指令室の自席で、病院着のままエルフナインはコンソールを操る。
「あちらの世界のボクは、ビデオメッセージを通した共鳴によって、ボクの脳裏へとダイレクトに情報を送ってくれたんです」
ギャラルホルンを介した意識の共鳴は、ジョン・ディーが用いた秘法とは似て否なるもの。
そう前置きして、エルフナインは続けた。
「おかげで、ヘイルダムへの対抗策も見えてきました」
どよめく装者たちの前の大型モニターに映る映像は、ノイズに染まる空に浮かぶ巨大な黄金球。
まるで毛糸玉のような表面がクローズアップされる。
「ヘイルダムを覆うこの糸のようなものは、並行世界の因果そのものである文字通りの世界〝線〟の概念が可視化したものと推測されます。同時に、因果によって鎧われたヘイルダムもまた概念的な性質を獲得し、一種の虚数存在と化したと言っても良いでしょう」
「…そうか、だから質量を観測できなかったのか」
と、藤尭。
同時にそれは、物理法則を歪ませるような膨大なエネルギーを持ってしか干渉出来ないことも意味した。
並行世界から来たクリスが絶唱という攻撃手段に訴えたことに対する裏付けともなる。
「あの~…」
そんな中、響はおずおずと手を挙げて、
「みんなの力を合わせて思いっきり一撃を喰らわせたら、やっぱり倒せるんじゃあ…?」
かつてヨナルデパズトーリを屠った彼女の拳には、他の装者にはない説得力がある。
「その質問に答える前に、皆さん、以前に
それは量子力学上に置ける思考実験の一仮説であり、並行世界の分岐点でもある。
解説をしながらエルフナインはモニターを暗転。
続いて真っ黒な画面の真ん中に、幾本の垂直な線を描かれた。その中心の一本をエルフナインは指し示し、
「これは、いまボクたちがいる世界を現しています。すなわち世界線ですね」
その線の中ごろに小さなポイントが打たれた。
「そして、この点が、アルカ・ノイズが大量に出現した燎原の火事件が起きた日としましょう。同時にこの座標を分岐点と定義します」
モニター上に赤く丸く表示されたそのポイントから、まずは左横に斜め分岐線が引かれた。
「ボクたちの世界では、アルカ・ノイズを殲滅できました。ですが、殲滅できなかった世界も存在する可能性がある。そうやって分岐した世界が、この枝分かれした先の可能性、ノイズが完全に殲滅されなかった並行世界になります」
赤いポイントから、さらに幾つもの分岐線が引かれていく。
「この線の先は、ノイズが半分だけ斃された世界としましょう。この線の先は、もしかしたらノイズは全く斃せなかった世界かも知れません」
一つ一つ線を指し示しながらそう説明するエルフナイン。モニター上の線は、さながら樹形図のように大きく枝分かれをしていく。
「無数に分岐し、あらゆる可能性が存在するのが並行世界です。そして、アルカ・ノイズの出現という事象に関して、その無数の並行世界を観測することが出来るとしたら…?」
「…なるほど。ヘイルダムは、我々がやってきたことと同じ事を行っているのだな」
腕組みをしながらそう唸ったのは弦十郎だった。
「師匠ッ! どういうことですかッ!?」
噛みつくような勢いで尋ねてくる響を真っ向から受け止め、弦十郎は答える。
「オレたちも、他の並行世界へお前たち装者を何度も送り込んでいるだろう? ギャラルホルンを使ってな」
現在この世界にはギャラルホルンが存在する。
ギャラルホルンは並行世界へ装者を送ることが出来る。
仮に、ギャラルホルンを所持する世界が他に複数存在し、とある並行世界の同一の座標を共有するとしよう。
一つの並行世界のその一点に対し、それぞれの並行世界から装者を送ることが可能なはずだ。
「御明察です。ギャラルホルンの力を有したヘイルダムは、アルカ・ノイズが殲滅されなかったであろう並行世界を複数観測し、そこを起点としてボクたちの世界の座標へアルカ・ノイズを際限なく送りこんで来ているものと思われます」
概念上、存在するであろう並行世界の数は無限に等しい。
となれば、そこに存在するであろうアルカ・ノイズの数も無限となる。いくら斃しても、傍から沸いてくるのは道理だ。
「…あたしのいた世界もそれで…やられた」
ぼそっと呟く並行世界からやってきたクリスに、部屋中の視線が集中した。
「あたしの世界でも、錬金術師たちの集団テロ―――こっちでは燎原の火事件ってやつが同じように起きた。その時の東京湾の襲来で、本部までノイズの侵入を許しちまって…」
あとはなし崩しだった、とクリスは続ける。
「外は外でヘイルダムに加えてノイズが溢れかえって皆手一杯だった。あたしも必死で本部で防衛していたけど、いくらでも沸いてくる敵相手じゃ、屋内では防ぎきれない。いよいよ本部もヤバいって中、いきなり司令に呼ばれてさ。行ったら、ギャラホルンが起動していた。そして、あたしだけでもメモリースティックと一緒に並行世界へ跳べって…。みんなを置いて、あたしだけ…ッ!!」
堰を切ったように言葉を吐き続ける彼女を止めるものは誰もいない。言葉がいつの間にか嗚咽に変わってしまったのを、果たして彼女は自覚していただろうか?
