ドラフ島列伝 ~The last page of baseball legends chronicle~ 作:マリリンマンション
9回表フロッグスの攻撃は二死満塁となって、打順は9番打者の夏苗に巡る。
ここまでの夏苗は内野ゴロ1つと、三振が2つ。もともと打撃が得意ではないとはいえ、まったく結果を残せていない。
少しでも、打撃に秀でている選手がいれば代打という策もあるが、ベンチに残るのは6回にマウンドを降りた菅野と、采配を振るうヤソジと、チームドクターの加藤京子だけである。控え選手として送り出せる選手は残っていない。
しかし、フロッグスベンチには切り札が残っていた。打席に立つ夏苗が握る白木のバットは風神バットレプリカ。初代鬼瓦棒之介の遺作である風神バットを模して二代目鬼瓦が作り上げたもので、もう二度と悲劇を繰り返さない戒めとして彼女の祖父であり、現在のフロッグス監督である品野ヤソジに贈られたものである。
このバットを封印することこそが魔力暴走事故でバットを置いた選手たちへの償いであり、ファンに対してのけじめでもあった。そのバットが、いまここで、一人の野球少女の手によってベールを脱ごうとしている。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
「おじい様、あのバットはどうして使ってはいけないのですか?」
まだ幼少の夏苗には、そのバットが持つ意味は理解できなかった。
「あのバットは、風神バットレプリカじゃ」
「フージンバット……レブ、リカ? 変な名前~」
「このバットのお父さんにあたるバットは、凄いバットだったんじゃよ」
「夏苗のお父さんより凄い?」
「どうかな? お父さんも凄いからなぁ」
「うん。お父さん、とっても凄いよ! うんと速い球を投げるの!」
夏苗は無邪気に父親の投球フォームを真似て見せた。夏苗の父親である龍ヶ崎希は当時フロッグスの大黒柱として活躍していた。キレのある速球と縦のスライダーが武器の右の本格派投手だった。
「でも、そのバットも凄かったんじゃ。とても、ワシらが扱いこなせる代物ではなかった」
「……?」
「夏苗には、まだ早かったかな?」
「ううん。何となくわかった! フージンレプなんとかバットは危ないから使っちゃダメなんだね?」
「夏苗はものわかりがいいのぅ……」
ヤソジが夏苗の頭を撫でると、夏苗は目を瞑って嬉しそうに声を上げた。祖父のヤソジに褒められる時は、幼い夏苗にとっては至福のひと時だった。
◆ ◆ ◇ ◇ ◇
ルコフスクの初球はグラヴィティーボール5倍。ややアウトコース寄りだがほとんどど真ん中への投球でストライク。夏苗は初球を慎重に見送った。5倍のグラヴィティーボールはあと1球。
◆ ◆ ◆ ◇ ◇
時が流れて、成長した夏苗は好奇心旺盛でお転婆な一面も見せるようになる。ダメと言われれば、つい試してみたくなるのが子供ならずとも人の性だ。
“パン! パパパン! パァーン!!”
