この街の名前は何ですか?   作:神山甚六

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前回のあらすじ:香風老人「……てへ!」


セーブ・ポイントだとおもったら、ラスボスがいた件(その3)

 喫茶店を利用するのは、どのような客層なのだろうか。

 

 早朝からのモーニング(サンドイッチorトースト、サラダとコーヒー)は、もっぱら出勤前、あるいは出勤途上のサラリーマンが利用するようだ。この時間限定のサービスは、だいたい午前9時か10時頃までのところが多いという。その後は終業時刻まで、飲み物か軽あるいはその両方を食提供する。営業時間は午後5時か6時前後まで。時間に縛られない自由業の休憩所として、コーヒー1杯でギリギリまで粘る大学生のオアシスとして、あるいは隠居した老人の、家庭内の仕事をひと段落した奥様方の社交場としても利用される。

 

 店の雰囲気までも含めて提供するサービスであると考えるのなら、利益率と回転率を踏まえてある程度は忙しく、かと言って慌ただし過ぎないことが望ましい。つまり一定の固定客と、ある程度の新規顧客が適度にバランスよく入り、結果として様々な客層に居場所を提供する。何よりコーヒーを愛するお客様に利用されている。

 

 ……というのが喫茶店経営の理想だと、私はラビット・ハウスの店長である香風(かふう)老人から聞かされた。

 

 厚かましいにも程がある。

 

 実際に、喫茶店を取り巻く環境はどうなのだろうか。

 

 堕落した資本主義の手先であるランランルーなバーガーや、舌を噛みそうな長ったらしいメニューを提供する全世界的に展開するコーヒー・チェーン、朝早くから店内でのイートインを開放する24時間営業のコンビニエンスストア……国外や国内の資本を問わず、多種多様な飲食業がモーニングに狙いを定め、既存の喫茶店の縄張りを縦横無尽に荒らし回って久しい。

 

 学生はやたらと安いイタリアンのチェーン店等に流れ、日本の歪んだ医療制度の象徴とも言える病院待合室は老人サロンと化し、目と舌と腹の肥えた奥様方の容赦のない噂話や、星の数ほどもある情報サイトの評価の荒波に晒され続けている。

 

 かつての狂乱地下を乗り越えた先に到来した長引いたデフレ不況により、消費者の財布の紐はさらに固くなり、経営者の高齢化や後継者難も重なって喫茶店を取り巻く環境は悪化し続けている。

 

 今や駐車場経営や申し訳程度の農地転用と並んで、固定資産税対策でもなければ、昔ながらの街の喫茶店を新規に経営しようとする物好きはいない……と、私は高校の同期であった不動産屋の息子とのよもや話の仲で聞かされたものだ。

 

 彼の言が正しいかどうかは知らないし、調べるつもりもない。またラビット・ハウスがいかなる経営展望を持っているかについても、私は特に興味はない。しかし「今時、特に工夫もないコーヒー1杯で、400円から500円もぼったくるような商売を続けていれば、いずれは淘汰されていくだろう」という彼の言には、戦争を知らないならぬインフレを知らない子供達の私も頷けるところが多かったのは確かだ。

 

 無論、私はそれをネタに街中の喫茶店の主に論争を挑むほど物好きではない。

 

 ないのだが

 

「キリマンジャロとグアテマラの良い豆があるのだ。ぜひ飲んで行きなさい」

「とりあえず先に、この縄を解いて頂けませんか?」

 

 この爺さん相手には、許されるような気がする。

 

 

 カウンター越しに私と向かい合った香風老人は、ひどく愛想がよかった。

 

 先ほどまでは孫娘を拐かさんとしていた不審者扱いであり、今はそれがまったくの誤解から来るすれ違いによるものだと証明されたのだから、それも当然ではある。何せこちらには後ろめたい点がまったくないのだから……と考えて、脳裏に先ほど涙目になっていた孫娘だという智乃(ちの)ちゃんの姿が思い出され、私は途方もない罪悪感に苛まれた。

