TS百合   作:てと​​

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005 われわれは、旅の途中にあるかぎりは、これまでの道よりも、これからの道をより善いものとするように、努むべきである。

 

 ――ところで、使用人がメイド服などのお仕着せを与えられる理由は何か。

 

 もちろんキャップやエプロンなどに実用的な意味もあるのだが、いちばんの理由は「身分の明示」だろう。かりに使用人が私服で仕事をしていたら、屋敷の外からの客人がやってきた時にその人が困るのだ。誰が貴人で誰が使用人か見分けが付かず、当惑させてしまうかもしれない。

 だから女性使用人のほとんどはメイド服を着て仕事をしているし、執事や家政婦といった私服で活動する上級使用人たちも、あえて地味な服装や流行遅れの装飾をすることによって、主人たちよりも目立たぬことを心掛けている。うっかり女主人と家政婦を間違えてしまった、などという失敗話はたまにあるものの、基本的には見た目や振る舞いを注視していれば、ちゃんと判別できるはずである。

 

 そういうわけで、使用人の服装というものはたいへん重要なことなのである。

 ……はずなのだが。

 

「うーん、やっぱりカレンが着るとなんでも似合うわね……!」

 

 浮き立ったような口調で、フィオナが俺の姿を見ながら言った。ずいぶんと楽しそうな笑顔である。その表情には、年若い少女らしい明るさが満ちていた。

 

「お嬢様」

「うん? なに?」

「――メイドの私がお嬢様のドレスを着るのは、いかがなものかと思うのですが」

「ええー? いいじゃない」

 

 俺の言葉は、簡単に聞き流されてしまう。今の彼女は、まるで人形遊びに夢中になっている幼子のようだった。厳しい母親との関係や、難しい学問の勉強など――日頃のストレスが溜まっている反動なのだろうか。

 

 ――フレオリック家と(ゆかり)のある貴族の誕生日パーティに、フィオナも参加することになったらしい。

 だからドレスをどうするか、今から決めておかなければならないのだが、立て鏡だけでは後ろ姿を自分で確認できない。そこで背丈や体格がほぼ同じの俺に試着させて、いろいろな角度から見た目を観察したい――というのがフィオナの言い分だった。

 

 もちろん、そんな言葉がほぼ建前なのは明らかだった。

 自分がその服を着たらどうだろうか、という観点などは早々に彼方へ消えてしまったようで、今の彼女は俺がいろんな服に着替えることを楽しんでいるようだった。これだけ無邪気に喜んでいるフィオナを見たのは、久々かもしれない。

 

「ほらほら、カレンも見てみなさい」

 

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 そう言って、彼女はこちらの後ろに回ると、ぐいと俺の体を姿見の鏡へと向けた。

 

 ――落ち着いた黄色の、フリルにも似た段構造の飾り(フラウンス)が膨らみを強調するティアード・ドレス。

 

 簡素な服装を好む俺にとっては、あまりにも見慣れない姿だった。愛らしい服に身を包んだ少女は、どこか遠い世界の別人に見える。

 その鏡の中の人物で俺らしいと言える部分は、愛想のなさそうな冷たい表情だけだ。笑みを浮かべれば、きっと多くの者を魅了する女の子になるのだろうが――残念ながら中身が中身だった。

 

「ね? かわいいでしょ?」

「お嬢様がご着用されたほうが、可憐で素敵ですよ」

 

 そう即答すると、鏡に映ったフィオナの表情が少し恥ずかしそうなものに変わる。

 

「……もう、すぐ真顔でそういうこと言うんだから」

「本心ですから。可愛らしい服装は、私よりもお嬢様のほうが似合います」

「…………」

 

 フィオナは一瞬むっとしたような顔色を浮かべると、しばらく睨むような目つきを保ち――ふいに両手を俺の頬へと伸ばした。

 そして口角付近の肉をつまむと、ぐいっと斜めの方向へ引っ張り上げる。

 ……どうやら、笑顔にさせたいらしい。

 

「おじょおさま、いたぃれふ」

「もっと笑ったほうがいいと思う、カレンは」

「……そぉ、れすね」

 