その夜、家中のガラス窓が一斉に割れたのだ。あまりの出来事に、まだ年端の行かない夏苗はその場で泣き崩れる事しかできなかった。おいおいと泣きじゃくり、庭の芝生の上で尻餅をついていた彼女の手には風神バットレプリカが握られていた。
「何をやってるんだ、夏苗!」
一番に駆け付けたのは、その日オフだった父親の希だった。
「ごめんなさぁ~い!」
父親はすぐに状況を飲み込んだようだ。そして、彼は取り乱すことなく、優しい声で彼女を諭した。その姿は、どんなピンチでも冷静沈着に対処する彼のマウンド捌きにもよく似ていた。
「夏苗。大事な事だから、よく聞いて欲しい。このバットは風を操る神様がモチーフになっているんだ」
「……モチーフ?」
「作った人の願いが込めてある。そして、その願いが力になるようにできている」
「……願い?」
「そうだ。願いが大きければ大きい分だけ力は強くなる。この風神バットレプリカに込められた願いは、とっても大きな物なんだよ。それから、夏苗にはもう一つ大事な事を教えてあげよう。強い力を使う時は、必ず大切な誰かの為に使いなさい。だから、夏苗は本当に大切な物を見つけるまで、このバットを使ってはいけないよ。いいね」
「……うん」
夏苗は涙を拭いて頷いたが、この時は父親が何を言っているのかさっぱりわからなかった。目の前で起きた突然の出来事に怯えていた自分を、父親が優しく包んでくれた、温かい思い出の一つに過ぎなかった。
でも、今ならばわかる気がする。少しだけだけど、何となくだけど、あの時父親が何を伝えたかったのかを。
◆ ◆ ◆ ◆ ◇
ハッキリとしたイメージがあるわけではない。ただ、今目の前で力の限り戦っているチームメイトの気持ちにどうにか報いたい。その一心で、夏苗は打席に立っている。このまま何もしないで終わるわけにはいかない。
風神バットの基本的な使い方はこうだ。下段に構えてテイクバックをすると、バットの軌道上に真空空間ができる。この事により、ピッチャーの投球はその真空空間に吸い寄せられるのだ、また同時に打者のスイングもその真空空間に吸い寄せられて加速する。両者が引き付けあう事によってインパクトの精度があがり、お互いの加速によって打撃の威力が増すとされている。また、この打ち方をすると、打者や捕手が身体に刃物で鋭く切りつけられたような傷を負う事から、これは「かまいたち打法」と呼ばれている。
ただし、風神バットレプリカは完全な真空状態を作ることはできず、それを維持する時間も短いためその威力はオリジナルの1割にも満たないと言われている。だがしかし、それでもトリオスター。グラヴィティーボールに対抗するには充分な力を持つアイテムであると言えよう。
ルコフスクの2球目もグラヴィティーボール5倍。少し高めの甘いコースだが球威は充分だ。夏苗は手を出さない。これで2ストライク。ルコフスクは5倍のグラヴィティーボールはすべて使い切った。
カウントノーボール2ストライクとなったが、ルコフスクは切り札を使い尽したのだろうか。いくら夏苗が打ち取り易い「安牌」とはいえ、切り札は最後まで残すのが定石だ。まして、夏苗が持つバットがレプリカとはいえ風神バットである事に気が付いていないはずがない。
黒く尾を引いたボールを5球連続で捕球して、口数の少ない波水出もまた不気味だ。
「まだ、何かあるのかしら……」
夏苗は恐る恐る、独り言のように呟いた。迂闊にしゃべれば、波水出のペースに飲み込まれかねない。
しかし、波水出は黙って一点を見つめていた。ただ、何となく視線を落として考え事をしている様にも見えたが、ベースとマウンドの間の少し柔らかくなって色が変わっている赤土の部分を凝視している。昂ぶる気持ちを鎮めるかのように、彼はゆっくりと息を吐きながらストライクゾーンの中央線上にミットを構えた。
――グラヴィティーボール10倍が来る!
他のチームメイトよりも一瞬だけ早く、夏苗はそれに気が付く事ができた。あと一瞬でも覚悟を決める時間が遅れていたのならば、彼女は呆気に取られて次のボールを見送っていたことだろう。
ルコフスクが巨体を揺らしながら大きなモーションを起こすと、彼の右腕の力が掌の中に集約されていく様子を黒いオーラが具現化していく。やがて、彼の指先が黒いオーラに包まれると、赤い火花がジリッジリッと音を立てて彼の掌の中から溢れだす。
三塁側のベンチからは夏苗を制止するしゃがれ声と、憤りをぶつける怒号が響いたが、それらが打席やマウンドに届く事はない。
渾身の力が込められた、グラヴィティーボール10倍がルコフスクの剛腕から解き放たれた。
夏苗は下段の構えから、短く持ったバットをすくっと立てると、小さめのテイクバックから一気にバットを振り抜く!