 

 この場に智乃ちゃんがいれば土下座して、再び不審者扱いされて警察に突き出されるまである。

 

 逮捕されちゃうのかよ。

 

「ナポリタンだけでいいのかね?今日は飲み放題食べ放題だ。なんでも好きなものを頼んでくれ」

「出来れば衣服のクリーニング代金もお願いしたいんですけど」

「……トーストもつけよう」

「おいこらクソ爺」

 

 思わず年長者への敬意を欠いた対応をしたが、これまでの経緯を辛抱強く読んでくれた奇特な方には理解して頂けるものと考えるが……それはそれとして、自分の両親よりもはるかに年上であろう-それも如何にも洗練された洒落者として年齢を重ねたダンディな老人が、あからさまにこちらの機嫌をとろうと、あれこれと勧めてくるのは見るに堪えない。

 

 こうした場面で優越感よりも居心地の悪さが上回るあたり、私は生来の小心者なのだろう。

 

 あまり詳細に思い出したくもないので簡単に経緯を説明すると、恐怖とショックのあまり気絶して倒れ込んでしまった私を、香風老人は手際よく荒縄で縛り上げると、直ぐに警察に電話しようとしたらしい。

 

 そこで智乃ちゃんの制止が入ったそうだ。

 

 神様、仏様、智乃様である。

 

 自分を襲おうとした不審者ですら心配するとは、なんと優しい孫なのだろうと店主は感激したそうだが、それが「深刻な犯罪行為であることに気がついていないがゆえの勘違いした配慮ではないか」と再び勘違いした老人は、不審者(つまり私)への怒りを更に募らせた。

                                     

 「違うんです」を繰り返す孫娘と幾度となく会話がすれ違い、妙な違和感が老人の中で芽生えだす頃、私は意識を回復した。

 

 縛られながら「外に『open』の看板が掛けられていたので、営業中と思い入りました」と口を挟むと、老人は「そんなわけなかろう!出かけるときにちゃんと……」と玄関の扉を見てみれば、こちら側-つまり店内側から『close』の文字。

 

 油の切れたブリキのロボットのように固まる様は、私に少女と老人との血縁関係を思い起こさせた。

 

 どうして綱引きで使うような荒縄が喫茶店の倉庫に用意されているのかと思いつつ、拘束から解放された私は、店主の-まあそれは見事な90度での最敬礼による謝罪を快く受け入れた。

 

 そして更なる相互理解と現状把握のために、ぎこちない乍らも互いに自己紹介をした。

 

 出入り直後の手打ち式の様な、拭い難い余所余所しさと緊迫感があったのは否定出来ないが、私としてもこれ以上事を荒立てて余計な時間と労力を使いたくないという怠惰の虫が騒ぎ始めていたので、飲み物と軽食のセットのサービス(+クリーニング代)で手を打ったというわけだ。

 

 なおこの間のやり取りを、祖父の後ろから顔を出したり引っ込めたりしてハラハラ見ていた智乃ちゃんが、香風老人から和解を伝えられてホッとして顔の表情を緩める姿は、たいそう癒されるものであったことを付け加えておきたい。

 

 

 この喫茶店の経営者であり智乃ちゃんの父方の祖父である香風さんは、すでに人生の折り返し地点を通り過ぎて久しい年齢に足を踏み入れている。とは言っても私には、(私を手際よく縛り上げた手腕も含めて)年齢的衰えは感じられなかった。

 

 香風老人の特徴的な髪と髭は、白髪というよりもシルバーヘアーに近い。顎鬚と口髭がつながって口の回りを覆い、その髭がもみあげまで続いているという、いわゆるサークルタイプの髭だ。有名人で例えるなら、ショーン・コネリーを想像していただければ分かり易いだろう(あちらほど頭髪に困ってはいないが)。

 

 この手の髭は毎朝の手入れが難しそうだが、よほど丁寧に手入れをしているのか、乱れも違和感もない。肌こそ年相応に脂と色が抜けているが、背筋はピンと伸びており、その躰を皴一つなさそうなバーテンダーのようなスーツで身を固めている。

