ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~ 作:マリリンマンション
油断大敵とはよく言ったものである。スポーツに限らずどの分野に於いても、一瞬の気の緩みが勝負の明暗を分けることは語り尽くされて久しい。フットレイクスの4番金玉匂は6回まですべての打者が見送っていた初球のインハイを、容赦なく捉えた。
菅野のリリースの瞬間、その白球が決して自らの構えるミットには届かない事を夏苗は悟った。金のテイクバックはあまりにも隙がなく、そして自信に満ち溢れていたからだ。こうなると夏苗には金の打ち損じを祈る事しか出来ない。しかし、最近10試合で4割をマークしている強打者のスウィングは、そんなに生ぬるいものではなかった。
狙い澄ました一閃が、夏苗の頭上で煌めいて、白球は夜空高くに舞い上がった。
迂闊だった。しかし、後悔は先に立たない。ダイヤモンドを一周する金を背に、誰が誰とでもなく、内野陣はマウンドに集まった。
「あそこまで飛ばされたら逆に気持ちいいってもんだな」
井伏がレフトスタンドを振り返りながら引きつった笑みを浮かべている。
「打たれたのは仕方ありません。切り替えていきましょう」
永瀬の口ぶりもどこか上の空だ。試合の流れの中で、この1点は重くのしかかってくるのは明白だ。序盤の大量失点から、やっとの思いで1点差まで漕ぎ着けたばかりでの痛恨の失点である。点差は2点に広がった。フットレイクスのエース、ルコフスク相手に残り3回であと1点ならば何とか取り戻せるのではないかという望みが、あっさりと蹴散らされる。
「マダ試合ハ オワッテイマセーン」
しかし、この試合で最も勝利に拘り、そして、最もチームに貢献している男はひたむきに明るく振る舞った。ふて腐ったり、誰かを責めたりする事もなかった。何となく沈みそうなチームの士気が、その一言で拭い去られていく。今ここで、勝負を捨てれば、これまでの苦労が水の泡となってしまうのは、ここにいる誰もが承知の事だ。
一同が顔を見合わせて、口には出さないながらもお互いの意思を確認したところで、輪の外から声が掛かった。
「主ら。ちょいと聞いてくれまいか?」
三塁側のベンチから杖を突きながら、ヤソジが姿を覗かせている。
「菅野君。ここまで、よくやってくれた」
「じーさん、悪いな。折角いい流れだったのに……」
「いや、気にする事はない。勝負は時の運じゃからのう……」
菅野を励ましたところで、ヤソジは言い淀んだ。しばらくの沈黙に、一同は再び顔を見合わせたが、思い当たる節はない。
「……おじい様、仰りたい事があるなら、仰ってください」
「うむ。よかろう」
夏苗に促されて。ヤソジがようやく口を開いた。
「……橘君。出てきなさい」
ヤソジの視線に促されて、内野陣一同は三塁側ベンチ奥の扉に注目した。橘みずきは午前中の試合が終わった後、雷神バットを持ち逃げした女だ。一体、どんな心境でのこのこ戻って来たのだろうか。ましてや、今や雷神バットはフットレイクスの手に渡っている。そもそも、彼女が余計な事をしなければ、この一戦だって必要のないものなのだ。ゆっくりと扉が開いて、フロッグスのユニフォーム姿の橘みずきが現れた。
彼女は俯いたまま、扉の前から動かない。すぐに謝罪の言葉があれば、まだいくらか穏やかに事は運んだかもしれないが、黙って俯いたままの彼女の態度は、好印象と呼べるものではなかった。しかし、今の状況を鑑みるに、橘のリリーフも選択肢としてそう悪いものではない。モンキース戦での快投は、誰もが記憶するところだ。監督の考えを、選手たちはすぐに理解した。彼女を受け入れるのであれば投手交代、受け入れないのであれば菅野続投。
ここでの判断基準は2つあるだろう。まず1つは、純粋に戦力として橘みずきにリリーフするかどうかだ。菅野に比べて球速の劣る橘へのリリーフが裏目に出る可能性は勿論否定できないが、キレ味鋭いスクリューボールと、低めへのコントロールは彼女の大きな武器である。これは、条件をクリアしていると言っていいだろう。
