百年の間、破られることのなかった壁。その百年の長い歴史は人類から一つの事実を忘れさせていた。奴らはこの大きな壁を隔てたすぐ向こう側にいたことを、そしてこの壁の中は逃げ場の無い鳥籠のようなものであったということを。
突如として現れた壁を遥かに超える巨人。その巨人のたった一撃で、人類の安寧の歴史は無残にも砕け落ちた。
「か、壁が………」
ユイヤは目の前の現実が受け入れられずにいた。彼女だけでは無い。民衆の殆どが呆然と破壊された壁の穴を眺めることしかできていなかった。
「走るぞユイヤ‼︎」
「えっ⁉︎ちょっとロビン」
「壁が破られたんだ! 巨人が来るぞッ‼︎」
呆然と立ち尽くしていたユイヤの手を引っ張り走りだす。彼等が走り出してから間も無くのことだった。シガンシナの住民らはそれぞれに悲鳴を上げて走り出した。
「どうしよう…どうしよう………ねえロビン!」
「分からない!でも今は逃げるしか無い。取り敢えずウォールマリアへ逃げよう」
今はそれしか考えられないと、いつも余裕あるロビンがここまで余裕の無い顔をしていることを見たことが無かったユイヤ。今でも状況は飲み込めていなかったが、今は「逃げる」ということだけは辛うじて考えられる。
ユイヤはふと後ろを振り返った。壁の破られた穴からは人と同じ姿形をしているが、人とはかけ離れた巨躯を持つ巨人達が次から次へとこのシガンシナ区に入ってきていた。小さいものは三〜から四メートルくらいだろうか、小さいものもいるが大きいものでは十メートル以上はあるであろう巨人までいた。人より大きな体を持つその巨人らは逃げ惑う人を目に捉えるとまるでお気に入りの玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべて歩みを進める。
「うわぁぁぁぁぁぁ‼︎ 巨人がこっちに来る‼︎」
「逃げないと………助けてぇぇぇ!」
その様子はまさに地獄の沙汰であった。様々な悲鳴、阿鼻叫喚が壁内に響き、誰もが何もかもを捨てて我先にとウォールマリアへと逃げ出す。
中には大事な家財を荷車で持ち出そうとするものもいたが、
「だ、誰か助けてくれぇぇぇぇ! 嫌だぁぁぁ‼︎」
逃げ遅れ巨人に捕まってしまい、
『グシャァ! バリバリ………ゴクン」
不快な咀嚼音とともに巨人の胃の中に吸い込まれていくのだった。住民らは必至に逃げるが、彼らの一歩と巨人らの一歩とではまるで違いすぎた。足の遅いもの、逃げるのが遅れてしまったものからどんどんと巨人に捕まっていく。
「あ、あ、離せぇぇぇ! 離せコラ‼︎」
「嫌ぁぁぁ、やめろ! やめろ!」
「嫌だ、嫌だぁぁぁ!」
住民らの悲鳴を他所に巨人らは意気揚々と歩を進める。次の獲物を見つけ、食うために。
「も、もう嫌ぁ………」
ユイヤはボロボロと涙を流しながら走る。今日はあんまりだ、民の英雄だと思ったいた調査兵団の現実を知り、そしてそれ以上の地獄を味わった。
心が折れ、体に力が入らなくなったユイヤは足がもつれて転んでしまった。
「
「ユイヤ‼︎」
突然手が離れ振り返るとユイヤが地面に横たわっていた。ロビンは直ぐに彼女の元に駆け寄り、体をゆっくり起こす。涙と砂埃でぐちゃぐちゃになっている顔でロビンに縋る。
「もう駄目………怖くて走れない…」
「馬鹿言うな、このままじゃ巨人に………」
『ズシンーーー!』
追いつかれる。その言葉はもう意味をなさなかった。
「あっーーー」
巨人はもうすぐ近くに来ていたのだった。大きさは7〜8メートルは下らないだろう。その口周りにはべったりと血が付いており、もう何人も喰らった事を物語っていた。
新しい獲物を探していたのだろう。運の悪いことにロビンは巨人と目があってしまった。
「あ、あぁ………」
ユイヤは最早言葉を出すことも叶わないでいた。逃げるわけでもなくただ目の前の現実に打ちひしがれていた。