 

 そして何より特筆すべきは、老人のちょっとした所作に見られる気品と余裕、そしてユーモアだ。

 

 一見すると厳格な気難し屋に見えるが、話してみると洒落っ気が通じる(孫娘を脅かすものは例外のようだが)。短いながらも、私は老人から気障な伊達気質というか、一本筋の通ったダンディズムを感じた。

 

 その香風老人からカウンター席を勧められた私は、とりあえず老人の正面、ちょうどカウンター席の真ん中を選んで座ると、ナポリタンとトーストが出てくるのを待つことにした。

 

 智乃ちゃんは私に対する誤解が解けると、心の底から安堵した表情を浮かべた後、こちらの視線に気がついたものか、顔を赤らめて足早に奥へと退いていった。人見知りであるという祖父の言は、どうやら事実らしい。

 

 短い会話から受けた印象でしかないが、私は智乃ちゃんに聡明で芯の強い、そして優しい子という印象を受けた。

 

 それを何気なく香風老人に伝えたところ、老人はニコニコ顔で孫の自慢を始めた。

 

 この和製ショーン・コネリー翁は、これまでの私に対する一時的ながらも不当な扱いからもわかるように、孫娘の智乃ちゃんを目の中に入れても痛くないほどに可愛がっているようだ。溺愛しているといってもよい。

 

 智乃ちゃんは老人の息子であるタカヒロ夫婦の一粒種であり、智乃ちゃんの言った通り、彼女の母親は早くに死去したという。男所帯だが優しく育ってくれてありがたい。きっと智乃は天女の生まれ変わりに違いないetc……

 

 どうも先ほど私が智乃ちゃんの「お爺ちゃんのお店を守る」発言を伝えた事が、老人の琴線に触れたらしい。先程から何度も何度も同じ話を、実に嬉しそうに繰り返している。どうして孫自慢に付き合わされているのだと私が思い始めた頃、ようやく注文していたトーストとナポリタン・スパゲティが完成した。

 

 あれだけ口を動かしながらもよく手が動くものだと感心しつつ、私はカウンター越しに目の前に差し出された料理を受け取った。

 

「……美味そうですね」

「ですね、は余計だ」

 

 老人の戯言を無視して、私は目の前に広がる景色に思わず唾を飲み込んだ。

 

 四角い食パンを斜めに三角形にカットして、こんがりときつね色になるまで焼かれたトースト。バターは黄金色の液体に変貌しつつあったが、まだかろうじて固形を残している。

 

 ナポリタンは太めの麺に、カットされたベーコンとマッシュルーム、そして細切りのピーマンとシンプルな具が絡んでいる。それらがケチャップによりオレンジ色で染められ、いかにも食欲をそそる香りを漂わせている。ナポリタンの皿はわざわざ冷めないように湯煎されているという手の入れようだ。

 

 どちらもよくある喫茶店のメニューだと香風老人は謙遜していたが、出来立てで湯気が上がっているとなると、これだけでもう立派な御馳走といってよいだろう。

 

 私は両手をあわせて「いただきます」と言葉にしてから、まず右手でトーストを持ち上げると、自らの口へと運んだ。

 

 「さくっ」という食欲をそそる音と共に、親指2本ほども厚さのあるトーストから小麦粉の焼けた匂いと溶けたバターの風味が口いっぱいに広がる。

 

 「ほう」と、私は知らず口から声が出てしまっていた。

 

 食通を気取るつもりは毛頭ないが、それでも私のような人間ですらわかるほどに明確に「美味い」と感じる。口の中が幸せに溢れ、呼吸すればそれが吐く息と共に逃げてしまうのではないかと思ってしまう。私はトーストは半分程度にしておいてスパゲティに取り掛かろうとしていた事前の計画をあっさりと取り止め、その幸せを最後まで堪能することを選択した。

 

「美味いだろう」

 

