■だれかの夢
「やはり奈落は、非常に興味深い」
黒い外套に黒い仮面という、イカレた恰好をした野郎が呟く。
自分は護衛という名目で同行させられたが、こいつに護衛の必要があるかは疑問だ。この男は、底が知れない。
科学者、ボンドルド。
アビスを訪れてたった二ヶ月で月笛を取得し、早くも三層に足を掛けようとしている男。
色々と黒い噂の絶えない奴だ。頻繁に危険な連中と衝突しているはずだが、まるでそんな事なかったかのように、こいつの周囲はひっそりとしている。それが何より恐ろしい。消えた連中がどうなったかなど、考えたくも無い。
「研究熱心なのはいいが、仕事のほうもちゃんとやってくれよ? 頼まれているのは、生態系の調査だろう」
「奈落の環境について知ることは、生態系の調査にも繋がると、私は考えておりますが」
「そうなのか? ずいぶんと遠回りしている気がするんだが、説明してくれるか?」
自分の言葉に、ボンドルドは少し考え込んだ。どう説明するか、迷っているのか。
説明してくれと言い出したのは自分だが、本当に話を聞きたかったというわけではない。ただ、何か喋らずにはいられないのだ。
こいつに黙って隣に立たれると、冷や汗が出てくる。ベラベラとどうでもいい事について語ってくれた方が、気が楽だった。
「そうですね……奈落の生物は、奈落以外では生きられない。つまり、奈落にしかない
「奈落にしかない何か、ねぇ」
ふむ、と一声漏らし、ボンドルドは前方を指さした。
自分も、そちらの方に目を向ける。
「あれを見てください。滝が、上に向かって流れています」
「……たしかに、地上じゃ見られない風景かもしれないが。慣れちまえば、面白味もない。逆立ちして普通の滝を見るのと、何が違う?」
深界二層の逆さ森。
ここで逆さまになっているのは、何も森だけではない。
滝も、空に向かって流れている。
「滝が上に向かって流れる……そうなる原因が、必ずあるはずです。地上には無い、奈落特有の現象が」
「単に、上昇気流のせいじゃねぇのか?」
「上昇気流も滝と同じで、結果でしかありません。私が思うに」
徐々に、その声色に熱が籠ってくる。
わかりにくいが、興奮しているのか。先ほどまでより、やや早口だ。
「力場の周囲は、重力に乱れがあるのではないでしょうか? その結果として気圧差が発生し、周囲の空気が流れ込むことで、強い上昇気流を引き起こしている……これは簡単に実証できますね。風の影響を除外すればいいだけですから。密閉した容器の中で、物が落下する時間を測ればいい」
「重力が乱れているなんてのは、突拍子もない話だと思うが」
「そうでもありません。むしろ、諸々の事象を考えると、最初に実験しなければならない事柄です」
ボンドルドの指が、横にスライドする。
逆さまの滝から、アビスの中央へ。直視できないほどの、まばゆい光。
奴が指を向けた先にあるのは、奈落の象徴。アビスの力場だ。
地上から差し込む光を、奈落へと導いている。
「見ての通り、力場は光を歪めています。水蒸気等で光が屈折することもありますが、この現象はその範疇を逸脱している」
指を下ろす。
いや、今度は下を指さしているのか。
「次に、時間です。深層の時の流れは、緩やかに過ぎ去ります。原理は解明できずとも、過去の白笛達の証言から、これはおそらく事実なのでしょう……最近では、正確で長時間稼働する時計も作られ始めました。深層を往復しなければならないため時間は掛かりますが、こちらも客観的事実確認は可能です」
その話は、自分も聞いたことがある。
深界五層。その最深部で数週間滞在したはずが、地上に戻ってくると、数か月の時が流れていたというのだ。
極限状態に陥り、時間の感覚が狂っただけだろうと皆は言っていたが。
「さて、光と時間を歪める……この現象が発生している例ですが、奈落以外にも一つあります」
