「木組みの家と石畳の街」の喫茶店ラビット・ハウスで、オーナー店主である
「この世には2種類のコーヒーがある。ラビット・ハウスの店長の手によるものと、それ以外の黒水」
今でも私が日本茶党であることに変わりはないが、それでも香風老人の手によって抽出されたものは、市販の缶コーヒーやインスタントなどとは、比べ物にならない。同じコーヒーと名乗ることすら罪深いというものだ。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い。この言葉は、この店のオリジナルブレンドにこそ相応しい……
カップを片手に自信満々に語る私に、カウンターの向こうに立つ香風老人は洗ったガラスコップを布巾で拭きながら、極めてぞんざいな態度と胡乱な視線で応じた。
「さも自分が思いついたように語るな。それはタレーラン公爵の言葉ではないか」
「さすがは喫茶店の店長、ご存知でしたか」
その知識を褒め称えたにもかかわらず、香風老人は何故か鼻を不機嫌そうに鳴らした。
2度目の訪問以降、私は週1のペースでラビット・ハウスを訪問して、コーヒーの名に値する蠱惑的な飲み物を楽しんでいる。それにしても、いつ来てもこの店は閑散としている。静かな雰囲気を好むものや、コーヒーを純粋に味わいたい私のような人間にとってはむしろ素晴らしい環境なのだが、経営者としてはそれでいいのだろうか?現に今も客は私しかいない。
そんなことをつらつらと考えながら店の中を見回していると、カウンターを挟んだ老人の視線が俄かに険しさを増す。それにしても洒落男は何をしても恰好になるのだからうらやましい限りだ。
「前々から思っていたのだが、貴様、私を馬鹿にしているだろう」
「さすがは御老体、ようやく気がつきましたか」
「叩き出すぞ!」
口では幾度となく罵声を浴びせられたものだが、香風老人が実力行使に出たことはない。
私は飲食店経営者としての老人の手腕には疑問をもっていたが、バリスタとしての老人の手腕は嘘偽りなく尊敬していた。私はそれを直接伝えていたし、そんな時の香風老人は決まってぶっきらぼうな態度になるが、止めろと否定することはなく最後まで聞いていることが多かった。
いわゆるツンデレというやつである。
まったく気色悪い爺だ。私はそう思いながら、恋のような甘い香りを楽しむ。
そう。私はこの店のコーヒーに恋をしているのだ。
そして恋には往々にして邪魔者が入るものである。私の場合は、目の前にいる老人が、それに該当するのだろう。
「恋愛とはチャンスではない。意思だぞ。ここでコーヒーを飲みながらサボっている暇があるのなら、当たって砕けてきたらどうだ?」
「太宰治ですか。さすがは金欠という共通点のある作家にはお詳しい」
全く見当違いの配慮と忠告を繰り返す老人に、私が意図的に混ぜっ返すと、香風老人は頬を膨らませて「怒ったぞ」とでもいうような表情を、わざとらしく作って見せる。そんな事だから「黙っていればダンディなのに」と店の客に言われているのだが、それを私から伝えるつもりはない。
それにしても、この老人はどうやら私についてとんでもない勘違いをしているようだ。私はわざわざ指摘する義務がないにもかかわらず、これもボランティア精神だと割り切って、老人の事実誤認を懇切丁寧に指摘した。
「勘違いしてもらっては困りますね。私の青山さんに対する感情は、恋心という言葉でラッピングした、下心とかスケベ心とか、そうした下種な感情とはまったく正反対なものです」
「隠すな隠すな、貴様とワシとの仲ではないか」
「え?他人同士ということですか?」
すっとぼけた回答をしたにもかかわらず、香風老人はニヤニヤとした表情を変えない。どうやらこの老人は、私がこの店を頻繁に訪問する理由を、自分のコーヒーではなく、私が2度目の来店の際に出会った女性に一目ぼれしたからだと考えているらしい。
なるほど。如何にも俗人らしい発想だ。それにしてもいい年をしているのに、この老人はどうも深刻な恋愛脳に罹患していると見える。素人では手の施しようがない。私は改めて、ホスピタルで末期患者と接する介護士のような忍耐強さをもって老人と接することを決めた。
「青山さんはそのような下種な感情の対象としてもよい存在ではありません。彼女は女神です」
「……め、女神?」
