ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~   作:マリリンマンション

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Crescent Moon

 9回表――

 フロッグスの攻撃は無死一、二塁で5番打者の佐賀へと打席が回った。二塁には左中間にスタンディングダブルを放った大坂、一塁には敬遠で歩かされたガッテムがいる。2点を追いかける今、ガッテムは同点のランナーである。

 何としても一塁走者のガッテムにホームを踏ませたいところだが、体重100kgオーバーのガッテムの走力は生憎だが知れている。フットレイクスの堅実な外野守備を考えれば、深々と外野手の間を割らなければ本塁生還は難しいだろう。自然とバットを握る佐賀の腕にも力がこもる。

 

 キィィン―――!!

 

 ―――ガッシャン!!

 

「ファールボール!」

 

 鋭利な金属音が響いた後に、バックネットが無機質な音を立ててボールを受け止めた。フルスウィングも虚しく、佐賀にストライクが先行する。

 グラヴィティーボールの使い手であるルコフスクはマウンド上に悠然と構える。そう簡単に打たせてはもらえない。ここまで3打数0安打の佐賀は重々承知の上での第4打席だ。そして、忘れてはいけない――

 

「佐賀ちゃん、そんなに振り回しても無駄よ。外野の守備位置をよく見てご覧なさい」

 

 悩ましいのはキャッチャーの波水出も同じだ。強靭な地肩や狡猾なリードなど、キャッチャーに求められる適性は多くに及ぶが、俗に“ささやき戦術”と呼ばれる打者とのコミュニケーションによる心理戦もキャッチャーの適性の一つと言えるだろう。これは数字として測ったり、結果が記録として残るものではないが、敵として対峙すればなかなか厄介なものである。

 

「次の打者はみずきちゃんね。いくら彼女が野球のセンスに秀でているからと言っても、まだ二十歳前の女の子。彼女にグラヴィティーボールはまず打てないでしょうね」

 

 ネクストバッターズサークルで俯く橘の表情は冴えない。マウンド上では頬を淡いピンクに染めて力投していたが、今では色白の肌に蒼白い影が差している。打撃はそれ程得意ではないのだろうか。佐賀も不意にそんな事を思ってしまう。

 

「その後の井伏さんも今夜は無安打。更に、8番の鹿島さんはバットにすら当たっていない。だからこそ自分が決めなきゃいけない。そんなところかしら?」

 

 佐賀は黙ってルコフスクとの勝負に集中するが、図星を突かれて表情が少しひきつる。しかし、佐賀はここで熱くはならなかった。あくまでもクールに、彼の思考回路は研ぎ澄まされていった。外野の守備位置は把握していたし、今の自分には打球をフェンス際まで飛ばす事はできない。ならば――

 

 ルコフスクの2球目は高めの釣り球。佐賀はこれに躊躇わず反応して空振。打ち急いでいると誰もが思っただろう。しかし、したたかな波水出を油断させるには、このくらいの芝居が丁度いい。佐賀は既に考えを改めていた。求められる結果に囚われて、己の力量を見誤ってはいけない。成すべき事は、今の自分に成せる事だけだ。

 強振がブラフである事は一塁々上のガッテムには伝わったらしい。佐賀は本気で打ちに行ったつもりだったが、彼クラスの強打者ともなれば、打者の打ち気などお見通しという訳だ。アイコンタクトで意志の疎通が完了した。長打はいらない。彼の目もそう語っていた。この試合で一番勝利にこだわっている男は、甘んじで敬遠を受け入れていた。決して勝負を棄てている訳ではないし、佐賀を見くびっている訳でもない。戦況を冷静に分析した上での結論は、まだ機は熟していないということ。長い経験で知っている真理は、一人の力では敵わない局面が存在するということ。

 

「そして、あなたにこの球は打てないわ。ガッテムを敬遠した時点で、もう詰んでるのよ。ごめんなさい」

 

 グラヴィティーボール3倍。波水出はそう予告してミットを中央に構えた。これに力任せの勝負を挑めば、球威に押されて内野フライだろうか。それとも、打ち損ねてゲッツーだろうか。いずれにしても、まともな結果は期待できない。“詰み”だ。しかし、グランド上で汗をかいているのは将棋の駒ではない。人間の動きは実に多彩である。

 

 3球目のモーションと同時に佐賀はすっとバットを短く持ち替える。波水出が視界の隅でそれに気付いた時はもう遅かった。ボールを充分に引き付けて、丁寧に弾き返す。バットコントロールを重視した時の佐賀のバッティング精度は東地区随一だ。広く空いていた一二塁間を速いグランダーが強襲していく!

