奇跡なんてものは、偶然にすぎない。
たまたま助かった者達が、それを口にしているだけ。
死人に口なし。死者は、奇跡を語ることすらできない。
だから私は、奇跡なんかにすがりつきたくはないと思っていた。
そんなものにすがった所で、振り落とされるだけ。
でも、すがるものが無ければ、やはり掴もうとしてしまうものらしい。
私は、周囲を見回した。
狭い船内は、悲鳴と怒号が行きかうばかり。
隣にいた人が、異形へと変わった。
その向こうにいた人が飛行船の外に身を投げ出し、一足先に奈落の底へと旅立つ。
奇跡だと、誰かが言った。昨日の出来事だ。
二層の乱気流に襲われ、絶体絶命だったところを持ち直した。
確かに、奇跡的と言っていいだろう。
ありえないと、誰かが言った。つい数時間前の出来事だ。
たしかに、想定外の事態ではある。
だが、繋がっている事は確かなのだ。風に翻弄されてただ落ちていった私たちが、そこに辿り着く可能性は、ゼロでは無かったのだろう。
どうしてこんな事にと、誰かが嘆いた。つい数分前の出来事だ。
奇跡は、誰も望まぬ悲劇へと変わった。
それは確かに奇跡的で、ありえない事で、誰も望んでいない結末だった。
ぼろぼろになり、制御を失い流された結果とはいえ、この船は到達してしまったのだ。
深界六層。
帰還不能の、極限点。
無謀な挑戦の結末は、探窟隊の全滅という悲劇を生んだ。
落下を続けた飛行船は、六層の地熱が生み出す上昇気流に巻き込まれ、進路を上方へと転じる。
その結果が、この地獄だ。
別に上昇せずとも、全滅という結果は変わらなかったろう。が、なにもすぐに殺しにかかることなどないだろうに。
世界は理不尽に満ちている。いつだって自由を奪いに来るし、嘆く時間すら満足には与えてくれない。
「支え水が見える。五層だ! やった、戻れる。戻ってきたぞ。これで助かるんだっ」
操舵輪にしがみついていた船長が、口から手を生やしながら叫んだ。
直後、次々と生えてきた手に頭を引き裂かれ、赤い花へと変貌する。
深界六層の上昇負荷だ。
死。あるいは、人間性の喪失。
つまるところ、人としての死を迎えることに変わりは無い。
もうすぐ自分も、ああなってしまうのだろう。
──ああ、なんてこと。
苦しみぬいて必死に生きて来たというのに、この終わりはあんまりじゃないか?
国の言う事なんて、聞くべきではなかった。
私はただ、空を目指したかっただけだ。そのために組織に所属し、昇進し、力を得たにすぎない。
力そのものが、欲しかったわけではない。
だから、力ある物の責務だなどと踊らされるべきではなかった。
逃げてしまえばよかったのだ。この状況で、私の力などが何の役に立つ?
人の身で、暴れる飛行船をどうにかできるわけでもないし。
上昇負荷に至っては、人間であるからこそどうにもならない。
必死に祈ってはいるが、祈り方など知らない。祈る先の宛てもない。
ただ、思いつく限りの言葉を、たまたま手に持っていた日誌につづるだけ。何かせずにはいられない。ぐちゃぐちゃになった感情を、私の願いを、ただひたすらに書き殴る。自分でもなにを書いているのかわからない。ただ、神への祈りでないことは確かだ。小さいころから教会に通わされてはいたが、神に祈ったことなどなかった。
人は生まれながらに平等、などと抜かす国教の連中が嫌いだ。
人の生き方を縛ろうとする連中が嫌いだ。
猛威を振るう自然が嫌いだ。人より強い獣が嫌いだ。
自由に生きる力を持てない、自分が嫌いだ。
人は、生まれで将来を決められるし。
そこから逃げ出そうとしたら、生き延びるための力を得るため、無茶をするしかないのだ。
生き延びて、生き延びて、生き延びて。
空を目指して、でも届かなくて。諦めて。諦めても、生きるためには上の命令を聞くしか無くて。
なんだ、私の人生は?
これで終わりなのか?
こんな結末のために、私は血反吐を吐いてきたというのか?
