ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~ 作:マリリンマンション
「今の、セーフだったか?」
バックネット裏のスタンドに腰掛けた保谷がぼそっと呟いた。わざとらしい物言いは、明らかに横に腰掛けた橘の意見を伺っている。魔道術を絡めた熱戦が繰り広げられるグランドとは異なり、ひんやりとした夜風が観客席では少し肌寒く感じられる。試合は一時中断して、茅野をはじめとする審判団が本塁前の抉れた地面に土を盛っているところだ。
「わからない。よく見てなかったけど、追いタッチだったでしょ?」
確かに、追いタッチはランナーの進行方向とタッチする野手の動きが同じ方向になるから判定がわかりにくいところだ。しかし、一番近くで試合を見ていた人間がセーフと言ったのだから、それはセーフであるべきだ。もっとも、橘にとっては目の前の試合の1つのプレイの判定がどうあろうと、あまり関心事ではない。
「全然興味なさそうだな?」
「そうね……」
「応援しないの?」
「うん。もういい、かな……」
橘は上の空で相槌を打った。赤土と少量の水を調合して、審判団がグランドの土を固めていく光景を虚ろな目で眺めている。荒れたグランドは、手際良く整地されていくが、橘の心はどこか荒んでいた。
「この試合、どっちが勝つんだろうな?」
「どっちでもいいんじゃない?」
私にはもう関係のない、と橘は静かに答えた。頼る宛てがなくなって後については来たものの、馴れ馴れしく話しかけてくる保谷が今となっては鬱陶しい。雷神バットはピンク=パンサン達が持ち去ってしまった。今、フットレイクスのベンチにあるのは精巧に作られたレプリカである。
「この試合、雷神バットをかけてるんだよね。じゃあ、仮にフットレイクスが勝ったとしよう。この場合は、ルコフスク達は雷神バットがレプリカにすり替わってしまった事に気がつかず、初めからレプリカを掴まされていたと勘違いしたままに事は終わるだろう。もし気が付いたとしても、あとの祭り。ルコフスクに打つ手はなく、ピンク=パンサンの思惑通りでめでたしめでたしだ」
「それで? フロッグスが勝ったら?」
「う〜ん、フロッグスが勝った場合の方が、話がややこしいんだ」
橘の口ぶりは退屈そのものだ。気が強い性格もあって、余計にキツい印象を受けるが、保谷は構わずに続けた。
「フロッグスが勝った場合、ルコフスクは雷神バットを渡さなければならない。エキシビジョンマッチとはいえ、試合前の契約は覆らないだろうな。午前中の試合で“本物の”雷神バットの威力を知ってるガッテムや、生き字引のヤソジはすぐに贋物だと気が付くだろうね。そうなれば、そこでひと悶着は必然だな」
「そういう場合はどうなるの?」
「それはわからないよ。普通なら雷神バットと同等の価値のあるアイテムと交換って所で手を打つだろうが、クインテットスターレアアイテムと同等の価値を補償するとなると、その辺のレアアイテムだけでは不可能だろうな。取引を反故にされたことをフロッグスが運営本部に訴える事もできるが、そんな事をすれば運営本部が契約自体を差し押さえるだろう。まあ、約束を守れなかったルコフスクを更迭するくらいなら出来るかも知れないけど、そんな事をしてもフロッグスは一銭の得にもならない。それに、今回の騒動に一枚噛んでいたとなったら、フロッグスもお咎めなしとはいかないだろうからな」
「私、雷神バットが、そんなにすごい物だったなんて知らなかった」
「あぁ、島の人間からすれば、宝くじを当てるようなもんだからな。いや、それ以上だ」
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
橘がピンク=パンサンに出会ったのはセントラルバード号の船の上だ。オリエンテーションの後の懇親パーティーに参加せずに甲板で潮風に当たっているところに、彼は現れた。彼は船の整備員の恰好をしていたから、はじめはナンパでもしに来たのかと思ったが、実際はそうではなかった。2メートルは超えているであろう長身にサイズの合う作業着が用意できなかったらしく、裾からは彼のへそとよく鍛えて割れた腹筋が覗いていた。
会った当初の彼は、大会での優勝を約束するからある計画に協力してほしいと持ち掛けてきた。彼の計画は、船内のある倉庫から1本のバットを盗んでくるというものだったが、その内容はあまりにも荒唐無稽だった。
「あなた、頭おかしいんじゃないの?」
橘は、首が痛くなるほどの大みみず男を見上げると、物怖じ一つせずに告げた。彼は、倉庫の壁をすり抜けて盗んでくると言い放ったのだ。腹を抱えて笑う橘をピンク=パンサンは困り顔で見下ろしていた。
「悪い話ではないと思いますが?」
「それは、そうだけど、壁をすり抜けるって……あなた、エスパーなの?」