 

 スピンの掛かった打球は赤土の上を高速で弾んで、さらに最後のワンバウンドは一塁側に大きくイレギュラーした。誰もが抜けると思った。だがしかし、鋭い打球は二塁手である金の長く伸びた左腕、それもグラブの先端に遮られた。

 佐賀の大きな空振りに違和感を覚えたのはセカンドを守る金も一緒だった。彼もまた一流の打者として、何かを感じていた。必ず何か仕掛けてくる。天才が動く為の根拠は1%の直感だけで充分だった。

 猛ダッシュの金が地面にスパイクを突き立てて踏ん張ると、慣性の法則に体重を任せて身体を大きく捻ってセカンド方向に向き直る。しかし走者のガッテムと遊撃手が重なって投げる事ができない。二塁を諦めた金は小さくステップを踏み直してボールを一塁へと転送した。1アウト。一塁を駆け抜けた佐賀は天を仰いだ。

 

 結果的に送る形となり、同点のランナーが二塁へと進んだ。一死二、三塁。しかし、打線はここより下位打線へと向かう。今宵は6番以降の打者にヒットは出ていない。橘は6回からの途中出場で、7回の第1打席は三振に倒れている。橘は左打席の手前でベンチからのサインを待った。

 

 

◆  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「あれ……抜けなかったの?」

 

 大坂が塁上からコーチボックスの矢部に尋ねた。迷うことなく本塁を狙っていた大坂を矢部が制止したのだ。

 

「きっと、打つ前からスタートを切っていたでやんす。まるで未来を予知していたみたいでやんす」

「未来予知か……」

「フィクションでは最強ランクの能力として描かれることが多いでやんす」

「でも、それは無いかな?」

「どうしてでやんすか?」

「何となくだけど」

 

「おい! 二人とも! サイン出すぞ!」

 

 一塁コーチを務める菅野の怒号が飛んで、ようやくベンチからヤソジがブロックサインを送り始めた。彼はゆっくりとした動作で左肩、左肘、ベルト、帽子、ベルトの順で触れるとパンパンと2回手拍子を打った。「待て」のサインだ。

 犠牲フライでも1点だが、外野まで打球が飛ぶ可能性は極めて低い。

 カウント次第ではスクイズもあるだろう。しかし、これは誰にでも容易くできるものではない。大坂は6回の永瀬の送りバント失敗の併殺打を思い出していた。あのバントが決まっていれば、決まらずとも三振に終わっていれば、あの回はもう1点入っていた。

 そうなれば、エンドランも有効だが……

 

 初球、2球目ともに待てのサインで橘はノーボール2ストライクに追い込まれた。

 しかし、ベンチからの指示は再び「待て」のサイン。投手だから打たせない積りだろうか? いや、最終回だ。そんな悠長な事を言っている場合ではない。

 バッテリーは1球外して1ボール2ストライクになる。

 

 ここでようやくベンチから「サインなし」のサインが送られる。スリーバントスクイズを覚悟していた大坂はホッと胸をなでおろしたが、ベンチの意図が良く分からない。三振のリスクを負ってまで、ここまで勝負を引き延ばした理由は何だろうか?

 首を捻りながら大坂がリードを広げると、ルコフスクが投球モーションを起こす。そして、背後で矢部が厨二な台詞をのたまった。

 

「みずきちゃんのペンダントが光っているでやんす!」

 

 大坂は矢部が何を言っているのかわからなかった。橘の胸元に揺れる三日月型のペンダントはいつも通りの光沢だが、大声で叫ぶほどに光っている様子はない。

 そして、同時にあの試合の記憶が蘇る。忘れもしない、3年前の甲子園大会の一回戦だ。あの時も矢部は同じような事を言っていた。

 

 

◆  ◆  ◇  ◇  ◇

 

 

「仕方ないさ、オレ達はここまで来れたんだ。充分だよ」

 荷物をまとめて、ベンチを後にする。もう、二度とあの場所には立てないが、一度でもあの場所に立てた充実感が入り混じって複雑な心境だ。

 それでも敗者とは、いつ如何なる状況でも惨めなものだ。仕方ないでは誰も納得ができない。どんな慰めの言葉も宙を彷徨って重い空気に取り込まれて、ベンチの空気はまた少し重くなる。

「嘘じゃないんだ!」

 3年間貫き通した語尾を忘れて彼は訴えた。誰も彼が嘘をついているとは思っていないが、つい数分前の彼の失策がなければ甲子園初勝利を手にしていたのだ。今、一番ショックを受けているのは彼自身だ。それをこの場にいる全員が理解しているからこそ、彼に言葉を掛けたのはキャプテンであり最も親しい大坂だけだった。