 なかなかに滑稽な滑舌のまま、俺は彼女の言葉に同意した。無愛想な人間と、愛嬌のある人間。どちらが魅力的で、人生において有益かといえば、間違いなく後者であろう。

 ただ、ひとの気質というものは千差万別である。意識せずとも笑顔を振りまけるタイプもいれば、あまり感情を面に浮かべないタイプもいる。言うまでもなく俺は無表情が基本だし、ミセス・スターンなんかも同じタイプだろう。

 だから、笑ったほうがいいと言われても――実践するのは難しかった。

 

「…………」

 

 ふとフィオナの手が離れた。解放された頬の肉は、もとの位置へと戻る。すなわち、普段どおりの無愛想な顔であった。

 それを見た彼女は、瞳にどこか悲しそうな色を宿した。きっと心の底から思っているのだろう、俺が笑顔を浮かべてほしいと。その心遣いはとても嬉しく、そして尊く、何よりも愛おしかった。

 

 ――それなりの年数を生きていると、相手の心情というものに気づけるようになる。

 

 いつも寝起きをともにしているリタの、何気ないやり取りに含まれる友愛の情。先日に会った父の、言葉や所作の節々に現れる親愛の情。そして――今そばにいるフィオナの、どこか切ない微妙な距離感の心情。

 わかっている。思考癖のついた俺の頭は、すぐに理解している。積み重ねられた経験と知識が、自分に向けられている気持ちを的確に解釈している。

 

「お嬢様」

 

 昔は、わかっていながら適切な行動を取ることができなかった。

 だけど、今は少しだけ大人らしくなれたはずだ。

 だから、きちんと伝えてあげよう。

 

 俺は後ろを振り向いた。

 鏡越しではなく、正面から向き合って。

 そっと、ふんわりと、やさしく――

 

 ――母親が子供にそうするかのように、愛情を込めて抱擁した。

 

「私のことを想って、そう言ってくださっていると――わかっていますよ」

 

 俺には、笑顔で感情を伝えるなんて向いていない。

 だったら、表情ではなく言動で示せばいい。簡単なことだった。

 

「お仕えしている方に、こんなにも温かく案じていただけるのは――とても嬉しいことです。……ありがとうございます」

 

 服の布越しに、柔らかな体温を感じた。

 ちらりと視線を横に向けると、フィオナの真っ赤な耳が見える。きっと、いつも以上に赤面しているのだろう。

 

 ――フィオナが母親から抱きしめられている姿は、見たことがなかった。

 だから間違いなく、慣れていないに違いない。

 でも、だからこそ大事なのだ。

 

 誰もが相手に感情を抱いている。悪い感情、良い感情、あるいはどちらとも言えない複雑な気持ち。

 でも、それらは伝えられなければ、個人の心の中で終止してしまう。

 たとえば、母親が抱いている本当の気持ちは――理解できる形にしなければ、きっと娘は気づけないだろう。

 そして娘がどんな思いでいるのかも、まったく同じように。わかるようにしなければ、意味がないのだ。

 

 ――もう少し、彼女の胸をこちらに引き寄せる。

 言葉よりも、表情よりも、行為はたやすく想いを伝えられる。その大切な事実を、この若い少女に知っておいてもらいたかった。

 

「いつも心より感謝しております、フィオナ様」

 

 笑顔など必要ない。

 そんなものがなくても、愛情は伝えられるのだから。

 

【挿絵表示】

 

「――――」

 

 言葉にならない、熱のこもった吐息が首筋を撫ぜた。

 唐突な抱擁と、小恥ずかしい言葉に、彼女の心境が追いついていないのかもしれない。少し意地悪だったかと思ったが、先ほど頬をつねられた仕返しということでお相子だろう。

 黄金の美しい髪を眺めながら、しばらく俺は静止した。フィオナも抱きすくめられたまま、動こうとしない。彼女の小さい呼吸音と、胸の高鳴りだけが世界に響きわたっていた。

 

 ――わずかに、違和を感じた。

 

 ほんのちょっと、微妙に食い違っているような感覚。それが何に由来するものなのか。

 母親のぬくもりに包まれた子供が、安堵するのとは違う。むしろ激しさを増す彼女の鼓動は、まるで恋人と抱き合った時のような――

 

「――なんて、とつぜん失礼しました」

 