橘は仕方なく冗談に付き合う事にした。いい加減、船旅に退屈していたところだ。この船のどこかに雷神バットと言う伝説のバットがあって、それを手に入れることができれば、島での大会で楽々優勝できるだろうと彼は説明した。橘は優勝賞金に興味はなかったが、どうせ参加するなら勝った方がいい。
そして、その直後、彼の言葉が冗談ではないことが判明する。
「……そろそろですね」
彼方の水平線を横切っていく名もない島々を眺めていると、ピンク=パンサンは突然もたれかかっていた手すりから身を起こした。何の予告もなく動き出した大みみず男に橘は驚いたが、彼の足が甲板の床に沈み込んでいることに更に驚かされた。橘はぽかんと口を開けたまま、大きな瞳を更に大きく見開いて首を上下させた。既にくるぶしの辺りまで、彼の身体は沈み込んでいた。
「嘘でしょ……」
ピンク=パンサンが少しずつ甲板に沈んでいく姿を、橘は呆気にとられて見送る事しか出来なかった。彼の足が、膝くらいまで沈み込むと、橘とピンク=パンサンの視線がほとんど同じ高さになる。
「島まではまだ距離があるるので、今の魔力ではこのくらいのスピードが限界ですが、島が近くなれば、もっとスムーズに事を運べます。さあ、あなたも早く……」
ピンク=パンサンが橘の手を取ると、橘の足も徐々に床に飲み込まれていった。プリンのようなひんやりとして柔らかいものに包まれている感触に指先から覆われていく。やがてそれは脹脛、膝、太腿へと下から順番に侵食していく。それと同時に、橘の視線の位置も低く低くに下がっていく。
「しばらく目を閉じていて下さい」
橘が目を閉じると、やがて頭のてっぺんまでプリンのような柔らかい感触に包まれる。宙に浮かんでいるようなその感触の中を、下に下にと身体が降りていくのを感じることができた。しかし、やがてその感触が終わると橘の身体はスンと重力に引っ張られて勢いよく降下した。支えを失った身体に橘は慌てふためいたが、間もなくピンク=パンサンの両腕が彼女を受け止めた。
突然起こった摩訶不思議な出来事に、橘は抗議する事も忘れて目を白黒させていた。ピンク=パンサンは橘を優しく降ろすと。そこは船の最上階。懇親パーティーが催されている大ホールに続く廊下の一画だった。
「橘さん。あなたにお願いがあります。これはとても大事なお願いです。実はもう一人、私の仲間が船内に潜伏しています。しかし、彼はIDを持っていない。IDが無ければ船を降りる時のチェックをパスできないのは承知していますね。そこで、あなたには未登録のPDAをひとつ用意して頂きたい」
「未登録の? そんなの有る訳ないじゃない! 私のはオリエンテーションの時に登録してしまったわ。他の人もそうじゃないかしら?」
ピンク=パンサンは大ホール入口の扉の方に視線を投げかけながら話を続けた。
「あの中にいる全員が、言われたとおりに登録手続きを完了させたと思いますか?」
「それは、あれだけ居れば1人くらいは……」
居るだろうか? 橘の頭の中で素朴な疑問が沸き上がる。ここに集まった人間は1億円欲しさに集まった、言ってみれば目的のハッキリしている人達だ。事情はそれぞれに抱えているだろうが、登録しなければ話が先に進まない。1億円を求めて誰もが目をギラギラ輝かせている中に、そんなあまのじゃくが居るとはとても思えなかった。
「惜しいですね。2人います。2人のうち、どちらかのPDAを拝借してきていただきたい」
「ドサクサに紛れて盗んで来いって事?」
「方法はお任せ致します」
ピンク=パンサンは2枚の写真を手渡した。彼の口ぶりは終始丁寧だったが、どこか気を許してはいけない雰囲気を橘は感じていた。彼は更に続けた。
「もちろん、報酬はご用意いたします。しかし、あなたは金目の物に興味はなさそうだ。いかがでしょう? 神童裕二郎と会う場所を我々が用意するというのは」
「どうして、それを知っているの?」
「私が、闇雲に声を掛けたと思いますか?」
思わない。橘は首を横に振った。しかし、これは願ってもいないチャンスだ。そして、ジャージ姿の自分の身なりを思い出した。こんな恰好では、場内で浮いてしまうに違いない。
「ねぇ。着替えてきても、良いかしら?」
「もちろん。もし良ろしければ、これをお召しください。サイズもぴったりに仕立ててあります」
「ピンク=パンサンにピンクのドレス。悪くないわね。でも、スカートの丈、ちょっと短すぎないかしら?」
「そのくらいの方が、魅力的ですよ。では、私はこれで失礼いたします。夕食後にあなたのお部屋に伺いますので、それまでにPDAを用意しておいてください」
大みみず男は長い手を振りながら去っていった。
橘も褒められて悪い気はしなかった。2人のうち、トロくさそうな方に橘は狙いを定めると、大ホールの扉を開け放った。勢いよく開いた扉に警備員がギョッとしていたが、彼はすぐにまた正面を向くと直立不動になった。
