エミリー・ディキンソン(1830-1886)
それまで、自分の年齢を意識したことなどなかった。
考えたところで、年齢欄に記入する数字が増えるわけでも、減る訳でもない。
まして、社会人として日々の生活に追われる中、他に考えるべき問題は山のようにあるのだから。
であるというのに、ふとした瞬間、三十数余年という自分自身の費やしてきた時間を振り返り、とりとめもなく思考を巡らせている「私」がいることに気が付いたのは、つい最近のことである。
自分の年齢を考えるとは、自分の人生を振り返るということ。
そして恥の多い、むしろ恥しかない「私」の過去に、頭を抱えて愕然とする。
人生は決断の連続であるというが、「私」の場合、その分類には当てはまらないだろう。
徒な当惑と浚巡により、いくつもの決断を先送りにし、惰性に流れて生きてきたからだ。
私の両親に言わせれば、「年齢だけ重ねても、餓鬼は餓鬼」ということになる。
何か気の利いた反論のひとつもしたいところではあるが、ぐうの音も出ない事実なのだから、なおさらどうしようもない。
小学生の頃は中学生が大人に思えたものであり、中学に進むと高校生は外国人のように感じたものだ。
九年間の義務教育過程を終えて高等学校に入学する頃になると、自分自身の成長の乏しさから、ようやく大学生というのは阿呆の集団ではないかという認識に思い至る。
その阿呆な四年間の中に、高校生活では得られない何かがあるのではないかという淡い期待も、大学とは名ばかりのモラトリアム集団に入るや否や、雲散霧消してしまった。
青い鳥を探すことが幻想であったという現実を突きつけられながら、それでもなお、親の脛を噛り倒した四年間を、時間と自由の無駄使いに費やす始末。
つける薬がないとは、この事である。
自らの救いがたい間抜けさに失望しつつも、自分を欺けるだけの小賢しさだけは人並みに身につけていた私は、ろくな目的意識もないまま、何となく就職活動らしきものをした。
その結果、大学四年間で学んだ学問とは、一切関係のない会社の世話になることになった。
このような意識の低い男を雇うとは、なんと見る目がない会社なのか。行く末が不安であると、現実逃避染みた空想に耽ってはみたものの、齧り倒して今にも折れそうになった脛の持ち主である老いたる両親の喜んだ顔を見ると、内定辞退という言葉は、とてもではないが言い出せなかった。
かくして自覚も覚悟もないまま、私は社会の荒波に放り出された。
以来、毎年4月になるたびに情報媒体から、なんとかの一つ覚えのように繰り返される『希望にあふれた新生活』という言葉に、己が胸中においてあらん限りの罵詈雑言を浴びせながら、だらだらと年齢を重ねる日々を過ごしてきたというわけだ。
そんな恥だらけの人生の出発点である私の大学時代だが、同時に私にとっては親元を離れ、記念すべき一人暮らしを開始した時でもある。
金銭的自立こそ、まだ遥か先であったが、何であれ初めての体験というものは、忘れがたいものである。
私が腐れ大学生として一人暮らしを始め、短い中断を挟んで社会人となった今も住民票を登録している街の名前は
はっきりと思い出せない。
いつになったら完結するのかわからない某ライトノベルの主人公の本名ではあるまいし、何を言っているのかとお叱りの声を受けそうだが、これは私の記憶力に問題があるのではないことを、あらかじめ申し上げておきたい。
『木組みの家と石畳の街』という、有名な宣伝文句をお聞きになったことがあるだろうか?
