「噂をすれば」
おもむろに少女が振り返り、笑みを深めた。彼女が仰ぎ見る橙色の空に、何か黒い影が飛んでいる。それはみるみるうちに大きくなり――いや、こちらに近づいてきているからそういうふうに見えるのか。それにしても凄まじいスピードだ。ぐんぐんぐんぐん近づいてきて、あっという間に頭の先を掠めるかというほどの距離まで迫ってきて、出久は思わず「ひっ」と悲鳴を上げて両腕で頭をかばった。
ドォォォン!!
その影は先ほどの狼の突撃に勝るとも劣らないスピードで、路地裏の奥に突っ込んだ。再び土埃が舞い、今度は何だと目を凝らす。
人だ。人が足元に転がっている何かに向かって身を屈め、今まさに起き上がろうとしている。灰色のジャケットに深緑のズボン。肩胛骨の内側を突き破るようにして生えているのは、鴉のそれよりも黒い、大きな翼。
振り向いた顔に灯る二つの赤い瞳が、出久を映して大きく見開かれた。
「えっ、緑谷!?」
彼は――翔は、本当に驚いたとばかりに素っ頓狂な声を上げた。出久はちらりと見えた彼の手足から、あの凶悪な黒い爪が生えているのを見た。地面や向かい合ったビルの壁に突き刺さったそれらに、縫い止められるようにして気絶している男の姿も。
そいつは色黒で、サングラスをかけ、ド派手な模様の入った紫色のシャツを着ている。風体は夏の海水浴場でよく見かけるナンパ男と言った感じだが、サイズだ。身体がとにかくでかい。出久の方に足を向けて寝転がっているのでよくは見えないが、翔の二倍は優にありそうだ。そいつの胸の上に立っている翔の位置がそれなりに高いことから、厚みも相当にある。普通の人間ではまずあり得ない体躯だ。個性――筋肉などの肉体部分を増強するタイプの個性だろうか。あからさまに柄の良くないその男は、四肢を投げ出し、完全に意識を失っているようだ。
誰が彼をそのような状況に至らしめたのか。答えは火を見るよりも明らかだった。
「何でこんなところに――」
「やっぱり知り合いだったんだ」
翔の質問が終わる前に、少女が言った。話を遮るような言い方だったのに、彼女の語り口には長年連れ添った伴侶に話しかけるような、実に自然な流れのようなものがあった。
「尾けて来たんじゃない? 翔の後を。いい趣味してるよね」
腕組みをしたまま薄く笑む少女。その鏡のような意図の読めない視線を受け止めて、出久は顔が下向くのを止められなかった。いい趣味。少女の声音には責めるような色は全くなかったけれど、言葉にされると地味に良心に刺さるものがある。
「おいおい翔、こいつが例の「継承者」かよ? おもっきし尾けて来てんじゃねーか。ほんとにこいつにバラして良かったのかよ」
少年は相も変わらず全裸のまま、無遠慮に出久を指さして言った。意図の透けない少女とは正反対に、少年の言葉や視線からは出久への疑心や敵意がひしひしと伝わってくる。
翔は振り返った姿勢のまま何も言わない。ばつが悪そうに下を向き、唇を噛みしめている。彼が何を思っているかはわからないが、自分もきっと同じような顔をしているだろうと出久は思った。
「ほら、聞きたいことがあるなら聞いたら? 「継承者」くん。そのために来たんでしょ」
少女は出久を顎で示し、発言を促した。出久は翔と視線を合わせることができずに下を向く。所在なく中空に浮かんでいた両手で、ジャケットの襟のところを掴む。別に意味はない。誤魔化したいだけだ。何を誤魔化したいのかは、出久にも分からない。
今日も何とか投稿できました~。
何だか話が込み入ってきましたが、この章もそろそろ終わるので根気よくお付き合いください(読者に努力を求めていくスタイル)