 香風老人の口元だけを緩めた「どや顔」は非常にムカつくが、事実であるので素直に頷いた。

 

 手についたパン粉を皿の上に落とすと、私はこれならばもう片方も期待出来るという興奮と共に鉄製のフォークを掴んで、オレンジ色の山に斜めから突き刺した。

 

 私は家でナポリタンを食べるときはタバスコをかけるが、外で食べるときはまず何もかけずに食べるようにしている。母親の味なら予想がつくが、外の場合はまず味見をしないと、タバスコの適量がわからないからだ。

 

 くるくると手の中でフォークの柄を回転させて、一口大に麺と具材を絡め取る。何本かが巻取れずにぶら下がるが、私は構わず口に運ぶと、ラーメンを食べるかのように勢いよく麺をすすった。

 

「ううん……」

 

 私は思わず唸ってしまった。再びドヤ顔で腕組みをしてみせる香風老人に神経が逆なでされるが、それよりもこのナポリタンの美味さといったら!

 

 まず口の中で感じるのはトマト・ケチャップの酸味と旨み。それらはベタベタとしたものではなく、あくまで主役は麺であり具材の引き立て役であることを忘れていない。

 

 続いてベーコンの油に、野菜の苦味と食感が続き、最後に麺の食感がくる。この頃、麺類と言えば饂飩であれ拉麺であれ、やたらと硬いものがもてはやされているが、その風潮に背を向けるかのような柔らかさ。かといって茹ですぎたか火を通しすぎたために「べちゃ」としたものでもない。

 

 個人的な好みもあるのだろうが、むしろこれにタバスコをかけては、却ってこの調和が失われるのではないか。私はそのようなことを考えながら、最後の一本まで、オレンジ色に染まった皿だけになるまで、一心不乱に食べ続けた。

 

 タバスコは使わなかった。

 

 

「ごちそうさまでした。いやぁ、うまかったですよ」

「はい、お粗末さま。そこまで美味そうに食べてくれると、こちらとしても作った甲斐があるよ」

 

 満足げな老人の笑みに、私は先程までの遺恨は綺麗さっぱりと忘れ、口元を紙ナプキンで拭うと、グラスコップの水を勢いよく飲み干した。

 

 美味いものと値段は比例しないというが、それが先程まで貧乏人の僻みであると考えていた自分の浅はかさが、なんとも気恥ずかしい。トーストもナポリタンも決して高級料理ではないが、ここまで美味いものは食べたことがない。私は文字通り舌を巻き、注文する際に見たメニューに記載されていた値段を思い出しながら、香風老人に自分の転向について伝えた。

 

「トーストが300円で、ナポリタンが800円でしたか。いや、正直ボッタクリだと思ってましたけど、これならその価値はありますよ」

「それは褒めているつもりかね?」

「褒めてるんですよ。いや、僕も人様の料理を偉そうにあれこれ批評出来るような立派な人間じゃないですけど、これは美味しかったです。正直、喫茶店のメニューだからと舐めてました」

 

 私の言葉に香風老人は喜ぶのではなく、むしろ心外だと言わんばかりに眉をひそめた。

 

「所詮は出来合いのものを出すのが、喫茶店の軽食だと?」

「そこまでは言いませんが、まぁ、そんなところを予想していましたよ」

「はっきりと言う。気に入らないな」

「あー、腕が痛いかもしれないなー、どうしてだろうなぁー」

「この悪餓鬼が!」

 

 私は香風老人と北関東のヤンキーのようにガンを飛ばしあい、そしてほぼ同時に噴出した。

 

 経緯はどうであれ、私にとっては食事がうまいかどうかが問題であり、老人にとっては自ら提供したサービスに客が満足したかどうかが全てである。

 

 だからこそ私は、ここが「喫茶店」であるということを軽視していた。

 

「まぁいいさ。コーヒーはもう少し待ってくれ。今、特別のブレンドを作ってやる」

「いや、僕は日本茶党なのでコーヒーは結構……」

「うん?」

 

