ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~ 作:マリリンマンション
One of the most attractive HEROINE
夏苗は重ねていた唇をゆっくりと離すと、少し憂いた眼差しで彼を見つめ返す。本当に、こんなやり方でよかったのだろうか。初めての経験に不安になって、彼女は注意深く彼の様子をうかがうが、彼は表情を変えない。脈を打つ鼓動が普段の何倍もの音を立てて響き、しばらくの沈黙が、実際の何十倍もの長さに感じられた。朝の冷たい潮風が赤く染まった彼女の頬をやさしく撫でると、黒い艶やかな髪がさらさらとなびいて彼の顔に触れていく。すると、彼は表情を歪めてにわかに咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
たまらず夏苗は蛍光オレンジのライフジャケットの青年に声をかける。彼は20代前半だろう。ずぶ濡れのまま浜辺に打ち上げられていたとはいえ、17歳の少女は今更ながらに自分がとった行動を思い返し、頬を赤く染めた。何となく、いつかどこからか白馬の王子様が現れてそれは奪われるものだと思っていたから、なんだか越えてはいけない一線を越えてしまった気がしていた。
「あれ、ここは?」
「よかった。気が付いて頂けましたか」
青年は横になったままで夏苗を見上げる。夏苗は安堵の笑みを浮かべたが、不意に目が合うと、恥ずかしさのあまり、彼女はあわてて視線を逸らした。
「ここはパラキ村の海岸です」
「パラキ?」
「はい。ここは中ノ鳥島東地区のパラキ村でございます。あなたは見かけない顔ですね? 悪い人ではなさそうですが……」
「あぁそうか。助けてくれたのか。オレは大坂小波。出身は埼玉県の川……」
意識がハッキリとしてくると、酸欠からくる激しい頭痛が大坂を襲った。大坂は苦悶の表情を浮かべて言葉に詰まったが、目を逸らせている夏苗にその様子はわからない。
「埼玉! もしかして、島の外からいらしたのですか?」
「あぁ……」
気のない返事で大坂が答えると、不安そうにしていた夏苗の表情がぱっと明るくなった。
「凄いです! 凄いですよ! さっそくおじい様に知らせませんと!」
「おい、ちょっと待ってくれ。どういう事だ?」
「あっ! 自己紹介がまだでしたね。私はこの村に住んでいる龍ヶ崎夏苗といいま す。宜しくお願いします」
命の恩人とあっては致し方ないが、その微笑みは天使の頬笑みだった。夏苗は大坂を起こすと、家まで案内すると言って歩きはじめた。それから、彼女は大坂を発見し助けるまでの経緯を細かく説明した。話は何度も脱線を繰り返したが、それはそれで育ちのよさそうな彼女の人となりを窺い知ることが出来た。朝の浜辺を愛犬のみかんを連れて散歩するのが日課であること。みかんが突然走りだしてどこかに行ってしまったこと。大坂はみかんを探している最中の彼女に発見されたらしい。
彼女は独特のリズムで言葉を紡いだ。気品のある物腰はどこかのお嬢様といった表現が相応しいだろう。身につけている仕立てのいいブラウスやスカートの着こなしも自然だったし、何よりリボン付きのカジュアルなストローハットがとても良く似合っている。一方で、色白で端正な顔つきと、手入れの行き届いた長い黒髪が、まだ10代とは思えないほどの艶やかさを醸し出していた。さらに、時折見せるあどけない笑顔は、男なら誰しも魅力的と思うはずだと大坂は感じた。
「……じゃあ、犬はまだ見つかってないんだろう? 先に犬を探そうよ」
「でも、小波さんがずぶ濡れです」
「大丈夫だよ。これでも昔は嵐の中で練習してたし……へっくし!」