ホール内を見渡すと、壁際でくつろぐ彼らをすぐに見つけることができた。彼らは、ちょうど移動を始めたところだった。通りすがるウェイターからシャンパングラスを受け取る様はぎこちなかったが、彼らはホール中央の人混みに紛れていく。願ってもいないチャンスをみすみす逃すような橘みずきではなかった。
◆ ◆ ◇ ◇ ◇
橘は深くため息をついて顔を上げると、黒いバックスクリーンの電光表示されたスコアボードが目に入る。1イニングだけとはいえ、ともにプレイした仲間の名前がそこには連ねられていた。彼らは1点ずつ、苦しみながらも反撃を繰り返して試合を棄てていない。
諦めないで立ち向かうのは言うほど簡単なことではない。今の自分に置き換えてみる。胸に手を当てて、自分が島に赴いた理由をもう一度確認する。
「神童……神童裕二郎を知っていますか?」
「知ってるも何も……」
神童裕二郎は島を代表するサウスポーエースだ。知らないはずがない。西地区のあるチームでタイトル争いを現在進行形で繰り広げている。地区予選を突破して本大会にも出てくるであろう大本命だ。保谷は簡潔に説明した。
「神童のファンなのか?」
「えぇ…。まぁ…」
「同じ左ピッチャーだもんな。それに、あの甘いマスクだ女性ファンも多いのも頷ける。でも、意外とミーハーなんだな」
この島に神童がいる。それも西地区で活躍しているらしい。それがわかっただけでも大きな収穫だ。橘は保谷に礼を述べると立ち上がった。
「おい、待てよ。こんな夜中にどこに行こうってんだい?」
「どこでもいいでしょ?」
神童の話をした途端に橘の瞳に躍動感が生まれた。ただのミーハーな野球少女にしては切り替えが早すぎる。これは何かわけありかと保谷の推察に構うことなく、橘は野球選手にしては華奢な尻についた砂を払っている。
きっと、この世間知らずな少女は神童に会いに行くべく球場をいますぐ飛び出していくだろう。
「何か考えでもあるのか?」
「あなたには関係ない」
確かに、保谷には関係のないことだ。しかし、このまま夜道に飛び出して、野盗に襲われでもすれば寝覚めが悪い。引き止める筋合いはないが、このまま見送るわけにもいかない。
「……ひょっとして、神童と勝負したいのか?」
我ながら素っ頓狂な質問だと保谷は思ったが、橘にはよく効いたようだ。すでに球場を去ろうとしていた彼女は足を止めて、保谷を振り返った。
「フロッグスが勝てば、神童と戦えるかもしれない」
「何言ってるの?」
あながち的外れな質問でもなかったらしい。橘は食いついてきた。
「ただし、君がフロッグスのメンバーであることが条件だ」
「……い、今更、どんな顔をしてチームに戻ればいいの? 私は雷神バットを盗んだ張本人なのよ」
「ダメ元で事情を話して、誠心誠意謝ればいいじゃないか」
それが、君の目的ならばね。と保谷は付け加えた。そして、今すぐフロッグスベンチに戻ってリリーフするように提案したが、橘は首を横に振った。
「この試合、雷神バットの顛末も気になるが、もう1つ大事な意味があるんだ。もしフロッグスが勝てば遠征プレーオフの権利が発生する。ゲートのチームに勝てば隣接する地区の球団とプレーオフが可能になる。どういうことかわかるかい? 東地区のルールでは本戦およびそれに準ずる試合での勝率が最も良いチームが地区代表の権利を有する事になるから、ここを突破すれば、フロッグスにも東地区代表となる目が出てくる」
「何なの、その都合の良いルール!?」
「都合良くなんかないさ。フロッグスはここまで1勝7敗。今日の試合に勝っても2勝7敗。最低でも5連勝しなければ勝率が5割に戻らない。シーズン佳境の南地区にプレーオフを受けてくれるチームが5つもあるかどうかわからないし、試合が成立したとしても、フロッグスの戦力が及ぶかどうかはわからない。でも、本戦出場の可能性もゼロではなのが現状さ。本戦に出場できれば、いずれ神童裕二郎と対戦する日も来るかもしれないな」
彼は島の人間ならば誰しも戦ってみたいエースの一人だと保谷は続けた。
審判団がホームベースから放射線状に石灰でラインを引き始めた。試合は間もなく再開されるだろう。
橘はスタンドを後にして、通用口の階段を一歩ずつ降りる。真っ直ぐ進めば球場の外に出るが、右の廊下を進めば三塁側のベンチ・控室へと繋がっている。球場の形に従って緩いカーブを描いている廊下は、とても長い道のりに思えた。引き返すのは簡単なことだが、行かなければならない事情がある。島を訪れる目的は人それぞれだが、彼女もまた1億円に目が眩んで参加した訳ではなかった。その目的を果たさずには帰ることなどできない。その決意だけが、彼女の歩みを前に進める力となっていた。