 ばっと体を離し、冗談っぽい口調で取り繕う。

 やはり、いきなり抱きしめるのはやりすぎだったろうか。リタの時のように、手を握るくらいにしたほうが良かったかもしれない。

 そんな反省をしつつ、おそるおそるフィオナの顔色をうかがった。

 

 なんてことはない。予想どおりの表情だった。

 がちがちに固まった顔に、ふらふらと揺れる視線。これだけのぼせ上った様子を見せられると、申し訳なさを覚えてしまう。

 

「あの、フィオナ様。大丈夫でしょうか」

 

 大丈夫ではなさそうだが、いちおう尋ねるしかなかった。

 

「……だ」

「だ……?」

「だだだ、だ、だいじょうぶ」

「大丈夫ではありませんね」

 

 いまだ顔が赤いままの彼女は、回復するまで少し時間がかかりそうだ。

 

「かか、か、カレン」

「はい」

「こ、こんどハグするときは、先に言ってね?」

「はい、かしこまりました」

 

 俺は恭しく礼をして拝承した。事前通達してから抱きしめるなど意味不明すぎるやり取りだが、この場では突っ込まないでおこう。

 まあ、とにかく。嫌がっている感じではなさそうなので、一安心といったところだろうか。

 はたして“今度”などあるのか、という疑問も浮かんだが――考えるのは野暮というものだった。

 

「ところで、お嬢様。けっきょくドレスは、どれになさるご予定で――」

「え? あ、うん。なんでも、いいんじゃない……?」

「なんでもよろしくはないと思いますが」

「か、カレンにいちばん似合うドレスで……」

「着ていくのはフィオナ様なのですが」

 

 その日はけっきょく、まともに服を決定することができず。

 

 ――あまり感情をストレートに伝えすぎるのもよくないかな、と俺は少し思いなおすのであった。

 

 

 

 

   ◇

 

 

 

 週末、いつもの隣街で買い物と昼食を済ませ、相変わらずの足取りで見慣れた酒場に入った俺は――先客の存在に驚いて立ち尽くしてしまった。

 いつも座るカウンター席の端っこから一つ隣に、フードをかぶった男が腰掛けている。それが誰なのか考えるまでもあるまい。まさか、先に来ているとは思わなかった。

 

「――お待たせしてしまいましたか?」

 

 そう尋ねながら、俺は彼の横に座った。待ち合わせなど約束していなかったが、相手が俺と会うために待機していたのは明白だろう。

 俺にちらりと顔を向けた彼――父は、柔和なほほ笑みを浮かべて答えた。

 

「いや、さっき来たところさ」

「そのセリフ、あまり説得力がないですよ。グラスの中の酒が半分以下になっていますから」

「……よく洞察しているな。さすがだ」

 

 感嘆したように言ったあと、表情が苦笑のようなものに変わる。彼は酒好きな人間ではないので、飲むペースはそれほど早くないはずだ。それを考えると、けっこう前からここに座っていたのかもしれない。

 けっして暇人でもないのに、こうして俺との時間をできるだけ持とうとしているのは――ひとえに、俺が血のつながった娘だからだろう。それだけ大事なのだ、親にとって子供というものは。

 

 自分のぶんの酒を注文しながら、さて何を話そうかと思案しつつ――俺はふと思い浮かんだ話題を口にした。

 

「……ボスウェル卿の誕生日パーティがあるそうですね」

「ああ、それか。今年でちょうど五十路だから、盛大に祝うそうだ。おれも招待されてしまっているから、行かねばならん」

 

 まったくもって面倒くさい、と言うかのような口調で父は話す。もともと貴族仲間との社交に消極的な彼にとっては、わざわざ長時間かけてよそに赴くのは苦痛なのだろう。かといって人付き合いを断つわけにはいかないところが、貴族の家の当主としてつらいところであった。

 

「フレオリック家の方々と向こうでお会いしたら、よろしくお願いします」

「もちろんだとも。いつも世話になっているからな」

「それと、これは個人的なお願いですが……三女のフィオナを見かけたら、何か言葉をかけてやってください。美しくて愛らしい、いい子ですから」

「……? それは構わんが……フレオリック卿のご息女とは、仲がいいのか?」

「仲がいいも何も、私は彼女の侍女役ですよ」

 

