巻だ。あるいは規模の小さな台風だ。天井からギシギシと軋む音。証明はとっくのとうに落ちて割れて、音響設備も散々になっている。それでも彼女たちは演奏を続ける。
天井が破壊される。暴風は一瞬にしてCiRCLEの一階をも巻き込み、ラウンジだろうがなんだろうが関係なくめちゃめちゃにする。ついにはCiRCLEそのものまで破壊し、ペンライトが、観客が、空へと投げ出されていく。麻弥もその例外ではない。何故、どうして、何が起こっているのか。突然の非現実的な出来事に混乱したところで、それは目の前で起こっているのだから仕様がない。カラフルな蛍光が空へと羽ばたいて、虹色赤色黒色白、サイケデリックに瞬いていく。
ほぼ更地のようになったCiRCLEの中で、それでも彼女たちは気にせず演奏続行。そこは渦の中心、無風地帯。その外側は大変なことになっているというのに。彼女たちは台風の目だ。世間の流行的な意味でも、その言葉通り意味でも。彼女たちは実に台風の目であった。
CiRCLE上空が晴れ上がっていたのは、そこに台風の目がいたからに過ぎなかった。何なら、あの台風自体が彼女たちが起こしたものであるかもしれない。となると、まりなが台風のことを全く知らなかったのも不思議な話ではなかったのだろう。
遠くなっていく地上を眺めながら、麻弥はそんな旨の考察をしていた。地上へ降りたくても勝手に風が連れて行くので、なすがままにされるしかなかった。そう考えていた。
「麻弥ちゃーん!」
日菜の呼ぶ声がした。その方に目を向けると、麻弥の愛車の助手席に座っているのが見えた。ぶんぶんと、麻弥に向かって手を振っていた。
暫し麻弥は呆気にとられたが、すぐにくつくつと、声を出して笑った。多分、あの軽自動車も風で吹き飛ばされていて、そこに日菜さんが器用にも乗り込んだんでしょう。
「こっちにおいでよー!」
日菜の呼びかけ。麻弥は腹に力を込めて返答。
「今行きますー!」
暴風であっても吹き飛ばせない、大声によるコミュニケーション。二人は自然を合わせ、似たような笑みを作った。
どんどん高度が上がっていく。気温がぐんぐん下がっていく。麻弥は必死に腕と足を動かして空中を泳いだ。車とどんどん距離を詰めていき、風が吹いて体が吹き飛ばされ、さっきよりも遠くなる。
「麻弥ちゃん!」
日菜の声。心配するような声の色。しかし、麻弥はそれでも動くことをやめない。クロールのように空気をかき分け、バタ足で推進し、空の中を突き進む。風切り音が邪魔するかのように鼓膜に襲いかかって、黙らっしゃいと麻弥は睨みつける。
残り、数メートル。助手席のドアが開く。
「捕まって、麻弥ちゃん!」
日菜が全力で手を伸ばす。麻弥は泳ぎながら、腕を思いっきり伸張、日菜と麻弥の指先が触れそうになって、ビュオオ、風。手の甲に降り掛かって、手は掴めなかった。
しかし、そんなことでは諦めない。また腕をちぎりそうになるくらい伸ばして──今度はしっかり、日菜の手を掴む。
引き抜かれる。ぐいっと、腕一本で持っていかれて、日菜にダイブする形になって、衝撃。
「麻弥ちゃん、あたしが美少女だからって、ちょーっと見境なさすぎじゃない?」
からかうような口調。顔を上げると目と鼻の距離に日菜の顔があって、それで日菜の胸に顔をうずめるような姿勢になっていたことを把握。
「いや、そういうつもりじゃなかったんですけど……」
「でも嬉しかったでしょ?」
「………………」
それで、麻弥はこの件について反論する権利を失った。
運転手席に座り、姿勢を正し、キーを入れて、車を発進させる。
「どこへ行きますか?」
ふざけて麻弥が問うと、「んー、どうしよっかなー」こちらもふざけた返答。どっちみち地上には降りられないから、選択肢なんてないに等しいのに。
「じゃあ、雲の上!」日菜が車の天井を、もとい上空を指差して言った。
「了解っす!」
麻弥は力強くアクセルを踏み抜いた。車は勢いよく上昇し、さながらロケットのように、何ならレーザービームのように、雲と雲の間を切り裂いて侵攻、窓の外が分厚い雲の灰色で覆われてしまって殺風景。にも関わらず日菜は窓の外を興味津々に見つめ──そして、雲海を抜ける。
視界が晴れ上がる。
世界が急に眩しくなる。
海よりも深い青に囲まれる。
太陽が真っ白に光り輝いている。
「凄いよ麻弥ちゃん!」日菜は興奮した。「すっごくピカッてしてる! とっても綺麗だよ!」
「そうですね」麻弥は同意した。その声はどこか震えていた。
「こんなに美しいものが、世の中にはあるんですね」
〇
麻弥は目を覚ました。
いつもの自分の寝室だった。のそりと体を起こしゆっくりと裸眼で周りを見回す。視界はぼんやりとして曖昧であり、薄暗い部屋が認識のし辛さを助長していた。とはいっても、この程度であれば時計くらいは見れるのであるが。
果たして、時刻は自分が寝入ったときより数時間しか経っていなかった。部屋の中は静かであり、風雨の音なぞ気配すらない。眼鏡を取ってカーテンを開けてみると、日の入りこそすれど雲自体は殆どなくて、快晴。もうすぐ夜になろうとしているけれども、ちょっと前まで青空が広がっていただろうことは覆らない。
まあ、そりゃ夢ですよね。激辛ラーメンの匂いが漂う部屋の中で苦笑をしていると、
「あー、麻弥ちゃんお目覚め?」日菜が気付いて声を掛けた。
「なんで外見てるの?」
「ちょっと、不思議な夢を見まして……」
「そーなの? まあ、風邪引いてるときって変な夢見るってゆうもんね」
納得した態度の日菜。その「変な夢」という部分が引っかかって、麻弥は口元に手を当てて考える仕草。
確かにあれは変な夢でしたが、そもそもどうしてジブンはあんな夢を見たんでしょう? という疑問符。あんな夢を見せる理由は、果たして風邪だけなんでしょうか?