 

 センターに高く舞い上がった打球に勝利を確信した。一切の油断が無かったと言えば嘘になるが、気が緩んでしまった訳ではない。

 しかし、落下点へと走る矢部の足取りが突然おぼつかなくなる。打球音とその角度を頼りに彼は何とか落下点までたどり着いたが、非情にも打球は彼の背後にポトリと落ちたのだ。

 カバーに入ったライトが打球を拾い上げた時には、サヨナラのランナーが本塁を駆け抜けていた。

 

「スタンドが蒼白く光ってボールを見失ったんだ…」

「わかったよ。矢部君。だから、早く整列しよう!」

 大坂はセンター後方で茫然と立ち尽くす矢部をわざわざ迎えに行った。チームを背負って立つキャプテンとして、彼の気持ちが痛いほどよく分かったからだ。

 何のために辛い練習に耐えてきたのだろうか。この時の為に、どれほど厳しい練習を積み重ねてきたのだろうか。それなのに、甲子園の魔物は、容赦なく球八高校ナインに襲いかかった。

 

 すべてが 一瞬で 消えたのだ

 

 

◆  ◆  ◆  ◇  ◇

 

 

 あの時も矢部は同じような事を言っていた。

 嫌な記憶を思い出してしまった大坂だが、打球は鮮やかにセンター前へ抜けていく。大坂はそのまま本塁を駆け抜けた。ガッテムは三塁ストップ。

 

 

◆  ◆  ◆  ◆  ◇

 

 

「よくあのタイミングでクレッセントムーンが発動するってわかりましたね」

 

 打球の行方を見届けた後で、三塁側ベンチの加藤京子がヤソジに尋ねた。

 

「年寄りの勘とでも言うかのぅ」

「勘ですか!?」

「かつてはカンピューターと呼ばれる奇抜な采配で知られた名将もいたが……と、言っても京子さんは納得せんかな?」

 

 ヤソジは膝をポンと叩くと、ゆっくりと立ち上がり話を続けた。

 

「今、この球場内にはレアアイテムと呼ばれる1つ星(ソロスター)以上のアイテムがワシの知る限り4つある。ひとつは、言うまでもなく雷神バット。滅多にお目に掛かれない5つ星じゃ。そして、もうひとつはクレッセントムーン。橘君のペンダントじゃな。これは1/3の確率で重力系黒魔術を無効化する優れモノじゃ。ルコフスク攻略に、これ程適したアイテムはないじゃろう。ただし、ネックとなるのは1/3という発動条件じゃ。これを見極めるのは本来不可能なはずなんじゃが、あれを御覧なさい」

 

 ヤソジは三塁コーチズボックスに立つ矢部を指差した。

 

「足はこんなじゃが、目だけは今も良くてね。彼のメガネのレンズ越しならば、魔道術やアイテムの効果が可視化出来るらしい。もっとも、その事に気が付いたのは7回に橘君が打席に入った時だったがね」

「みずきちゃんはその事を……?」

「気づいていたかどうかまでは聞いてみない事にはわからんのぅ。ただ、サインが変わった意図には気が付いてくれたようじゃな」

 

 そう言って、一塁方向をしばらく見つめた後で、ヤソジはゆっくりとベンチの中を歩き始めた。

 

「あれ? 待ってください。さっきレアアイテムは4つあるって言いませんでした?」

「いかにも。これが、最後のひとつじゃ」

 

 ベンチの手前に立て掛けてあるバットケースまでたどり着いたヤソジは、おもむろにその中から1本を取り出すと、傍にいた孫娘へと手渡した。今まで誰も打席で使っていなかったバットだ。

 

「使い方は、わかっているね」

 

 夏苗は黙って頷くと、バットを受け取って、白いバッティンググローブをはめながらベンチ前へと歩き始めた。

 

「何ですか? あのバットは……」

「風神バットレプリカ。レプリカとはいえ3つ星アイテムじゃ。なるべくなら使いたくなかったが、状況が状況じゃ。仕方あるまい。頼んだぞ、夏苗」

 

 夏苗は祖父の言葉に振り返ると、10代とは思えない大人びた微笑みでそれに応えた。ヘルメットからのぞく艶やかな黒髪を美しく揺らしながら、彼女は再びグランドの戦況を見守る。

 

 最終回、フロッグスは橘のタイムリーヒットで1点を返してスコアは4-5。一死一、三塁となり打順は7番井伏へと巡る――

 

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