TS百合   作:てと​​

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003 われわれは、日常の私事や国事の牢獄から、われわれ自身を解放すべきである。

 

 休日というのは、人間にとって必要不可欠なものである。

 むろん、それはこの世界においても変わりはしない。屋敷で働く使用人にも、週に最低一日は仕事から解放される日を設けられている。フィオナの侍女役を務めている俺も、彼女の予定に合わせつつ最低限の休みは取っていた。

 

 いつもと変わらず朝早くから起き、メイド服の代わりに私服のワンピースドレスに着替えた俺は、フィオナの朝食までの侍女業務だけこなして仕事終わりとした。あとは一日、自由な余暇である。

 

「……失礼します」

 

 駅馬車が目的の駅に着いたところで、俺はほかの同乗者にそう告げながら、逃げるようにさっさと降りた。

 窮屈さを感じる空間からようやく解放され、安堵の息をつきながら出口へと向かう。駅は次の出発を待つ客や、馬の世話をする駅員などで、それなりに混雑している様子だった。

 この辺では馬車による交通網がかなり整備されていて、運賃さえ払えば気楽に移動することができた。駅馬車は鉄道、乗合馬車はバス、辻馬車はタクシーといったところだろうか。

 

 いつも俺が休日に向かうのは、フレオリック家の屋敷から最寄りの街から一つ隣の街だった。なぜ、わざわざ馬車に乗ってまで遠い街に出かけるかというと――単純に、そちらのほうが栄えているからである。

 

「…………」

 

 駅をあとにして、市街から上を仰ぐと――高い陸橋が街の中にそびえていた。見慣れたそれは、山から水を運んでいる水道橋だった。かつて俺のいた世界ではローマ帝国が水道整備に積極的であったが、もし水道技術が廃れることなく継承されていたら、このような街が西洋に数多く残されていたのであろうか。

 そんなくだらないことを思いながら、俺は歩きだした。向かう先はすでに決まっていたので、足取りに迷いはなかった。

 

 ――多様な店と人間が、ひっきりなしに視界に映る。

 見るからに繁華なここは、フレオリック家の所領の東側に接する、アジール家が支配している土地だった。フレオリック家もそれなりの領地を持つ地主貴族ではあるが、アジール家と比べると格が下がることは否定できなかった。おそらく、地代収入だけでも二倍近い差はあるはずだ。

 

「傷の手当を――」

 

 ふいに路肩で、腕を抑えた男性が声を上げているのが目に入った。彼が話しかけている先には、古めかしいローブをまとい、指揮棒のような杖を手にした青年がいた。――魔法使いの格好である。おそらく辻医者なのだろう。

 

 べつに衣装は魔法行使に関係ないし、杖も意識を先端に集中させやすくする程度の効果しかないのだが、周りから魔法使いと認識されやすくするために、こういう姿をしている場合が多かった。医者が白衣を着ているようなものだろうか。

 

「――これで問題ない」

「ああ、ありがとうございます……」

 

 傷痍を治癒された男性は、感謝の言葉を述べながら魔法使いの青年に数枚の小銀貨を渡す。報酬としては、あまり見合っていない金額だった。

 

 ――貴族はつねに人々へ温情を与えよ。

 そのような言葉をしばしば耳にするし、実際に慈善の理念が広く行きわたっているのが、この国の特徴でもあった。要するに、ノブレス・オブリージュというやつである。

 

 魔法によって敵を打ち倒す――などという行為は、長らく大した戦争も起きていないこの世界においては、もはや貴族には求められることではなかった。瞬時に火を起こせるのは、まあ便利ではあるのだが、火起こし自体は誰にだってできる。魔法使いにしかできない芸当――すなわち、医療行為や金属の現出が、現在の社会においてもっとも要求される魔法であった。

 

 そんなわけだから、家督を継げない小貴族の三男坊や、あるいは平民でも運よく魔法の才を持った人間が、街で医者をしたり貴金属売りをしたりといった光景はけっこう目にすることが多い。とくに辻医者は市井の人々から重宝され尊敬される存在であり、社会の安定化に大きく貢献していると言えるだろう。

 

「…………」

 