話が大詰めに入ったのか、声のトーンがやや落ちる。
そして奴は、両手を広げてこちらに語り掛けてきた。
「ブラックホールです。強い重力は、光や時間にも影響を及ぼします。現段階では推測の域を出ませんが、大質量による重力が空間を歪ませた結果、光や時間にも影響が出たと考えられています。つまり、光と時間、重力。これらは空間を経由することで、相互干渉しうる関係性を持っており……ふむ。つまり空間も歪んでいる可能性が? アビスの深度は二万メートル以上ということですが……穴そのものは、案外そこまで深くは無いのかもしれません」
自分には、正直理解の及ばない話だ。どうでもいい。
が、ボンドルドの興味が自分以外に向いたのは確実のようなので、その点で言えば実りのある会話だった。
「おっと、申し訳ありません。話が逸れました。奈落にしかない何か……様々な不思議を作り出すもの。現段階では、何もわかっていないに等しい。わからないからこそ、我々の目には不思議として映るという話です。謎の解明さえできれば、奈落の生態系についての説明もつくでしょう」
「言いたいことは分かった。やりすぎな気はするがな。何でもかんでも手を伸ばしていたら、体がいくつあっても足りん」
自分の言葉を聞いた奴は、再び考え込み始めた。
相変わらず、頭の中が忙しい野郎だ。
「面白いことを言いますね……体がいくつあっても、ですか。なるほど、素晴らしい発想です」
話は終わったのか。
ボンドルドは、歩き始めた。
自分もその後ろをついていく。
ひとまずは、こいつについていくことが自分の仕事だ。
護衛? 知らん。護衛しろと上から言われたが、今になって思うと、監視しておけという意味だったのではないか。
その後の三日間。
自分は、ボンドルドの後をついて回った。
それで分かった事は、やはりこいつに護衛なんて必要ないという事。
あと、こいつの頭のネジは、何本もぶっ飛んでいやがるという事ぐらいだった。
「まだまだ、謎はいくらでもあります。その謎を解明する道は、まだ整備されてはいませんが、たしかに存在している」
まだ何事かブツブツと呟いているのは、独り言か。
そのほとんどは聞き取れないし、聞き取れた所で意味は分からない。
「次なる二千年への手掛かりを残してくれた、偉大なる先人たちに。感謝の言葉を贈りたい」
◇◇◇
相変わらず、よくわからない夢を見る。
あまり面白い話でもないし、さっさと起きよう。
意識を浮上させる。
視界がぼやける。夢の中の男性、そこから私の意識が分離し、夢の世界から現実の世界へと。私の意識が──
と。
仮面の男と、目が合った。
思わず、ビクリと体を震わせる。
仮面の先には、私の意識。夢の中から、私を見ている。
「おやおや。
男が、こちらに歩いてくる。
私は体を強張らせて、ただそれを見つめることしかできなかった。
「大変興味深い。今日という出会いの日に感謝を……少し、お話をしませんか?」
「いえ、結構です」
私は男の言葉を無視して、目を覚まそうとする。
ゾワリとした感触。これが、鳥肌が立つという奴か。初めての経験だ。
駄目だ、理由は説明できないが怖い。なんだあいつは。さっさと立ち去る事にしよう。
大丈夫。あと数秒もすれば、目が覚め──
「いけません」
後ろから、肩をつかまれた。
触れられた場所が、まるで氷漬けになったかのように動かなくなる。
いつのまに後ろに回ったのか、まったくわからなかった。
「強引な意識の覚醒は、頭痛を引き起こします。健康に悪いですよ」
ああ、こいつはヤバい奴だ。
体が動かない。
心臓の鼓動が激しい。
汗が噴き出る。にもかかわらず、体が冷え切っている。震えが止まらないのは、血の流れが悪いからか。
仮面の男が私の正面に回る。そして、私の顔をじっと見つめている。私は動けない。
