この街の名前は何ですか?   作:神山甚六

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「貧乏と希望は母と娘である。娘と楽しく語らっていれば、母のほうを忘れてしまう」

ジャン・パウル(1763-1825)


安易なフラグは、あなたの健康を損なうおそれがあります(その1)

 黄金週間の慌ただしさを乗り切りきった5月の中頃。大学生活にもようやく慣れ始めた私は、自室にこもり、課題であるレポートの執筆作業を続けていた。レポートといっても、大学1年の前学期で課せられるような課題は、今後の学生生活において必要不可欠となるレポートの書き方を学ばせるための要素が強い。誤解を恐れずに言えば、学生時代の調べ学習の延長のようなものかもしれない。

 

 私が学生になった頃には、すでにプリントによるレポート提出や電子データによる課題の提出が一般化していた。そのため提出期限が迫るたびに、学生や院生が研究室に集まり、手の甲を鉛筆の粉で黒く染め、袖口を擦り切れさせながら原稿用紙に向かい合う光景は、すでに過去のものとなっていた。私は中古の家電製品を除けば、この部屋で唯一の高額家電といってもよいノートパソコンのキーボードをパチパチと叩きながら「文明開化万歳」と呟いた。

 

「よし、終わった」

 

 最終的な誤字のチェックを終えると、私は畳の上に胡坐をかいたまま、大きく背伸びをした。課題とは名ばかりの練習レポートとはいえ、ようやく解放されたことにかわりはない。私は非常に晴れやかな気分に浸りながら、肩の凝りをほぐすために左右に顔を向け、そして視線に入った自分の部屋の景色に気分を害した。

 

「男所帯にはウジがわくか」

 

 昔の人は上手に例えたものだ。万年床の湿った布団、天候不順をいいことに溜めに溜めこんだ洗濯物と脱ぎ散らかした衣服、授業とレポート執筆のために図書館から借りてきた参考書籍や教科書の数々に、自宅から運び出してきた古書(ほとんどが漫画だが)。これらが無秩序に部屋のあちこちに堆く積み上げられており、わが愛居は汚部屋化の一途をたどっていた。

 

 台所を中心とした炊事場周辺こそ、一見すると綺麗に見えるかもしれないが、それは私が料理をほとんどしないからに他ならない。母親の愛情の産物たるパック詰の惣菜はとうの昔に食いつぶし、冷蔵庫の中は作り置きしたカレー鍋と調味料以外には何も入っていない。

 

 唯一、私が胸を張れることがあるとすれば「G」対策として、使い終わった食器をすぐに洗うようにしていること、生ゴミは新聞紙にくるんできちんと処理していることぐらいだろう。唯一なのに2つになってしまったが、まあそんなことはどうでもいい。

 

 とにかく、こんなところにいつまでもいては気分が詰まる。PC画面右隅のデジタル時計を見れば、既に午後の2時を回っていたこともあり、私は右肩と左肩を交互に回しながら、自らの空腹を如何に満たすかの方策を練り始めた。

 

 私は確かに料理をほとんどしないが、全くしないわけではない。冷蔵庫のなかに鍋ごと突っ込まれたカレーが、その証拠である。

 

 実家で両親と同居していた時代に何か学んだのかと聞かれれば、それは否だ。大根おろし程度は手伝ったことはあるが、包丁はおろかピーラーすらまともに使ったことがなかったほどだ。つまり一人暮らしを始めてから、全くの独学とネット知識を基本に始めたわけである。

 

 これは「せっかくの一人暮らしなんだから、少しは自分の生活能力を高めよう」とする前向きなチャレンジ精神によるものではなく、財布の中身に比例した止むにやまれぬ、かつ切迫した財政事情からくるものであった。

 

 この「木組みの家と石畳の街」は、はっきり言うと学生には優しくない街だ。同じ観光地である京都が学生の街として成立しているのに比べると、一人暮らしにこれほど不向きな街もあるまい。

 