私の言葉に、それまでのニヤケ顔を崩して、ただあっけにとられる香風老人。
やれやれ、なんと嘆かわしいことだ。この老人はあの女神と直接言葉を交わすという栄光に恵まれているのにもかかわらず、その幸運をまったく理解していないとは。それに比べれば、この店に閑古鳥が鳴いていることなど、まったく些細なことでしかないのに。
「そう。女神です」
私は未開人に神の栄光を説く宣教師のような気分で、香風老人に彼女の素晴らしさを力説した。
「混沌と破壊があふれたこの地上に光臨した女神。世紀末にノストラダムスの予言した恐怖の大王は光臨しませんでしたが、彼女こそがマルスであり、この地上を首尾よく支配するために舞い降りた女神」
「お、おう。そうだな。女神だな。マルスは男の神だったはずだが」
何故か後ろに退く店主に、私は重ねて力説した。
「マルスでありヴィーナスなのです。戦と農耕の神であり、かつ美と愛の神。強く優しく美しく、そして愛する。まさに彼女に相応しいではありませんか。一人二役、一石二鳥の一粒で二度おいしい御菓子。それこそ彼女なのですよ」
「お、おう。そうだな。菓子に例えるのはどうかと思うが……ところで念のために尋ねるのだが、つまり貴様は青山に恋愛感情はないのだな?」
この老人は私の話を聞いていなかったのだろうか。私は頭を左右に振り、老人にもわかるような言葉を選んで続けた。
「貴方は教会のマリア像や、寺院の仏像に欲情しますか?しないでしょう。つまりそういうことですよ」
「……私にはお前がどこぞのアイドルオタクの様に、童貞をこじらせた頭のおかしい人間だということしかわからないのだが」
「俗世間の汚泥にまみれた一般人に理解してもらおうとは思いませんよ。それとコーヒーお代わりもらえます?」
「何様だ貴様は!」
「お客様ですよ」という私の言葉に、香風老人は「馬鹿」と客商売にあるまじき暴言を返してから、奥へと入っていった。
その後姿を見送りながら、私は女神との出会いについて思い返していた。
仏画や仏像において、その背後に表現される金色の光を後光と呼ぶ。仏や菩薩の体から発するとされる光の総称であり、キリスト教でも光背という聖人や預言者、天使などの背景に表現されることが多い。一般的な日本人らしく、ご都合主義による世俗的な多神教徒である私は、それらを宗教家のつまらぬ装飾に過ぎぬと冷笑していた立場であった。
しかし彼女-
私が店主にその奇跡について力説したところ「ただの西日ではないか」と冷たくあしらわれたが、誰がなんと言おうとあれは後光である。直接見た私がそういうのだから間違いはない。香風老人?どうせ老眼鏡をかけ忘れていたのだろう。
私が初めて青山女史を見掛けた時、彼女はこの街の有名なお嬢様学校のブレザータイプの制服に身を包んでいた。女性としては平均的な身長にもかかわらず、青山女史は実際よりも背丈が大きく見える。おそらくけた外れなまでの人物としての器が、実際の肉体的なものを遥かに凌駕しているからなのだろう。
そして私の鋭い観察眼によると。彼女は着やせするタイプであり、胸元の暴れん坊を見事に隠していた(後にそれは証明される)。あれほどの暴れん坊を二つも飼いならすとは、やはり彼女の器量の大きさが伺えるというものである。つまりこの点からも彼女は聖人であり、女神であり、観世音菩薩様ということになる。
これにて
まったく隙のない完璧な証明だ。我ながら自分の才能が恐ろしくなりそうだ。
さて女神の容貌について語ろう。
当時の彼女は銀色に近い金髪を肩下あたりまで伸ばし、それを2本の三つ編みにして両肩から前にかけるという特徴的な髪型をしていた。それを思いっきり引っ張ってやりたい誘惑に駆られ、私は幾度となく自分の罪深き考えを自ら断罪したものだ。
少したれ目気味の大きな瞳は、一目見ただけで吸い込まれそうになるほど魅力的であり、知性と母性が奇妙に調和した瞳に見つめられると、この薄汚れた俗世界の表層を渡り歩いてきただけの私の愚かさと罪深さを思い知らされる。
きれいに整えられたハの字の眉毛に、ゆでた手の生卵の殻をむいたようなぷるんとした肌。小さな口元に通った鼻筋といった顔のパーツの黄金比率。まさに神が配分したとしか思えない完成度。
「あ、どうもー」
そう、そして声はちょうどこんな……
……こんな?