 圧政などもない、平和な世の中であった。

 もちろん不幸もあるだろうし、犯罪も起きてはいるが、それでも閉塞感のない世界だった。もしかしたら――かつての俺の世界よりも、生きやすいと言えるのかもしれない。

 

 はたして物質的な豊かさはどの程度、人々の幸福に影響するのであろうか。そんなつまらない哲学的思考を巡らせながら――俺はようやく目的の店にたどり着くことができた。

 

「……いらっしゃい」

 

 ドアを開けて店内に入ると、カウンターの席に座った初老の男性が、あまり威勢のよくない声をかけてきた。俺は無言で、わずかに頭を下げて挨拶をする。月に数回は立ち寄っているので、店主には顔を覚えられてしまっていた。

 

 ――店には本棚が並び、書籍が各棚に陳列されていた。

 つまるところ、本屋である。こうして店として成立する程度には、本を買って読むという行為は人々に一般化していた。

 映画やらテレビやらが存在しないこの世界においては、読書は気軽に楽しめる娯楽の代表だろう。農村部の出身でも最低限の識字はできるように教育されるため、屋敷で働くメイドにも小説を読んだりして余暇を過ごす者は多かった。

 

「ヴァージニア……ウルフ……」

 

 メモ書きした紙片を手にしながら、俺は本を睨むような目つきで眺めてゆく。

 必ずしも書籍に背表紙があるわけではないので、棚には背を向けたものと表紙を向けたものが混在していた。おまけに装丁というものが画一的ではないため、著者名が上にあったり下にあったり、文字が縦書きだったり横書きだったりと、じつにわかりづらいのだ。毎回、探すのに苦労してしまう。

 

 なんとか目的の本を見つけ出して、さっとあらすじに目を通す。屋敷で働くメイドが、貴族の子息に見初められてラブロマンスを繰り広げる内容の小説だった。

 ……はっきり言って、俺の趣味からはまったく外れていた。だが、なぜこんなものを手に取ったかというと――リタからついでに買ってきてくれと頼まれていたからだ。どうやら、彼女は恋愛小説が好きらしい。推理小説ばかり読んでいる俺とは対極であった。

 

「――会計をお願いします」

 

 頼まれ物を含めて、三冊の小説を購入する。その合計は、けっこう馬鹿にならない金額だった。活版印刷のある世界とはいえ、それでも本は相応の高級品である。

 安価に本を借りて読める貸本屋も存在するが、俺はこうして買うほうが多かった。返す手間が面倒ということもあるし、何より――金には、そこそこ余裕があるからだ。

 

 ほかの大多数のメイドと違って、俺は実家に仕送りする必要もなかった。給料がまるまる自分の懐に入ってくるうえに、家賃も食費もかからないような仕事のため、経済的にかなり余裕があるのだ。楽な生活をしているな、と俺は自分に皮肉を抱かざるをえなかった。

 

「……まいど」

 

 億劫そうに言う店主からは、活気というものが感じられず、ただただ退屈そうだった。

 もっとも――相手からしたら、俺のほうこそ生気に欠けた少女に見えているのかもしれなかったが。

 

 ――俺はなんのために、この世界で生きているのだろうか。

 ふと湧いた疑問には、答えなど見つかりそうもなかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 喫茶店で軽食を済ませた俺は、行きつけの酒場のカウンター席で時間を過ごしていた。

 買ったばかりの本を半分ほど読み進めたところで、ため息をついて栞を挟む。読書していたのは、リタが所望した恋愛小説だった。甘ったるい描写とセリフの羅列が、俺のさびれた心を余計に荒廃させたような気がする。趣味の合わない小説は、やはり読むべきではないのかもしれない。

 

「ん……」

 

 俺は少し伸びをしてから、黄金色(こがねいろ)の液体が入ったグラスに口をつけた。

 甘い香りが鼻孔をくすぐり、同時に独特の刺激が口内に広がる。かつての世界でもよく嗜んでいたそれは――アルコール飲料だった。

 

 蜂蜜を発酵させて造った酒を、お湯で割ったものだ。若年者の飲酒を禁じる法律は存在しないので、こうして店でも堂々と酒を飲むことができた。もっとも、酒害については理解しているので、さすがに強い酒は飲まないようにしているが。

 

「…………」

 