もう1点は、一度チームの和を乱した存在を受け入れるのかどうかということ。中ノ鳥島の野球リーグには教育思想的な概念はないから、選手の人柄だとか性格だとかは彼が持ち合わせている能力や技術に比べれば軽視されがちである。これは、お互いの利害が絡んだビジネスのそれに近い。しかし、野球は団体競技である。いざという時に、信頼関係に不安や亀裂が生じれば、大なり小なりプレイに影響が出るものである。
「オイラは菅野さんの続投で良いと思うでやんす!」
矢部は早々に結論が出たらしいが、この島では野球が生活の全てであり、生き甲斐である。勝利や敗北という結果の重みを理解している島の人間は軽はずみに判断をしかねていた。クインテットスターレアアイテムの威力を知る人間にとっては、これは今後の選手生活に関わる重大な決断となり得るのだ。
誰もが納得する形で、誰もが納得できる答えを導き出せるのは、今この場には一人しかいないであろう。彼は島の外から伝説に謳われるバットとともに現れた。そもそも、この男がすべての発端なのだから、彼の意見には誰も異存はない。彼こそが雷神バットを最も欲していて、つまり、この試合での勝利を最も欲していて、尚且つ、この試合で最も活躍している男である。
ガッテムはファーストミットに右手の拳をポンと打ち付けると、ひとつひとつの日本語の意味を確認するように静かに切り出した。
「ライジンバットハ モトモト私ノモノデハアリマセン 私モ誰ノモノナノカワカラズニ持ッテキテシマイマシタ ダカラ私ハ盗マレテモ文句ヲイエル立場デハアリマセン」
そう前置きした上で、ガッテムはミットをクイクイと振って橘を招き入れた。
「ヘーイ! ミズキタチバナ! Come here!」
信じられない。そんな驚いた表情で橘みずきは顔を上げた。大きく見開かれた瞳が充血して潤んでいる。茫然と立ったまま動かない橘の肩を叩いて、ヤソジは彼女をグランドへと促した。マウンドへ駆ける橘の胸元には三日月形のペンダントが揺れている。彼女はマウンドの前で立ち止まると深く頭を下げた。
「本当に、すみません……」
消えてしまいそうな声はどこか虚しく、説得力に欠けるものだった。しかし、今ここで求められているのは、礼節を弁えた態度でも謝罪の言葉でもない。
「ミズキタチバナ! コノ試合デ勝テバ 雷神バットハカエッテキマス スベテチャラニナリマス ダカラ コノ後ノフットレイクスヲゼロニ抑エテクダサイ 約束デス」
ガッテムは橘を咎めたり諭したりしなかった。現状を鑑みて最善を尽くす為のシンプルな結論だ。体裁や感情に左右される事なく、目的のために必要な事をやるだけ。彼の野球に対する姿勢は、いつもストイックでドライだ。
「打たれたら、承知しないからな」
菅野はそう言い残すと、橘にボールを渡した。三塁側ベンチに向かいながら、やり場のない気持ちをベンチ前で待ち構えるヤソジにぶつける。
「おい、じーさん。代えるならもっと早く代えてくれよ!」
「そう絡みなさんな。菅野君が抑えている状況じゃ、誰も納得しなかろう」
「それもそうだけど、今の1点はでか過ぎる……」
菅野はベンチに戻り、どっかりと腰をおろすとタオルで顔の汗を拭った。
「それにしても、思ったほど持たなかったな……って、冷たっ!」
菅野が左肩を回しているところに、背後からチームドクターの加藤京子がアイシングを当てる。
「それは、きっとこの刺青のせいね」
「何だよ! 刺青が悪いってのか?」
「そうは言ってないでしょ。でも、その刺青のせいで回復魔術の効きが弱まってしまったのは間違いないわね。だから、あなたの肩も思った程は回復していなかった」
「この刺青はなぁ、俺の決意の証なんだ。もう、二度とあんな事には……」