どこぞのコピーライターが考えたとされる、この街のあまりにも有名な観光客向けのキャッチコピーが、この問題の根源である。つまり、あまりにしつこく何度も繰り返されるため、この街では社会的には無論、日常生活でもキャッチコピーが正式名称として通用してしまうという奇妙な逆転現象が発生しているのだ。
そんな馬鹿なことがあるかと思われるだろうが、これが事実なのだからしょうがない。
私が実際に居住して、実際に体験しているのだから間違いない。
公共機関や郵便局で住所を書く際には支障がないのに、口に出すと何故か(私も含めて)、このあまりにも有名なキャッチコピーで呼んでしまうほどに、周知が徹底されている。
どう考えても正式名称の方が短く呼びやすいはずなのに、公共媒体のCMから市中の名も無き民草まで、口を揃えてこの長ったらしいコピーで呼ぶというのだから、これは尋常ではない。
暇を持て余していた学生時代、私はひょっとすると、この街中にわんさかとあふれている性欲旺盛な野生動物の長い2本の耳から怪電波が出ており、街中の住民を洗脳しているのではないかという持論について、酒の席で熱く語ったことがある。
すると数少ない友人から知人へと扱いを下げられ、学内では腫れ物扱いされる-太平洋に沈んだという伝説の大陸の名前を冠した雑誌を片手にしたオカルト研究会から熱心な誘いを受ける結果となった。
解せない。
おのれ耳長め、貴様ら畜生の陰謀に屈してなるものかと、私は「木組みの家と石畳の街を正式名称で呼ぶ会」なる同好会を立ち上げようとしたが、少なくなった知人と翌年の授業計画の計算をしていたところ、必要な単位計算の間違いを指摘されたことで、その計画は御破算となった。
おかげで3年次にはあらゆるバイトを辞めて、まるで真面目な苦学生のようにあちらこちらの授業に出席しまくる羽目になった。
おそらくこれも耳長の壮大な陰謀の一部なのだろう。いつか皮を剥いで捌いてから鍋の具にしてやると、私は授業に耳を傾けながら、ノートに耳長への復讐計画を書き連ねているうちに、同好会計画と共に街の正式名称問題もすっかり忘れてしまったというわけだ。
前置きが長くなったことを謝罪する。
だが、これは、私の生まれついての性格が素直で謙虚なものだからではなく、頭を下げるのはタダだという俗物根性からくる謝罪である。
どうか琵琶湖のような透明度と器の持ち主ならば、ご寛恕いただきたい。
大体にして一人語りは独りよがりになるものである。
人生は自分の主観でしか、自分の経験や考えを語れないものだ。
故に今から語る私の七転八倒にして抱腹絶倒、波乱万丈の阿鼻叫喚な冒険活劇も、あくまで私の主観によるものであることを、あらかじめ断っておきたい。
先の四字熟語は咄嗟に思いついたものを並べただけであるので、特に意味はない。
所詮、その程度の内容であると御笑納頂ければ幸いである。
なお、この話は私の四十年に満たない恥の多い人生の一部になるが、私にとっては過去であり未来であり……そして現在の話になるのだろう。
*
私が喫茶店『ラビット・ハウス』を最初に訪問したのは、この『木組みの家と石畳の街』にある私立大学に通うために引っ越してきた3月中旬であったと記憶しているが、まずは訪問に至るまでの経緯について、時系列も含めて簡単に説明しておこう。
今ではすっかり根性のねじ曲がった卑屈な笑みが似合うと、ご近所で評判の薄汚い大人と成り果てた私だが、私にも新生活への希望にあふれた時代はあった。地元の高等学校の卒業式直後、懐かしき我が生家と両親に別れを告げ、「木組みの家と石畳の街」という新天地への引越し作業も一段落した。引っ越し業者の段ボールと家財道具を片付けて、その日に自分が寝るスペースを部屋のなかに確保した私は、俄かにこの街を散策してやろうという気分になった。