 本来であれば一人暮らしの大いなる味方になるはずの大手のコンビニ・チェーンや外食チェーンは、都心部から離れた立地条件と、交通の便の悪さ、そして長く続いた行政当局の出店規制によって、片手で数える程しかない。

 

 この街が観光地として成功しているのも、チェーン店にとっては不利な条件だ。いささか割高の観光地価格でも上等と覚悟を決めている観光客は、どこでにもあるチェーン店に見向きもしないし、中小の自営業が中心の地元住民は大規模資本に警戒感が強い。

 

 さらに大資本に二の足を踏ませるのは、街中を我が物顔で闊歩する耳長の存在だ。

 

 この街とて陸の孤島というわけでもなく、道路網は整備されている。しかし奈良のお鹿様ならぬ「木組みの家と石畳の街」のお兎様は、神聖にして不可侵な存在であり、たとえ自動車専用道路であっても我が物顔で走り回る始末だ。結果、大型車両の通行は阻害され、時間厳守が求められる大資本や物流業者は「まともな商売にならない」と匙を投げた。

 

 まさに兎こそが、この街を大資本の横暴から守る守護神であるが、同時にこの耳長の存在こそが、この街の学生を苦しめる元凶でもあるのだ。

 

 例えばこの街には大きな女子高等学校が2つ存在する。片方は有名なお嬢様学校であり、もう一方の女子高等学校は、特進クラスや国際化等の多種多様なカリキュラムを揃えており、地元住民だけではなく他の都道府県からも広く生徒を受け入れていることで知られている。

 

 そして前述したように、この街は学生が一人暮らしをするには、環境がいささか厳しい。観光地ゆえに家賃や食費のコストが高く、光熱水費も馬鹿にはならない。お嬢様学校の方はそれでも問題はないが、後者に通う生徒の保護者にとっては深刻な問題だ。

 

 そこで件の女子高等学校は、行政や地元商工会と連携して、遠方からの生徒を対象とした地元住民の自宅を下宿先として提供する紳士協定を締結。この協定を利用する学生は、下宿先で「奉仕活動」をしながら、学校生活を送るのだという。

 

 奉仕活動。なんとも耽美な響きではないか。是非とも其のところを詳しくお伺いしたい-大学でのオリエンテーション合宿の際、地元出身の学生からこの街の事情を聞かされた私は、自らの感想を正直に述べた。

 

 結果、目出度く同期の女子から「変態」と罵られるご褒美付きを頂戴した。

 

 ちくせう

 

 そんなことをつらつらと思い起こしていると、私の腹の虫が先ほどより強く騒ぎ始めた。

 

 ふむ、これは困った。

 

 私は腹の虫に問う。「今日もカレーでいいか」と。

 

 腹の虫は答えた。「四日連続はいやだ!」と。

 

 まったくもってその通りである。

 

 いくらカレーは飲み物だからといって、私も4日連続、なんの変哲もないカレーというのは正直勘弁して欲しい。大量に作れば美味しいと聞いて試した私が馬鹿だったのだが。

 

 ここは趣向を変えてカレーの上にチーズをのせて、電子レンジでチンをしてドリアのようにすればどうかとう考えが頭をよぎるが、どうにも何か違う。不味くはないだろうが、今の私はそうした気分ではないのだ。

 

 私は腹の虫に問うた。

 

 少し遠いが、大学まで出向いて学食を利用するのはどうだ?

 

 腹の虫は激怒した。

 

 そんなに待っていられるか!

