桜並木が自慢の公園を冬場に訪れる人はいないし、シーズンが終わった春にスキー場を訪問しても、ロッジの多くは閉鎖されている。紅葉が名物の山に一足早く炎天下の中を登る人間はよほどの登山好きに限られるし、秋に海水浴場に行ってもクラゲに刺されるだけ。
つまり、観光やレジャーには、食材と同じく旬が存在する。
とはいえ繁忙期が極端に偏りすぎていては、観光地の経営は苦しい。夏場のスキー場や冬場の避暑地といえども管理要員の人件費や税金をはじめとした諸費用は支払わなければならない。四半期にも満たない短期間の繁忙期頼みの経営は、博打のようなものだ。
「木組みの家と石畳の街」では、オールシーズンを通じた観光客誘致のため、行政と地元商工会、そして融資団体が連携する形で、年間を通じて様々なイベント活動を開催し続けている。
春には桜祭や入学関連イベント、夏には花火大会や夏祭り、秋から冬にかけてはハロウィンやクリスマス、年越イベントにバレンタインといった季節ごとの定番大型イベントに加え、宝探しゲームのシストや古物市のような地元密着のイベントが定期的に開催されている。このほかにも、建築史家の猛反対を押し切る形で明治期の建物を改修した年中無休の大型温水プール、あるいは時期をずらして行われる地元学校の運動会や文化祭など、とにかく考えられるありとあらゆるイベントを総動員している感がある。
とはいえ、どれだけ努力をしたところでも、どうしても観光に向かないシーズンというものは存在する。寒さが一番厳しい厳冬期の2月と、年間を通して最も熱さが厳しくなる御盆前後の8月である。古くから
私としては断じて受け入れがたい事実であるが、この街を訪れる観光客は野良の耳長を目当てとしている。2月の厳寒期は、あの忌々しい耳長を変温動物でありながら石の裏に張り付いて越冬するカメムシのようにさせるし、恋に焦がれてなく蝉の声が最も煩くなる8月中旬は、日陰や涼を求めて一目散。保温性に優れた毛皮も、耳長にとっては命取りとなりかねない。
そのまま全ての耳長の干物になってしまえばいいと思いつつ、私は「野球はクーラーの効いた部屋で観戦するに限る」という持論に忠実に従い行動していた。
つまりは、高校野球観戦である。
*
全国的に晴れなくても良いのにピーカンの好天が続いた結果、全国高等学校硬式野球選手権の本選は、一度の雨天順延もなく、お盆前にはベスト16が出揃った。見慣れた代表校が多数を占める中、期待のエースを有する新生の私立高校や、復活した名門古豪がちらほら混じるという、ファンの期待を嫌が上にも高める顔触れであった。
お盆の真っただ中も営業を続ける「ラビット・ハウス」のカウンター席において、私はベスト8を決める午後からの第3試合を観戦していた。片方は出身県の代表ということもあり、私はそれなりに関心を持って、店内に設置されたTV画面から流れる試合の行方に注目していた。
「それにしても暑いですね」
「そうだな」
「今年の風邪は悪質」と並んで「今年の夏の暑さは異常」というフレーズは、毎年のようにニュースから聞かされている気がする。とはいえ、この暑さはさすがに堪えたのか、痩せ我慢が得意なマスターも、冷房をガンガンときかせていた。
観光客が減少する時期にお盆休みが重なることから、福利厚生に対する理解を有するタカヒロさんは、夏期休暇を提案した。息子さんからの提案に対して妙な意地を張り、「例え一人でもコーヒーを求めるお客様がいる限り、ワシは営業する!」として、父親であるマスターが突っぱねたのが、8月の始めのことだ。私はマスターの決定に反対こそしなかったものの、積極的に賛成したわけでもない。