「…クリスさん…」
響はギュッと胸の前で手を握るだけで言葉をかけあぐねている。
こちらの世界のクリス本人でさえ、なんと言ってやればいいのか分からず戸惑うしかない。
誰もが声をかけるのを憚られるような雰囲気を両断したのも、エルフナインだった。
「向こうの世界の司令は、何も手近にいたからクリスさんを逃がそうとしたわけではありませんよ」
その凛とした響きに、異世界クリスが涙に濡れた顔を上げた。
「他の装者たちでは無理なんです。
「…え?」
「これを見て下さい。まず、こちらの縦線をボクたちが今いる世界線とします」
先ほどの縦線が赤く明滅して強調表示される。
「そしてこちらがもう一人のボクたちがいて、そちらのクリスさんがやってきた世界線としましょう」
視線を向けられ、異世界から来たクリスの眉が一瞬ピクリと動く。
「さらにあちらが奏さんが活躍されている世界線。こちらはナスターシャ教授とセレナさんが一緒にいらっしゃる世界線…」
声に合わせ、幾つもの縦線が明滅する。
装者の全員がそれぞれ感慨深げな視線を向ける中、エルフナインはがらりと声のトーンを変える。
「以上、説明はしましたけど、あくまで便宜上のものでしかありません。これは単なる概念図でしかありませんから」
そう告げて彼女がコンソールを操ると、図形上のとある縦線の一本の中ほどに、黄色い光点が生まれる。
「この線のそれぞれが世界線と先ほど定義しましたが、この光点は、その世界にヘイルダムが出現したことを表しています。そしてヘイルダムの性質は、自身の喪失に伴う世界線の移動。座標は、各世界線に存在するであろうジョン・ディーとなります」
光点が次々と世界線を移動した。伴い、動く光点に世界線という名の糸が巻き込まれていく。その光景は、敷き詰められた蜘蛛の巣の上で飴玉を転がす様子に似ていたかも知れない。
その果てにモニター上に現れたそれは、今まさに上空に浮かぶ黄金球―――ヘイルダムに他ならない。
「このように、ジョン・ディーがヘイルダムへと至った過程をシミュレートしてみました」
「なるほど。ヘイルダムの表面を覆う因果の糸とはそういうことか…」
腕組みをしたまま唸る弦十郎の横で、やはり首を傾げる響が居る。
「エルフナインちゃん、だったらやっぱり倒せないってこと?」
「いいえ。
「フォニックゲインが不足している、か?」
弦十郎の指摘。
「それもありますが、問題はヘイルダムを鎧う各並行世界の因果の糸です。ヘイルダムをそれらもまとめて吹き飛ばした場合―――」
エルフナインは顔を曇らせ、
「吹き飛ばされた因果を補修するための、大規模な『調律』が行われます。最悪、失われる世界線も存在すると予想されますし、いま、ボクたちがいるギャラルホルンを擁する世界線も例外ではありません」
「じゃ、じゃあ、アタシたちがアレを倒すと、この世界はどうなるんデスかッ!? アタシたちはどうなるんデスかッ!!」
弾かれたような切歌の声に、エルフナインは僅かに口ごもってから答える。
「…ギャラルホルンの持つ特異点の性質上、この世界線が維持される可能性は高いです。しかし、ボクたちの意識の断絶は免れないでしょう」
「意識の断絶? 気を失うってこと…?」
眉根を寄せて首を傾げる調。
「ヘイルダムを倒してもボクたちの存在自体は失われることはないでしょう。しかし、ヘイルダムに関する一連の記憶―――今この瞬間こうやって会話している記憶すら、打倒後のボクたちに引き継がれません。ヘイルダムや並行世界に関する全てのことが存在しない、つまり認識すらされなかった世界で、ボクたちは生きて行くことになります」
エルフナインの説明に、室内は一瞬静まり返った。直後切歌の絶叫が響き渡る。