「ふふふ。みかんなら心配ありませんの。とっても賢いんです。今までも散歩している最中に勝手にどこかに行ってしまう事がありましたけど、必ずランチの時間には帰って来ますのよ」
「それって賢いのかよ」
笑いながら大坂は夏苗の頭を小突いた。
退屈しのぎで応募した野球大会、運よく選考を突破して、軽はずみに参加を決意して、気が付いたら海の真ん中に突き落とされ、見知らぬ浜辺で、美しい少女に命を救われていた。いままで積み上げてきた日常が、雲のように流れてどこか遠くへ去っていく。今は、目の前で微笑みながら歩く少女の存在だけで充分だった。大坂は頭の痛みのことなど忘れていた。
二人はそのまま海岸線に沿って暫く歩いた後で、防波堤の階段を上り、小さな港のある小さな集落にたどり着いた。
「人口は134人しかありません。漁業と林業で暮らしていますが、基本的には自給自足の村です。もともと、東地区は過疎が進んでおりますけど、ここは特にひどいんです。だから、小波さんの事はみんな喜んでくれると思います。」
「それは嬉しいな」
大坂は短く答えると、なるべく夏苗の気に障らないように気をつけて続けた。
「あと、さっきから言おうと思ってたんだけど、その『小波さん』っていうの、やめてくれないか?」
「あらどうして?」
「滅多に下の名前で呼ばれないから、その、照れるっていうか……」
「名前、お嫌いなんですか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ならいいじゃないですか。小波さん」
「じゃあ、せめて呼び捨てにしてくれ」
「年上の殿方を呼び捨てですって? そんな事できるわけがないじゃないですか」
本気で言っているのか、面白がって言っているのかはわからない。大坂は何も答えずに、彼女の横を歩く。夏苗のすまし顔もまた魅力的だった。
「見えてきました。あの丘の上の建物が私の家です」
龍ヶ崎家は村の集落の北西のはずれにある丘陵の中腹にあった。豪邸と呼ぶには質素な作りだったが、赤い屋根と白塗りの壁は由緒ある洋館のような佇まいだった。
眺望の良いベランダで、白塗りのアンティークの椅子に腰をかけ、キセルを吹かす。屋敷の主のヤソジにとっての至福のひと時だった。特に晴れている日は、青い水平線と常夏の緑色のコントラストが、まぶしくパラキの村落を包み込む。この平和を一枚の絵にかいたような光景を、ただただ眺めることが年老いたヤソジの少ない楽しみの一つだった。
「おじい様~ 帰りました~」
「夏苗か。おかえりなさい」
ヤソジは愛用している朱塗りのキセルを丁寧にテーブルの隅に置くと、その代わりに紫檀の杖を手に取る。それから、ゆっくりと立ち上がってベランダの下をのぞいた。
最近は膝の調子も芳しくない。立ちあがり、数歩歩くだけのことがこれ程までつらいのか。自分自身へのもどかしさは日に日に強まっていた。今でこそ、孫娘はヤソジを慕ってくれているが、それもいつまで続くだろうか。彼女にだって、いずれ連れ添うべき男が現れるはずだ。その時の事を、時々思い描いては、ヤソジは年甲斐もなくセンチメンタルになるのだった。孫娘にとって、こんな老いぼれの世話をするよりも、好きになった男のもとで暮らした方がいいに決まっている。それがわからないほどヤソジも野暮ではない。しかし、今、目の前に現れた男はどうだろうか、ずぶ濡れである。
「おじい様~ 紹介します~ 大坂小波さん~ 島の外からいらしたの~」
「そうかそうか。今そちらに行く。千代さんに着替えを用意してもらいなさい」
千代というのは、この家に下宿しているお手伝いさんの事だ。ヤソジがここに家を建てた時から住み込みで働いている。この家はヤソジと千代と夏苗の3人住まいだ。
◆ ◇