そして案の定、「ラビット・ハウス」には閑古鳥が鳴いている。マスターの主張を裏付けるように2、3人の常連の御客様が来店されたものの、むしろ「こんな時期に営業しているのは、ここか甘兎庵ぐらいだよ」と同情される始末だ。これでは店を締めていたほうが安くついたに違いない。現に、香風老人の機嫌は、外の気温とは裏腹に、絶対零度を割り込みつつある。
老人の機嫌がよくないのは、夏季休暇中である智乃ちゃんが店にいないことも関係しているのだろう。その智乃ちゃんはタカヒロさんと一緒に外出中だ。おそらく早くに亡くなったという、タカヒロさんの奥さんにして智乃ちゃんのお母さんだった女性の墓参りなのだろう。
いつもは智乃ちゃんの頭上を指定席としている、あの忌々しい毬栗耳長のティッピーは、流石に炎天下で長毛種を連れて出歩くにもいかないので、私たちと一緒に留守番をしている。最も、私の前には顔どころか毛の一本も出さないが。
納品業者もお盆休みであるため納品はなく、倉庫の片付けも店内の清掃も終えている。カウンター席に腰掛け、肘をつきながら野球観戦をしたところで、文句を言われる筋合いはない。「喫茶店たるものは」とブツブツ文句を言っている香風老人だが、その割には「今は塁を進めるべきだった」だの、「ここは代打でいくべきだった」だのと、素人評論家として試合の内容に注文を付けている。
「……あー、駄目でしたね。ここで3人で封じられるのはきつい」
「あのファインプレーの後だったからな。流れが途切れてしまった。しかし随分と守備が堅いな」
「宇佐山第一高校は、堅い守備からリズムを作るのが必勝パターンですからね」
地方大会を勝ち抜いたとしても、それ以上の力のない学校は1回戦でふるいにかけられる。本大会とは思えない数字がスコアボードに並ぶのは、大体にしてそういう試合だ。かと思えば1回戦でたまにとんでもない大番狂わせがあったりするから、高校野球は面白いのだが。
ベスト16、そしてベスト8が出揃い、実力が伯仲すると番狂わせは減っていく。前評判通りの優勝候補に、何年か前の優勝高校、いつも何故かベスト8か16どまりの甲子園の常連etc。
私は地方大会を見に行く、あるいは本戦の全試合をTV観戦するほど熱心な高校野球ファンではないが、全国代表が出揃った直後の特集雑誌を買い、暇があればチャンネルを合わせる位には関心がある。
負けたら終わりというプロにはない緊張感が、このものぐさな私の興味をひきつけているのかもしれない。
「私は、高校野球は見ていて辛くなることがあります」
またどこから出たんだ、この人は。
*
いまさら彼女がベルの音も鳴らさずに来店されるのは、私かららすれば驚くに値しない。私は青山女史に「いらっしゃいませ」と応じた。
「あれ?驚いてくれないんですか?」
「わー、びっくりしたなー、もー」
「もう、ぜんぜん驚いていないじゃないですか」
頬を膨らませる青山女史。ぷんぷん!という擬音が見えそうだ。「あざとい」という感想よりも「可愛い」という言葉が先に思い浮かんでしまうあたり、私もかなり重症である。
今日の青山女史は、いつもの髪を2本の三つ編みして前に垂らしたお下げではなく、後頭部で大胆に大きく括り、後ろへと垂らしていた。いわゆるポニーテールである。うなじや首筋がよく見えて、実に目の保養になる髪型と言えよう。
それにしても高等学校も夏期休暇のはずだが、この人はわざわざ制服に着替えてから来たのだろうか?
「今日は文芸部の打ち合わせがありましてー。あ、マスター。私ブルーマウンテンで」
私の心を読んだわけでもないのだろうが、青山女史はそう言うと、私から席を2つ挟んだカウンターに腰掛けた。
いやっほー!っはっはー!労働万歳!