「──もう少しで、生まれたのに」
自然と、言葉が漏れる。
子供。子供だ。
私の、唯一の心残り。
あと半年ほどで生まれたはずなのだ。
私にただ一つだけ許されたはずの、人としての生き方。
この世界は、それすら許してはくれないのか。
今までの自分であれば、ただ死を受け入れるだけだっただろう。
でも私は、この数か月で随分と変わってしまった。
ふとした拍子に、カレンダーを見るようになった。
将来の事を考えるのが、楽しくなった。
空を諦めた私に、新たな目標が生まれた。
その日を迎えるのが、不安になった。
生きるということの意味を思い出す事ができた。
私の人生が、再び始まったのだ。
お腹に手を当てる。
まだ、ふくらみがわかるようになった程度。
とうとう生まれてくることはなかった赤子。
祈った所で、何も変わらない。
けれども、祈らずにはいられない。
自分に与えられるものなら、なんでも与えよう。
代償が必要であれば、たとえどんなものでも捧げよう。
この肉体も、命も、魂も、全て。全てだ。
私は、
少々体を造り替え、補強できる程度の弱い効果しか持たない遺物。
だが、それは自身の安全を保障するのであれば、という但し書きが付く。
「もう、元に戻らなくたっていい」
私はここで終わりなのだから。
「化け物になったっていい」
人としての私は、もう死んでしまったのだから。
「私の全てを、捧げたっていい」
それより大切なものを守るためなのだから。
「奇跡にすがりついたっていい」
奇跡でも起きない限り、願いは叶わないのだから。
「だから、どうか」
どうかこの子に、祝福を──
暗闇。
何もない。
何も感じない。
何もわからない。
私は、泣こうとした。
でも、泣き方がわからない。
私は、暴れまわろうとした。
けれど、私には体が無い。
ずっと誰かに抱かれていた気がするのだけれど、今は感じない。
何をすればいいのかもわからないので、私はずっとその場に留まり続けた。
不快感のようなものを感じるが、これが何なのかはわからない。なにかをしないと、いずれ死んでしまうような気がするのだけれど。しかし、死というものもわからない。継ぎはぎだらけの、断片的な情報しかない。
と、懐かしい感触を感じて私はそちらに注意を向けた。
これは、ずっと私と一緒に居た何かだ。随分と弱々しくなっているので気づかなかった。
私を抱いてはくれなくなったが、まだ一緒に居てくれるらしい。
私は、その温もりに体を預ける。体がどこにあるかはわからないが、どうすればいいのかはわかった。
私は目を覚ますたび、ずっとこの行為を繰り返してきた気がする。
隣接した温もりから、私の方へと魂が流れてくる。
私を侵食しようとしているのではない。弱々しい私の魂を、支えてくれようとしているのだ。
体を襲っていた不快感の正体。その原因を理解した。
きっと、この暖かい人が教えてくれたのだろう。これは、空腹というらしい。何かを食べないと、満たされない。
しかし、困った。
食べるものなんて、どこにもないのだ。
耐えがたい空腹感。でもどうにもならず、私はたひたすらに、睡眠と覚醒を繰り返す。
十度ほど、覚醒を繰り返しただろうか。
たまに現れる暖かい何かは、随分と弱々しくなっていた。
私の魂を補強するたび、どんどん力を失っているのだと思う。
だから、私は「もうやめてくれ」と頼んだ。でも、断られた。今の自分にできるのはこれしかないのだと、そう言われた。
そうして更に、その何かは私に力をくれて。
すっかり力を失った彼女は、私に「自分を食べてくれ」と頼み込んだ。
私は断った。
私は泣いた。
だって、私には彼女しかいないのだ。
だから、その彼女がいなくなってしまうなんて、とても耐えられなかった。
嬉しいという感情も、悲しいと言う感情も。すべてを教えてくれたのは、彼女だ。
その彼女が、私を絶望に叩きこもうというのか。
しばらく、私はふてくされていた。
が、その間にも彼女はどんどん弱々しくなっていく。
このままでは消えてしまうから、その前に食べてくれと頼まれた。
消えるぐらいなら、あなたに取り込まれたっていいじゃないかと説得された。
そうして、幾度も説得されて。
ついに彼女が消えてしまうという、その瞬間。
私は彼女を、食べた。
どうにもならなかったというのは、言い訳だろうか。
もしかすると、私は彼女を独占したかったのかもしれない。
もう、わからない。何もわからない。
わからないが、彼女を食べてしまった以上、私は行動しなければならない。
このままでは、私も彼女と同様、消えてしまうだろう。私が消えていないのは、彼女が私を支えてくれたからにすぎない。彼女に生かしてもらった私が、このまま消えるなど、あってはならない。
だから私は、周囲に意識を向けた。
周りに何があるかはわからない。が、何かの力が満ちているのは感じる。
これをどうにかして、取り込めないだろうか?
