勘違いをしていただいては困るが、ラビット・ハウスのオーナー兼マスター兼バリスタ兼料理人である
デザートのケーキ類こそ近くの洋菓子店から購入しているが、コーヒーはその殆どの工程が自家製であり、紅茶についても基本的には葉から抽出する本格派だ。パスタやトーストといった軽食類、パフェやパンケーキなど、店のメニューの内、9割が自家製である。これは喫茶店のみならず飲食店としては異例の割合だろう。バイトとしての贔屓目を抜きにして、これだけのものを手伝いもなく1人で作れる料理人は、そうはいないに違いない。
そしてその全てが美味い。賄い等で私が自分の舌で確認しているので、間違いない。
最近は接遇というらしいが、接客態度も実に品格がある。必要以上にニコニコすることもないが、かといって無愛想というわけでもない。身だしなみは常に清潔であり、頭髪も髭も整えられており、爪の手入れにも余念がない。店主として客の言動に干渉せず、かといって無関心ではない。店内で発生するあらゆる事象に鋭く目を光らせており、知りながら知らないフリをすることもあれば、問題を未然に防ぐために先手を打つこともある。
その全ては、自らが理想とする憩いの空間において、至高の一杯を提供するため。茶道における一期一会の精神を喫茶店において体現しようとしているのかもしれない。
こうした不断の努力と積み重ねにより、常連客の殆どはマスターのファンであり、新規のお客様であっても、マスターに魅了される人は多い。
しかし欠点が長所足り得るように、長所もまた欠点たりうる。
料理人としての香風老人は、品切れによるサービスの不徹底を恐れるあまり、必要以上に商品を仕入れる悪癖に繋がっている。自らが理想とするものにふさわしいものを出そうとする料理人としての創意工夫と誠実性は、食材や原料のコストが高止まりになる傾向がある。基本的に1軒の喫茶店が仕入れる材料など量が知れているため、どうしても営業所や仲卸業者としては価格を高く見積もらざるを得ない。そのため、ただでさえ高い原価に、さらにプラスされることになる。
専門の事務員が別にいれば、客観的な視点からそれを指摘出来るのだろうが、「ラビット・ハウス」の場合は1人(つまり店主である香風老人)ですべてを兼任している。ホールはもちろん、掃除や片付けも基本的には自分でしているために、発注作業は「ながら作業」になりやすく、電話注文による二重発注が発生しやすい。
日々の売り上げ入力に、仕入れ伝票の会計ソフトへの入力、仕入れ価格のチェックに、締め日ことの集計といった経理業務、郵便物の仕分けと決済、保険の更新手続きや行政からの広報確認等々……
また加えて、おそらくこれが一番精神的なストレスになるのだろうが、仕入先への期日ごとの支払いや、資金繰りの算段、会計事務所との打ち合わせや、借り入れの残る金融機関との返済計画の折衝といった経営者としての判断が必要になる業務。これらは誰にも肩代わりが出来ない、そして一番重要な仕事である。
取引銀行に当座貸越があるからと甘えていては、直ぐに足が出る。ガスや光熱水費は基本的に引き落としであるため、これを資金繰りに忘れていると大変なことになるし、これらはあくまで「毎月」のことだ。
決算月には会計士とも相談した上で法務局など各役所を走り回って膨大な書類を提出し、金融機関にその内容を説明して、来季を生き延びるためのつなぎ融資を要請するために、実現性に乏しい事業計画を説明するために飛び回る。固定資産税、住民税に地方税、1年間をまとめて支払う消費税等の支払いなどがある月には、さらにその負担が重くなる。
「よく今まで、ひとりでやってこられましたね」
「私もそう思うよ」
