「つ、つかれたぁ……!」
と、丸テーブルに突っ伏すフィオナ。その様子からは、やっと苦役から解放されたというような感情がにじみ出ていた。
――時間にして、およそ二時間ほどだろうか。
本日の客人である、もと治安判事のモーティマー卿から特別授業をみっちり受けたフィオナは、ようやく地獄の勉強を終えて私室に戻ってきたというわけである。
貴族、などといってもこの世界では“務め”を果たすことが求められる。したがって、家庭教師や講師を呼んで子弟に学を身につけさせることは、高貴な家の中ではごく当たり前のことであった。
「……ずいぶん苦労なさったご様子で」
同情を少し含んだ声を、俺は彼女にかける。勉強場所であった応接間に、何度かお茶と菓子を運んでいたのだが、後半になるにつれてフィオナの目が死んだような色になっていたのが記憶に残っていた。モーティマー卿は堅苦しそうな初老の男性で、おそらく勉強を楽しませるような教え方をするタイプでもなかったので、さぞや退屈な時間を過ごしたのだろう。
「もう、本当に……わたしが判事の道を目指しているみたいに、隅から隅まで過去の判例の講釈を垂れてきて……はぁ……」
「それは……お気の毒に……」
「だいたい……法律をぜんぶ覚えているわけでもないのに、あの人はそれをわかってる前提で教えてくるから――」
愚痴をこぼすフィオナに相槌を打ちながら、俺は紅茶をカップに淹れる。こういう時は、相手の不満に同意して共感を示すのがいちばん良いのだろう。
砂糖の入った瓶の蓋を開けながら、俺は彼女の言葉が収まるタイミングを見て尋ねた。
「……何杯、お入れしましょうか」
「今日は三杯」
「かしこまりました」
いつも砂糖はスプーン二杯なのだが、そのプラス分は勉強の疲れを物語っているかのようである。
スプーンに乗せた茶色の結晶――甜菜から煮出して作られた砂糖を、熱い紅茶に要望どおりの量で投入して、よくかき混ぜて溶かす。いい香りが鼻孔をくすぐった。
俺はできあがったそれを、恭しく彼女の前に差し出した。
「どうぞ。……まだ夕食までは時間がありますので、ごゆっくりなさってください」
「ん……ありがと」
ほっとした表情で、フィオナは紅茶を受け取る。そしてカップに一つ口をつけると、安堵のような息を小さく漏らした。温かい飲み物というのは、心身を落ち着けてくれるのだろう。
彼女はカップをソーサーに置き、ニッコリと笑みを浮かべると「カレンもお茶しましょう」と俺を誘った。
「では――失礼ながら」
フィオナと相席してお茶を飲む、というのは毎日のようにしていることだった。
主人が使用人を対等な形でもてなすというのは、衆目に触れる場所であればよろしくない行為ではあるが――私生活の中であれば話は別である。とくに女性であれば、プライベートの空間で侍女を友達のような話し相手として扱うのは、さして珍しいことでもなかった。
もう一つのカップに、俺は自分用の紅茶を淹れる。砂糖は加えなかった。甘いのは、あまり好みではないから。
フィオナの対面に座った俺は、彼女の様子をさり気なくうかがった。少し眠そうな表情をしているが、紅茶をすすると口元に柔らかい色が生まれる。最初に見せたリアクションほど疲労困憊している、というわけでもなさそうだった。
「――法律家には、あまり興味を引かれませんか?」
フィオナが話を振る様子を見せなかったので、俺は無言にならないよう質問を口にしてみた。女性らしい話題が思いつかなかったので、先ほどの勉強とかかわることを尋ねる形となってしまったが、気まずい沈黙が流れるよりかはマシだろう。
俺の言葉に、フィオナは少し悩むように眉をひそめると、ややあって曖昧な返事をする。
「うーん……。なんというか……想像がつかないっていうか……」
それは、いまだ人生経験の浅い少女の答えとしては、むしろ自然な言葉だった。
貴族の人間がなる職業、というのはだいたい相場が決まっていた。魔法が得意ならば、医者か、金銀の生産者か。あるいは魔法にかかわらない仕事であれば、領土の運営上重要なポストである司法官や行政官か。知識と研究欲があれば、大学で学問の道を歩むというのも一つの道だ。
もし、あまり裕福ではない小貴族の出身ならば、大貴族の家の上級使用人として働くこともあった。この屋敷で言えば、どうやらミセス・スターンも貴族家系の血を含んだ出身だとか。
いずれにしても――
「実際に目の当たりにしなければ、それがどういうものなのか――わからないことばかりです」