初めは、どうにもならなかった。
もう駄目なのかと思った。
なんども自分の魂をこねくり回し、構造を変えて、周囲から力を取り込めるようにする。
努力は、無駄ではなかったようだ。
ずっと他者から魂をすすって生きてきた自分だ。周囲に漏れ出た魂を浚う方法は、誰よりも熟知している。
ゆっくりとだが、力場の周囲を漂う──力場? 何のことかはわからないが、自意識を失った弱い魂の一部を吸収することに成功した。
彼女のおかげだ。彼女は、自分という存在を造り変える力を持っていた。彼女を完全に吸収したことで、私もその力を使えるようになったのだ。だから、自分の魂を最適な形に作り変える事ができた。衰弱していくだけの生物から、捕食者としての私へと。
得た力を使い、力場との接続をより強固にしていく。
元々が微弱な繋がりだ。それはすぐ漏れてしまうが、そのたびに弱い箇所を補強していけば、やがて安定して力を受けられるようになった。
そうして私は、もう大丈夫だと安心した。
だが、私は気づかなかった。
他者の魂を吸収して生きるなんてのが、まっとうな生き方のはずがない。
意識の混濁。吸えば吸うほど、意識が不鮮明になる。混ざり合って、消えてしまいそうになる。
だが、吸わないわけにもいかない。それを止めれば、死んでしまう。
私は、どうすればいいか考えた。
方針としては、吸わずに済むようにするか、吸っても大丈夫なようにするかのニ択しかない。取り得る手段なんて、ほとんどなかった。前者に至っては、とっかかりすら無い。他に糧を得る方法があるのなら、とっくに実行している。
悩んだ結果、唯一できることは「強い自我を持つこと」ではないかと思えた。他者の意識に左右されてしまうような、弱い自分しか持たないのがいけないのだ。
強い自分。
はたして、どうすれば強くなれるのか。
正直言って、私はポンコツに弱いという自覚がある。
比較対照は、私が食べてしまった彼女しかいない。が、私が彼女より圧倒的に弱いのは間違いない。
彼女に比べれば、私など──?
と、私の脳裏に引っかかるものがあった。
指先にわずかに掛かる程度のもの。しかし、これは重要な閃きであると思えた。
私は、必死になって自分の考えをまとめていく。
──彼女の方が、強い?
私よりも、強い。
間違いなく強い。
で、あるならば。
私は、意識を切り替えた。
もとより、自分がどんな存在かなんて意識していなかったし、意識したところで大した存在でもないのは明白だ。
なら、強い存在に成り変わればいいのでは?
模擬。
模倣。
人格の擬態。
私が弱いのは仕方がない。
でも、私が強いと思える存在。
彼女ならば、自意識のない魂などいくら吸った所で、意識を汚染されたりしない。
そう、信じることができた。
だから。
私は、彼女になる。
そう意識した瞬間、世界の色が変わった。
ぼんやりとした薄暗いものから、白と黒の二色へと。
今までの自分が、急速に失われていく感覚。
今までの自分は、黒いイメージだった。それが、白に塗りつぶされていく。
消えてしまったわけではない。だが、今までの私は、上から塗りつぶした白が消えない限り、二度と出てこないのだろう。もう、記憶もおぼろげだ。覚えているのは、
でも、それでいい。
少しの間だけでいい。
どうか私に、あなたの強さを貸して欲しい。
体に熱が入る。
暴風のように吹き荒れていた力場だが、今となってはそよ風程度にしか感じない。翻弄される小枝のようだった私は、大地に根ざした巨木のごとく強靱な
これだ。
やはり、彼女は私よりも強かった。
上から
いつまで持つかは分からない。
いずれ磨耗し、劣化し、腐り落ちるのかもしれない。
だが、間違いなく私は強くなった。
いつか来る破滅に恐怖するより、今日を生き抜く事を考えるべきだ。
いずれ崩壊の日が来るとしても、それまでは生きていられるのだから。
こうして私は、この世に生を受けた。