銀行や会計事務所との打ち合わせを行うため、ラビット・ハウスの定休日は水曜日である。香風老人は午前中に事務処理を片づけ、私は午後の授業が臨時休講になったこともあり、昼からは老人と一緒に倉庫の整理作業に従事していた。
ラビット・ハウスの棚卸(年間決算に使用する在庫調べ)は9月末だが、今回は二重発注を防ぐための臨時調査であり、倉庫整理も兼ねている。棚卸しの商品を記入する用紙をコピー機にかけ、クリップで留めるタイプの下敷き型バインダーに挟んだそれを、香風老人が持つ。私が商品の名前を確認して読み上げ、マスターが品名と数量を記入するといった役割分担をすると、片っ端から商品を数え上げていく。
「マスター、これはどうします?」
私はバイト中は香風老人を「マスター」と呼び、基本的に敬語で話しかけることを心がけている。こうした場面でなーなーで馴れ合うと、結果としてろくなことにならないのは高校時代のアルバイトで経験していたからだ。
そのマスターは倉庫整理を始めてから渋面を浮かべ続けていたが、私が奥から取り出した変色した袋に、さらにその皴を深くする。
「初めて見たな。そんなものを注文した記憶はないんだが」
「どうしてマスターが見たことがないものが、ここにあるんですか」
「……とりあえずは廃棄処分で」
マスターの判断に従い、私は期限切れの商品や空箱を外に運び出していく。さすがにコーヒー豆に関してはマスターは在庫を正確に把握していたが、それ以外のものとなると、まあ出てくるわ出てくるわ……
「今まで一体どうしていたのです?まさかどんぶり勘定のまま何年もやってこられたわけではないでしょう」
「去年までは息子がこの倉庫を管理していたからな。あれは締まり屋でな」
「息子さん?あぁ、智乃ちゃんのお父さんですか」
「そうだ」
よく喧嘩したものだと、香風老人はどこか懐かしそうに語る。死んだわけでもあるまいし、出稼ぎに出ているだけなのにどうしてそのようなことをいうのか。私にはどうにも理解しかねた。
「まったく、昔の付き合いだかなんだか知らないが、実の娘をほったらかしにして傭兵稼業に戻るなど、あれの考えることはわからん」
何やら不穏な単語が聞こえた気がしたが、私は聞こえなかったふりをした。あまり他人の家庭の事情に深入りするべきではない。それにしても、ここは本当に日本なのだろうか。私は再び、その疑念を強めた。
「ところで最近、智乃ちゃんはどうです」
「それだよ」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、香風老人は孫自慢を始める。
どうやら「私がこの店を守る」と宣言した8歳の少女の決意に偽りはなかったようであり、あれから智乃ちゃんは祖父に対して、コーヒーに関する教えを請うようになったそうだ。
自身が一生を費やしたコーヒーについて、目に入れても痛くない孫が関心があるという事実が、香風老人には嬉しくてたまらないようだ。智乃ちゃんは私がアルバイトのシフトに入っていない時には、カウンター席に陣取りながら手とり足取り祖父の動向を注視し、気になったことがあれば直ぐに尋ねているという。なるほど、これ以上ない英才教育であろうと私は納得した。
しかしそれはそれとして、人見知りだからと頭では理解していても、智乃ちゃんに避けられているような気持ちになり、非常に落ち込んだ。
「智乃が継いでくれれば、ラビット・ハウスは20年、いやあと30年は安泰じゃな!」
「そうですね。そのためにはまずここを片付けないといけませんね……丸兎印のキャノーラ油が5缶、いや6缶」
使い切るのに何ヶ月かかるのでしょうねという本音半分、皮肉半分の私の発言に露骨に嫌な顔をするマスターを尻目に、私は商品のチェックを続けた。
*
「……取りすぎたな」
臨時の在庫調べを兼ねた倉庫整理と冷蔵庫、冷凍庫の片付けを終えた香風老人は、カウンターで頭を抱えていた。