たとえば治安判事が、どうやって仕事をこなして、誰とかかわって、どんな生活を送っているのか。本に書かれている文字、あるいは人が口にした言葉だけでは、治安判事としての生き方を理解するには情報が足りなすぎる。
自分の人生の未来を想像する――などということが、年若い女の子にとって難しいのは当然であった。
「私自身、こうして使用人としてお屋敷で働かせていただいて……初めて知ったこと、覚えたことがたくさんあります。メイドになるまで、私はメイドの仕事をろくにわかっていませんでした」
それは本当のことだった。ベッドメイキングの仕方や、使用人としての礼儀作法などを知らなかったのはもちろん、朝のミーティングの様子や家政婦との上下関係など、初めて学ぶことだらけだった。たとえ前世の知識と経験があってさえも、知らないこと、わからないこと、そして及ばないことが山のようにあるのだ。
誰だってそうなのだ。最初から、すべてを理解して生きている者など存在しない。手探りで、悩みながら、必死に道を前に進むのが人間というものだ。
「……お嬢様は立派だと思います」
「り、りっぱ?」
「はい。むずかしい問題に対して、逃げることなく真剣に悩んでいるのですから」
「えぇ……?」
よくわからない、といったふうにフィオナは首をかしげる。何か成果を出しているわけでもないのに、褒められることの意味がわからないのだろう。
だけど、俺にとっては賞賛に値するのだ。そうやって不安や憂慮を抱きながらも、逃げ出さずに日々を過ごしているきみは。
「……カレンのほうが、えらいと思うんだけど。わたしと年齢もほとんど変わらないのに、仕事をきっちりこなしているし」
「いえ……使用人なんて気楽なものですよ。責任も重圧も、貴族の方々と比べたら少ないですし――何よりも自由に生きていますから」
「……自由、かぁ」
どこか遠くを見るような目の色を、フィオナは浮かべる。それは羨望だったのかもしれない。
べつに彼女も、どこかへ遊びに行きたいと思えば予定を決めることができるが、だからといって本当に自由と言えるのかは微妙だった。どこに外出するにしても使用人が付き添うだろうし、あまり貴族としてふさわしくない場所にも赴けないだろう。俺のように独りで酒場で過ごすなど、彼女にはできようはずもない。
フィオナはカップに入った紅茶を飲み干すと、冗談めかして笑いを見せた。
「わたしも、やりたい仕事が見つからなかったら……カレンみたいにメイドになろうかしら?」
俺は笑おうとしたが、笑えなかった。無理に笑顔をつくろうとすると、きっとひどい表情になるだろう。
だから馬鹿みたいにまじめな顔で、俺は彼女に返答した。
「……いいえ、それはやめたほうが良いと思います」
「あら、どうして?」
だって、俺と同じような道を進んでほしくないから。
そんな正直な理由を言えるはずもなく、俺はわずかに逡巡してから、フィオナの瞳を見つめながら言葉を紡いだ。
「だって――フィオナ様にお仕えできなくなってしまいますから」
それは本音を隠すための、取り繕いの言葉だったのだろうか。
それとも――
……いや、どっちでもいいか。無駄に思考を重ねてしまうのは、俺の悪い癖だ。自分の感情に任せて、自然に話せばいいのだ。まるで年相応の少女のように。
頬を赤くして、どこか戸惑ったような、そして嬉しそうな顔を浮かべるフィオナを眺めながら。こんな純情な彼女を見られるのなら、侍女という仕事も悪くないなと、なんとなく俺は感じた。
◇
――休日を控えた前日に、俺に宛てた手紙が届いた。
差出人は聞いたことのない人物だったが、おそらく先週の酒場で言葉を交わした男性の名前だったのだろう。文面はひどく簡潔で、事務的な内容だった。“ある御方”の都合がつきそうなので、当日にいつもの場所で対面することになるだろう――という連絡のみ。
それで十分だった。俺の心を掻き立てるのには。
けっして明るくはない感情に支配されながら、けれども刻々と迫ってゆく現実に、俺はどうすることもできなかった。そうしていま――無策で酒場のカウンター席に座っているというわけである。
「……まったく」
俺は自分に呆れるように呟いた。
人間がどれだけ後ろ向きな気持ちになろうとも、時間はひたすら前向きに進みつづけるのだ。そうであるならば、人間も前を向いて道を選ぶのが道理というものだろう。
……だというのに。