「いいから聞いて。私の見立てだけど、その刺青には魔力を抑制する結界のような力があるわ」
「そうかもな。二度と魔道術には頼らないって戒めで彫ったんだ」
「誰に彫ってもらったの?」
「それはお前には関係ないだろ」
「そうね。詮索する気はないけど、そこまで言うのなら、私の回復魔術にはあんまり期待しないでね」
「わかったよ」
菅野はアイシングを肩に巻きつけてマウンドの投球練習に目を移した。160㎝に満たない小柄な体を目一杯使ってのサイドスローが躍動している。“パシンッ”と小気味よい音を立てて捕球する夏苗のミットは少しもブレていない。
「俺にも、あのくらいコントロールがあればなぁ……」
独り言のように菅野はつぶやいた。コントロール。それは予てからの菅野の課題でもある。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
ピッチャーが代わって、吾輩の打席と相成った。
リリーフした橘みずきは菅野と同じ左投手だが、上から投げ降ろす菅野とはタイプが異なり、横からの角度をつけた投球が特徴だ。球速は恐れるに足らないが、外角へ逃げながら落ちるスクリューボールは厄介だ。彼女が如何にして隔離棟からの脱出を図ったのかはわからないが、今はそれはどうでもいい事だ。
グランド整備の間に、四路君からの報告メールに目を通した。ゲートの被害状況云々あるが、実害はそれほど大きくないようだ。今はもう少し試合に集中する事にしよう。彼女からの情報によればミラージュゾーンは20年近くも前に存在した魔道術らしい。本投間に冷気の層を作って、蜃気楼のように実際の球筋とは異なる軌道を打者に錯覚させるというものだ。無風の晴天時にその効果は最大となるが、強風時やナイトゲームでは効果が半減してしまうらしい。そして何より、ベルトより上の高さの投球では、能力の性質上気象条件に関係なく錯覚が起きないという実にトリッキーな能力だ。
金はその高めの球を見事にスタンドまで運んだ。
ならば、吾輩も低めを捨てて――
“パシン!”
「ストライーク!」
――などと、悠長な事を言っている場合ではない。ビシッとアウトローいっぱいに初球を決めてきた。ただのアウトローではない。今日の審判の癖で甘くなっているアウトローいっぱいに決めてきたのだ。あの小娘、なかなかやるではないか。
ストライクが先行して2球目は一転してインコース高め。しかし、これに怯む吾輩ではない。
侮ったな小娘ども! 渾身の一打をお見舞いしてやる!!
“キィィ――ン!”
「ファールボール!」
「大佐ァ~ 見逃せばボール球アルヨ~」
わかっておるわい! 小娘どもはなかなか策士ではないか。吾輩の打ち気を逆手にとっての投球術。敵ながら天晴れである。
ノーボール2ストライクと追い込まれてしまったが、吾輩にカウントなど関係ない。実際に打つのは追い込まれようが、早打ちだろうが唯一球のみ。まさしく一球入魂。いざ尋常に勝負と参ろう。
3球目は初球と同じコース。外角低め。ミラージュゾーンなどに臆していては埒が明かないというものだ。そう、確か四路は実際の軌道よりも高めに浮いて見えると言っていた。ならば、少し下を叩けばいいだけの事。ミラージュゾーン、敗れたり!
“ブン!”
「ストライーク バッターアウトォ!」
吾輩としたことが、何と言う様だ。決して失念していた訳ではないが、あれほどの変化とは……。橘のスクリューは低めに合わせたはずの吾輩のバットのさらに下をすり抜けていった。まずいこれでは部下達に合わせる顔がない。
「ちょっと、あっさり手玉に取られてんじゃないわよ?」
「大佐、カッコ悪いアル」
「……面目ない」
吾輩はバットケースにバットを戻す。大丈夫だ。雷神バットが我々の手の内にある以上は、問題ない。
◆ ◆ ◇ ◇ ◇
この後、試合は両投手の好投により両軍無安打のまま9回まで展開する。
3-5のまま迎えた9回表、フロッグスの攻撃は3番大坂からの打順となる――