今から振り返れば根っからのインドア気質で、
恐るべきは「木組みの家と石畳の街」である。聞くところによれば「空気の缶詰」なる商品があるそうだが、あの街の空気を圧縮して大々的に売り出せば、おそらく世界はもっと平和になるに違いない。
閑話休題
「服に金を使うぐらいなら、食事をたらふく食いたい」がモットーの私は、某服飾量販店が東南亜細亜や印度亜大陸の安い労働力をふんだんに使った成果たる大量生産の既製品を愛用していた。
お前のモットーなど、どうでもよいという声が聞こえてきそうだが、これがひょっとすると話の伏線になるかもしれないのでご容赦願いたい。ひょっとすると伏せられたまま永遠の眠りについたままになるかもしれないが、それはご愛嬌というものである。
ともかく私は自らの財布と携帯をジーンズの左右のポケットにそれぞれつっこみ、白いポロシャツにベージュ色のジャケットを羽織るという、いかにも青春を謳歌しているがごとき大学生の格好をしてから、外に通じる平屋のアパートの戸を開いた。
早春というにはまだ寒い日が続く、昼下がりであった。
自分の体に吹きつける花の香りに満ちた冷たい風に体を震わせつつ、特に目的のない散策を始めるために、私は目の前の石畳に、記念すべき新生活の第一歩を踏み出した。これという感慨を抱くことはなかったが、ただ鼻腔をくすぐる花粉の香りだけが、妙に印象に残っている。
車両専用道路と河原や公園を除けば、整然とした石畳しか歩く場所が見当たらないという、何がお前をそこまで駆り立てるのかという執念じみた街の統一感に感心しつつ、靴の裏から感じる愉快なデコボコを堪能していた私は、いくつか路地を抜けることで川の流れる大通りに出た。
そして己の五感で得た情報を疑うことになる。
果たしてここは、本当に日本なのだろうか?
引越し作業中は忙しさにかまけて、半ば無意識に思考から排除していた風景を眺めてみると、さながら時計を持った人語を話す耳長を追いかけて穴に転がり落ちた少女のような感覚に陥ったからだ(私は少女とは異なり一人っ子だったが)。
川にかかる橋は、どれもこれも童謡にでも出てきそうなメルヘンチックな石組みと木造り。その川沿いの通りに面する建物は規則正しく三角形の屋根がどこまでも続いており、どこもかしこもイソップ物語かファンタジーゲームにでも出てきそうな西欧風の建築様式に、これも見事に統一されている。沿道には延々と花壇が続いており、挙句に街燈は一昔前のガス燈タイプ。電柱の類は一切見当たらない。
カメラや携帯を手に、興奮しながら写真を阿呆のように撮りまくっているのが観光客、その様子を微笑ましく見ているのが地元民であろうか。そこに関西の古都が見せる陰険さ(あくまで私の独断と偏見である)が感じられないのは、この街の歴史がさほど古くはないからか。
私はそのようなことを考えながら、観光客の間を「ごめんなすって」という代わりに目礼をしてすり抜けると、目の前の木組みと石組みの橋を渡ると、通りの反対側にあった市場に足を踏み入れた。
幸いにして我が家の冷蔵庫は実家からふんだくった食材と、母親の手料理が詰め込まれたプラスチック製の弁当箱で満ち溢れている。市場を本格的に覗くのは貯蔵が尽きてからでも問題あるまいと考えた私は、ぶらぶらと見るとはなしに市場を通り抜けると、理由もなく選んだ小さな路地を通り抜けた。
街中の階段をいくつも上下運動を繰り返して、観光客の横を通り、また別の大通りに出る。それを何度となく繰り返した。そして驚くべきことに、これまたどこをどう通り抜けても、全く同じ風景と光景が延々と続いていたのである。