 それまでにこやかであった香風老人の目の奥に、突如として不穏なものが燃え上がり始め、私は再び老人の地雷を踏んでしまったことを理解した。

 

 ようやく本来の意味で休憩出来たと思ったのに、どうしてこうなるのか。何なのこの店?耳長ハウスじゃなくて、薄い本屋じゃない本来の意味での虎の穴だったの?私は掟破りの元悪役レスラーか何かで、ミスターYだかZだかに追われる身だったの知らなかったよ。助けて伊達な直人さん。

 

「どうやら君はコーヒーの何たるかを知らないようだ。どれ、このワシが手ほどきしてやろう」

「いや、長くなりそうなので結構です」

「うん?」

「はい、よろこんで!」

 

 

 私の手のひら返しのすばらしさを褒め称えてくれる諸君に、今こそ私は訴えたい。君らはあの香風老人の顔を見ていないから、そのような能天気な脳味噌ハッピーターンなことが言えるのだと。私は命が惜しかったし、何よりせっかく美味いものを食べた食後の幸福感を、そのようなつまらないことで消し去りたくはなかった。

 

 それに先ほどのトーストやナポリタンという、どこでも誰でも作れそうなものを、金が取れるレベルにきちんと仕上げる店主の提供するコーヒーに、興味がなかったといえば嘘になる。

 

 いまさら私のコーヒー論を聞きたい人もいないだろうが、私にとってコーヒーといえば缶コーヒーのことである。それも北関東の練乳コーヒーのようなものではなく、真っ黒なスチール缶入りのブラックに限る。

 

 そしてそれを私は、薬と同じ用途で服用していた。

 

 お前こそ脳味噌ハッピーターンじゃねえか。通報するぞといわれそうだが、どうか待って頂きたい。

 

 何度も繰り返しているように私は食道楽(食い意地が張っている)のため、度々食べすぎとなることがある。胸焼けや吐き気がひどい時、私は決まってブラック・コーヒーを飲むのだ。すると不思議と症状が収まるのである。

 

 これは私の両親から教えてもらったのだが、苦味成分が胆汁としての役割を果たすのだとか何とか。あくまで我が家に伝わる民間療法であるが、私は吐き気がする時は、いつもこうして胸のムカつきを収めてきた。

 

 つまり医学的な根拠は何も存在しない。信じるか信じないかは、諸君ら次第であると断っておく。

 

 さて、そんなわけで私にとってコーヒーはどうしても薬の印象が強い。

 

 第一、家でちょっと本格的なコーヒーを入れようものなら、わけのわからない器具をいくつも用意してから、お湯を沸かしてパックを用意してと手間が掛かる。同じ手間が掛かるなら、お湯を沸かして蒸らすだけの日本茶を飲めばいいではないか。何を好き好んで苦い豆のだし汁を飲まなければならないのか。私はそう考えて、今まで生きてきた。

 

 大体私は、コーヒー豆という気取った植物の存在からして気に食わないのだが、それは長くなるので今は触れない。

 

 ともかく日本原産でもない豆を輸入するために、あたら貴重な外貨を湯水のごとく垂れ流した挙句、焙煎だかバリカンだかしらないが、わけのわからない作業工程を繰り返して出来上がるのは、苦いばかりの黒水だ。それを好き好んで飲もうという人間の気が知れない。

 

「……人の考えや趣味思考にケチをつけたくはないが、君も相当、変わった性格をしているな」

 

 コーヒーに関する私の持論を聞き終えた、香風老人の第一声がこれである。

 

 彼は私の長広舌を聞きながら、目的の液体を完成させるために手と足を動かし続けていた。私には名前はおろか、区別も判別も出来ない幾多の器具を手際よく使い分けている。その様はさながら実験を行う化学者のようだ。

 

 やはり黒水を好き好んで提供しようという喫茶店の主には、私の崇高なる考えは理解してもらえまいか。いつの時代も先駆者は排斥されるものだと、私はゴルゴダの丘を十字架を背に登る預言者のような気分を堪能しつつ、老人の手際を観察していた。

