俺がツクバネ荘で暮らし始めてから、早いもので三日経った。
人間、案外適応能力というものが高いらしく、少しずつだがこの寮での生活、そして管理人代行の仕事にも慣れてきた。学校が始まればまた変わるかもしれないが、俺の日常生活は順風満帆と言っても差し支えないぐらいには上手く行っている……と思う。
そして今日も春休みにも関わらず朝早くに起きて、朝食作り。今日のメニューは何時ぞやリクエストのあったホットケーキだ。
「わぁー! ホットケーキだぁ! 美味しそう食べていい!?」
朝食の準備も終わり、住民達が次々と集まって来る中、リクエストした張本人であるリリスは、我ながら自信作であるふんわりと焼けたホットケーキを目の前に、キラキラと子供のように目を輝かせる。
今にも食いつかんとする彼女に、右手を突き付けながら待てと命令しながら、俺は全員分のホットケーキと牛乳を並べて、自分の席に座る。
他のみんなも例の号令を待って、ホットケーキと向き合う。いつも通り衝羽根さんを除いた全員が揃っている事を確認してから、俺は両手を合わせてお決まりの言葉を口にした。
「それじゃあ、いた――」
「いただきまーす!!」
俺の言葉が七十パーセントも発されない内に、リリスはいち早く叫んでホットケーキを頬張った。
「んー! ふっわふわ! サイコー!!」
「そ、そうか……それはよかった。おかわりはあるから、欲しけりゃ言ってくれよ」
「本当!? わーい! じゃあおかわり!」
シュバっと、リリスは綺麗に空になった皿を俺に渡す。
早いなオイ……お前の口は掃除機かなんかか。でも、喜んでもらえたようで何よりだ。
自分のホットケーキを口に付ける前に、俺はリリスのおかわりを取りに席を立った。
おかわりを持って行くと、今度はゆっくり味わうように、リリスはモグモグと幸せそうな顔で咀嚼を繰り返す。他の皆もそんな彼女を横目に、ホットケーキを食す。
みんな、ある程度満足そうにホットケーキを食べる中、一人だけ食が進んでない者が居た。グレンだ。
「えっと……もしかして、口に合わなかったか?」
心配になったので俺は勇気を少し出して、彼に話し掛けた。が、案の定彼は何も言わず、ヤンキーのように鋭い目をこちらに向けるのみ。
「グレン、甘い物はあんまり好きじゃないんですよ」
困っている俺に助け舟を出すように、マリクが説明する。
「あ、そうだったのか。悪い知らなくて……あ、なんか別に作るか?」
「……別に構わねえよ。腹が膨れれば何でもいい」
そう言いながらグレンは、蜂蜜がたっぷりかかったホットケーキを口にする。若干、眉間にシワが寄る。
やっぱり口には合わないみたいだな……かといって今更何か新しいの作っても、素直に受け取ってはもらえないだろうな。今度から気を付けよう。
「あ、グレン、ホットケーキ食べないの? じゃあ私が貰ってあげる!」
すると突然、リリスがグレンの皿に盛られたホットケーキにフォークを伸ばし、一瞬にしてそれを自分の口に頬張った。
「なっ……!? テメェ何してやがんだ!」
「ほぇ? だってグレン、ホットケーキあんまり好きじゃないんでしょ?」
「確かにそうだが、だからって許可も貰わずに勝手に人のもん持ってくなクソ女!」
「あー、ゴメンゴメン。それは謝るよ。でもどうせグレン食べないんだから、結果オーライだよ結果オーライ!」
「はぁ……?」
「もー、そんなカリカリしないでさ! ほら、牛乳飲もう牛乳! かるしうむ? 取ると、イライラしないんだって! グレンいつもイライラしてるし、飲みなよ!」
満面の笑みを浮かべながら、リリスは牛乳をグレンに差し出す。
ふと、グレンの額に、ブチッ、という音と一緒に血管が浮き出たような気がした。
「あ、ヤベ」
「はぁ……」
すると、皆が一斉にホットケーキを片手に椅子ごと二人の周りから離れる。一方で、俺は状況を飲み込み切れず、その場でリリスとグレンを交互に見る。
あ、これマズイ――そう、俺が気が付いた時には既に手遅れ。グレンの右手に、炎が灯った。