――ここで、ただいま入った情報をお知らせします。第8次招待選手を乗せた船、セントラルバード号が原因不明の制御不能に陥り、北地区リモーア港への着岸に失敗。市街地の一部にまでセントラルバード号が侵入して、大きな被害が出ている模様です。現場では火災や有毒ガスが発生しているとの情報もあります、付近の方は当局の指示に従って冷静な対応を……
リビングダイニングにある旧式のラジオが速報を告げる。ベテランの男性アナウンサーの緊迫した声が、洋館のリビングに響いた。
「まぁ、ひどい事故ですこと」
いつもより1つ多い4つのコーヒーカップをお盆に並べて、千代がリビングにやってきた。落ち着いた物腰の清楚な老婦人は、少しだけ表情を歪めた。少し遅れて、頭からバスタオルをかぶった大坂がリビングに戻って来た。そして、簡単にシャワーの礼を述べた。
家の主であるヤソジは、一見すると優しそうな風貌だが目つきは鋭い。夏苗の言うとおり『おじい様』という呼び方のしっくり来る人だ。木目の美しい西洋風のダイニングチェアに腰をおろして大坂が戻るのを待っていたようだ。
「ゆっくりしていきなさい。小波君といったね。男物の服は、生憎わしの物しか用意できんが勘弁してくれ」
「いえいえ、とんでもないです」
大坂は改めてヤソジに礼を述べると、濡れた髪をバスタオルで拭いながら、ラジオの速報に耳を傾けた。セントラルバード号は昨日まで大坂が乗っていた船だ。そして、今朝この島に到着する予定だった船だ。大坂が船を飛び降りた後、何事もなければ、同行していた矢部はあの船で島に到着している事になる。あの後、矢部は連絡の途絶えた自分を探したのだろうか。大坂の脳裏に船内を捜しまわる矢部の姿が浮かんだ。しかしその姿は滑稽で、いまひとつ緊迫感に欠けるものだった。
大坂はアナウンサーの放つ言葉を注意深く聞き取るように試みた。しかし、報じられているニュースは北地区リモーア市での被害状況を告げるばかりで、一向に船内の様子には触れようとしない。大坂にとってのそれは歯痒かった。
「小波さん、どうかなさいました?」
奥からお茶受けを持ってきた夏苗が声をかける。
「実は、あの船に友達が……」
「それはお気の毒に。どうぞ、掛けて下さい」
コーヒーカップを並べ終えた千代が大坂に椅子を勧めた。促されるままに大坂も椅子に腰かけた。そして、大坂はここまでの経緯を掻い摘んで説明した。一同はその話を黙って聞いていたが、大坂が話し終えたところでヤソジが口を開いた。
「ならば、君たちは第8次招待選手団ということになる」
「第8次?」
どことなく上の空だった大坂の目に力がこもった。過去に7回同じような事があったということになる。
「あぁ。この島では定期的に外部から有志を募っていてな。と言っても、今回みたいな大規模な招待は初めてなんじゃが、君たちは北地区で行われる予選を勝ち抜いた後で、中ノ鳥島野球リーグの本戦に参加することになっていたんじゃ。これまでも、数年に一度、本土から9人の精鋭を募って、島内のリーグ戦に参加させていたんじゃが……」
ヤソジは言い淀むと、朱(あか)いキセルに火を落とした。火皿の刻み煙草が赤く燃え上がると、間もなくヤソジはふーっと長く煙を吐き出した。
「しかし、知っているかね。彼らの中で本土に帰れた人間はいないんじゃよ。本土に帰るためには、本土と島とを結ぶ定期便の乗船チケットが必要なんじゃが、それを手に入れる為には、この島のリーグ戦を勝ち上がって優勝しなければならんのじゃ。察しはつくだろうが、島内には幾つもの強豪チームが存在する。外から来たにわか作りのチームで、おいそれ優勝などできるはずもない。事実上の拉致じゃよ。いずれ、仲間割れが起きるか、島の風土に慣れてしまうかで、みんな故郷に帰る事を忘れてしまうんじゃよ」