私は先ほどまでの香風老人の経営手腕に対する深刻な疑念については綺麗さっぱりと忘れ去り、胸中で喝采と歓声を上げた。そんな私に対してマスターは「また阿呆なことでも考えているのだろう」とでも言いたげな視線を向ける。
「夏期講習の帰りかと思ったが、違うのか?」
「KAKIKOUSYU?新しいカキ氷ですか?」
「おい青山」
今更遠慮する間柄でもないのだろう。マスターは青山女史にいささか強めの口調で、からかい半分ながらも彼女を咎めた。
しかし青山女史の様子はいつもと違っていた。軽口に応じることもなく、耳長のようにむんぐと口を噤み、形ばかりの微笑を浮かべただけである。これは妙だと疑問に感じた私は、横目で様子を伺う。青山女史は一見するといつもと同じ柔和なものに見えるが、どこか影が差しているようにも思えた。
マスターは青山女史に理由を問わず、いつもと同じ要領でコーヒーの用意を始めた。流石に接客業で鍛えられただけあって、人との間合いを図るのが巧であると感心したが、こうなると私としては下手に身動き出来ない。いかにも「何かあります」という雰囲気を漂わせている女性に対する気の利いた言い回しなど、私には思い浮かぶはずもない。沈黙を保つマスターには何か考えがあるのかもしれないが、そうすると私が余計なことをすれば、むしろ台無しになりかねない。
私はTV画面に自分の体を半分だけ傾けると、試合に視線と意識を集中させた。
- ……回、全国高校野球選手権大会、大会12目の第3試合、……県代表、夏では3回目の出場となる宇佐山第一と、去年ベスト16で惜しくも涙を飲んだ聖ラビット学院大附属の対戦です。勝った方がベスト8、どちらが勝っても両校ともに史上初となります -
この局はラジオ中継も兼ねているので、音声放送だけでも試合の展開がわかるように、実況のキャスターが細かな解説をしている。
解説役は、今年こそは優勝候補とされながらも、大番狂わせの1回戦で敗退した名門私立高校の監督。その監督にとっては記念すべき45勝を阻止した相手高校も、2回戦で敗退している。それが理由なのか、どこか不機嫌そうな表情とぶっきらぼうな解説が印象的だった。
これはネットで叩かれるだろうなと思いつつ、私はキャスターの実況に耳を傾ける。
- 3対2と点差はわずかに1点。宇佐山第一がリードしています。8回の裏、聖ラビット学院大附属の攻撃。1アウトで走者は2・3塁。ラビット学院大付属は3番の……、今大会の打率は4割5分、地方予選と合わせて合計7本のホームランを叩き出している強肩です。カウントは3ボール1ストライク、マウンド上ではピッチャーが苦しい表情をしています -
マウンドでは宇佐山第一の2年エースが首に手を当てている。投球数は既に100球を越えており、素人ながらも厳しい展開だと想像出来た。
「高校野球ですか?」
「この阿呆の付き合いだよ」
青山女史の質問に、マスターがそっけなく答える。「誰が阿呆ですか」という、TV画面を見ながらなされた私の反論は、マスターに無視された。
ついでにCMの間のジャンケンに負けた。これで4連敗である。
ちくせう
「実のところ、ワシはカフェでTVを付けるのは好きではないのだ。静かにコーヒーを楽しみたい御客様にとっては、騒音でしかないからな。たまに要望があるので仕方なく置いているが」
「だが」と香風老人は続ける。その間、私は青山女史に見えないように注意しながらドアを指して退出した方がいいか尋ねるジェスチャーをしたが、マスターは、こちらも青山女史からは影になる角度で首を振った。そのため私は仕方なく、青山女史に背を向けるように、TVの方向に体を完全に傾けた。
既に宇佐山第一は伝令を使い果たしているらしい。カメラは容赦なく、マウンド上の2年エースの苦しい表情を写し出す。
「高校野球の中継は嫌いではない。騒がしいことは騒がしいが、蝉の鳴き声や夕立の轟音と同じように、一種の夏の風物詩ともいえるわけだし」
「私は……」
いつもの自由奔放な青山女史とは思えぬ、か細い声が聞こえた気がした。カウンターに肘をついて頬をつきながら実況に集中する私には、当然聞こえるはずもない。
「私は、考えてしまいます」
聞こえないったら、聞こえないのだ。