これには、ひねくれ者の私ですら素直に感心してしまった。全国各地にある西欧を模した「○○村」は無論、千葉の名前を言ってはいけない遊園地ですら、ここまで徹底してはいないだろう。『木組みの家と石畳の街』であると、観光ガイドブックやHPで宣伝するだけのことはある。
何といっても驚くべきなのは、そこに人為的な歪さが感じられない点だ。
人が住まう限り、どうしても生活感というのはどこかに垣間見えるものであり、観光客を一方的に幻滅させる。
しかしこの街は、いっそ妄執のような徹底した統一性にも拘らず、観光地によくある「背伸び」が感じられない。生活観がありながら、非日常性が保たれている。西欧風の居住空間の中でのスタイルが、さながら何世代もそうしてきたかのように、地元住民に自然と身についているのだ。お上の音頭取りだけでは、こうはいくまい。それは一年中咲き誇るという四季折々の花以上に、非現実的な光景といえた。
さて「テーマパークの中での日常生活」という、非現実的なまでの統一性を、この街にもたらしているもの。その大きな要因として、街中を我が物顔で闊歩する生物の存在について、取り上げないわけには行かないだろう。
私は幾度となく通り過ぎたのと同じ路地の、ほぼ中央真ん中辺りにある階段の踊り場で、立ちすくむ白い耳長と-当時はまだウサギと呼んでいた-視線を交差させていた。
自慢ではないが、私は大の動物好きである。幼少期に私の周囲にいた男子は、はるか太古に滅亡したでかい爬虫類や、SFの巨大ロボット。あるいはバイクに乗った改造人間に夢中になっていたものだが、私はそのような重厚長大、あるいは軽佻浮薄で通俗的な風潮に背を向け、写真入りの動物図鑑に夢中になったものだ。
しかし悲しいかな。男女関係と同じく、こちらが好意を寄せているからといって、相手が私のラブコールに応えてくれるとは限らない。
動物もそれは同じであり、ふれあい動物広場では私を中心に真空地帯が出来るし、牧場に行けば牡のヤギに追い掛け回され、野良猫に手を伸ばせば血だらけになるといった具合。中学の修学旅行で奈良公園の中を鹿の大群に襲われた時は、流石の私も死を覚悟した。
聡明で諦めの早い私は、義務教育を終える前には、動物関連の職業に就くことをキッパリと断念していた。
そして私がこの街の大学を進学先として選んだのは、この人懐っこいと評判のウサギなら私でも触れ合うことが可能ではないかという邪念によるものであったことも否定出来ない。
この街がいつの頃からか増加した野良ウサギを、奈良公園の鹿のように街の観光資源として保護していることは有名な話である。国内だけでなく海外メディアでも広く取り上げられ、様々な国から来る外国人観光客がこの街の財政を潤すとともに、日本人が作り出した西欧風の街並みに奇妙な調和と統一感をもたらしている……とまあ、このような論評を新聞で読んだことがあるが、私はこの足で実際に歩いてみて、それが事実であると実感した。
さて、そうしている間にもウサギとの睨み合いは1分程度も続いていたであろうか。
こちらは生まれてこのかた、まともに動物と触れ合った経験がない、いわばウサギ童貞である。
チャンスは一度、失敗は許されない。
私の横を、怪訝そうな顔をした観光客が何度か通り過ぎていったが、私はそれどころではなかった。
全身の汗腺から汗が噴き出したかのように感じられ、心臓の鼓動は破鐘を鳴らしたように五月蝿い。
それでも止まることは許されない。
幼少期からの悲願達成に向けて、私はジリジリと距離を詰めた。
階段を一つずつ上り、警戒させないように、ゆっくりと。しかし着実に。
あと30センチ、20センチ……よし、もうすこし。
私は満面の笑みを浮かべて右手を、その毛玉にむかって伸ばした。
バシッ!