「すみません。こちらのマスター、お見かけしませんでしたかー」
私が振り返ると、そこにはコテンと首をかしげる青山女史が鞄を右手に、何故か左の脇には原稿用紙の束を抱えた制服姿で立っていた。
女神に話しかけられるという光栄を賜ったことを喜ぶよりも前に、私は思わず視線をドアへと向け、いつものように戸の内側にぶら下がっているドアベルを確認する。はて、音がしなかったのか?
いや待て、彼女は女神なのだ。ドアベルを鳴らさずに戸を開け閉めすることなど、青山女史にとってはブレックファースト前というやつなのだろう。
「お、奥にいましゅよ」
「いましゅ?」
私は女神に話しかけられるという驚きのあまり、噛んでしまうという醜態を晒した。
「あの、マスターに何か?」
その上で私は自らの醜態を誤魔化すため、何事もなかったかのように、思考が混乱しているのをいいことに自ら女神に話しかけるという、無礼打ちをされても仕方のない大罪を重ねてしまった。
しかしそこは女神である。私のような罪深き不浄の者が話しかけたにもかかわらず、彼女は嫌な顔ひとつせずに、その理由を教えてくれた。
「秘密です♪」
……萌え死ぬかと思った。
*
「情けない。女神だ何だとあれだけ褒め称えておきながら、いざ目の前になるとまともに話も出来ない」
私は台風中継のキャスターのように、絶え間無く正面から吹き付ける香風老人の暴言を耐え忍んでいた。
女神、もとい青山女史は私の心をしっかりキャッチした後、奥から出てきたマスターに原稿用紙の束を渡すと「今日は家の用事がありますので」と申し訳なさそうに謝ってから、足早に店を退出した。
そして私と女史との会話……と呼ぶにも値しない私の一方的な動揺を奥で楽しんでいたという香風老人は、カウンターの内側に受け取った原稿用紙を置くと、ここぞと言わんばかりに私をからかい始めた。
「お前はそれでも男か。男なら当たって砕けるつもりでいかんか!」
「砕けるのが前提なんですか?」
「そうだ。その上でタップダンスを踊って、砂になるまで粉砕してやるから安心しろ」
いい気味だといわんばかりの笑みを浮かべて、お代わりのコーヒーをこちらに渡す香風老人。まったくいい性格をしている。智乃ちゃんにこの爺さんの性格が隔世遺伝しなくてよかったと心の底から安堵しつつ、私はコーヒーに口をつけた。
女神のいなくなった店内の風景は、実に殺風景なものに戻り、それは私の飲むコーヒーの味にすら影響を与えている。先ほどより酸味がきつくなったが、それでありながら全体としては味の調和が引き締まったような気も……
「ブレンドの配合を変えたのだから、味が違うのは当たり前だ」
さいですか。
私が2杯目のコーヒーを飲む間も、老人の自慢話は続く。
制服から予想はついていたが、青山女史はあの有名な御嬢様学校の2年であり、文芸部に所属する文学少女である。この店の常連であり、マスターの香風老人とは高校入学来の顔なじみ。時折、彼女から作品の講評をお願いされる関係なのだとか
実にうらやましい。
いつもなら彼女がコーヒーを楽しんでいる間に、香風老人がその場で目を通した大まかな講評をした後、詳しい添削を数日後に行うというのが2人の間の一種のルーティーン・ワークとなっているそうだ。さすがに本業が暇なだけある。私は羨ましさのあまり、思わず店主の胸倉につかみかかりそうになった。
「見たいかね?」
