僕は何も知らなかった。分かっていたと思っていた僕自身のことさえも。
色素の薄い髪が、あの凛々しい瞳が、小さな背中が、そして誠の文字が。今も目を閉じればありありと蘇ってくる。彼女は何も知らなかった僕を導いてくれた。でも僕は、彼女のこともまた知らなかった。
僕は無知だ。僕は自分のことが嫌いになってしまった。それでも、それでも僕は――。
ある日、学校から帰宅したとき、僕の生活は何もかも変わってしまった。
ドアノブに手をかけ、ひんやりとした鉄の感触を味わいながら、いつもと変わらずに鍵を回そうとしただけだった。しかし鍵はいつものように回らない。すでに扉が、開いている。
仕事に出ている筈の母さんが帰って来ているのだろうか。体調が悪くて早退してきたとか?
「母さん?いるの?」
部屋に入った瞬間、鉄の匂いが僕の鼻腔を満たした。
母さん。もう一度口からこぼれるように呟いた。その音は誰に届くでもなく霧散する。慣れ親しんだはずの部屋が、まるでどこか知らない場所のようだ。居心地が悪い。吐き気がする。片手で口を覆いながら靴を脱いで視線を上げる。玄関からまっすぐ数歩歩けばリビングだ。リビングへの扉は何故か10cmほどの隙間が開いている。そして間違いなく鉄の匂いは、リビングから漏れている。
靴下越しに伝わるフローリングの冷たさを踏みしめながら、一歩。二歩。三歩。重い足取りで進んでいく。僕の喉はとても乾いているのに、胃の底では酸っぱいものが煮えたぎっていた。
隙間の空いた扉を軽く押した。締め切られたカーテンによって視界が暗くなっていたが、その分、その感触は際立った。フローリングの冷たさから一転して、何かしめったものを踏んでしまったのだ。リビングには安物の茶色い絨毯がひいてあるはずなのに。その絨毯は赤い液体を吸いきれずに、赤くべちゃべちゃとしたものになっていた。
――血だ。
思わずよろめいて両膝が血の海へと落ちていく。咄嗟に両手を床につき体を支えたが、何も布に覆われていない両手の平は直にその海に触れてしまった。恐ろしいことにその海にはまだ温度がある。温かい。そう感じたと同時に耐えていた胃の底の物が空気と共に逆流し、僕は嘔吐した。
げえっ、という空気と吐しゃ物が海に吐き出される音が響く。ちかちかと曖昧になっていく視界の中で僕は体を支えている左手の甲の奇妙な痣が見えた。数日前から現れたやけに幾何学的な模様の痣。しかし今は痣などにかまけている余裕もなく、体を支えるのに必死だった。
しばらく嘔吐に苦しんだ後、ようやく顔を上げることが出来た。手の平、ひざから下のズボン、靴下、海に触れたすべてが赤く染まっていた。床にばかり気を取られていたが、絨毯以外は全て今朝のままだった。
テーブルの上には母さんのマグカップ、棚には僕の読みかけの雑誌、椅子の上には妹が大切にしているぬいぐるみ。本当に今朝のままだ。なのに、一体、どうして。それにそもそも
「これは……誰の血だ……」
そのとき、僕の背後から明かりが差し込んだ。
「ただいまー。……お兄ちゃん?」
「入るな!」
妹の沙耶が帰ってきた。沙耶もこの匂いに気付いたのだろう。訝し気な声を出していた。
僕はこの惨状を、妹に見せたくなかった一心で冷静さを取り戻した。そうだ。僕がやるべき事はここでうずくまっていることじゃない。僕は立ち上がってポケットからスマホを取り出した。シリコン製のカバーには赤く指の跡がついたが、お構いなしに三桁の番号を入力する。電話はすぐにつながった。
「はい、警察です。事件ですか、事故ですか」
僕と沙耶は警察が来るまで部屋の外で待っていた。沙耶は血塗れになった僕を見て小さな悲鳴をあげた後、「何?なんなの?」と問い詰めてきた。でも僕は「分からない」としか答えられなかった。実際、何が起こったのか正確なところはわからない。でも沙耶には言わなかったが分かっていることも二つあった。
一つは僕らが何か事件に巻き込まれてしまったこと。もう一つは……その事件が恐らく猟奇殺人だということ。
ミステリー小説で読んだことがある。人は体全体の三分の一ほどの血液を失えば死んでしまうらしい。僕はあの絨毯から溢れ、波打っていた血の海を思い出して吐き気を再び催した。沙耶はそんな僕を気遣ってか、いや、この異常事態を直接見てはいないとはいえ戸惑っているのか、最初に問い詰めた以外は一言も発さず、神妙な面持ちで僕の隣に座っていた。