これから顔を見合わせる相手が、どんな人物なのかわかっていながら、俺はどう対話すべきであるかを案じていなかった。挨拶はなんという言葉を口にするか? 最初は何について話題を振るか? 自分のことはどれだけ話すべきか? 相手の近況についても尋ねるべきか? まるで考えていなかった。この時が来るのを理解していたにもかかわらず。
「……いや」
けれども、と俺は思いなおした。
むしろ考えないほうが正解なのではなかろうか。恣意に任せて会話をするのが本当は正しいのではないか。想定問答など、これっぽっちも必要ないのかもしれない。
――その思考は、べつに言い訳などではない。誰もが納得する、単純な理由があった。
そう……“親しい関係”の相手と会うのに、わざわざそんな準備をすること自体がおかしいのだ。初対面の相手との面接ではないのだから。
「…………」
俺は自嘲するかのように口元を歪め、グラスに満ちた液体を喉奥に流した。お湯で割った蜂蜜酒のアルコール度数はそれほどでもなく、酒の酔いに任せて舌を回すことは叶わないだろう。俺は自分の理性をもってして、事に臨まなければならぬのだ。
いつものように読書をすることはなく、俺は頬杖をつきながら待ちぼうける。ときおりグラスに口をつけ、小さなため息をつき、暇そうに酒場の店内を眺める。ほかの客からしたら、俺はまるで意中の男性を待つ少女のように見えたかもしれない。もっとも、お相手はそんなロマンチックな人物ではなかったが。
「――あー、その」
声がした。
若くはない男性のものだ。遠慮がちな、迷いのある、どう話しかければよいのか悩むような、そんな雰囲気だった。
……なんだ。
あなたも、俺と同じだったわけか。
どこか安堵のようなものが生まれた。話しかける言葉の準備は、お互いにしていなかったということだ。似た者同士――というのは、当たり前のことだったのかもしれない。俺と彼の関係を考慮すれば。
「隣にどうぞ」
俺は穏やかな口調で言った。
年配の男性は、どこかぎこちない所作で隣席に腰掛ける。そこで初めて、俺は彼の姿を確認した。
身を覆うマントに、深々と頭を隠すフード。失礼ながら、俺は思わず笑ってしまいそうになった。これでは、まるで不審者ではないか。
「……物々しい装いですね」
「む……いや、さすがに顔を隠したほうがよいと思ってな……」
「逆に目立ちますよ、それでは」
「そうか……?」
フード越しに頭を掻く彼は、どこか愛嬌が感じられた。人の好さがにじみ出たその雰囲気は懐かしく、数年が経っても人は変わらないのだと思わされる。
――かく言う俺は、人間的に変化しているのだろうか。主観ではあまりわからないが、彼の目からはどう映っているのか、少しだけ気になった。まあ二次性徴のただなかにあるので、外見的には成長して変わっているが。
「……席に座って注文をしないのもよろしくないので、何か頼みましょうか」
「その……こういう場所は、よくわからんのだが、作法とかはあるのか?」
「お上品な礼儀は必要ないので、ご心配なさらず。……私と同じ、蜂蜜酒で構いませんか?」
「強くない酒であれば大丈夫だ」
俺はバーテンダーを呼んで、彼の酒を頼んだ。お湯割りなので、何か支障をきたすほど酔うこともないだろう。彼の口に合えば喜ばしいのだが。
「――久しぶり、だな」
酒を頼んだあとに彼が言ったのは、月並みな言葉だった。会話の順序が少しおかしかったが、それでも再会の重みの表れだったのだろう。俺も同じように、ありきたりなセリフを返す。
「ええ、お久しぶりです。お元気にしていましたか?」
「幸いながら息災でな。最近は家令にいろいろ仕事を任せるようになって、おれも多少はゆとりが出てきた」
「以前はずいぶん、ご多忙でしたからね。……その際は、ご迷惑をおかけしました」
「気にするな。お前のためだ」
この方は本当に出来た人物だ。改めて、そう思う。俺とは比べ物にならないほど苦労を重ね、責任を果たし、そして悩みを経験してきたのだろう。年齢だけではけっして備わらない、人間としての器や貫禄といったものがそこにあった。
尊敬と、そしてかすかな羨望のようなものを抱きながら、俺は蜂蜜酒で唇を湿らす。
「……奥様のほうは、お元気ですか」
「ああ、いや……それは……」
「――失敬しました。あまり他言したくないことは、口になさらずとも結構ですので」
俺は目を細めながら、そう言葉をかぶせた。
彼の夫人たる、あの人は精神的に不安定なところがあったので、あまり積極的に尋ねるべきではないのだろう。ましてや彼女に大きな影響を与えたのは、ほかならぬ俺自身なのだ。話題に挙げるのは気まずさというものがあろう。