掛け合いを終えて私が再びコーヒーを楽しもうとすると、香風老人がドヤ顔をしながら、女神の原稿用紙を見せびらかすように私の前に突き出す。
「いや、それはダメでしょう」
本音を言えば読んでみたい気持ちはあったが、私は子供じみた老人の挑発に乗ることを避け、丁重に固辞した。
「それは青山さんが貴方の意見が聞きたくて渡した原稿です。関係のない第三者が、面白半分で見てよいものではないでしょう」
私が未練たらしくも真面目腐った顔でそう発言すると、香風老人はさも意外だとでもいわんばかりの表情を浮かべる。
一体、この爺は私のことを何だと思っているのだ?私は口を突き出して、その理由を応えた。
「原稿用紙は20×20の400字詰めです。その厚さだと100枚以上はあるでしょう。今はパソコンの基本ソフトをはじめ、携帯端末のアプリなど便利な執筆道具はいくらでもあるという御時勢ですよ?鉛筆かボールペンかは知りませんが、いまどき手書きでそれだけのものを書くという人が、一体どれだけいますか」
青山女史の着ていた制服の右の袖は、明らかに擦り切れていた。私は直接見たことはないが、おそらくかつて課題に取り組んだ学生や、論文に頭を悩ませた院生たちも、同様に袖が擦り切れていたのだろう。彼女の作品の巧拙は知る由もないが、彼女の表現者としての努力の結晶が、こうして私の目の前に形としてある。私のような中途半端な立場の人間が、興味本位で手に取ってよいものではないはずだ。
つらつらと脈絡もなく、私が自分の腹積もりを香風老人に伝えると、老人は「ふむ」と呟き、いかめしい顔のまま胸の正面で組んでいた腕を解いた。「見せるつもりもないのに、試すような真似をしないでほしい」という私の主旨は伝わったようだが、続く老人の発言は私にとっても想定外であった。
「……ここで強引に貴様が見せろと騒ぐようなら、これ幸いと出入り禁止の口実にしてやろうと思っていたのだが。それも出来なくなったな」
「おい爺さん」
「なに、本気だから気にしなくてもいい」
「余計に気になるわ!」
香風老人は声を荒げる私を見て「あはは」と口をあけて笑う。私は内心で冷や汗をかきながら、老人のテストに対する自分の回答が間違っていなかったことに安堵した。
先ほど私が香風老人に対して語った内容に偽りはないが、すべてを語ったわけでもない。
私は自分の理性には何の自信もないが、打算を前提とした節制に関しては自信がある。女神と直接会話出来る機会が再びめぐってくるか否かは神のみぞ知るが、同じ場所でコーヒーを飲む機会を失ってなるものか。
語らなかった私の下心を見透かしていたのか、それとも本気で気が付いていなかったのか。ともあれ香風老人は、私の回答に満足げに頷くと、分厚い原稿用紙の束を片付けた。
おそらくこの瞬間、私は初めて「ラビット・ハウス」に迎え入れられたのかもしれない。
「まあ悪く思うな。女神だの何だのと気持ちの悪いことを臆面もなく主張する人間を、私の常連に近づけさせるわけにはいかないからな」
「あの店長さん?僕もそれなりの常連だと思ってたんですけど、違ったんですかね?」
「お客さん。初めてですか?うちはコーヒーが自慢なんですよ」
「知ってるよ!」
香風老人はもう一度、口を大きくあけて笑った。
香風老人「しゅよwww」
主人公「うるせー!」
青山翠「あらマスター、楽しそうですね」