警察は5分ほどですぐにやってきた。
「部屋が血だらけなんです。学校から帰ってきたらこんな風になっていて……」
なるべく冷静に話そうとしていたのだが、大人が来た安心感からだろうか。話しながら僕はもう一度嘔吐し、涙がぼろぼろと溢れた。婦人警官のお姉さんは心配そうに背中をさすり、部屋に慌てて入っていった刑事さんと思しき男性たちの足音が部屋の外にまで響く。沙耶はどう反応していたか、分からない。僕はただ沙耶にこの部屋を見せまいと、大人がくるまで沙耶を部屋の外に引き留めなくてはならないという義務感から解放され、うつむきながら顔から出せるだけの液体すべてを出していたので、横にいる小さな妹のことは気にかけられなかった。
僕たち兄妹は警察に保護され、生まれて初めてパトカーに乗った。そういえば小さいときはパトカーに乗りたいとか思っていた気がする。まさかこんな形で乗れるとは。当たり前だけれど、乗り心地を味わうほど僕は余裕がなく、胃がねじれるような吐き気に苦しまされていた。
警察署に着いてから、僕たちは刑事さんたちに代わる代わる質問をされた。でも僕にとっても全く身に覚えのない、なんでこんな目に合うのかわからない状態だったので、ほとんど答えることは出来なかった。また血と吐しゃ物にまみれた制服は証拠品の一環として押収され、僕には少し大きいジャージが支給された。もうあの制服に袖を通すことはないのだろう。
そうこうしているうちに時刻は夜10時ごろ、本来なら9歳の沙耶はとっくに寝ている筈の時間。待合室のソファーで二人で疲れ切って座っていると、お姉さんが駆け寄ってきた。よく見ると、それは昼間吐いている僕を介抱してくれた婦人警官さんだった。
お姉さんは心底辛そうに言った。
「……きみたちのお母さんと連絡が取れないの。なにか知らない?」
……ああ、やっぱり。正直、そう思った。僕たちの中で一番家を出るのが遅いのは、母さんだったから。
もう枯れつくしたと思われた目からの液体が、再びあふれ出す。いけない、はやく、答えなければ。
「しらない」
先に口火を切ったのは沙耶だった。沙耶は大きな目に涙をいっぱいにためながら答えている。それは、少しでも動かせば、瞬き一つすれば容易に流れ出してしまうだろう量だった。それでも沙耶はお姉さんの目をまっすぐ見て、もう一度言った。
「お母さんのことなんて、しらない」
僕は大急ぎでジャージの裾で涙を拭いて、沙耶の後に続いた。
「僕も、分かりません。すみま、せん」
喉に小石が詰まったような感覚、呼吸がうまくできない。
沙耶のほうがよっぽど立派だ。
「そう……。とりあえず急ごしらえだけど一つ部屋を空けたから、今日はそこで休みなさい。具合が悪くなったりしたら誰か近くの人に言ってね」
僕たちは恐らく応接室であっただろう部屋に通された。二つのソファ、細長のガラス張りの机、小さいテレビなどがあり、本当に荷物を片しただけ、という感じだ。
僕は、久々にソファに横になって、余りの疲労からすぐに睡魔が襲ってきた。不思議だ。母親が死んだかもしれないのに、それでも人は眠くなる。いや、どちらかというとあまりに過酷な現実から脳が夢の世界へと逃避行を遂げようとしているのかもしれない。
沙耶はもう一つのソファに僕に背を向けながら横になっていた。沙耶がどんな顔をしているのか、いや眠っているのかどうかさえ僕は分からなかった。
翌朝、僕たちは学校を休んだ。警察の方で小学校と高校には連絡を入れておいてくれたらしい。
目が覚めて、まず沙耶を見た。沙耶は気が立った様子でぶっきらぼうに「おはよ」と一言呟いた後はこちらからそっぽを向いてしまった。
「沙耶、水でも貰ってこようか」
「いらない」
始終この調子である。
この調子になってしまった沙耶は落ち着くまで待つしかない。でも、母親がいなくなったあとで落ち着くことなど出来ないだろう。僕だって正直落ち着かない。沙耶を心配しているのは、結局自分のためなのだ。いつも通り"良いお兄ちゃん"でいることで、必死に気を紛らわそうとしている。
時折昨日のお姉さんが様子を見に来てくれたり、お茶や食事、簡単なお菓子などが振る舞われた。この署全体が僕たちに対してなんというか同情的で、それがかえって居心地が悪かった。沙耶は僕より敏感に感じ取っているようで、ますます苛立ちを募らせていった。