 もう一度、蜂蜜酒で喉を潤してから――俺はぼんやりと店内に目を向けた。

 テーブル席では、男たちが小皿のチーズをつまみながら談笑している。まだ昼過ぎだというのに酔いが回っているのか、彼らの笑い声は馬鹿みたいに陽気だった。これが喫茶店なら迷惑客でしかないが、ここは酒場で酔いを楽しむ場所なのだから、男たちが騒ぐのも問題はあるまい。

 

 ほかにもいくつかのグループ客が、テーブルでそれぞれ言葉を交わしている。仕事の相談だったり、日頃の愚痴だったり、下賤な話だったり、取り留めがなく様々だった。それでも、どの人々にも共通しているのは――

 

「孤独は、知恵の最善の乳母である……か」

 

 哲学者の格言をぽつりと呟くと、俺は蜂蜜酒を胃に流し込んだ。

 カウンター席に視線を向けても、そこに座っている客は見られない。まだ混雑する時間ではないので、テーブルで気の合う仲間と向かい合って飲む連中が大半だろう。

 カウンターの隅で黙々と読書をしている変わり者など、俺くらいなものだった。

 

「…………」

 

 本を開く気力も湧かず、俺はぼんやりと宙を眺めた。何か思索するわけでもなく、感慨に耽るわけでもなく、ときおり酒を口にしながら、無為に時間を浪費する。

 やがて寂寞に耐えかねたように、俺はバッグから木箱を取り出した。蓋を外すと、仕切りの片側に収納されている細長いそれを一つ手に取る。――紙巻き煙草だった。

 

 通りの行商人が売っているものを気まぐれに買って以来、俺はこうして煙草も嗜むようになっていた。法律規制もないので、酒と同じく合法だった。さすがに屋敷では世間体があるので、休日の酒場でしか吸っていないが。

 

「――どうぞ」

 

 俺が呼びかけるまでもなく、バーテンダーが燭台を差し出してきた。ライターもマッチも流通していないので、魔法使い以外の人間が煙草に火を点けるときは、照明用のろうそくなどを火種にするのが一般的だった。

 

 サービスが早いのは、俺が携帯灰皿を取り出した時点で喫煙するとわかっていたからだろう。いつも昼過ぎに同じ席に居座っているので、俺の動向は完全に把握されていた。なんとも優秀な仕事人である。

 

「……どうも、ありがとうございます」

 

 礼を言いながら、煙草の先端を火にかざす。乾燥した葉が燃焼され、煙が立ち昇りはじめた。

 自作して付け足したフィルター部分を口に咥えて、小さく息を吸う。煙と、そして目には映らない精神作用物質が入り込んでくる。口内で煙を弄んだあと、俺はそれを吐き出した。

 

【挿絵表示】

 

 肺の奥深くまで吸い込まないのは、癌という病のイメージが頭をよぎるからだろうか。この世界でも病理は共通しているはずだが、病気について研究した書籍がろくにないので、いまいち脅威の度合いを計りかねていた。

 魔法による治癒がかなわず、病死した人間の例は存在する。だが、いかんせん術者の能力と患者の病状を精確に記録した資料が少なかった。どの程度の力を持った魔法使いなら、どの程度の病まで対応可能なのか。推し量ることは困難で、見当がつきそうもない。

 

 ――まあ結局は、できるだけ健康でいられるようにするのが一番なのだろう。

 その結論を得ているというのに、こうして酒と煙草に酔いしれている自分は、ひどく滑稽だった。

 

「…………」

 

 無言で煙草をふかし、ニコチンとは違った化学物質による刺激を享受する。神経が研ぎ澄まされ、意識は冴えわたっていた。ほかの客の談笑は、もはや俺の脳には届いていない。世界は驚くほど平静で、凍りついたように深閑としていて、そして薄暗い寂寥に満ちていた。

 虚空を睨みながら孤独に耽っていると――ふいに、すぐそばで音が生まれた。

 

「……失礼、少しお尋ねしてもよいですか。レディ」

 

 ――男が一人、俺のそばに来て話しかけたのだ。

 それに気づいた俺は、口の中の煙をすべて吐き出し、吸い殻を灰皿に押し付けた。不意の声掛けには、怪訝な感情しか抱けなかった。

 

 ……ナンパだろうか?

