「まったく、こんなところに空になった肉体を置いていくなんて、不用心だなぁ」
開け放たれた保健室の窓から、グラウンドの乾いた土の匂いをはらんだ風が吹き込んでくる。それに応じて、ばたばたと帆のようにふくらむ白いカーテンは、西日を浴びて目にいたいほど眩しく輝いていた。
そして、その窓の桟に、片膝を立てて腰掛けている者がいる。
太陽に背を向けるようにして座っているので、顔は影になっていてよく分からない。しかし日射しに照らし出されている身体の線の細さや、緩く一つにまとめた銀色の髪の毛から、女だと言うことだけはすぐに分かる。
彼女は、窓際のベッドに呼吸もせずに横たわっている少年の、地毛とは思えないほど派手な色をした髪の毛を愛おしそうに指で梳きながら、再び口を開いた。
「ま、そういうお馬鹿さんなところが、あいつの長所でもあるんだけどな」
「それお前、絶対ほめてねえぞ」
彼女の言葉に口を挟んだのは、包帯や消毒液などが保管された棚に寄りかかっている男だった。彼がほんの少し身じろぎする度に鳴る、チリ、という音は、耳に付いている十字架の形をしたピアスが揺れる音だ。
「失敬な。ほめてるよ、ちゃんと」
「どっちでも良い。ま、不用心なのは確かだけどな。死神始めて間もないっつっても、ちょいと危なっかしすぎやしねえか?」
「うん」
男の言葉に、女の方が頷いた。その間にも彼女の指は、ぴくりともせずにベッドに倒れている少年の髪の毛に、額に、頬に、触れていく。その手つきは優しく、眠っている赤ん坊に母親がしてやるそれとよく似ていた。
彼女は思う。
これで本当に良いのだろうか。私は選択を誤ってはいないだろうか。
けれど、そんな詮無い思いは即座に頭から消し去る。
躊躇いは決断力を鈍らせるだけだ。それに、今さら何を思ったとしても、もう何もかもが遅すぎる。
選択を誤ってはいないか? 我ながら馬鹿な事を言う。
選択なんて、とっくの昔に間違ってしまったじゃないか。間違ったからこんな、こんなところまで流れ着いてしまったんじゃないか。
「……だからだよ」
「……ほんとに良いのか」
「何度も聞くな」
男の暗に窺うような質問に答えた女の声は、頑とした鋼のごとき意志をはらんでいた。
彼女の影になった顔の上で、血のようにどす赤い隻眼が妖しい輝きを放つ。
「私の意志は変わらない。決めたんだから、もう迷うこともない。そう言ったし、あんたはそれを認めてくれたじゃないか」
「……そうだったな」
男は顔を上向け、保健室の天井に声を放った。その声には、諦めのような、哀れみのような、ともかくも酷く悲しげな何かが混在し、それを聞いた女は銀色の睫毛をただただ伏せることしかできなかった。
彼女はその「何か」が何なのかよく分かっていた。
彼が今まで、どれだけ自分に尽くしてくれたか、それを考えると胸を痛めずにはいられない。彼がいなければ自分は今まで生きていくことすらできなかったのだ。それは海よりも深く理解している。
でも、それでも。
私はこの刀を、いつまでも鞘に納めたままではいられない。
かつて多くの血を吸ったこの刀が、数多の犠牲の上に立つこの肉体が、魂が、平和な日常に溺れて錆びついていく。それが私は耐えられない。
「行くよ。桜牙」
「ああ」
男が返事をするのを聞くと、女は名残惜しそうに少年の暖かな色をした髪の毛から指を離した。
「今、行くからな――一護」
そう彼女がつぶやいた次の瞬間――保健室から、二人の姿が忽然と消えた。
風に煽られてばたばたとはためくカーテンの隙間から、学校のグラウンドが見える。そこには数秒前まで室内にいたはずの彼らが、もう豆粒のようにしか見えないほど遠いところを歩いている姿があった。眩いばかりの銀髪を携えた少女が歩いているというのに、グラウンドを忙しなく走ったり横切ったりしている生徒たちは、誰一人として彼女に目をとめない。まるで、最初から彼女の姿がその視界に映っていないかのように。
素通りしていく生徒たちに、彼女もまた、いちいち目をとめるようなことはしない。見つめているのは前だけだ。前だけを見、強い足取りで進んでいく。
彼女は思う。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
私はどうすれば良かったんだろう。
その根元を、始まりの日を思うたび、怨恨の情は萎えることなく胸の底から吹き上がり、この身体を幾度となく燃え上がらせる。
でも、私はどこかで知っている。
この先には何もないのだと。あるのはただ、底のない真っ暗な穴だけだと。
――けれど、それでも、立ち止まることはできないと知っているから。
「暑いね、桜牙」
「……ああ」
彼女は空を見上げた。
夕陽を抱いて、憎々しいほど美しい虹色をした空が、夏のうねるような熱気の中で超然と輝いていた。
果たして、この女と男の正体は……。
色々と考えているネタがあるので、少しずつ見せていけたらなと思います。