「負けた選手の努力はどうして報われなかったのか。勝った高校との違いはなんだったのか」
「練習の量か戦術の差か、あるいは監督の采配如何か。理由を知りたければ、スポーツ新聞の解説を読めばいい」
「そうですね」
宇佐山第一の2年エースが全身を躍動させて大きく振りかぶる。体全体から上半身、右肩から指の先まで、力を流動させるようにして投げられた硬球は、3年主将のキャッチャーが構えたミットに収まることなく、振られたバットに直撃した。実況が叫ぶが、これはどう見ても……
- ファール、ファールです。ラビット学院大附属の3番……君、3回連続のファールです。これはタイミングがあいませんでしたか? -
- むしろあわせてきていますね。最初は明らかにタイミングが外れていましたが。宇佐山第一の投手には疲れが見えます -
解説の監督が実況の質問にそっけなく答える。しかしこれ、興味なさすぎだろ。
- 継投も考えられるでしょうか。宇佐山第一の控え投手は2人いますが、地方大会ではこの控え選手が先発して、エースの2年を継投させる。あるいはエースで完投するパターンでした -
- この状況ではむしろ浮き足立つでしょうね。宇佐山は守りが硬いとされますが、第1試合の二本耳畜産商業との試合ではエースの乱れにつけ込まれる形で失点を許しています -
- 今大会初の延長となりました試合ですね。延長11回、4-3で宇佐山第一が勝利しました -
- ……その直前が最初の延長試合です。ちなみに私の学校の試合でした。負けましたがね -
- 失礼いたしました。訂正してお詫びを申し上げます -
よりにもよって放送席をアップにしていたため、カメラは憮然とした解説の表情と、顔色がコロコロと変わる実況の様子をお茶の間に提供していた。慌てて画面が球場の中継席からのものに切り替わるが、これは……今頃ネット掲示板は大盛り上りだろうなぁ。
「はっきりしないな。青山、お前はどうしたいのだ?」
「私は、どうしたいのでしょう」
「ワシにわかるわけがないな」
気にならないといえば嘘になるが、聞きたくもないのに後ろの会話が聞こえてくる。
高校2年の夏がどのような意味を持つのか。学生にとって進学の悩みはいつの時代でも変わらない。カフェ・ド・マンシーで合否や見通しを聞かれる度に、マスターは必ず、こう答える。
『努力すれば、道は開ける』
ここで「占いを聞きに来る暇があれば勉強しろ。この間にも、君のライバルは英単語を君より多く覚えているのだぞ」と言わないのが、マスターの優しさなのだろう。相談する方も、そんなことは百も承知。それでも、明かりのない夜道をひとり歩き続けるかのような、日々の苦しい受験勉強を続けるための希望がほしいのだろう。
カフェ・ド・マンシーを観察していると、マスターは相手を見て答え方を変えていることが判る。蝶に海を泳げと言ったり、イルカに陸の上を走れといった無理難題は、決してマスターは言わない。
しかし「自分がどうなりたいか」というものがなければ、マスターとて答えようがない。
- 振りかぶって、投げました!あ!うち、あー、キャッチャー追いかけましたがこれはダメです。ファール。ファールです ー
- あってきましたね。これは厳しい -
解説の言う通り、宇佐山第一の2年エースには明らかに疲れが見える。主将の3年は素人目にも難しい球を追いかけて、やはり捕球に失敗した。なんとかアウトカウントを稼ぎたい一心からだろう。マウンドの2年エースには来年があるが、彼には次がない。
「凛ちゃんがお世話になったそうですね」
……いきなり脈絡もなく話しかけないでもらいたいものである。私はここにはいないことになっていたのだから。私は仕方なくTV画面を見たまま「そうですね」と、気のない返事を返した。
「凛ちゃん、店員さんに感謝していましたが、随分と怒ってましたよ?」
「ははは、あれの言うことは無視してもらってもいいですよ青山さん」
「あんな失礼な人にはあったことがないとも言ってましたね。でも聞いても教えてくれないんですよ。店員さんは何を言ったんですか?」
さすがに貧乳だの、洗濯板だの、リバーシブル胴体だのという悪口をそのままいうわけにもいかず、私は「ははは」と笑って誤魔化した。