「テメェが毎回イライラさせてんだろうがぁ……このクソアマァ!!」
猛々しい叫びと共に、炎の豪速球がグレンの右手から放たれる。
「どおぉぉぉぉぉぉお!?」
「うわっちょ!?」
火の玉が俺とリリスの目の前を通り過ぎ、そのまま壁に激突して爆発を起こす。
「待てやこの猿女!!」
「ほーらまたイライラしてるー。かるしうむ取ろうよ、かるしうむ!」
「かる何たらよりも、テメェ消した方がスッキリすんだよ! さっさと消し炭になりやがれぇ!!」
リビングで繰り広げられる、火の玉を用いたドッジボール。リビングには爆発が巻き起こり、その中でグレンとリリスが駆け回る。
「ちょ、落ち着こう二人とも! リビング壊れる! 冷静に――アッツ!?」
爆発による熱風が、俺の縮こまる全身を撫でる。
パニックでてんやわんやする俺とは対照的に、他の皆は部屋の隅でホットケーキを堪能していた。
「あー、ああなったらしばらく収まんないから、安全な場所で終わるの待っとけよ。あ、蜂蜜こぼれた」
「安全な場所どこ!? つーかリビング壊れるでしょコレ!!」
「ああ、それならご心配無く。僕の魔法で被害が最小限になるようにしてますから。うん、ミルクも新鮮です」
「出来れば被害の原因をどうにかしてくれません!」
「そうです! このままでは朝陽さんも目覚めてしまいます! 早く止めないと――あ!? 私のホットケーキが床にぃ!?」
「いやそれ以前に近所大騒ぎでしょ!」
「それもマリク君の魔法でどうにでもなるわよぉ。あ、界人君おかわり貰っていーい?」
「あんた達恐ろしいぐらい冷静だな!! 危機管理能力が壊れていらっしゃるのかな!?」
なんでこんな戦場みたいな状況で優雅にホットケーキ食べれるんだよ! あんたらそれでも日本人!? ……あ、異世界人か。
「でも、このままじゃマジでヤバイでしょ!」
「大丈夫よ。きっとそろそろ……」
ミミがそう口にした直後。リビングの扉が、ガラスが割れるんじゃないかという勢いで開かれる。やって来たのは、衝羽根さんだ。
「お前ら……朝っぱらから喧しいんじゃボケカスアホォ!!!」
と、爆発音よりも何倍も大きな怒号を轟かせながら、衝羽根さんがスリッパをぶん投げる。
「グオッ!?」
「イッタイ!?」
「なんで俺!?」
スリッパはピンボールのようにグレン、リリス、そして何故か俺の頭に激突する。
「朝は静かにしろってお母さんに習わなかったのかあぁん? 騒ぎてえなら誰も居ねえ場所でやれ! 今度騒がしい音出したら承知しねぇぞこのおんどりゃぁ!!」
と、誰よりも騒がしく怒鳴り散らす衝羽根さんに、リリスもグレンも俺も、何も言えなかった。
慣れた気でいたけど……やっぱり、そんな事無いかもしれない。
◆◆◆
朝の騒動もなんやかんやで無事……かどうかはさて置き終息し、俺は自室で今日の予定について考えていた。
「今日の夕飯はどうしようか……掃除とかは今日はそんな時間掛からなそうだし、買い物でも行こうか……」
メモ帳と向き合いながら、着々と本日のスケジュールを組み立てていく。
「よし、こんな感じかな。まずは……スーパーに買い物に行くか」
善は急げ。早速着替えて、買い出しに向かう。
「あれ? 界人、どっか行くのー?」
玄関に辿り着くと、そこにはリリスの姿が。ショートパンツに半袖Tシャツといった動きやすい服装で、可愛らしいデザインの青いスニーカーを履いている途中だった。
「いや、買い物にな。そっちは?」
「ちょっとお散歩! 今日は天気良いし、たまにはブラブラしようかなーって」
靴を履き終えると、リリスはピョンと跳ねるように立ち上がり、トントンとつま先で地面を突く。
「あ、そうだ! もしよかったら私、買い物手伝おうか? 荷物持ちぐらいするよ!」
「え? でもいいのか?」
「全然オッケー! どうせどこに行くー、とか予定無かったしさ。それにこの機会に、界人と色々お話したいしさ!」
「そうか? じゃあ……付き添い、お願いしようかな」
「任された! 力には自信あるから、ジャンジャン買っていいよー! 卵とかー、牛乳とかー、砂糖とか!」