 そう言った直後、酒を嚥下していた父はゲホゲホとむせた。どうやら事情を把握していなかったらしい。彼は赤い顔で何度か咳をしてから、ようやく改めて口を開いた。

 

「……普通のメイドとして雇われている、という話だったはずだが」

「そのつもりだったのですが、彼女の侍女が急に退職して代わりが見つからなくて。私が代わりに宛がわれた、というわけです」

「……いつからだ?」

「もう半年以上前になります。いまだに新しい侍女を雇うという話も耳にしないので、いずれ私が正式に侍女として採用されるのでしょうね」

 

 使用人の労働契約の更新は基本的に年単位なので、おそらくその時に侍女代行のメイドから侍女に変わるのだろう。まあ数か月先の話だが。

 

 それにしても、父が俺の現状を知らなかったのは意外だった。屋敷での生活について、探ろうと思えばいくらでも探れただろうに。そうしなかったのは――俺の平穏のためだろうか。

 いちメイドとして。ただの平民として。静かに生きる道を作ったのは、ほかならぬ父だった。

 

 ――貴族の令嬢としての自分。

 

 その立場を演じることができず、周囲に違和をまき散らしながら生きてきた俺は、母が心労で病みがちになったのを契機に己を消すことを求めた。

 幸いながら貴族の間では、養子縁組によって家同士の結びつきを強める行為が珍しくないので、それを利用する形となった。まず父が懇意にしていて信頼のおける、家名の小さい他家に養子として移り、そこからさらに無名の家へと籍を移す。そんな家柄のロンダリングめいた行為によって貴族としての自分を成り下がらせ――最終的に、フレオリック家のメイドという職に就いたというわけである。

 

 無名貴族の、さらに魔法の才もないらしい娘なら、平民職に落ちぶれても無理はない。用意周到なストーリーは、実際に驚くほどうまくいった。フレオリック卿以外の屋敷の人間は、誰も俺がもともと名のある貴族の生まれだとは思いもしないだろう。

 

「しかし――よかったのか?」

 

 父は真剣な顔で尋ねた。侍女という立場で、と言っているのだ。

 家政婦のミセス・スターンが貴族家系の出身であるように、高名な家では上級使用人も貴族の家柄であることは珍しくない。つまるところ、フレオリック家の息女の侍女という地位は“平民”よりも“貴族”に近い存在なのだ。

 

 貴族であることを捨てるためにメイドになったのに、そこから貴族に近い場所へと戻っている。

 それは完全に矛盾だった。一貫性のない、ふらふらとした道筋だ。自分でもでたらめな生き方だと感じている。

 

「…………」

 

 俺は言葉を探すように視線を宙に泳がせたが、どうにも上手い説明が見つからない。

 困ったように頭を掻いて、そして思い出したかのようにバッグを漁り――俺は馴染みの木箱を取り出した。

 

「……吸ってもいいですか?」

 

 蓋を開けて中身を見せると、父は驚いたように目を見開いた。その瞳には、わずかに動揺のようなものが浮かんでいる。どうやら愛娘が煙草に手を染めているのがショックだったらしい。

 

「煙草はお嫌いでしたっけ」

「ああ、いや……。付き合いで吸いはするが、自分からはあまり。どうも煙を吸い込むというのが好きになれなくてな」

「その心持ちは素晴らしいかぎりです。酒や煙草なんて、やらないに越したことはありませんよ」

 

 俺は肩をすくめながら言った。それがわかっているというのに、依存性のある嗜好品を好むのは非常に馬鹿げている。あまりにも不合理で――矛盾していた。

 

「――――」

 

 紙巻き煙草を手にしたが、バーテンダーはこちらに目を向けていないので気づいていないようだ。声をかけようと口を開きかけた時――

 

「火なら、おれが点けるぞ」

「……そういえば、そうですね。そっちのほうが早い」

 

 父の言葉を聞くまで、その手段が思いつかなかったのは、俺が“貴族ではない自分”に慣れすぎてしまったからだろうか。

 日常生活に便利な魔法、などという存在はすっかり忘却していた。そう、貴族は火をともすのに火種など必要ない。己の意思によって、容易に炎を生み出すことができるのだ。

 ……それができない貴族、というのも存在するが。

 