 

「ほれ、飲んでみろ」

 

 香風老人はそう言うと、何の変哲もない白無地のソーサーに乗せられたコーヒーカップを私の目の前に置いて見せた。

 

 陶器の白いカップの中には黒水が満ちており、何とも香ばしい香りと湯気を立てている。

 

 これも個人的な偏見だが、挽きたてのコーヒーの香りというものは、大規模なフランチャイズ・チェーンや、コンビニエンスストアの出入り口付近にあるセルフサービスのそれには似つかわしくないと思う。あれはあれで否定するつもりはない(興味もない)が、やはりこういう香りは喫茶店にこそふさわしい。

 

 己は先ほどまでコーヒーを黒水と罵っていたではないかと批判されそうだが、私はコーヒーの香りそのものは嫌いではない。

 

 いくらよい香りがするからといって便所の芳香剤をなめようとする人間はいないだろう。それと同じことだ……というのをつらつらと口にしていたら、さすがの香風老人の眉間にも太い血管が浮き上がり始めた。

 

 仕方なく私は左手でソーサーを持ち上げると、右手の指をカップの取っ手に絡ませる。

 

 何の種類かは知らないが、白い陶器の肌に、コーヒーの魅惑的な黒色が実に映えており、一種の芸術作品のような趣がある。

 

 これを自分の手で壊してしまうのはもったいないのではないかと思ったが、さすがにこれ以上減らず口をたたいていると店主が本気で怒り出しそうなので、私は恐る恐るカップのふちに口をつけ、その黒水を口に含んだ。

 

 なんだこれは。

 

 瞬間、私の口腔内を、キリマンジャロを始めとしたアフリカ各地の風が勢いよく吹き抜けた。

 

 見たこともないはずの光景が、コーヒーベルトで生産された実を農家が採取する姿や、それを日本に運ぶ貨物船、選別するバイヤーなどの姿が、走馬灯のように私の脳裏を駆け巡る。

 

 かぐわしい香りが鼻から抜け、暖かい液体がゆっくりと胃の中へとおさまっていく。

 

 …なんだこれは。

 

 今まで私が飲んでいたのは、本当にただの黒水だったことを、この一口が証明して見せた。

 

 コーヒーとはこのような官能を飲んだ人間に与えるものだったのか。例えとしては正しくないかもしれないが、性行為ですら得られることが出来ないような愉悦が、私の頭から足の先まで一瞬に通り抜けてゆく。そしてそれは、飲み終えたあとも継続し続けている。

 

 かすかに震える手を何とか押さえこもうとして、私はそれに失敗した。

 

 ……なんだこれは。

 

「……負けたよ、爺さん」

 

 私はカップをゆっくりとカウンターに置き、香風老人と再び顔を見合わせた。

 

 私の眼には、先ほどより老人が大きく見えた。

 

 それはこの偉大なる飲み物の楽しみ方を教授してくれたことへの敬意からくるものであったのだろう。

 

 コーヒー童貞であった私が言うのもなんだが、童貞だったからこそ、このコーヒーの偉大さがわかる。これは断じて出来合いの適当な調合によるブレンドに出せるものではない。

 

 何がラビット・ハウスだ。ここだ。此処こそが虎の穴であり、目の前の和製ショーン・コネリーこそが、その主-ミスターXだったのだ。

 

 私はこれまでの非礼をわびる意味も含めて、その場で立ち上がると、深く頭を下げる。そして掛け値なく自分の感動と感じた光景を伝えようと、この偉大なるバリスタに、己の出来る感情と言葉を誠心誠意尽くして語った。

 

 香風老人は私の拙い弁論を黙って聞いていたが、それが終わると私に一言だけ告げた。

 

「今、君が飲んだそれな、南米産の豆のブレンドなんだが」

 

 ちくせう




主人公「和製ショーン・コネリーだと長すぎるので、ショーン・香風でどうですか。略してショーン・K」
香風老人「やめろ!」

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