「もう…終わりだ………ハハハ………」
これまで気丈に振る舞いユイヤの盾になるようにしていたロビンだが、巨人を目の前にして完全に目が合ってしまった。ユイヤを担いで逃げようにも人と巨人の足ではあまりにも違いすぎる。
獲物に逃げる素振りがない。そう感じたのか巨人はゆっくりと二人に手を伸ばす。
(こ、怖い………巨人ってこんなに怖いもんだったのか………)
それを人生最後に知ることになるとは思ってもみなかった。まさに巨人の手がロビンの身体に触れると同時だった………
「馬鹿野郎‼︎ 俺はそんな腰抜けに育てた覚えはねえぞロビン‼︎」
何故か襲いかかってくる巨人の方角から声が聞こえる。一瞬巨人が声を発したのかと思った。しかしその声はロビンにとってはいつも聞いている安心する声であった。
「父さん⁉︎」
「息子達から離れろっ………このデカブツ‼︎」
ロビンの父、クリス=フランシスは空中移動を可能とした立体起動装置で空中へ飛ぶと、巨人の首のうなじにワイヤーを刺した。立体起動と連結しているワイヤーに引っ張られながらロビンらに気にとられて無防備な巨人へと突っ込んでいき………
「ダァッ‼︎」
二本のブレードで巨人の頸を削ぎ切った。うなじを削られた巨人はロビンに手を掛ける寸前で力を失い、そのまま倒れた。
「巨人を殺すための動きなんざ、まともにやったのは訓練兵以来だが………なんとかなるもんだな」
巨人を切った際、駄目になったブレードを柄から切り離しながらそう呟く。茶色い短髪に、180㎝はある身長に日頃の鍛錬の賜物と言える鍛えられた肉体はこの地獄の様な現実に現れた希望のようにも見えた。クリスは地面に座り込んでいたロビンとユイヤを見る。
「ユイヤちゃん、怪我はねえか? ロビン、お前は立てるだろ?」
「あ、ありがとうございます」
「分かってるよ………ちょっとビビっただけだよ」
に手を引いてもらい立ちあがったユイヤは安堵の表情を浮かべる。ロビンも少しムッとしながら立ち上がった。
「ロビンは兎も角、ユイヤちゃんの無事が分かって良かった。俺の元同僚も心配してたからな」
「元同僚………?」
「オイコラ、俺は兎も角とはどういう意味だ馬鹿親父」
「なんだ知らなかったのか? 君の家の使用人だろ?」
「あ………」
「オイコラ、俺を無視するな」
この局面でもロビンを無視しつつ、話を続けていると、
「お嬢様ー‼︎」
『お嬢様』と呼ばれたその声に聞き覚えのあるユイヤは振り返る。白いエプロンに黒いドレスという服装でこちらに走ってくる女性がいた。長い黒髪を後ろで一本に纏めている髪が走る度に揺れている。余程焦っていたのだろう。髪の毛は汗でびっしょりと濡れていた。
その女性はユイヤの姿を目の前で確認すると今までの焦燥感のある顔から安堵の表情を浮かべた。
「嗚呼………お嬢様…ご無事で………何処かお怪我はありませんか?」
「私は平気よリザ………ごめんなさい。心配かけちゃったね」
「いいえ、私はお嬢様がご無事ならそれで良いのです。 良かった………本当に………」
ユイヤの専属の使用人であるリザはユイヤを優しく抱きしめる。ユイヤも幼い頃からずっと一緒にいて姉のように慕っていてもいたリザの体に包まれて心から安堵したのだろう、目に涙を浮かべてリザの体に手を回す。
「良かった…ユイヤが気を持ち直してくれて」
「フン!」
その様子を見たロビンもユイヤの安心した顔をみて一安心していたが、そんなロビンの頭にクリスの拳骨が堕ちた。
「………っあ‼︎ こんな時に何しやがるこの馬鹿親父‼︎」
「お前こそ何緩んでやがる。ここは安全地帯じゃあねえ! 地獄の真っ只中なんだぞ‼︎」
「ッ………‼︎」
クリスの言う通りであった。巨人はクリスが倒してくれたが辺り一面は未だ無数の巨人達が闊歩している地獄であった。