 フィオナの姿を脳裏にかすめながら、俺は煙草を父のほうへ掲げた。

 巻かれた紙の先端に、彼は人差し指の先を向ける。一瞬、空間が霞んだように見えたあと、すでに煙草には火が点いていた。炎を思い描き、念じればそれだけで実現する。科学的見地からすれば納得しがたく、道理に背いているそれは――まさしく魔法だった。

 

 世界には不思議なことが満ちている。

 なら、人生だって不思議だらけに決まっている。

 

 俺の歩んできた道に説明がつかないのは、あるいは必然だったのかもしれない。まるで魔法のように。

 

「年月というものは、ひとの心を少しずつ変えてくれるようです」

 

 俺は煙を口から吐き出しながら、そうぽつりと呟いた。

 昔のようにくだらないことにこだわり、悩み苦しんだ自分は、もうどこにもいなかった。凪いだ海のような心境、とまではいかないが、驚くほど平穏で静かな毎日を送れている。

 

 だからだろうか。余裕ができて、他人についてよく考えられるようになった。

 いつもそばに仕えているフィオナ。彼女が何を考えているのか、どんな心境でいるのか、何を求めているのか。ここ最近はすぐに察せられるようになった。侍女、という職は俺にとって、意外と天職なのかもしれない。

 

「後悔の多い人生を送ってきました。……あの時、ああすればよかった。そんなふうに思ったことは、幾度もあります」

「……それは、おれも変わらんさ」

 

 俺の言葉に同意しながら、父はグラスの酒を傾けた。

 もう四十後半の彼は、俺よりもずっと長く人生を歩み、多く苦労を経験してきたはずだ。領主の家の長男という立場が、どれほど大変だったのかは想像にかたくない。

 だが――そんな積み重ねがあったからこそ、父の優しさや穏やかさは培われたのだろう。

 

「それでも、後悔の上に自分は成り立っています。……これまでの道よりも、これからの道を大切にしたい。私はそう思っています」

「…………そうか」

 

 短いが、重みのある頷きだった。

 

 無言の時間が流れる。ほかの客たちが楽しげに談笑するなか、俺は黙って煙草をふかし、父は酒をちびちびと口にしていた。深閑としたひと時だが――どこか心地よい静寂だ。

 やがて煙草の火が手元に近づいたところで、俺は吸い殻を灰皿に押し付けた。

 

「――ひとつ、お聞きしたいことがありました」

 

 ふと思いついたことを尋ねたくなり、俺は沈黙を破った。

 こんなことを父親に聞くのもどうかと思うのだが、せっかくの機会だ。子供を持つ親に、ご意見をうかがうのも悪くないだろう。

 

「もしあなたの子供が、魔法の才能に欠けていたとしたら――あなたは、その子を疎みますか?」

 

 魔法とは、貴族の証だ。たとえ下級貴族の出身でも魔法の才に優れていたら、高名な家柄と婚姻を結んだり、あるいは養子となったりすることが当たり前のようにある。それだけ重視されている、というわけである。

 

 ――その能力が欠如していたならば、親はどう子供を思うのだろうか。

 

 質問をぶつけられた父は、おそらく意図を察したのだろう。フレオリック卿の末娘がろくに魔法を使えないという噂くらいは、耳にしていたのかもしれない。

 彼は真摯な顔つきで、まるで自分の娘を想うかのような声色で、その言葉を口にした。

 

「疎むわけがないだろう。――子供を愛さない親など、いるわけがないさ」

 

 予想どおりの答えに、俺は「そうでしょうね」と酒を啜りながら頷く。

 

 ただ、ほんの少しだけ。やり方が下手だったり、思い至らなかったりするだけなのだ。

 あの親子の関係が、善いほうへ向いてくれることを――俺は心の底から願うのだった。

 

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

「――カレンって、休みはどう過ごしているの?」

 

 いつもの昼過ぎのティータイム。対面のフィオナが、ふいにそんなことを尋ねてきた。

 プライベートに関する質問、というのは、ここ最近になって頻繁に聞かれるようになった。それはおそらく、以前よりも親しさが増した証左なのだろう。あまり自分から話題を出すのは得意ではないので、こうして向こうから話しかけてくれるのはありがたかった。