「……生活のほうは、何か困ったりしていないか?」
「いえ、とくに。寝床と食事が安定した仕事なので、なかなか気楽なものですよ。……少し、申し訳なさを感じるくらいに」
何も不足のない、生ぬるく甘ったれた生活だった。リタのように仕送りも必要ないため、好きな本を買えて、こうして酒に興じることもできる。そうしていられるのは――ひとえに、目の前にいる彼のおかげだろう。
だから、申し訳なさを感じるのだ。俺は何もしていないのに、何かをしてもらっている。この恩義は、どうやったら返せるのだろうか。妙案はすぐに思い浮かばなかった。
「そうか……。フレオリック卿には、感謝しなければならないな」
「私にとっては、あなたがもっとも感謝すべき恩人です。いろいろと手を尽くしてくださいました。本当にありがとうございます」
「……何を言う。礼など必要ないだろう。お前は、おれの――」
当然のように、当たり前のように、彼はその言葉を口にした。それを言える彼は、やはり尊敬すべき大人だった。彼と対峙すると、俺はどうしようもなく自覚せざるをえなかった。
――ああ、俺はまだ“子供”なんだ、と。
大人ぶった思考に酔いしれて、うだうだと言葉遊びを繰り広げて、それで何かわかったような気分になって、勝手に自己満足をして。呆れるほど、俺は未熟だった。前世と合わせて相当な年月を過ごしたというのに、俺はまだ子供で、大人になりきれていなかった。
「……あなたは、素晴らしい人です」
完膚なきまで打ちのめされたような、どこか清々しい気持ちで俺は言った。
「私は尊敬します。ひとりの人間として、あなたのような方と縁を持ったことを誇らしく思います」
「い、いや、そこまで言うことか……?」
「これでも言葉が足りてないくらいですよ」
俺の率直な賛辞を受けた彼は、気恥ずかしそうに頬を赤らめて、それをごまかすかのようにグラスの酒をあおる。見た目はてんで似つかないが、なんとなくフィオナやリタの恥ずかしがる姿と重なり、俺は内心でちょっと笑ってしまった。
それから二人で酒をちびちびと飲みながら、取り留めのないことを俺は彼と語り合った。それは自然な会話で、言葉は流れるように出て、お互いに気を遣うこともなく時間が過ぎ去っていった。いつもの酒場で、いつもとは違ったひと時に、俺は心地よさを感じた。――孤独は、そこに存在しなかった。
けれども、物事には終わりが存在する。
ふいに一人の男が後ろからやってきて、恭しく礼をして時刻を告げる。先週、俺に声をかけてきた紳士だった。おそらく、彼の従者なのだろう。
「すまんな、そろそろ帰らなくてはならん」
「いえ、お気になさらず。……貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました」
「おれのほうこそ。付き合ってくれて嬉しかったよ」
彼は笑みを浮かべた。優しく穏やかな表情だった。そして背を向けて――言い忘れたことを思い出したかのように、こちらへ振り返る。
あー、と言いよどんだ彼の顔には、少し自信なさげな色があった。うまい言葉が見つからない、口に出してもいいか迷っている、そんな感じの様子だった。
何を伝えようとしているのか、俺はなんとなく察した。だから俺は、自分から言ってやることにした。それが大人らしい対応だと思ったから。
俺はできるかぎりの柔らかい声で、その言葉を口にした。
「時間が合えば、またここでお会いしましょう。これからも、あなたと話せるのを楽しみにしています。――お父様」
少しだけ、大人になれた気がした。
◇
自室に帰ってきた俺を、リタはなぜか目を丸くして出迎えた。何か意外なものを見た、という感じである。
「おかえり、カレン……?」
「はい、ただいま。……どうかしましたか?」
服に汚れでもついているのだろうか、と自分のワンピースドレスを見下ろしてみたが、とくに変わった様子はない。髪に手を当ててみても、いつもと変わらぬ感触ばかりだった。リタの反応の原因は、どうやら外見ではないようだ。
彼女は「あ、いや」と誤解を解くかのように手を振ると、自分でも困惑しているかのような口調で言葉を続けた。
「なんか、こう……いつものカレンじゃない感じに見えたから。雰囲気が違うっていうか……」
「……そうですか? いつもと変わらないと思いますが」
俺は適当にそう答えたが、内心ではリタの感性に舌を巻いていた。昼間の酒場での出来事が、俺の感情や気分に影響を与えていたのは明白だった。そういった機微を見逃さない彼女は、さすがは年頃の女の子といったところか。