 

 これはいかん。私は腹の虫の期限の悪さに、俄かに焦り始めた。学食が駄目なら、地元住民の台所である野外市場に出かけて食材を物色してから献立を決めるというのも期待が持てないだろう。観光地価格であることを覚悟した上で、街中の適当な店を探すというのも、考えるまでもなく期待薄だ。何より財布にやさしくない。

 

 腹の虫が本格的な暴動を起こす前に、なにか有効な解決案を提示しておかなければ。

 

 すると私の脳裏に、とある喫茶店の名前が浮かんだ。

 

「ラビット・ハウスか」

 

 あの屈辱にまみれた因縁の出会いから早2ヶ月。私は再び、あの和製ショーン・コネリー氏と相対する覚悟を決めた。

 

 

 春が短くなったといわれて久しいが、5月も半ばを過ぎると特にそんな気分にさせられる。桜の時期はとうに過ぎ去り、花びらが散ってもしぶとく残っていた花柄も、いつの間にか消え去っている。入れ替わるように生い茂る葉桜が、風もないのにわさわさと自らの存在を主張する街路樹の下を、私は地図アプリを起動させた携帯片手に、ラビット・ハウスへと向かっていた。

 

 あの時は気が付かなかったが、ラビット・ハウスは私の住まうボロアパートから5分ほどの場所に位置していた。最初に訪れた時は来た道をそのまま折り返して帰宅したのだが、ひどく遠回りをしていたことになる。

 

 まったくもって阿呆なことをしたものだと考えながら歩いていると、いつのまにかあの店の前に到着していた。あの時と同じ耳長の表看板に、あの時と同じ『open』のドアプレート。

 

 あの時と同じ失敗はするまいと、私は窓から喫茶店の様子を覗き込んだ。

 

 テーブル席には新聞を読んでいる老人が1人と、こちらもテーブル席に私と同じ大学生らしきカップルが1組。そしてカウンターの奥から、窓から覗き込む私を怪訝そうに見つめ返す見覚えのあるマスター。

 

 これならば問題あるまいと、私はラビット・ハウスに記念すべき2回目となる入店を果たした。

 

「……いらっしゃい」

 

 相変わらず渋い気障な声が特徴的な香風老人は、私の奇行には一切触れず(面倒なだけだったのかもしれない)、客商売として最低限の一線を保ちながら、来訪に対する歓迎の意を示した。

 

 私は片手を上げて挨拶をすると、最初に訪問した際と同じように、カウンター席の真ん中に陣取り、間を置かずにマスターから手渡されたメニューを広げた。

 

 あの衝撃的な出会いを果たした至高の飲み物を注文するのは、最後にするべきであろう。空腹を抱えたままでは、あの蠱惑的な魅力を十分に堪能することは難しい。今、優先するべきは、この無情の空腹を満たすために何をチョイスするべきかという問題にケリをつけることだ。

 

 遅いことは猫の子でもする。私はメニューを素早く繰った。

 

 苺ショートやチョコレート・ケーキ?そんな軟弱なもので、今の私は満足出来ない。とにかく腹にたまるものがいいが、では炭水化物……トーストという気分でもない。サンドイッチも然り……でもこのハムサンドは美味そうだな。また今度にするか。

 

 ふむ。そうなると……

 

 私は左手の人差し指をピンと立てて、厳正な選考の末に選んだ商品名を伝えた。

 

「ナポリタンを2人前で」

「お残しは許さんぞ」

 

 何処かの忍術学園の食堂の女主人のようなことを言いながら、香風老人は奥のキッチンへと向かって行った。

 

 

「ごちそうさまでした。相変わらず美味かったです」

 

 両手を合わせ、礼儀正しく食事と料理人に対する感謝の意を伝え、味の感想を直接伝えたのにも関わらず、香風老人は何故か呆れたような奇怪な表情を浮かべて顎髭を親指の腹で撫でていた。その老人の態度に「解せぬ」と私がナプキンで口元をぬぐいつつ、首をかしげて見返すと、香風老人はその理由を明らかにした。

 

「800g近くあったスパゲティを10分もせずに平らげられては、こんな顔にもなるわ」

「それだけ美味しかったということですよ」

「ほめられて悪い気はしないが、その相手が君だと思うと気持ちが悪いな」

 

 まだ2回しか会っていないのに、どうしてここまで貶されなければならないのだろうか?私は釈然とないものを感じながら、以前と同じブレンド・コーヒーを注文した。あの恍惚を再び味わえると思うと、体の芯から歓喜が湧き上がって来るというものだ。老店主の客を客とも思わぬ対応など、どうでもいい。