先程と同様、まったく動きがつかめなかった。気が付いたら、そこにいるのだ。
仮面の男が、私の頭に手を伸ばしてきた。
なぜだか、触れられてはいけない気がした。
私は必死に後ろへと下がる。が、遅い。まるで水の中にいるように、緩慢な動き。
相手の手が伸びる方が早い。
「なるほど、あなたの事がわかってきました。自己と他者の境界が曖昧なのですね。他者の過去を読み取り、自身へ取り込む……私は他者を支配することはできますが、いまだ過去を暴くには至っていません。自己の保存に問題があるのです。他者の記憶、それを保持し続けた場合の侵食が止められない。あなたは、どのようにして自我を確立しているのでしょう? 興味が尽きません」
頭がぼーっとする。何を言われているのか、まったく入ってこない。
私は、ただ男の手を眺め続けた。
ゆっくりと迫ってくる。
そして、私の頭の中に、仮面の男の手が──
「おや、邪魔が入りましたね。今回はここまでですか。残念です」
男の腕は、私の頭をすり抜けていた。
触れられている感触は無い。夢から覚めるのだろう。
「ぜひとも、また会いたいですね……そちらから来て頂くばかりでは失礼ですし」
先ほどまで恐怖を覚えていたのが、急に苛立ちに変わる。
なんだこいつ。私に恐怖を感じさせるとは、神をも恐れぬ不遜な行為ではないか?
万死に値する。
私は、男に対して罵詈雑言を浴びせた。心の中で。
やがて、男の姿が掻き消える。
夢の世界との繋がりは断たれた。もう安心だ。
あとは、瞼を開けるだけ……
「次は、私の方から会いに行きますので」
目が覚めた瞬間。
耳元で、そんな声が聞こえた。
◇◇◇
「おや、起きたかい?」
「……オーゼン。私に何かした?」
「なに。寝坊が酷いから、デコピンを喰らわせてやっただけさ。感謝してもらってもいい」
「ああ、感謝する。本当に」
「……?」
オーゼンに変な顔をされてしまった。
や、オーゼンの顔が変なのはいつものことか。
体を起こす。
体に風が当たると、ひどく冷たい感触がした。汗がびっしょりだ。
私は深呼吸をして、心を落ち着けさせた。
あれが、悪夢というやつだろうか?
初めて見たが、意外と怖いものだな。
やはり、寝ている時は脳が正常に働いていないのだろう。
冷静になれば、なにも怖い事なんて無かったはずだ。
だって。あんなヤベー奴、実在するはずないだろう?
しかし、本当に怖かった。
いまだに鳥肌が立っている。
あいつに触れられた箇所が、まるで呪われてしまったかのように重い。
「呪い……呪いか」
そういえば、聞いたことがある。
どこで聞いたかはまったく思い出せないが、とある部族が災いを避けるために作った呪い返し。
そいつを試してみようか?
気休めにもならないかもしれないが、やらないよりはマシだ。
ほら、何事も試してみないと。もしかしたら、効果があるかもしれないし。
何もしないと、不安でたまらないし。
よし、レッツチャレンジ。
私は物陰に隠れ、不思議な踊りを踊った。
両手をかぎ爪のような形で構え、上下左右に振り回しながらグルグルと回る。
ぐーるぐーる、ぐーるぐーる。
なるほど、これはいいかもしれない。
踊っているだけで、不安感が無くなっていくような気がする。
呪いも、こんな踊りを踊っている奴に付き纏いたくはないだろう。
効果はばつぐんだ!
「……」
「あっ」
ふと視線を感じてそちらに目をやると、オーゼンがじっとこちらを見つめていた。
見られていたらしい。
なんたること。
「これはこれは、お恥ずかしい所を見せてしまったな。これには深い事情が……おい待てオーゼン、なぜ目を逸らす? 人と話す時は、相手の目を見ろと教わらなかったかオーゼン。こっちを見ろオーゼン。おい、オーゼン。こっちを見ろって。見ろ」
「何も話す事はないよ」
ドン引きされてしまった。
解せぬ。