 

 俺は「そうですね……」と呟き、カップの紅茶の水面を眺めながら小考した。

 正直なところ、休日といってもやることが同じルーチンとなっているので、まったく面白みのない過ごし方だった。おまけに大半の時間は酒場に入り浸っているので、年頃の少女に語ってもよいものか疑わしい。

 

 それでも嘘偽りを口にするのは本意ではないし、何よりも相手がこちらに興味を抱いて知りたがっているのだ。

 だから俺は、やはり素直に伝えてみることにした。

 

「――いつも隣の街へ馬車で行くのですが、毎回かならず書店に立ち寄っていますね。同僚のメイドから頼まれたものを買うこともあれば、自分が気になったものを買うこともあります」

「へぇ……! カレンはどんな本を読むの?」

「推理小説が多いですね。……お嬢様にとっては、俗っぽく感じられるかもしれませんが」

 

 情事を描いた恋愛モノや、犯罪を描いた推理モノは、貴族の界隈からするとかなり低俗なジャンル扱いである。大衆向けの小説の文学的地位が確立されるのは、まだまだ先のことだろう。

 フィオナは意外そうな目の色を浮かべて、くすりと笑った。

 

「なんか意外かも……。カレンだったら、小難しそうな本を読んでいそうなイメージだったから」

「……哲学書も嫌いではありませんが」

「うーん、わたしはそれ苦手」

 

 フィオナは紅茶を啜りながら苦笑した。

 貴族の基礎教養に哲学も少し入っているのだが、さすがに年若い少女にはウケが悪いのだろう。ああいうのは、年を取ってからでないと理解できない部分が多いものである。

 

「本屋以外には、どんなところに行ったり……?」

「飲食店で昼食を済ませて……あとは、酒場で時間を過ごすことが多いですね」

「さ、酒場?」

 

 目を丸くしたフィオナの表情は、思ったとおりの反応だった。やはり十代前半の女性に酒場というのは、少々ミスマッチな組み合わせなのだろう。驚かれるのも無理はなかった。

 

「あまりお金がかからず、座って時間を過ごせる場所というと、酒場くらいなものですから」

「……お酒も飲むの?」

「ほんの少し、ですが。蜂蜜酒などを飲んだりしています」

「へえぇ……」

 

 彼女にとっては見知らぬ世界の話題だからだろうか。どこか物珍しそうに、そして楽しそうに笑みを浮かべている。

 

「わたし、お酒は本当に苦手だから……飲めるのってすごいなぁ」

 

 普段はともかく、祝い事などの席では若年者にもアルコールが振る舞われることがある。貴族のような上流階級だと、もっぱらワインが提供されるのだが――それなりにアルコール度数があるので、酒に慣れていないと嗜めないのだろう。

 

「けっこう前になるけど……。新年の祝い酒を飲んだ時なんかは、すぐフラフラになってベッドで休んでいたのよね。お酒を飲んだあとは絶対に頭が痛くなるし」

「体質によりますからね。……お湯で割ったりすると、飲みやすくなったりもしますが」

「そうなの? ……じゃあ、いつか試してみようかしら。寝酒として、ちょっとくらいなら大丈夫でしょうし」

 

 その時は付き合ってね? と笑うフィオナに、もちろんです、と恭しく即答する。主人に仕える侍女として、なかなか板についてきたやり取りだった。

 

 そんな話をしながら、紅茶の残りも少なくなってきた時――

 

「ねぇ、カレン」

 

 ふいにフィオナが、真面目な顔つきで口を開いた。その目線はわずかに下向いていて、ほの暗い気持ちがあるように感じられた。

 

「この先……数年後や十年後のわたしって、どうしているのかなぁ」

 

 漠然とした疑問だった。だが、少女にとってはリアリティを帯びた問いでもある。明確な目標があるわけでもなく、義務的に勉強をしたり作法を学んだりしている彼女にとっては、見通せない未来はひどく不安なのだろう。

 俺がどう声をかけるか迷っていると、フィオナはこちらに真摯な瞳を向けて尋ねてきた。

 