「そんなのって、そんなのって……死ぬのと同じじゃないデスかッ!」
既に意味を把握した翼とマリアは唇を噛みしめて口を閉ざし、人を救うためには我が身を省みないであろう装者筆頭の響も、その正鵠に声を失っている。
打倒の対価に、今この時の記憶を全て失う。
いかに自分自身の存在が生き続けたとしても、今この記憶を保持しない自分と、果たして同一と言えるだろうか?
「狼狽えるなッ」
鋭いが決して険のない一喝。
皆の視線を集めておいてからS.O.N.G.総司令がエルフナインに向けた声は、むしろ温かく柔らかい。
「それは一つの策とその結末でしかない。そうだろうエルフナインくん?」
「はい。次善策が存在します」
弦十郎に軽く目礼をして、エルフナインは続けた。
「もう一つの策は、ヘイルダムを倒す前に、因果の糸を全て外してしまうことです」
そうすれば、他の並行世界への影響もなくなるばかりか、ヘイルダムの防御能力も無効化できるはず。
「しかし…それはどうやって?」
柳眉を歪め疑問を呈する翼。相手は物理現象に属さない代物である以上、当然の反応だろう。
「仮にこれを毛糸玉に見立てましょう。皆さんは、糸を切らずにこの毛糸玉をほぐすにはどうすればいいと思いますか?」
とエルフナイン。
「…手で一つ一つ摘まんで外すしかないのではないか?」
「すみません、言い忘れていましたが、糸はととてもデリケートなものです。摘まんだだけで切れてしまうかも知れません」
「はいはいはいー! じゃあ転がして外せばいいと思いまーす!」
「おいおい、闇雲に転がしたら他の別の糸も巻き込んじまうじゃねーかよッ」
「あ、そっかー」
響とクリスの会話を聞いて、エルフナインは微笑む。
「いえいえ、この場合、響さんとクリスさんお二人の答えが正解なんです」
「はあッ!?」
素っ頓狂な声を上げる二人に、モニターの映像が切変わる。
3Dモデルの毛糸玉のようなヘイルダムが宙に浮かぶ。
そして宙に浮かんだまま、その場で回転を始めた。
見る見る糸は解きほぐされ、最後に残ったのは元の小さな光点が浮かぶのみ。
「要は、転がってきたときと真逆のベクトルを持って転がせば、絡んでいた糸は外せるということ?」
動画を見終えてマリアが言う。
「なるほど、道理ではある。だが、世界線を外すには、いま存在する世界線を飛び越えるほどの力が必要なのだろう? 頓智か?」
翼の口にした死語を皆が礼儀正しく無視し、彼女が指摘した内容の本質を吟味している。
世界線を飛び越えるような威力を逆ベクトルで与えれば、因果の糸は外れるものの、当然、対象は他の世界線へと移動してしまう。そうなっては、それ以上手の施しようがない。
こちらも世界線を飛んで追うという手もあるにはあるが困難を極めるだろう。飛んだ先の世界線の装者か誰かに期待するというのも無責任な話で、且つ現実的ではない。
「世界線から放逐するような力を与え、世界線上から逃さない。―――確かに矛盾しているかも知れません。しかし、物理レベルでは至極簡単な原理で実行できます」
そう言って、エルフナインは両手と両手の掌を胸の前で突き合わせた。
「物体の対極から同じベクトルをぶつけます。これで対象は移動することはありません」
「でも、それじゃあ潰れちゃうんじゃ?」
響の指摘にエルフナインは微笑むと、拝むように合わせていた掌を指を突き合わせたまま膨らませる。
「実際のベクトルは点ではなく一種の波のようなものになります。…そうですね、真空中に浮かぶ風船を団扇で仰ぐイメージが近いかも知れません。片方から仰いでしまうとどこまでも飛んでしまいますが、もう片方から全く同じ力で仰げば、その場に留まり回転し続ることでしょう」
「なんとなくイメージは出来たけれど…」