「副隊長‼︎」
そうクリスの下に駆け寄るクリスの部下の駐屯兵。指揮するものが優秀な程それに従う部下の質もそれに続いて優秀なものが多い。この未曾有の地獄にても己の役目を見失っていないようだ。
「駐屯兵団の全部隊の配置が完了しました。各部隊住民の避難に全力を注いでいます」
「しかし………それでも浮き足立つ兵も多く、兵も住民もかなりの犠牲者が………」
部下の一人の兵が口惜しそうに被害が出ている事を報告すると他の兵も皆悔しそうに俯く。あれだけ普段から蔑まれて来た、それでも事実だと皆我慢してきた。そしてこの時こそ、その汚名を払拭する機会でもあると思ってきた。しかし現実は甘くなかった。
初めて相対した巨人を前にして、戦意を保てず食われた兵も少なくない。結局は自分らは本当に役立たずなのかと彼らの脳裏にはその事が離れずにいた。
「今は一人でも多くの住民を生かすことだけを考えろ! 俺らがここで働かなければ俺たちは本当に税金喰らいの役立たずだ」
クリスはそんな部下たちを一喝するとブレードを抜く。その一喝に部下たちも顔を上げる。
「ここから先の地獄は俺もお前たちも命の保証は無い‼︎ だが、我こそは公に心臓を捧げた兵士だと誇りがあるならば‼︎ その命を持って守りたいものがあるならば‼︎ 俺に続け‼︎」
「ウオォォォォォォ‼︎」
クリスの声だけで彼の部下たちは戦意を取り戻した。その目は戦場に慣れていない駐屯兵とはいえ一人の兵士の顔であった。
「ロビン、お前は早く逃げろ。まだ巨人は奥深くまで侵攻してはいないがウォールマリアへ続く扉もいつまでも開けていられない。ある程度したら扉も閉じられるだろう。」
「父さん………」
ロビンは父の背中に嫌な予感を感じていた。これが最後の父の姿になりそうだと。大人びているとはいえまだ年端もいかない少年だ。それを受け入れろと言う方が無茶である。
それを感じたようにクリスはロビンに笑ってみせた。その笑みには不安や恐怖は微塵もなかった。これ以上不安を見せないクリスの親心であろう。ロビンはその笑みをみると何故か不安が消えた。
「………わかったよ、父さん」
「俺の息子なら簡単だろ、それに………母さんとの約束も果たすんだろ?」
「わかってるよ。そのために今は何が何でも生きてやる。」
「クリスさん………」
「リザ、お前も逃げろ、もうお前は兵士じゃない。だが、お前には命を賭けてでも守りたいものがあるんだろ?だったらそれを守れ、それが今のお前の仕事だ」
「ッ………はっ!」
リザは右の拳を左胸に置く。今は兵士ではないがその心は人類を守る兵士の頃と変わってない。そうかつての上官への決意であった。
二人にそう言い残すとクリスは立体起動で空中へと飛びったって行き。彼の部下もそれに続いて空へと飛び出していく。背中に掲げるのは駐屯兵団を示す『盾に二つの薔薇』の紋章。人類の生命と街の安寧を守る盾となるべく彼らは己の命を賭してかつて無い強敵へと向かっていく。
その背中を見送るとロビンらは走り出す。周りには目もくれずただここよりも比較的安全な地獄へ、ロビンはこの地獄を生涯忘れないだろう。
否、この地獄を生き延びた全員も同じであろう。さらに安全な場所へと逃げようとする者、この世界を地獄に変えた者共へ復讐を覚える者、この地獄を誰かに覆してくれと願う者、世界を変えようとする者もそれぞれがこれからの世界の行く末に関わって行くのだがそれはまだ先の話である。
駐屯兵団の決死の避難活動はその後も続いたが、巨人の中の一体に刃も砲弾も通じない巨人が現れ、シガンシナ区の扉だけでなくウォールマリアの扉も破壊されてしまった。
結局人類はウォールマリアも放棄せざるを得なくなり、活動領域はウォールローゼまで後退した。
もう1〜2話くらいは兵士になる前のプロローグで行きたいですね。