「なんかイイコトでもあったの?」
「……良いこと、ですか。そうですね。なかったと言えば嘘になるかもしれません」
「えっ、なになに? 何があったの? 教えておしえて」
やけに食いついてくるのは、俺の様子がそれほど普段と違っていたからだろうか。はたして今の俺は、どんな表情をしているのか。ちょっと気になったものの、わざわざ鏡を確認するのは自意識過剰かもしれない。
俺は荷物を棚にしまいながら、リタの興味に言葉を返してやる。
「べつに、大したことはありませんよ。ただ……めずらしく人と会って、話をしたというだけです」
「…………っ!? そ、それって――」
後ろで、衝撃を受けたような声が上がった。そんなに驚くことでもないと思うのだが。たしかに交友関係は狭すぎる俺だが、休日に誰かと会うくらいは普通のことではなかろうか。
「カレン……!」
「は、はい?」
「その人は……た、大切なひとだったり……?」
「そうですね……。私にとっては、かけがえのない方ですが」
そもそも血のつながった人間が大切ではないことなど、そうそうないだろう。それに彼は、俺にとっては最大の恩人でもある。自分の人生、そして在り方を方向づけた、かけがえのない大事な人物であることは間違いなかった。
だから、はっきりとそう答えたのだが。振り返ると、リタは愕然としたような表情を浮かべて固まっていた。
「……カレン」
「はい」
「恋愛小説に興味ない理由、そういうことだったんだ……」
「はい?」
「そりゃそうね……。現実に彼氏がいたら、必要ないもんね……。うぅ、この裏切り者……」
「何か勘違いしている様子ですが」
俺は思わず呆れてしまった。が、たしかに恋人と逢瀬していたのだと思い違うのも無理はなかった。十代の若い少女が出会いを楽しむといえば、その手の話が真っ先に浮かぶのも変ではない。
「一つ訂正しておきますよ」
俺は肩をすくめて、彼女に現実を突きつけた。
「“彼氏”ではありません。……残念ながら、私には殿方と恋をする趣味はないものでして」
そもそも歳を取ると、恋などという感情には縁が薄くなるものだ。俺もその御多分に洩れず、やはり巷の恋愛小説に共感するのは容易ではなかった。
愛とは何か。恋とは何か。そんなテーマは、古代ギリシアの頃から哲学者が論じていたことだな、と大学時代の勉学をふと懐かしく思い返す。この世界でも、きっとその類を語った哲学書がたくさんあるのだろう。たまには小説以外にも、そういった本を探してみるのも良いかもしれない。
そんなことを思いめぐらす俺に対して、リタは――
「彼氏じゃない……ということは……あっ」
一つの真理にたどり着いたかのような声を上げると、彼女は納得したように手を小さく叩いた。
「そっかぁ……この前のこと……なるほどなぁ……」
「……大丈夫ですか、リタ?」
「うんうん……カレンって、そんな感じの気がしたんだよね……。だって、妙に……異性のことに興味なさそうだし……」
ぶつぶつとうわ言のように呟く彼女は、ずいぶんと思考を斜め上に飛躍させているようだった。何を考えているのか知らないが、きちんと話を伝えておいたほうが良いだろうか。
……と、思ったが。俺の父親のことは、あまり他言すべきではないだろうし、詮索されるのも避けたほうが無難だった。彼について聞かれないためにも、このまま勘違いしてもらったほうが好都合かもしれない。
――そういうわけで。
俺はとくに訂正しないことにした。
「カレン……!」
「はい」
「あたし、応援しているからね……! そ、そういう偏見とかもないから大丈夫、安心して」
「はい。ありがとうございます」
想像力豊かなリタを眺めるのも、それはそれで面白かった。彼女の頭の中では、俺はいったいどんな人物と情事を重ねているのだろうか。他人の視点から見た、カレンという人間にお似合いな相手というものは少し気になった。
俺はリタと同じように、冗談半分で想像力を働かせて――
「で、でも……そういうのもワクワクするっていうか、禁断の恋って感じで……ウフフ……いいなぁ……」
うっとりとした表情で、きゃーきゃーと妄想に浸るリタは、どうやら遠いところへ旅立ってしまったようである。
もっとも――正直に言ってしまえば俺も、彼女と同レベルだったのかもしれない。
……ほんのちょっとだけ。一瞬だけ。
艶やかな美しい金髪に、人形のような可愛らしい顔の、いつも身近に感じている少女の姿を思い浮かべてしまったから。