 そんなことを思ったのは、ここが酒場だったからだ。実際に一度、十代半ばの少年から誘いの言葉をかけられたことがあった。もちろん丁重にお断りしたが。

 

 ちらりと声の方向に目を向けて――その手の話ではないな、と俺は察した。

 三十代の、身なりのよい男性だった。シャツもベストも安物ではないし、髭が剃られ髪もきっちり整えられている。酒場にいることが不自然なほどの紳士だった。

 

「……なんの御用でしょうか」

 

 俺は静かに聞き返した。横目のまま男性の顔をうかがうと、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

「とある方を探していまして……。お心当たりがないか、声をかけさせていただいたのです」

「……その探し人とは?」

「ええ、ちょうどあなたくらいの年齢で、あなたのように髪の黒い――カレンという名の女性です」

「――――」

 

 予想をしていなかった事態に、俺は思わず目をつむって深い息をついた。

 唐突な展開だったが……意外なことに、そこまでの混乱は抱いていない。煙草のおかげで、精神が落ち着いていたからだろうか。

 

 ――この男は、俺が“カレン”だと知って話しかけている。

 年齢と髪色で、俺を特定することは容易い。それでも、なぜこんな回りくどい尋ね方をしてきたかというと――俺の恣意に委ねるという意思表示なのだろう。

 カレンなどという少女に心当たりはない。そう答えれば、おそらく男性はすんなりと頷いて去るだろう。すべては俺の選択次第だった。

 

 やがて俺は目を開けると、蜂蜜酒を少し飲んで口を湿らした。

 

「――私がカレンです」

 

 そう答えたのは、なぜだろうか。

 人を拒む道を自分で選んだ俺が、いまさら変化に手をかけようとしている。貴族の屋敷で働く、一介のメイドであることを望んだのは自分自身だったはずだ。光の当たらない場所で、退屈でつまらない人生を送り、そしてそれに満足して死ぬべきだと俺は思っていたはずだ。それなのに、どうして人を断ち切ろうとしないのか。いや、断ち切ることができないのか。

 

「……カレン様、ですね。ある御方が、あなたとお会いしたいとおっしゃっています。よろしければ、あなたのご都合がよろしい時に――」

 

 俺と顔を見合わせたい人物が誰かなど、尋ねるまでもなかった。相手もそれを理解しているのだろう。話を進めるのは驚くほどスムーズだった。

 この先の休みの日程を伝えると、男性はそれをメモしてゆく。それから、必ず午後はこの酒場に来るということも伝えておいた。“あの人”は忙しいので日時は定かではないが、いずれ時間が合った時に、この酒場で落ち合うことができるだろう。

 

 必要なやり取りを手早く済ませると、最後に男性は恭しく一礼して去っていった。それはまるで、主人に対する召使いのようだった。

 

「…………」

 

 ふと手にしていた新しい煙草を、俺はもとに戻した。何かに頼り、依存するのは、あまりよいことではないだろうから。一本だけで満足し、俺は携帯灰皿を閉じてバッグにしまった。

 

 ――はたして、俺の選択は何が正しくて、何が間違っているのだろうか。

 フレオリック家で働くメイドとなって、流されるままにフィオナの侍女をして、そして別れを選んだはずの人物と再会しようとしている。自分の意志に基づいた一貫性というものが、どうにも欠けているようにしか見えなかった。

 

 俺は――もしかしたら、何も選んでいないのではないか。正しい選択を、正しく選び取れたことなど、本当は一度もないのではないか。そんな平静をかき乱すような感情が、暗い水底から這い上がるように湧き出でてくる。

 大した自信も信念もなく生きている自分に、失意や無力感のようなものを覚えながら、俺はグラスに残った蜂蜜酒をあおった。まるで、物憂さを胃に押し流すかのように。

 

「…………」

 

 どうしてだか、あの時のフィオナの顔が思い浮かんでしまった。

 俺の肯定的な言葉に、顔を赤らめながらも嬉しそうな表情を浮かべる、彼女の愛らしく純真な顔が。

 あれはきっと、間違いではなかった。正しい選択だった。弱気な俺でもそう確かに思えるような、素直で柔順な反応だった。

 