 

 香風老人は私が語ったコーヒーのもたらす官能の賛辞に対して「それはよかった」と、心底どうでもよさそうな声と態度で応じた。

 

「普通、ここは自分の成し遂げた偉業について感激するところではありませんか?」

「人間の声帯から、チュパカブラのような奇声が出ることを証明して見せたことをかね」

「それをいったら戦争だろうが……!」

 

 私は顔を羞恥心で震わせながら店主に反論する。あれから幾度の夜、私が枕を涙でぬらしたと思っているのだ。授業中であろうと通学中であろうとバイト中であろうと関係なしにそのときの記憶がフラッシュバックのようによみがえり、頭を抱えてもだえそうになったことか。

 

 しかし私の厳正なる抗議にもかかわらず、香風老人はそれを鼻で笑うばかりであった。

 

「せっかくの新規顧客に対してそんな態度だから、閑古鳥が鳴いてるんじゃないですか?」

「そ、そんなことはない、ないぞ!」

 

 智乃ちゃんが大事なところで噛む癖は、どうやら隔世遺伝であったらしい。もっとも髭もじゃの爺さんが噛んだところで、可愛くともなんともないが。

 

 私の哀れみをにじませた温かい視線に気がついたものか、香風老人はむきになって反論を始める。

 

 やれモーニングのときはそこそこ繁盛しているだの(そこそこかよ)、昼間はそれなりに忙しくてバイトを入れようと考えているだの(2、30人入るキャパがあるのに回ってるのかよ)、喫茶店とは静かな空間を提供するものだの(かなり苦しい)、客商売とはお客の数ではなく、サービスの質を競うべきものだの(客が少ないのを認めちゃったよ)……

 

 私は最初のうちこそ、笑いをかみ殺しながら真面目な顔を取り繕って聞いていたものの、次第に老人に対する同情が上回り始めた。最終的に香風老人が、どこか遠くを見つめながら「ウサギになって借金から逃げ出してぇ」と言い出した時には、まったくそんなつもりはなかったのに、慰めの言葉が口をついて出てしまった。

 

「頑張れ御老体。きっと報われる日が来ますよ」

「やかましい小僧、貴様に同情される筋合いはない!」

 

 ついに小僧になっちゃったよ。確かに香風老人からすれば、酒も飲めない年齢の私は小僧であろうが。そもそも初対面に近い小僧相手に、どうしてこの人は経営に関する愚痴を言い出しているのか。バリスタとしての手腕はともかく、飲食店の経営者には致命的に向いてないのではないか?

 

 私はそのようなことを考えながら、ブツブツと不平を言い続ける香風老人から、魅惑的な芸術品にまでに昇華されたコーヒー・カップを受け取った。

 

 これだ、この香りこそ悪夢にさいなまれながらも、幾度となく夢にまで見たもの。

 

「……カフェイン中毒というものがあるが、君も意味は違うが似たようなものだな」

 

 コーヒー馬鹿の爺さんが何か言っているが、私はそれを気にせず存分に香りと熱を楽しむ。

 

 さて、再びあの官能を口腔で味わおうと、私がカップに口をつけようとしたまさにその瞬間、聞き覚えのある音が店内に鳴り響く。それがドアベルの音だと気がつくのに、それほどの時間はかからなかった。

 

「いらっしゃい……なんだ青山か。こんなところで油を売っていてもいいのかね」

「こんなところだから、いいんですよー」

「喧嘩売ってるのか青山!」

 

 鼻でも詰まっているのかと思うようなつまり気味の、どこかのんびりとした女性の声に、私はコーヒーカップを持ったまま、喫茶店の出入り口へと視線をやった。

 

「えへへ、またきちゃいましたー」

 

 私は女神と出会った。




主人公「コーヒーだ!コーヒーをだせ!」
香風老人「アイエエエ!?チュパカブラ?チュパカブラナンデ?!」

香風智乃(お爺ちゃんたちは何を話しているのでしょう?)

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