頷いたものの、響の声音は渋い。
「だけど、全く同じ力で左右から押すなんて、出来るのかなあ? しかも全力でしょ?」
「ええ、そこでクリスさんたちの出番になるわけです」
「……ッ!!」
二人のクリスが顔を上げ、ほぼ同時にお互いを見合わせた。
「この世界線には、全く同一のイチイバルが二つ存在します。これこそが、向こうの世界のボクの示唆を基に立案した対ヘイルダム作戦の要なんです」
「その作戦とは?」
弦十郎が促す。
「敢えて簡略に説明するなら、ヘイルダムの両極からイチイバルによる絶唱の同時放射を行います。これで、理論上、ヘイルダムを現世界線に止め、因果の糸を全て分離することが可能なはずです」
さらりと明言するエルフナインだったが、作戦の内容は素直に快哉を上げられるものではない。
ひとことで絶唱と言えど、装者たちにとってその意味は計り知れないほど大きいものだ。
命を燃やして放つ最終攻撃手段は、射手に途轍もない負荷をもたらす。
現に二人のクリスも先刻の絶唱のバックファイアで半死半生の有様ではないか。
「…それはクリスちゃんたちじゃなきゃいけないの?」
響の質問は、彼女たち二人の体調を慮ってのもの。
しかし、エルフナインは首を振る。
「全く同じ特性を持ち、かつ遠距離型のギアとなれば、イチイバルの他に選択はありません」
「だが二人の雪音で体格の違いもあるだろう? それで果たして全く同一の攻撃など…!!」
「絶唱は魂の音叉を持って放たれるもの。この場合、肉体の大小は瑕瑾にはならないでしょう」
翼の声にそう答えておいて、エルフナインはもう一度モニターに全員の視線を集める。
「それに、クリスさんたちでなければならない絶対的な理由がもう一つ―――」
モニター上に展開される映像は、東京湾上空のヘイルダムにイチイバルが絶唱を放つもの。半瞬遅れてこちらの世界のクリスが放った絶唱が追いすがる。
二つの絶唱はその軌跡上のノイズを消し去ったが、交差した瞬間、消滅していた。
翼の表情に疑念が再燃する。
本来、爆発的な威力を持つ絶唱同士がぶつかり合った場合、その破壊と衝撃は乗法で増加してもおかしくない。
「絶唱は命を燃やす歌。歌は音。音は波。同じ波長同士がぶつかると、互いに打ち消し合う性質があります」
エルフナインの静かな声。
「これの現象は全く同じ魂を持つ装者から放たれた絶唱でしか再現は不可能です。同時に、ヘイルダムを倒す際に行われる『調律』に必要な、最も困難で繊細なファクターとなります」
いつの間にか部屋中の視線は二人のクリスに注がれている。
ヘイルダムを倒すための唯一、いや唯二の希望たち。
提示された作戦しか手段がないことなどわかりきっている。
だが、それでもなお、命を賭けて挑めなど、他者が口に出しては言えなかった。
だから皆が待つ。
世界の命運を握る二人の応えを。
「…あたしはやるよ」
「ああ、同感だ」
どちらの台詞がどちらの世界のクリスのものか、詮索することも定義することも無意味だろう。
既に絶唱を持ってヘイルダムを討とうとした並行世界から来たクリスにとって否応もない。
他に対抗手段がない以上、こちらの世界のクリスもそう答えるのは他の仲間にとっても十分に想定内のことだった。
―――人並みの幸せを享受する資格などない。一生償いをしていかなければならない。
常の彼女が抱える想いは、口に出さずとも仲間たち全員が知悉していた。
その上で、並行世界から来たクリスが次に口にした台詞は自棄に過ぎる。
「命を捨てる覚悟なんてとっくに出来ているさ。今度こそ確実にヤツの息の根を止めてやる…ッ!」
「バカ野郎ッ! それじゃダメなんだよッ!」
とっさに激昂して叫ぶこちらの世界のクリスに、もう一人のクリスは牙を剥く。