刺激的な夢だった。この匂いの原因である激辛ラーメンのような。……まさか、それが原因? 蒸発した刺激物を吸い込んでいたから? でも、夢の内容は刺激物を肯定するものでしたし、夢の中の日菜さんだって……。
……夢の中の日菜さん。そういえば、日菜さんがジブンを外に連れ出した意図も結局分からずじまいでした。日菜さんは台風の中ジブンを外に連れ出して、それとなくCiRCLEに誘導してましたが、……CiRCLEに行って、その後何が起こった? 物凄いライブパフォーマンスを見て、台風が起こって、空へ吹っ飛ばされて、絶景を見た。ということは、つまり。
「……日菜さん」
麻弥は静かに呼び掛ける。日菜は麻弥の本棚にあった音楽雑誌を退屈そうに積み上げていたようだったが、「なになに? どしたの麻弥ちゃん」こころなしか言葉を弾ませる。
麻弥は提案した。
「外出しましょう」
「え?」
「CiRCLEに行きましょう。それから、日菜さんが言っていた激辛ラーメン店で夕食を済ませましょう」
「ええっ!? いきなりどうしたの麻弥ちゃん! 風邪でも引いたの?」
「いや引いてますけど……」笑って、
「刺激を大事にしなければならないかな、と思いまして。敢えて危険へと飛び出してでも、そこで得た景色はかけがえのないものになるかもしれませんから」
「……麻弥ちゃん、どうしたの? やっぱり、休んだ方がいいんじゃない?」
本気で頭の心配をする日菜。酷いといえば酷い対応だが、残念ながら当然の態度でもある。寝る前と言っていることが違うのだから。
それが分かっているので、別段麻弥も文句は言わない。
「運転はジブンがするんで大丈夫ですよ。久しぶりにセッションでもしましょうか」
「えっ、本当にするの?」
いそいそと仕度をする麻弥を、珍しく日菜は呆気にとられたように眺めていた。
いつもの麻弥らしからぬ様子を日菜は訝しんでいたが、セッションを始めた瞬間にそういう感情は吹き飛んだ。麻弥がいつになく暴力的な音作りでドラムをぶっ叩いたからだ。それもただ野蛮なだけの暴力ではなく、刺激的で魅力的なものであったから、日菜は楽しくなって、自分もそういうプレイで返した。
暴力と暴力が重なり合って、セッションというよりはただの戦場、殴り合いの大喧嘩のような様相が繰り広げられたが、二人とも笑っていた。台風こそ発生しなかったが、その音を聞いていたまりなからは何があったのかと尋ねられた。それくらいの凄絶な演奏であったのだ。
尚まりながこのことを世間話のつもりで千聖にうっかり話してしまったせいで、後日二人(特に麻弥)はたっぷりお説教を受ける羽目になってしまったのだがそれはそれである。
麻弥はこの体験を経ることで、徹底的に既存のアイドルらしさと切り離したアイドルをプロデュースしようと思った。良くも悪くも自ら、パスパレのような形がスタンダードとなっている以上、あえてそういうのとは離れた形にした方が革新になると思ったからだ。もちろん、一番はこの方向性から繰り出される音楽が魅力的で、これなら最高の舞台を目指せられると考えたところだが。
夢で見たような、雲上の世界。あの綺麗な景色も、もしかしたら見られるかもしれない。少なくともこの方向性を突き進めていけば、十分に可能な線である。然らば、それは目標であると同時に夢。進歩のための原動力。もしかしたら最初は一笑に付されるような現実感のない夢と捉えられるかもしれない。しかしそんな下らない妄想であっても、それで前に進もうとすることはできるものだ。何故ならパスパレがそうだったから。当事者じゃなくなったとしても、それはきっと変わらないだろう。裏方として、また先輩として、そこまでの進み方くらいなら一緒に考えてあげたい。
電話が鳴った。事務所のスタッフだ。
「お疲れ様です大和さん、具合はどうですか?」
「お疲れ様です、ぼちぼち快方に進んでますよ」
その言葉に先方は安堵した様子だったが、すぐに不安そうな声色になって、おずおずと「ところで、すみませんが今の進捗をお聞きしたいんですけど……」
「ああ、順調ですよ」
その返答に、今度こそスタッフはホッとした様子で「そうですか、よかったです」どうやら麻弥が体調を崩した理由を察していたようだ。
「次の会議には間に合いそうですか」
「はい、おかげさまで。テレビの撮影があるんですよね?」
「そうですね。デビュー後に密着取材のドキュメンタリーとして番組を流すそうなので……。……それより、ちょっと進捗の内容がどんな感じなのか聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
「あ、はい。また会議でも話させて頂くんですけど、まずユニット名は「激辛カップラーメンズ」と申しまして……」
「……あの、すみませんがユニット名どうにかなりません?」
スピーカーの向こうから、先程よりも更に不安の色の濃い声が聞こえてきた。