ヤソジはまだ少し熱いコーヒーを飲み干した。大坂はテーブルに両手をついて立ち上がるとヤソジに尋ねた。カップの中でコーヒーが揺れる。
「帰れないって事ですか!?」
「そうは言っていない。ただ、島内のリーグ戦を制覇しなければならない」
「そんな……」
答えに詰まった大坂を、夏苗は心配そうに見つめた。大坂は俯いたままだ。
大坂はポケットからPDA端末を取り出した。長い時間、海水につかっていたにもかかわらず、それは正常に起動画面を示した。液晶画面を含め本体は新品同様で傷ひとつない。電話帳から矢部のページを呼び出す。締まりのない薄笑いの顔写真の隣にはEDBDDという彼の能力テストの結果が示されている。不器用だが足だけは速かった。かつての彼の特徴をよく表していた。総合評価はDランク。ブランクがあるとはいえ、かつての高校球児でさえ上から4番目の裁定だ。その辺の草野球のレベルでは通用しないということだろう。
端末のGPSシステムを起動させて、彼の現在地を検索した。所在地を示す赤い丸印が、島の北のはずれに在るリモーアの市街地を移動している。おそらく彼は無事なのだろう。しかし、何回電話で呼び出しても、彼が出ないのは気がかりだ。
矢部と連絡がつかないことは気がかりだが、大坂には頼れる人物にもう一人心当たりがあった。「優勝しなければならない」と言っていた人物に覚えがある。矢部には悪いが、こちらが本命だ。電話帳のページをめくる。AAEDD。総合評価はAランク。彼は現役の三冠王で、なおかつ不思議な力を持つバットを持っている。
「例えば、プロ野球の三冠王がチームにいたとして、リーグ戦を勝ち上がれますか?」
「ふむ、どうじゃろう。いい線までは行くと思う」
「そんなに、レベルが高いんですか?」
「いや、北地区の話じゃ。招待選手は原則として北地区のリーグ戦にエントリーすることになっておる」
「では、ここは? 東地区は?」
3人の表情がにわかに曇ったのが大坂にはわかった。何かまずい事でも言ったのだろうかと大坂は不安になる。常夏の日差しを雲が遮ったらしく、リビングの照度がぐっと低下した。気まずくなってPDAに視線を落とすと、画面に表示されている赤い丸印が、少しずつこちらに近づいてきているのがわかった。土地勘のない大坂にはどのくらいの距離が離れているかわからないが、結構な速さで近づいてきている事がわかる。
しばらくの沈黙の後、夏苗が静かに口を開いた。
「東地区は、もうリーグ戦が機能していないんです。私たちの村のチームも東地区5球団中最下位。明日の試合を棄権したら、チームは解散してしまいますの」
「解散って?」
「中ノ鳥島野球リーグの規定で、2シーズン勝ち星のないチームは解散しなければならないの。私たちが最後に勝ったのは、一昨年の初戦で、明日は今シーズンの最終戦。だから、解散なの」
夏苗は涙こそ浮かべないが、今にも消えてしまいそうな声で答えた。
野球が生業ともいえるこの島で、町ごとに点在する野球チームが持つ意義は大きい。その存続・発展のために町の若者が集められ、その勝敗に皆が一喜一憂する。ある町では設備の整った巨大ジムを建設して選手を強化し、別の町では絢爛豪華なスタジアムを建設して試合ごとにお祭り騒ぎをする。野球がこの島の人々の生活の中心なのだ。それは、片田舎のパラキ村でさえ例外ではない。
しかし、過疎化が進む東地区、とりわけパラキ村の野球事情は特殊だった。ヤソジが夏苗の話の後を受けた。
「恥ずかしい話じゃが、この村には野球ができる人間がもういなくてな。私みたいな老いぼれか、女子供ばかり。こんな村に野球チームは必要ないと言われてしまえばそれまでじゃが、このまま何もせずに終わってしまうのは、忍びなくてなぁ」