「カレンは――自分が何年後にどうしているかって、予想できたりする?」

「……いえ。人生は何が起こるかわかりませんから」

 

 俺がこの世界に生まれ、今こうして彼女の対面に座っていることなど、いったい誰が端倪(たんげい)できただろうか。すべては不確定で、不確実なのが人間の生というものだ。

 

「先のことなど断言できませんが――」

 

 ただ、ひとは行動を選択することができる。確固たる意志があれば、それに基づいた未来が実現する可能性は大きくなるだろう。

 少なくとも、現在の俺が抱いていて、そして今後も続いてほしいと願っていることは――

 

「ずっと、フィオナ様のおそばにいられたら……。私はそう思っています」

 

 彼女が嬉しそうに笑顔を浮かべ、楽しそうに言葉を紡ぎ、そして恥ずかしそうに頬を赤らめる――そんな姿を見つづけるのも悪くはない。

 この世界で生きる意味に、悩んだのはもう過去のことだ。

 ただ、今は。こうして彼女と時間を過ごすことが心地よかった。この穏やかな時間がいつまでも続いてほしいと、俺ははっきりと願っていた。

 

「…………」

 

 フィオナは自分の頬に手のひらを当てて、どこか呆然としていた。赤面した肌は、きっと熱くなっているのだろう。

 感情が豊かなしぐさは、彼女の魅力的な部分だった。俺自身があまり情緒を表に出さないタイプだからこそ、そんな人間味あふれる彼女に惹かれるのかもしれない。

 

「カレン……」

「はい」

「そ、それって……な、なんか……求婚の言葉みたい」

 

 そう言った直後、フィオナは恥ずかしいのか目線を斜め下に向けた。その反応は、本当に愛の告白を受けたかのようだ。良家の生娘にとっては、少し刺激的なセリフだったのかもしれない。

 俺はほほ笑ましい気持ちを抱きながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「フィオナ様は……誰かから愛された経験はございますか?」

「な、ななっ、なにかしら、突然……」

「まじめな質問ですよ」

「…………」

 

 ようやく落ち着きを取り戻しはじめたのか、フィオナは目線を俺のほうへ戻すと、記憶をたどるような口調で語りはじめた。

 

「うーん……そもそも、同年代の男の子と出会う機会が少ないから……。園遊会なんかで他家の子と話したりすることはあっても、そこから進展したりとかは……ないし」

 

 彼女が言及しているのは、異性のことについてだった。それも無理はないかもしれない。まだ“愛すること”の意味を、よくわかっていないのだろうから。

 だからこそ俺は、彼女にそれを少しでも知ってほしいのだ。

 

「――私はいま、愛されています」

「え……?」

 

 どこかショックを受けたような表情を浮かべるフィオナだが、勘違いされないように言葉を続けよう。

 

「同僚である相部屋のリタから、たまに顔を見合わせる父から、そして――」

 

 俺はフィオナの顔を、つとめて優しく見つめた。

 

「あなたからも愛されていると思っています、フィオナ様」

 

 いつもともに過ごす中で、彼女の好意的な感情はたしかに伝わっていた。ただ異性に胸を高鳴らせるだけではないのだ、愛情というものは。もっと穏やかな、日常的な愛が、人間の営みには存在する。それをフィオナには、感じ取ってほしかった。

 

「…………」

 

 息を詰まらせたように沈黙する彼女は、やがておずおずと言葉をこぼした。

 

「……カレンって」

「はい」

「なんだか……大人よね、すごく」

「そうでしょうか」

 

 もとより子供と大人の定義など曖昧なものだが、少なくとも彼女にとってはそう感じているのだろう。まあ言われて悪い気分ではない。

 フィオナはカップの紅茶を飲み干すと、どことなく自信がなさげに顔を俯かせた。そして何かを確かめるように、目線だけこちらに向ける。

 

「わたしも……愛されているのかな……?」

 

 その問いに対して、俺の答えは何一つ迷うことがなかった。

 彼女の両親や兄姉の内心については代弁できないかもしれないが、自分の心情だけは確実に明言することができる。

 だから、俺はためらいなく彼女に言葉を紡いだ。

 

 

 

「私はあなたを愛していますよ、フィオナ様」

 


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