「沙耶、」「うるさい」
ひどいときは用も言わせてくれない。
僕はもう黙って部屋に備え付けられたテレビを、出来るだけ音量を小さくして見ていた。
夕方ごろ、一人の強面の刑事さんがやって来た。
「私は、これから君たちにとってとても辛い報告をしなければならない」
刑事さんは元から刻まれていたであろう眉間の皺をますます深く寄せ、僕達に報告をした。それは僕が予想していた通りの最悪の報告だった。
「現場に残された血液が、君たちのお母さんのものだと断定された。あの失血量では……ほぼ確実に、生きてはいられないだろう」
正直、やっぱりな、というのが僕の感想だった。今日1日の間でその宣告の準備は僕のなかで出来てしまって、ただ罪が確定されるのをまつ容疑者のように、はっきりと言い渡されるのを僕は待っていた。ただ、すぐにはっとして沙耶を見た。沙耶は歯を食いしばりながら俯いていた。小学生ながらプライドが高くて生意気な我が妹ながら、今はそのプライドの高さが無性に可哀想だった。
刑事さんもそんな妹を見ながら悲しそうに言葉を続けた。
「さて、あの部屋は事件現場としてしばらく保存しなくてはならない。それまで君たちが住む家の問題だが……、お父さんや、親戚の方で当てはあるかい?」
僕は沙耶を気にしつつ、答えた。
「いえ……。父は沙耶が生まれた後すぐに亡くなってしまいましたし、親戚も心当たりはありません」
「そうか……、我々警察は未成年者である君たちを保護する義務もある。信頼できる大人に君たちを任せなくてはならないんだ。端的に言ってしまえば、保護施設などもどうか検討しておいてくれ」
そうだ。母さんが死んでしまった以上、あの部屋の家賃を高校生である僕が支払うことは難しいだろう。ならば施設、というのも当然だ。
僕にとって父親の記憶はかなり薄い。とても穏やかな人だったということだけ覚えている。父は僕が7才くらいのときに亡くなってしまったのだから、致し方ないのだけれど。沙耶は全く覚えていないだろう。
母は母で自分のことをあまり話さない人だった。親戚付き合いも皆無だったし。ずっと一人で働いて、僕達を育ててくれていた。
しかし全て、今思えば、の話だ。
「施設なんて、いかないから」
ずっと黙っていた沙耶が急に口火を切った。僕はあわてて、こら、沙耶、と声をかけたけれど、沙耶はきっと僕を睨み付けて怒鳴った。
「お兄ちゃんもお兄ちゃんだよ!だってあの家、あたしたちのじゃん!なんで施設になんて行かなきゃいけないの!?」
沙耶は今までに見たことのないほどの大粒の涙を流しながら、行かない、絶対嫌、と僕達に訴え続けた。
僕は、なにも言うことは出来ずに、なんとも情けないことにただ突っ立ったまま、黙っていることしか出来なかった。
結果的に言えば、僕達は施設に入ることになった。当然といえば当然だろう。あの強面の刑事さんは沙耶の訴えにかなり同情してくれたのか懸命に親戚を探してくれたけど、結局僕達は天涯孤独の身であることが証明されただけだった。
施設の職員さんは親切だったし、家事の分担なんかは下手したら三人で暮らしていた時よりも減ったくらいだ。勿論、垢の他人と暮らすという居心地の悪さはある。でも僕は高校を卒業したら自動的に施設から出られるという確証もあったので、そこまで施設に対して嫌悪感みたいなものはなかった。
問題は沙耶の方だ。
「沙耶、そんなにくっついたら宿題し辛いって」
「……」
沙耶はあれからあまり話さなくなった。話さなくなったし、笑わなくなった。施設の沙耶くらいの年の子とも職員さんとも全く打ち解けず、僕にべったりとついて回っていた。
経緯が経緯だけに、小学校の先生方も沙耶のことを気にしてくれているようで、時折僕や職員さんに連絡をくれる。以前はクラスの中心人物だったのが影を潜めて、学校でも一人でぽつんといることが多いらしい。
「さーやー」
くっついていた沙耶を和ませようとおどけた口調でくすぐってみた。
「お兄ちゃん、うざい」
あえなく僕の手はぴしゃりと払い除けられ、沙耶は部屋の隅っこに移動していった。やれやれ。
あの事件から早三ヶ月。犯人どころか母さんの遺体すら見つかっていない。
明日は、遺体はないけれど母さんの葬式だ。