 肯定されているのは、むしろ――俺自身なのかもしれなかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「おっかえりー、カレン!」

 

 人懐っこい、はつらつとした声が、自室に戻った俺を出迎えた。

 慣れ親しんだ相方の姿を見ると、途端に安堵感のようなものが生まれてくる。わが家に帰ってきたような感覚だ。一年もともに寝起きして過ごしていると、友達というよりは家族に近い情を持ってしまうのだろうか。

 

 ――家族。

 その言葉を思い起こしてしまった俺は、余計な思考にとらわれてしまった。

 

「……ど、どうしたの? 大丈夫?」

 

 突っ立って口を開かない俺に、リタは心配そうな顔で近寄ってくる。あまり気を遣わせてはなるまいと、俺は取り繕うようにようやく声を上げた。

 

「いえ……ちょっと、ぼんやりとしてしまって」

「ホントに平気……?」

「平気です。……それよりも」

 

 俺はバッグから、リタに頼まれていた本を取り出した。それを目にした瞬間、彼女の顔がぱっと明るい笑顔になった。わかりやすい反応である。

 

「本屋で見つけられたので、買っておきましたよ」

「うわーっ! ありがとー! 読むのが楽しみ……!」

 

 本を受け取りながら、心の底から嬉しそうに言うリタは、とても無邪気で子供っぽかった。フィオナもそうだったが、率直で無垢な感情表現というのは、どこか心が洗われるような感覚を抱いてしまう。

 

 ……それだけ、自分の心が穢れていることの証左なのかもしれないが。

 ひねくれた思考を浮かべながら、荷物を私物入れの棚に戻していると――テーブルに便箋が置いてあるのが目についた。羽ペンとインクも見えるので、リタが手紙を書いていたのだろう。

 

「……家族宛てですか?」

「うん。月に一回は手紙を送れって、お母さんがうるさいからさー」

 

 面倒くさい、と言うかのようにリタは大げさなため息をついた。

 年末年始などにまとまった休暇が与えられたときには、田舎に帰郷する使用人がそれなりにいるものの、平時は手紙で家族とやり取りするのが一般的だった。

 

「……それだけ、リタのことが大切で心配なんですよ」

「そ、そうかなぁ?」

「そうですよ」

 

 例外はまれにあろうが――大多数の親にとって自分の子は、かけがえのない大事な存在なのだ。元気で過ごしているかと気にかけるのは、当たり前のことだろう。

 俺自身は子供を持ったことなどないが、それでも親の気持ちというのは多少なりとも理解しているつもりだった。冷静に過去を思い返せば、あの時、あの人はどんな感情を抱いていたのか、嫌になるほどわかってしまう。

 

「あっ、そうだ。お金、いくらかかった?」

 

 リタが帳簿用のノートを取り出しながら尋ねてきた。金銭の記録はきちんと取るようにと、親から厳しく言われているらしい。しっかりしているものである。

 俺が金額を口にすると、リタは走らせていた羽ペンを途中でとめた。顔を上げてこちらを見遣る瞳には、疑うような色が宿っていた。

 

「……どうしました?」

「どうしたも、こうしたも――過少申告しているでしょ。新書でそんなに安いわけないし」

「どうせ私も読むわけですし、折半でよいと思ったのですが」

 

 購入した本の大半は、二人とも共有して読んでいた。だからリタの欲しがる本も、俺が半分は負担すべきだろう。俺のほうが金には困っていないのだから。

 

「それを言うなら、あたしだってカレンの本を読んだりするじゃない。……それに、趣味じゃないでしょ? ああいう恋愛モノ、カレンにとって」

「まあ、大好きというほどではありませんが……。それでも暇つぶしには丁度いいでしょうし、気にしないでください」

「むぅー……」

 

 どこか不満そうな声を漏らすリタは、俺の考えに納得がいっていないようだった。あまりに良くされすぎると、引け目や申し訳なさを感じてしまうのかもしれない。

 自分は何もしていないのに、必要以上の厚意を受けている――そう思っているのだとしたら、大きな間違いだろう。

 

 俺はリタの目に視線をしっかりと向けると、まるで親が子に言い聞かせるかのように、その言葉を口にした。

 

「――いつも感謝していますよ、リタ」

 