TV画面には、マウンドに宇佐山第一のキャッチャーが向かう姿が映されている。2年エースは、視線を伏せて顔を合わせようとしない。それとも上げられないのか。TVの向こうの世界とこちら側は、同じ日本であるはずなのに、まるで別の世界であるかのように感じられる。TV越しに見る外の通りには、人通りもまばらである。
私は何やら異世界にでも放り込まれたような気分になった。
そういえばマスターはキッチンカウンターに入ってから、まだ出てこない。
「……どうなるんでしょうか」
「何がですか?」
「試合……なんですかね?」
そこで疑問に思われても困るのだが。
「私、凛ちゃんとお話をしました」
「それは結構ですね。何を話されましたか」
「色々です。本当に色々なことを、たくさん時間をかけて話し合いました」
でも私は凛ちゃんが期待するような立派な人間じゃないんです。青山女史は消え入るような小さな声で続けた。
「私だって、キーボードで文章を打つこともあります。だって便利ですからね。楽もしたいし、楽しく書きたい。人に自分の書いた作品を読んで欲しいし、褒めてもらいたいんです」
「自分が思うように書けて、書きたいように表現出来た文章なんて、数える程しかありません。消して書いて、消して書いて、それを何度も繰り返していくうちに、慣れちゃうんです。まぁいいかって、妥協しちゃうんです。自分に嘘をついて、これで精一杯やったんだって」
「でもそれが、褒めてもらえたりするんです。違うんですと私が言っても、誰にも聞いてもらえないんです。謙遜するなって……凛ちゃんは例外ですけどね。私の言葉を信じてくれました」
あの貧乳、やるではないか。私は真手君に対する評価をひとつ上げた。
青山女史はおそらく私に聞かせるために話しているのではないのだろう。自分自身の中の感情を整理したいがための独白。私は壁打ちの壁のようなものかもしれない。
TVからは、相変わらず実況解説が流れてる。
- 宇佐山第一のキャッチャーがマウンドに駆け寄りました。球を渡して、何か話していますね -
「原稿のネタ探しというのも、本当のところは嘘なのかもしれません。でもそれは、絶対に凛ちゃんのせいなんかじゃありません。原稿用紙に向かい合えば、また嘘をつきたくなるから。それが嫌なだけなんです。自分が傷つくのが、嫌なだけなんです」
「でも凛ちゃんは、それでもいいって言ってくれるんです。それでもいいって、言ってくれたんです」
「それが辛いんです。どうしようもなく辛いんです。翠ちゃんの文章が好きなんですと、凛ちゃんは言ってくれる。誰よりも私の作品と、正面から向かい合ってくれる。嬉しいんです。でも、嬉しいはずなのに辛いんです」
「私は楽しかったんです。文章を書く事が。物語を書く事が、楽しかったはずなんです」
「だからその楽しいことが、どこかにある気がして、それを探していたんです」
冷房の音にかき消されるかのように、だんだんと青山女史の声が小さくなる。
「でもなかったんです。どこにも。どこにも……最初から、そんなものはどこにもなかったみたいに。どこにも……」
「青山さん」
私はようやく視線と意識を画面から外す決意をすると、後ろへと振り返った。
そこには女神などではなく、今にも泣き出しそうな、ただの女の子が座っていた。
なんとも私は、度し難い男だ。そ青山翠を女神だなんだと崇拝するあまり、目の前にいる女性を見ていなかったのだから。
アイドルだってトイレに行くし恋もする。ならば民を導く勝利の女神とて、道に迷うこともあれば、自分の選択に苦しむこともあるのだろう。
私はTVを指差して、そして続けた。
「僕は、いや俺は宇佐山第一がこのまま逃げ切って勝つと思うんですが、貴方どう思います?」
「……はい?」
念のために繰り返しておくが、私は何も聞いていない。壁打ちの壁から腕が生えて、ボールをやたらめったら打ち返すことはないのだ。
そもそも試合に興味があるかもしれないと、最初に言ったのは彼女自身である。私は試合を見るために体勢を元に戻すと、再び彼女に背を向けた。
「ほら試合ですよ。見てください、宇佐山のエース。何を言われたか知りませんけど、この状況で笑ってますよ」
マウンドの上のエースは、3年の主将とわずかに言葉を交わすと、振り返ってサードの方向を見る。カメラが切り替わり、写し出されたエースの表情は、弾けるような笑みであった。