雲が流れて太陽が顔を出すと、再び常夏の日差しが窓を抜け鋭く床に突き刺さった。床一面にまぶしく光が反射してギラギラと大坂を照らした。
大坂は、再びPDAに目を落とすと、東地区の順位表を検索にかけた。パラキ村のホームチームと思われるパラキフロッグスは、夏苗が言うとおり5球団中最下位だ。0勝7敗、棄権試合7。
「オレでよかったら、力になりますよ」
大坂は出来る限りの笑顔を作って答えた。なるべく固くならないように努めたが、それはぎこちない笑顔だった。夏苗の表情が少し明るくなったような気がしたが、ヤソジと千代さんは困ったように顔を見合わせている。ヤソジは言い淀んだが、代わりに千代さんが口を開いた。
「大坂君、よく考えて決めてちょうだい。さっきのルールには続きがあるの、解散したチームに所属する選手は、二度と中ノ鳥島野球リーグに選手として登録ができなくなってしまうのよ。それでもいいの?」
「男に二言はありません。オレでよかったら是非」
安請け合いだった。ただ一度、こういうセリフを言ってみたいなと、昔思った事があっただけだ。先の事なんて少しも考えていなかった。
中ノ鳥島野球リーグでは春に東西南北の各地区でリーグ戦を行い、秋に各地区の成績上位チームが決勝トーナメントを戦うことになっている。
ところが、過疎が進む東地区では、自然と野球への振興は他の西・南・北地区から比べると劣るものとなり、決勝での成績も芳しくない状況が続いている。これは、東地区の過疎に更なる拍車をかける悪循環となり、他地区との格差は広がる一方である。
そんな折に頭角を現したのが、隣町のサンシャインモンキースである。彼らは元々由緒ある東地区の雄であったが、いつの年からか勝つ為の手段を選ばない極悪非道集団へとなり変ってしまった。反則すれすれの危険行為を繰り返して、やがて相手チームの戦意を削ぐ。そんな彼らの振る舞いもまた、東地区の野球離れを加速させた。
彼らの素行は何度も運営本部に申し立てられたが、彼らへの咎めは注意勧告にとどまり、それ以上のペナルティーが科されることはなかった。それもそのはずである。ルールの範囲内での行いを誰も咎めることはできない。
このような状況では東地区のまともなリーグ運営は不可能だった。星取表は、モンキースの独壇場が続いて、他球団の主力には故障者が相次いでいた。身の危険を感じて棄権するチームさえ出始める。すると、8つあった東地区の球団が1つ消え、2つ消え、一昨年は東地区最古参の球団が解散した。今ではパラキ村のフロッグスを含めて5球団しか東地区では存在していない。そして明日、その終焉を迎えようとしていたのが、ヤソジが監督として率いるフロッグスだった。
話が決まるや、ヤソジは東地区の球史を熱く語り始めた。聞くところによれば、ヤソジは元々島でも屈指の名プレイヤーだったそうだ。合いの手をいれる千代も嬉しそうだ。何度も聞かされている話なのだろうか、夏苗はあまり興味がなさそうだった。
彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。大坂は、この家の日常を何となく垣間見たような気がした。
そんな談笑が続く中、不意に夏苗が立ちあがった。
「みかんが帰ってきたわ!」
お昼にはまだ早いな。ふと大坂はそんな事を思った。どんなバカ犬か一目見てみようと大坂も立ち上がり、玄関へと急ぐ夏苗に続いた。
「まぁ、みかん! また、こんなものを拾ってきて」
見ると、ふてぶてしい柴犬がポッキーカラーのバットを咥えながらしっぽを振っている。夏苗はおもむろにバットに手を伸ばした。見覚えのあるバットだ。
「ちょっと待って!」
大坂が言うが早いか、すでに夏苗はみかんの口元からバットを引き離していた。