 きょとん、とした表情が返ってきた。

 礼を言われる意味がわからなかったのだろう。リタはすぐに困惑気味な顔色を浮かべると、思いめぐらせるように頬を掻いた。

 

「え、えっとぉ……あたし、何かしてたっけ?」

「はい、ルームメイトとして私と親しく接してくれています」

「……えぇ? そ、それだけ?」

「それだけで、私にとっては嬉しくありがたいことですから」

 

 これまでの短くない人生で、学んだことがあった。

 かつて学問ばかりに傾倒していた俺は、ろくな人間関係を築けていなかった。そして死を経験し、この新しい世界で二度目の生を授かり、多くの失敗を重ねて、やっと痛感して理解したのだ。

 

 ――思考や感情は、見える形にして伝えなければ意味がない。

 

 それは単純なことだが、何よりも大事なことだった。

 人間は以心伝心ではない。だからこそ言葉で、あるいは文字で伝える必要があるのだ。多くの哲学者が思想を残したように、あるいは親がわが子へ愛を伝えるように。

 

「私は無愛想な人間で、仲の良い友達というものが多くありません。……リタも知っているでしょう?」

「それは……まぁ……」

 

 なんとも答えにくそうな表情を浮かべるリタ。

 必要なこと以外あまり会話をしない俺は、この屋敷で働きはじめた当初から同僚メイドとの関係がよろしくなかった。そして出世とも言える侍女代理者となってからは、リタ以外のメイドとは交際がほとんど断絶している状態になってしまっていた。

 

 ――べつにそれを深刻に悩むほど、俺は繊細な心の持ち主ではない。

 それでも、こうして普通に俺と交流してくれるリタという少女は、同室で寝起きするルームメイトとして望ましく素晴らしい存在だった。

 

「ですから……」

 

 俺はリタのもとへ近寄った。

 その繊手を手に取り、そっと引き寄せて――両手で包み込むように握る。まだ成長途中の少女の肌は、柔らかく未熟で、けれども一人前の温かさを持っていた。

 この体温と同じくらいのものを、はたして俺の手も持っているのだろうか。彼女の熱と比べるかのように、自分の人間らしさを確かめるかのように――俺は手と手をぎゅっと重ねた。

 

「私にできることで、あなたに少しでも恩を返せたら。……そう思っています」

 

 それは飾ることのない、素直な気持ちだった。

 これだけストレートに語ったのならば、十分に伝わるだろう。そう思いつつ、俺はリタの顔をそっとうかがった。

 

【挿絵表示】

 

 ――その顔は、耳まで朱に染まっていた。

 

「……か、カレン」

「はい」

「……は……恥ずかしいんだけど、めちゃくちゃ」

「リタの好きな恋愛小説のほうが、恥ずかしいシーンが大量にあると思うのですが」

「いや、それとこれとは別だって!?」

 

 あたふたとする姿は面白いが、あまりしつこく絡むのも良くないかと手を放す。

 彼女は解放された手を、まるで鼓動を鎮めるかのように胸に当てた。よっぽど気恥ずかしかったらしい。

 

「……どこぞの恋愛小説みたいに、愛していると囁いたほうがよかったですか?」

「もっと恥ずかしいって!? というか、カレンは殿方じゃないでしょ!」

「巷では女性同士の禁断の愛を描いた、耽美な小説がひそかに流行っているらしいですが」

「えっ、そうなの?」

「嘘です」

「…………」

 

 頬を膨らませてじっとり睨むリタは、感情表現が豊かでほほ笑ましかった。

 

「まあ冗談はさておき、私がリタに感謝しているのは本当ですよ。なので、これからも本の代金くらいは恩返しさせてください」

「……なんか、あたしのほうが恩を貰いすぎな気がするんだけど。いつも朝、起こしてもらってるし」

「それでは、起こさないようにしましょうか?」

「そっ、それは勘弁して!? 遅刻で減給されちゃう……!」

 

 ――他愛のない会話だった。

 彼女と交わす言葉は、まるで本当に年頃の少女同士のようで。自然でそつのない、和やかな掛け合いだった。

 それを意図しておこなえているということは――多少は成長しているのだろうか。

 

 まだ両の手に残る、かすかな温もりを感じながら、俺はそんなことを思うのだった。

 


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