「何がダメだってんだッ! 仮にヤツを倒したって、あたしの元いた世界は…ッ!!」
言われるまでもなく、クリス自身お互いにそのことを強く認識している。
仮に生き残った先に、同じ世界線上に、エルフナインが言うところの同じ魂を持つものが二つ存在する不自然さもだ。
「だからといって死んでいいって話でもないだろッ!?」
「あたしだってそんなこと分かってるさッ! でも、でも…ッ!」
おめおめ一人だけ生き残っているという自責の念。
今さらながらクリスは、並行世界から来たもう一人の自分の覚悟と決意に圧倒されてしまう。
それでも頷けるはずはなかった。
そこに理屈など存在しない。ただ、自分を見捨てたくないという感情しか存在しない。
だいたい自分自身を救えず、どうやって他人を救えるというのだ?
睨みあう、まるで鏡合わせのような二つの顔。
他の装者たちも口を挟むに挟めない空気に、おずおずとエルフナインが差し込んだ声は、いっそ可憐なほど素朴に響く。
「え、えーと、クリスさんの元の並行世界のことですが、まだ希望は残されています」
「…なんだって?」
完全に左右対照に顔が動き、エルフナインの方を向いた。
「向こうの世界のボクたちは、クリスさんをこちらへ送る際に、ギャラルホルンの特性、いえ、存在そのものをクリスさんに付帯して送り出していたんですよ」
「…それは、この世界線にギャラルホルンが二つ存在するということか?」
唐突な説明に、さすがの弦十郎も驚きの声を隠せない。
「向こうの世界のクリスさんが来訪した際に、ギャラルホルンが『共鳴』したと説明しましたよね? その時点でこの仮説は意識していましたが、さらに二つの根拠が積み重なったゆえの結論です」
エルフナインは細い小さな指をピースサインの形で立て、
「一つ目は、クリスさんたち二人の間に精神干渉が生じていないことです。皆さん、かつて様々な並行世界に飛んだことは憶えているでしょうけど、最終的に全く同じ人間同士が顔を合わせた例は存在しません」
かつて飛んだ諸々の並行世界。
そこに確かに同じギアの装者たちが鉢合わせたケースは存在しない。
唯一、はぐれ狼のような響の存在が確認され、結果としてそれがこちらの世界の響への精神干渉を起こした件が特殊な事例として把握されているが、それでもやはり響と響同士が顔を合わせたことはないのだ。
ギャラルホルンが起動して渡れる世界は、こちらの世界の別の可能性であると同時に、何かが欠落し、または失われたものが存在している世界へと限定されている。
考えられるのは、同じ人間が同世界軸上に存在すると精神干渉を起こす故に、ギャラルホルン自身が渡来できる並行世界を選別している可能性。
逆説的ではあるが、そう仮定すれば、二人のクリスが顔を合わせても何も起きないことに対して、もう一人のクリスがギャラルホルンの特異点の性質を帯びているゆえとの証明になるのではないか。
「それともう一つは、この状況において以前に繋がった他の並行世界から、誰も救いの手が来てないことです」
「そうだッ! 考えてみればこのような火急の事態に奏が座しているわけもないッ!」
目から鱗とばかりに翼が力説。
なぜ来られないのかは、やはり同世界線上にギャラルホルンが二つ存在するという異常な状態が、他の並行世界からの干渉を突っぱねているのでは、とエルフナインは結んだ。
「だからって、それが何の希望になるってんだッ!?」
「つまり、クリスさんの元いた世界にギャラルホルンという特異点は存在しません。それはどういうことかと言えば、こちらのボクたちの世界にとっての観測対象となったということです。クリスさんが居た世界は、ボクたちが観測するまで重ね合わせ状態になっています」