「どうかなさいまして?」
不思議そうに夏苗が振り向くも、平気そうな夏苗の様子に大坂は安堵した。
「いや、何でもない……」
大坂の心配をよそに、夏苗はバットにっ見入っている。
「何とまあ、美しいバットなんでしょう、でも私には少し重いかしら」
夏苗は靴も履かずに青い芝生の庭先へ飛び出すと、ブンブンと素振りをして見せた。重いバットに振り回されて、軸がブレていたが悪くないフォームだと大坂は感じた。普段からバットを握っていなければ、あのスウィングはできないだろう。しかし、それ以上に、無邪気にはしゃぐ夏苗の姿に目を奪われた。大人しい印象だった彼女が、たった一本のバットに表情を変えて、天真爛漫に振る舞う。野球の事となると熱くなるのはこの島に生まれ育つ者の性なのかもしれない。
「小波さんも振ってみてくださいな」
もし、あのバットだったらば、また腕が痺れるかも知れない。一抹の不安を抱えながらも大坂は夏苗のリクエストに応えるべく、玄関先にある来客用のサンダルの足をかけた。不意に見上げた空に浮かぶ雲の形が、妙に目蓋に焼き付いた。
その時、聞き覚えのある声が庭先を駆け上がってきた。
「ガッテム!」
ずぶ濡れの大男が、息も絶え絶えに駆け上がってきた。玄関先でふてぶてしく欠伸をするみかんの姿と、ポッキーバットを構えた少女の姿を確認すると、両手をひざについて肩を上下に揺らしながら呼吸を落ち着かせた。
「ヤット 追イツキマシタ ハァ ハァ……」
「ポートランドさん?」
「オー! ミスターオーサカ! マタ会エマシタネ」
本当ならば、大坂は目の前で能天気な笑みを浮かべている外国人に色々と言わなければならない事があるような気がしたが、今この瞬間に、そんな事はとても小さな事のように思えた。巨漢の外国人にいきなり海に突き落とされ、清楚なお嬢様に命を救われたのだ。埼玉に帰るのを急ぐ必要はない。そう大坂は直感した。
大坂とポートランドが知り合いだとわかると、ポートランドも龍ヶ崎家に手厚く迎えられた。もちろん、彼が元プロのAランカーと分かればパラキフロッグスのチームの一員として招待されたのは言うまでもない。
◆ ◆
翌朝、試合前のミーティングで、大坂は驚くべき事実を知らされた。
「三番、ピッチャー 大坂」
「!?」
「聞こえんかったか? 三番、ピッチャー大坂」
「ぁ、はい!」
昨日は一度も見せなかった厳しい表情と、強い語気でヤソジに迫られて、慌てて大坂は返事をする。ピッチャーなど生まれてこの方経験がなかった。大学の草野球大会ならいざ知らずであるが。
「四番、ファースト ガッテム」
「ハイ」
ポートランドは既にこの呼び名を受け入れていた。ずぶ濡れの大男が現れるなり「ガッテム」と言い放つ様は、夏苗にとって新鮮だったらしい。彼女はガッテムさんと呼んで彼を慕った。気が付けば、皆も彼をガッテムと呼び慕った。
「五番、ショート 井伏……」
スターティングオーダーが次々と読み上げられていく中、最後の最後で大坂はまた驚かされた。
「九番、キャッチャー 夏苗。以上だ。今日は強力な助っ人2人が加勢してくれたから、私はベンチからお手並みを拝見させてもらうよ」
『オー!!』
士気は高かった。
しかし、よりによってキャッチャーがこのお嬢様とは。清楚な外見とは裏腹に、お転婆な一面も垣間見えていたが、キャッチャーはナインの中で最も危険なポジションと言ってもよい。だからこそ、プロテクター・マスク・ヘルメット・レガースと一式の防具で身を守るのだ。クロスプレーに代表される危険な局面もあり、昔から屈強な大男と相場は決まっている。最近はインテリメガネ君の需要もあるらしいが、とても女の子に務まるようなポジションではない。