「見事にホットケーキの材料だな……まあ、よろしく頼むよ」
どんと来い、とリリスはしたり顔で胸を張る。それなりに膨らみのある胸部が強調され、つい目を逸らす。
改めて見ると、リリスはかなり美人……いや、彼女の場合は可愛いと言った方が似合うかもしれない。綺麗でまん丸な水色の瞳が目立つ、少し幼さの残る顔立ち。引き締まったスタイルと、見た目だけなら非の打ち所が無い。
というかここに居る女性陣は、皆美人だ。というか男も割と美形が多い。和人も二十五パーセントは日本人なのに、俺とは違って大分顔面が整っている。
俺も顔面偏差値は悪い方では無いとは思うが、そんな美男美女軍団に自分が居るのは、ちょっと気が引けるな……まあ、あんまり気にしない方がいいか。生まれた世界が違うんだし、そりゃ容姿に差が出る。そう、思っておこう。
ちょっとした落ち込みモードに移行しそうになったが、気を取り直して俺はリリスと二人で寮を出てスーパーに向かう。
「そういえば……リリスは、どうしてこっちに来たんだ?」
道中、ふと気になったので問い掛けてみる。
「ん? こっちに来た理由? えっとね、楽しそうだったから! かな?」
「ま、またざっくりとした……一応、留学生なんだろ?」
「うーん、そういう難しい事はよく分かんないや。でも思った通り、こっちは楽しいし、ご飯は美味しいし、来てよかったよ!」
「そっか。……しかし、リリスはいつも元気だな」
「もちろん! 常に元気で笑顔が一番! が、私のモットーだもん!」
リリスは言葉通り、ニッコリと笑顔を作る。
「元気で笑顔なら、毎日楽しいでしょ? だから私は、周りのみんなにもそうしてもらいたいんだー。みんなが笑顔なら、私も嬉しいし元気になるし! だから、私も毎日笑顔でいるって決めてるの! みんなが笑顔になる為に!」
「へぇ……」
根っからの元気っ子なんだな、リリスは。そんでもって、優しい。グレンにちょっかい出してるのも、ムスッとしてないで笑顔になってほしいとかか? まあ、逆に苛つかせてる訳だが。
「ねぇ、界人はツクバネ荘に来て、楽しい?」
そう問いながら、リリスがこちらの顔を上目遣いで覗き込んでくる。
「え? うーん……正直大変な事も多くて、毎日てんやわんやだけど……まあ、悪くは無い、かな」
「そっか……ならよかった! これからいっぱい、楽しい事があるよきっと!」
「ああ、そうだといいな」
そんな風に他愛ない会話を交えながらスーパーを目指して歩く最中、不意にリリスが足を止める。
「どうかしたか?」
「……何か聞こえる」
「え?」
「泣き声……みたいなの」
目を閉じ、両手を耳に添えるリリス。彼女と一緒に、俺も耳を澄ませてみる。
すると春風に乗って、確かに泣き声のようなものが聞こえて来る。これは……子供の泣き声?
「こっちだ!」
リリスは北の方角を指差し、一目散にそちらに向かって走り出す。俺も慌てて、後を追い掛ける。
それから数回曲がり角を曲がって、住宅街を駆ける事約一分。俺達の目の前に、女の子が姿を現す。
「泣き声の正体はあの子か……」
「だね……ねえねえ! どうかしたの?」
迷いも無く、リリスはその女の子に駆け寄り、声を掛ける。彼女の行動力に少し驚きながら、俺も歩み寄る。
「こんなとこで一人で泣いて、どうかしたの?」
いつもの調子でリリスが話し掛けると、女の子は涙を袖で拭いながら必死に話し始める。
「あのね……チョウチョさん追いかけてたら、ママ、いなくなっちゃって……」
「ああ、迷子か……ここら辺曲がり角多くて複雑だしなぁ……」
俺もまだ完全に道を把握してないし、こんな小さな……多分小学生にも満たない子が迷子になるのは無理も無い。
「えっと……お母さんとどこら辺ではぐれたか、覚えてるかな?」
「わかんない……」
「あ、そっか……」
「ううっ……うえぇーーーーーん!!」
寂しさが混み上がってきたのか、女の子は声をさらに大きくして泣き出す。
参ったな……これじゃあお母さんの事を聞き出す事も出来ないぞ……ひとまず、交番に連れてくか?