これまで積み上げてきた全てが失われるかもしれないという危機的な状況の中で、彼は笑っていた。
笑いは神経に働きかけて、体の強張りを解く効果があるという。嘘でも良いから笑えというのは、その意味では正しい。しかし少なくとも私には、マウンド上の彼の笑みは心の底からの笑いのように見えた。
青山女史の目には、彼の笑顔は一体どう映るのだろうか。
「好きで好きで仕方がないんでしょうね。野球が」
「好き、ですか?」
「貴方もそうでしょう?」
聡明な彼女なら、これ以上言わなくてもいいだろう。私は口を閉ざした。
何を根拠にそのようなことを言うのかと言われる向きもあるかもしれない。確かに私は、それまで彼女の文章を読んだことがない。彼女の作品について論評するという点に関して言えば、私は不適格だろう。
それでも、私は青山翠の作品については語れなくても、私が「ラビット・ハウス」のアルバイトとして見てきた青山翠の事であれば、自信をもって語ることが出来る。
「ラビット・ハウス」でアルバイトを初めてから2ヶ月にも満たないが、私はそのわずかな期間の間、幾度となく彼女が原稿用紙と向かい合う姿を見てきた。何度も何度も書いては消しを繰り返し、マスターと向かい合う後ろ姿を見てきた。そわそわしながら感想を待ち、厳しい批評に肩を落とす姿を見てきた。
それでも彼女は、原稿用紙を通じて自分自身と対峙することを、決して辞めようとはしなかった。
あれが好きという感情によるものでなければ、一体この世に好きという概念は存在し得るのだろうか。
書く事が好きで、人の感想を聞くのが好きで、褒められるのはもっと好き。
人に認められなければ自己を確立できない幼稚な承認欲求?言いたいやつには言わせておけばいいのだ。すくなくとも青山女史は、あの生意気な後輩という、何者にも代え難い理解者を得ているのだから。それでも何か不満があるというのなら、私がそいつの頭を、高校球児のようにバリカンで丸坊主にしてやる。
私がそう思った途端、画面から金属バットの鋭い音がした。球場全体を揺るがすような大きな歓声打ち消されまいと、声を張り上げて興奮したアナウンサーの実況が続いた。
- 打った、打ちましたが、これはどうだー!!左中間に鋭い打球、どうだ?……獲った、サードのファインプレー、ショート受け取って、バックホーム!……アウト!アウトです!!宇佐山第一、8回裏のピンチを切り抜けました!!!-
画面の中で、2年生のエースが海老のように体を反って、天に向かって大きなガッツポーズをしてみせた。また高野連のお偉方は怒るかもしれないが、明日のスポーツ面の見出しは決まったも同然だろう。
「知ってますか青山さん。この投手、貴方と同い年なんだそうですよ」
「ふふっ、そうですか」
背中越しに聞く彼女の声は、いつもの青山翠のものであったと思う。最もそんなに長く付き合ったというわけでもないので、確証はないのだが。
「はいよ、御注文のブルーマウンテンだ」
いつもの倍以上の時間をかけたコーヒーを、香風老人は青山女史に手渡す。青山女史は神妙な態度でそれを受け取ると、香りと熱を楽しむように、ゆっくりとカップを傾ける。そして「ほぅ」と、官能的な吐息を溢した。
「……やっぱり、美味しいですね。マスターのコーヒーは」
「何、好きでやっていることだからな」
二人の会話に耳を傾けながら、私は気の狂ったようなブルーベリーや、ながーい銀行のCMが流れる画面から視線を逸らすと、青山女史の様子をもう一度横目で伺った。
「そうですね。好きでやってることですからね」
コーヒーを楽しむ青山女史の横顔は、いつも通りの屈託のない、爛漫な笑みが浮かんでいた。
*
長ーい銀行のCM空けのじゃんけんにおいて、青山女史は見事勝利を収めた。ちなみにマスターはあいこ、私個人は5連敗となったことを付け加えておく。
試合は宇佐山第一が3対2で勝利し、私の地元代表である聖ラビット学院大付属は、去年に続いてベスト16で夏を終えた。
香風老人「宇佐山第一のエースが守りきれたから良かったものの、あの場面で打たれて逆転されていたら、どうするつもりだったんだ……おい、おい。こっちを見ろ、おい」