その理由はほかでもない、倉庫から山のように出てきた業務用砂糖である。
先月砂糖を仕入れた時は黄金週間前ということで非常に忙しく、また冷凍の鶏肉業者が値段交渉のために来ていたこともあり、別の場所に一時的に仮置きをした記憶があると、マスターは青い顔で振り返る。
確かに砂糖はそう簡単に腐るものではないし、賞味期限は基本的に2年以上を前提としている。砂糖が贅沢品から一般嗜好品になるに従い、現在では国内の複数の大手商社が、河上の製造元から、河下の小売業者やメーカーの流通まで全てを掌握しつつあるので、短期間で極端に値段が変動するものでもない。仮に1ヶ月や2ヶ月程度、間違えて多く入れたところで、砂糖は料理であれ菓子であれ、必ず使用するものだ。そのため賞味期限切れになって廃棄することは、基本的に想定されていない。
どうにもそれが慢心の元であったらしい。ラビットハウスの倉庫には、1年使っても使い切れないだけの上白糖と中双糖が積み重なっていた。
賞味期限は2年弱あるので問題ないといえばそうなのだが、これが在庫として来年の決算まで残り続けるというのは精神的に良くないし、何よりお客様に申し訳が立たない。黙って出せばわからないとは思うが、香風老人の料理人としてのプライドと誠実さが許さないのだろう。老人は根が真面目なだけに、真剣に悩んでいるようだ。
こればかりは営業判断であるので、私も口出しすることは出来ないし、許されるべきではない。人は立場と給与に応じた責任しか背負えないのだと、私は両親から叩き込まれていた。
「……仕方あるまい」
10分以上もそうして唸り続けていた香風老人であったが、ようやく顔を上げる。そして「ラビット・ハウス」のマスターは虚ろな目のまま、断腸の思いで決断したという自らの解決策を私に伝えた。
「あのババアを頼るしかあるまい」
*
「帰んな!」
「え、ちょ、塩ぉ!!」
私もそれほど長生きをしたわけではないが、顔面にいきなり塩を、それも塩壺1杯程もあるそれをぶつけられる経験は初めてだった。
「ラビット・ハウス」の営業時間終了後、店から10分ほどの距離にある和菓子屋店舗兼喫茶茶屋の『
私はてっきり余剰に仕入れた商品の買取を依頼するぐらいなので、相当程度関係の深い-少なくとも友好関係にある店だと考えていたのだが、それはどうやら大いなる勘違いであったらしい。それにしても、マスターが連絡を入れると言っていたにも関わらず、この対応はどうしたことか。なにか連絡の行き違いがあったのか、それとも人違いなのか。さすがに私は厳重にその場で抗議しようとしたが、塩の量があまりにも多く、鼻や口に入り込んだそれが原因でひどく咳き込んでしまった。
「しゃろちゃん!あれがオニじじいのてしたよ!さあ、どんどんなげちゃえ!」
「やだよー、こわいよー……」
涙でよく見えないが、どうも老女の孫と思われる少女達も一緒になって塩の塊を投げつけてきている。どうも人違いではなく、意図的な攻撃のようだ。
「ラビット・ハウス」と「甘兎庵」の関係がどんなものなのか知らぬままに引き受けた私もよくなかったのかもしれないが、それでもこの対応はあんまりではないか。地元では温厚篤実な聖人君子の変態紳士として知られる私も、これには堪忍袋の緒が切れた。
「いくらキロ単価が、げふっ、安いからといっ……がっくしゅん!……し、塩をこんなに粗末にするとは、バチが、ふぇっくしょん!!……あたり、ますよ……ふぇっくしゅ!」
「心配しなくていいよ!どうせそれは外に置いた盛塩を回収したやつだからね!いつかジジイにぶつけてやろうと思って貯めておいたやつさ!」
「し、心配とか、そういうもんだいじゃ、ね、ねえだ、ふぁっくしょえええ!!」
「きったないねぇ!ジジイはどんな店員教育をしているんだい!」
「しゃろちゃん、ぼでーよ!ぼでーをねらうのよ!おうごんのみぎよ!」