「ねえねえ。こっち向ーいて」
俺がどうしたものかと悩んでいると、リリスがしゃがんで目線を合わせながら、俯く女の子の肩を叩く。それに反応して女の子が顔を上げると――そこには、両手で頬を引っ張って変顔を作った、リリスのご尊顔があった。
「…………フフッ……」
そのあまりにも崩れた顔に、女の子は小さな笑い声を出す。
「お、笑った笑った! そうそう、いつまでも泣いてちゃ駄目だぞー。笑顔笑顔! ほら、ニィー!」
「に、ニィー……?」
リリスと同じように、女の子も口元に笑顔を作る。
「そうそう! ほら、笑顔になれば、元気になってくるでしょ? だからいつまでも落ち込んでないで、笑っていこ! お母さんは、私が見つけるから!」
「ほ、ほんと?」
「うん! じゃあ、ちょっと行ってくるかなー」
立ち上がり、リリスは軽く屈伸を繰り返す。
「界人、ちょっとの間この子よろしくねー」
「え? 一体何――」
「じゃあ、行ってきまーす!」
溌剌な言葉と一緒に、リリスが足の裏で地面を強く叩く。すると、彼女の体躯は一瞬で天高くに舞い上がり、近くの民家の屋根の上に姿を消した。
「…………うっそーん……」
身体能力高過ぎだろ……異世界人、何でもありだなオイ!
呆然とその場に立ち尽くす、俺と女の子。追い掛ける事など当然出来ないので、大人しく彼女が戻るのを待つ。
そして、待つ事数分。リリスが屋根の上から、俺達の目の前に飛び降りて来る。
「お待たせー! なんかそれっぽい人見つけたよ! 早く行こう!」
「あ、ああ……色々言いたい事があるはずなのに、言葉が出てこない……」
「そんなの後でいいから! 急がないと! さ、お母さんが待ってるよ!」
そう言って、リリスは女の子の体に手を回す。
「だー、待て待て! 地上の道で行くぞ!」
慌ててリリスの行動を阻止してから、俺達は女の子の母親かもしれない人物の下へ向かった。
「あ、あの人だよあの人!」
走る事約十分。リリスが数百メートル先に見える人影を指差す。そこに居たのは二十代後半と思われる女性。何かを探しているように、辺りをうろついている。
「ママ!!」
その女性を見た瞬間、女の子が歓喜の声を上げる。その声に気付いたのか、女性もこちらを向き、慌てた様子でこちらに駆け寄る。
「ああ、よかった! 無事だったのね!」
「ママー! うわぁーーーん!!」
涙を流しながら抱き締め合う二人。どうやら、彼女が女の子の母親で間違い無かったようだ。
「えへへ、これで一件落着だね!」
「だな」
親子の再開にホッと一安心していると、娘との再会を喜ぶ母親がこちらに目を向ける。
「もしかして、あなた達がこの子を? すみません、私が目を離したばっかりに……」
「ああ、いえいえ! 気にしないで下さい!」
「そうですそうです! それよりお母さん、その子の為に、泣いてるんじゃなくて笑ってあげて下さいよ! それに君も!」
リリスはしゃがみ、女の子の目をジッと見つめる。
「いつまでも泣いてちゃダーメ! お母さんと会えたんだから、笑顔笑顔!」
「う、うん……ニィー、だよね?」
「そう! ニィー!」
「えへへ……ニィー!」
「よーしよし! 今度ははぐれちゃダメだかんねー」
「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」
ニッコリと、女の子は満面の笑顔を浮かべる。その瞳には、もう涙は浮かんで無かった。
それから改めて俺達に礼の言葉を送ってから、女の子と母親は二人手を繋いでその場を去る。
そんな彼女達を、笑顔で手を振る女の子を見送りながら、リリスは嬉しそうに微笑んだ。
「うん……やっぱり元気で笑顔が一番、だよね!」
「……そうだな」
見ず知らずの、会ったばかりの子の事でこんなに嬉しそうに笑えるなんて……本当、リリスは優しい子なんだな。彼女の事、少し理解出来たかもしれない。
「……さて、俺達も本来の目的に戻るか」
「あ、そっか! スーパー行くんだったね」
「おう。……そうだな、褒美にリリスの好きな物、一つ買ってやるよ」
「え、いいの!? でも、なんのご褒美?」
「人助けの、かな」
「ふぅん……別に大した事してないのに。でもやったー! 何にしようかなー!」
ウキウキ気分でスキップするリリスの背中を見ながら、俺は彼女と共にスーパーを目指した。