「つまり、それは…?」
クリスの声が震える。
「クリスさんがこちらに渡ってきた瞬間を座標としても、直後の世界の行く末はボクたちにとってまだ確定されてないんです。へイルダムによって滅ぼされていない、いいえ、誰も死んですらいない無限の可能性がある状態なんです」
「それを見越してクリスくんを送り出したのか、向こうのオレたちは…ッ?」
絶句するクリスに成り変わり、弦十郎が感嘆の声を上げた。
こちらの世界の滅びを確定させないために、敢えて重ね合わせ状態へと置く。
危険かつ尋常ではない賭けだ。
「な、ならっ、向こうの世界は無事な可能性があるんだなッ!? みんな大丈夫な可能性があるんだなッ!?」
頷くエルフナインに、並行世界から来たクリスの顔がみるみると紅潮し活気に満ちる。
喜色に溢れた顔で周囲を見回し―――直後、たちまち青ざめた。
血の気の引いた唇が震え、ほとんど泣きそうなまでに歪んだ顔から、弱々しい声が漏れる。
きっと『後悔』という音色を表現するなら、きっとこんな声音だろう。
「…あ、あたしは、みんなに何てことを…ッ」
その気持ちは、こちらのクリスにも痛いほどわかる。
自らの行動で他者を傷つけたり無関係の者を巻き込むのは、おそらくあらゆる世界の雪音クリスという存在の共通するであろう忌避事項。
完全に色を無くし消沈した並行世界のクリスに、まず近づいたのは翼だった。
「…初見殺しとは良く言ったものだが、それも兵法だろう。だが、不覚を取ったのは違いない。よって全てが片付いたら、万全の態勢で再戦を所望する」
力強い眼差しを向けて肩を軽く叩くと、ふっと笑う。
その光景を見守っていた調と切歌が顔を見合わせると頷いた。
「とりあえず、食べ放題とビュッフェとバイキングを三回で手を打つデース!」
「それ、全部同じだよ切ちゃん」
更には騒々しく響が手を上げて、陽気な声を張り上げる。
「はいはいはーい! だったらわたしはクリスさんの作った料理がいいです! もちろんフルコースで!」
次に、マリアへと視線が集中した。
厳しい表情を崩さない彼女だったが、響、切歌、調と三者三様の視線を浴び、さすがに片眉を引き攣らせながら口を開く。
「…あー、もう分かったわ! 被害者のあなたたちが許してるんでしょう? だったら、私が怒ってヘソを曲げるなんて理由はないッ!」
腕組みをしたまま、ふん!とばかりにそっぽを向いて見せるが、その横顔の頬は赤い。
「…みんな…」
涙を浮かべる並行世界から来たクリスに最後に近づいたのは、弦十郎だった。
緩んだかに見えたクリスの表情が再び強張っていく。
仲間は元より、こちらの世界のS.O.N.G.総司令をも謀っていた。
そして弦十郎は、装者たちを統括する立場にある。
異世界のクリスには、仲間を傷つけたことに対する胸の痛みがある。
それが同種の痛みであるならば、装者たちを率いる弦十郎が受けた痛みは更に強く酷いものだろう。
装者である少女たちを戦わせることに、常に忸怩たる感情と強い責任を負い続ける。
風鳴弦十郎とはそういう男だった。
その大きく無骨な手がクリスへと迫る。
思わずクリスが目をつむり肩を竦めた瞬間、その掌は彼女の頭頂部へと置かれていた。
わしわしと髪がかき回され、暖かな温もりが脳天からじんわりとしみ込んでくる。
「…よく一人で頑張ってきたな」
その台詞が全てを許し、そして決壊させた。
「う、あああああああああああああああああ…ッ!」
弦十郎の分厚い胸板に顔を埋め、クリスは子供のように泣きじゃくるのみ。
その光景を静かに見守るこちらの世界のクリスに、響が悪戯っぽい声で囁きかけた。
「…こうしてみると、師匠とクリスさんって凄いお似合いじゃない?」
「うっせえ、黙ってろバカ」