「もうやだー!!わたしおウチにかえるー!!」
「ジジイに伝えな!頼みごとがあるのなら、バイトなんかにやらせないで、自分で頭を下げに来いってね!」
私は這々の体で、くしゃみを何度もしながら台車を押して逃げ帰った。
*
ラビット・ハウスに戻ってみると、マスターが私の様子とは全く関係なしに、何故か臨戦態勢へと移行していた。
どうも電話口で相当激しくやりあったらしく、その顔は普段の冷静さをかなぐり捨てており、血が上っているのか朱に染まっている。制服を肩まで腕まくりをして、背中の中心でクロスをするように襷をかけて固定。頭にはハチマキをして、どこから引っ張り出したものか竹刀を両手に持っている。今時、北関東の暴走族でも警察の視線を憚って、もう少し大人しめの格好をするだろう。
「糞ババアに舐められてたまるか!」
私は出来る限りかかわり合いになりたくなかったが、ともかくこのままではしゃべることすらままならない。私は外の水道の蛇口をひねると、顔に付着した塩を念入りに流水で洗い流した。
水で頭を冷やしながら、私はどうするべきか思考を巡らせる。
砂糖の在庫を見つけたのは自分だが、二重発注はマスターの責任であって、バイトである私には何の関係もない。そして同じように、雇用する義務などなかった自分をバイトとして雇ってくれたことを考えると、頭から関わり合いになることを否定することは、どうにも不人情の不義理に思われた。
いかにもブラック企業でサービス残業を肯定する従業員のような発想が自分にもあったことに、私はたいそう驚いた。しかし結局のところ、この爺さんを突き放すだけのことが出ないだけなのかもしれない。私は自分の優柔不断さを情けなく思ったが、同時にそんな自分も、そしてこの老人も嫌いにはなれずにいた。
私は塩を洗い流すと、しかたなく香風老人に向かって、私が塩を投げつけられた理由の説明を求め、そして老人の奇行について尋ねた。
「あの糞ババア、こちらが下手に出ればいい気になりおって!戦争だ!!」
「そのま、前…ふぇっクシュ!……前にですね、あの、甘兎庵の主人に、何を言われたんですか」
香風老人は顔面を真っ赤に染めて、私に竹刀を突き付けて叫んだ。
「あのババア、ワシがせっかく『定価の1割引で上白と中双を200キロずつ売ってやる』と伝えたのに『また買いすぎたんだろう!3割引だよ!』と言い返しやがった!前にババアが間違って三温糖を買いすぎた時は、ワシが4割引で協力してやったのに、そんなことが許せるか!こちらから作業場に運ぶサービスもつけてやろうというのに、人の足元を見るとはあの因業ババア、商売人の風上にもおけない!前は2割で妥協してやったが、今回は絶対に譲らんぞ!戦争だ!いざ出陣、我に続けぇい!」
「あ、私時間ですので帰りますね」
お疲れ様っしたー
*
翌日、マスターは上白220キロと中双220キロを引き取ることを条件に、前回と同じ2割引で、ただし基本価格は業界全体が6月に為替変動の影響で値下げする前の価格にすることで折り合いをつけたと、私に対して得意げに語った。
私の知ったことではない。
結局、塩を顔面に投げつけられた私が一方的に損をしただけではないか。ナメクジなら即死だったぞと憤慨していると、マスターは「糞ババアからだ」と言って、甘兎庵特製の栗羊羹と芋羊羹を1本ずつ渡してきた。「流石にやりすぎた」ということで、どうもお詫びのつもりらしい。
私はどこか生き生きとしていた、砂かけ婆ならぬ塩かけ婆の姿を思い出しながら、大きなくしゃみをした。
*
翌日、私は病院で流感の診断を受けた。
千夜「しゃろちゃんのぼでーへのいちげきがきいたのね!おてがらよ!あまうさじゅーじどーしょーものよ!」
紗路「しらないよー!そんなものいらないし、わたしをまきこまないでよー!」