あと僅かなところで、まさしく「脱兎」のごとくウサギ-いや、耳長は逃げ出した。
ご丁寧に、私の右手を後ろ足で蹴りつけるという、ありがたくないサービス付きである。あまりの衝撃に身動きが取れずにいる私に、春一番にしては寒々しい風が容赦なく吹きつけた。呆然と立ちすくむ私の横を、肩を震わせた欧米からの観光客らしき親子が足早に通り過ぎる。
ちくせう
*
引越し作業中に業者の運転手に聞いた話だが、この街はかつて職種によって建物の壁の色が定められていたそうである。
資本主義に背を向けるかのような統制主義ではないか、公正取引委員会は何をしていた。これこそ55年体制の政官民馴れ合いによる弊害と事なかれ主義のもたらした停滞ではないかと八つ当たり気味に憤慨しながら、私は子供がお道具箱をひっくり返したかのようなカラフルな街の物見遊山を続けていた。
あれから何度か私はウサギ……いや、耳長でいい。あの憎たらしい耳長と哺乳類同士のコミュニケーションを試みたが、5度目でついに私の心の中の大事な何かが、根元からポッキリと折れる音が聞こえた。潔の良さでは右に出るものがない私は、さっぱりと、断固として、不退転の決意で、泣く泣く、後ろ髪を引かれながら偉大なる挑戦を諦めた。
特に4回目の失敗の時、背後から「あのお兄さん、ウサギさんに嫌われてるんだね!」という幼い少女の情け容赦のない指摘は、私の臓腑に情け容赦なく突き刺さった。
桜色の髪を持った少女よ、貴様の事は二度と忘れんぞ。
こう見えて繊細なガラスのハートの持ち主である私は、挫折感に打ちひしがられながら、重くなった足を引きずるように歩き続けた。そして
もうやだ。一歩も歩きたくない。
そう考えた瞬間、足が立ち止まってしまった。子供のようだが、こうなってはもうどうにもならない。私は心の中の駄々っ子を宥めすかし、どこかに休憩する場所がないかと周囲を見渡そうとして、目の前の看板に視線が留まった。
「……ラビット、ハウス?」
外にぶら下がった鉄製かブロンズ製とおぼしき看板には、立ち上がった横向きの耳長がコーヒーカップに前足をかけたついた様子がデザインされており、その下に『Rabbit House』の文字が掘られている。
店の様子を伺おうと、これまたなんとも趣きのある木彫の格子枠のガラス窓から中を伺えば、いかにもアンテイークなテーブルと椅子が整然と並んでいた。看板の通り、喫茶店で間違いなさそうだ。
実のところ私は喫茶店に偏見じみた持論があるのだが、私の両足は今にもストライキ寸前である以上、そのような持論は都合よく忘れてしまった。何より喫茶店ならトーストなどの軽食類のたぐいはあるであろう。最悪、飲み物だけでも注文して体力の回復を待ちたい。
日本茶党である私はコーヒーも紅茶もそれほど好きではなかったのだが、今の私のHP残量を見る限りでは、家にたどり着く前に「残念、ここで冒険は終わってしまった」となりかねない。
あの忌々しい耳長の名前が店名に入っているのは気に入らないが、そこは我慢しよう。
とまあこのように考えた私は、砂漠にオアシス、中ボスの前のセーブ・ポイントを見つけたような高揚した気分のまま『open』の文字が彫られた掛け看板のかけられたドアを押して、店内へと入った。
「あ、お爺ちゃん!どこにいたんで……」
えらく可愛い女の子がそこにいた。
私のモットーは「かわいいは正義」である。ただ残念だったのは、その女の子が文字通りの女の子であり、どう贔屓目に見てもバイトをするには年齢が足りない少女であったという点であろうか。
「お爺ちゃん」でないことには、直ぐに気がついたのだろう。待ち人来ると喜び勇んで振り返った少女の表情が瞬時に曇るのは、私に責任がないにしても非常に気まずい。
私は取り繕うように咳払いをしてから、その少女に尋ねた。
「……えーっと、ここは…喫茶店、だよね?」
洞穴かと思ったら虎の住処に脚を踏み入れた冒険者は、おそらくこんな気分になるのだろう。この場合、どちらが虎でどちらが冒険者か、わかったものではないが。ともあれ私は出来る限り動揺する少女を刺激しないように、出来うる限りの精一杯の優しい声色で声をかけた。
私の姿に目を丸くしていた少女は、瞬間、熟れたトマトのような色に顔を染めると、壊れたブリキの人形のように閉じていた口を震わせた。
「……い」
い?
「い、らっしゃーしぇー!!」
ちくせう、なんて日だ。
・一応はごちうさ小説です。
・気長にお付き合いいただけると幸いです。