バットの軌道に吸い寄せられるようにボールの軌道が変化して、あとは振り抜くだけのはずだがバットが返らない。本来は141.7g~148.8gと定められているはずの小さなボールだが、巨大な鋼鉄の城壁を打ちつけたような反動に夏苗の腕は悲鳴を上げる。夏苗のささやかな握力ではバットを保持することができない。しかし、このまま手を離せばボールはバットを破壊して波水出のミットへと収まるだろう。既に覚悟を決めていた夏苗は、ここで引き下がらない。
――夏苗! やめなさい!
突然、夏苗の耳に聞いた事のない女性の声が響いた。しかし夏苗は、それが母親の声であるとすぐに理解する事ができた。いくら、母親の助言とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかない。
――さすが、私の娘ね。一度決めた事は曲げない、か。
「な、何なのよ、こんな時に」
初めての母との対面で話したい事、聞きたい事は山ほどあったが、今はそれどころではない。
――こんな実験を知っているかしら? 液体窒素に漬けて凍らせたバナナって釘が打てるくらいに硬くなるのよ。
強い衝撃を受けた時、生命の危機に瀕した時、それが引金となって新しい魔道術が錬成される事がある。夏苗の腕は既に限界を迎えていた。指が砕けて、手首や腕の関節もおかしな方向に曲がろうとしている。
――くれぐれも、身体は大事にしなさいよ。
母親の声は最後にそう言い残すと、どこかへ去っていった。
「月並みな事を……でも、ありがとう」
かなり差し込まれているものの、悪くない角度でボールを捉える事ができた。“ビキィィィン!”と鈍い音を立てて、打球は一塁後方のフェアグランドへと上がっていく。前進守備のライトが飛び込むが、詰まった打球は風に押し戻されて彼のグラブの手前でショートバウンドした。
一度グラブに当たった打球が、ライト後方に転々としていく。ライトの秦野はすぐに起き上がって打球を追いかけるが、ボールはかなり深いところまで転々としていく。
三塁走者のガッテムは悠々生還。続いて二塁走者の橘も本塁を踏んでフロッグスは逆転に成功した。一塁走者の井伏も三塁まで進塁、打者走者の夏苗も二塁まで到達して、なおも二死二三塁。
ヴォクスルトフットレイクスのエース、ルコフスク=ロシュツスキーのウィニングショットであるグラヴィティーボール10倍が一夜にして二度攻略された。防御率ゼロ点台のエースは今日6失点。まさかの不調に、チーム内にも動揺が走る。
ライトからの返球を持ったまま内野まで帰って来た金が、ルコフスクにボールを手渡しする。
「大佐ァ、しっかりするアル。二死だから打者集中アル」
「うぬぅ。あの小娘、なかなかやりおるわい。吾輩とした事が、完敗だ」
「飛んだ場所が悪かったアル。打ち取っている当たりアルヨ」
「いや、そうじゃない。あの小娘はグラヴィティーボ-ル10倍に臆することなく挑んだ。バットや腕が折れなかったのはどんなカラクリなのかはわからないが、吾輩は10倍ならば大丈夫だと多寡を括ってしまっていた。吾輩は、勝負する前から気持ちで負けていたのだよ」
「大佐が何を言っているのかわからないアルけど、まだ試合は終わっていないアル。早く気持ちを切り替えるアル」
「むむっ! 吾輩とした事が、かたじけない」
マウンドに戻ったルコフスクは一切の動揺を見せなかった。打順は一番の矢部に戻ったが、彼をピッチャーフライに打ち取ると彼は颯爽とマウンドを後にした。
そして“切り札”があるのはフットレイクス側も同じである。
ベンチへ戻ったルコフスクは、今日誰も触れる事のなかったバットに手を掛ける。島内リーグのパワーバランスを崩壊させる程の威力を持つクインテットスターレアアイテム「雷神バット」がその姿を御披露目しようとしている。
腰にまわしたバットを両肘で固定した状態で身体を左右に大きく捻りながら、ルコフスクは橘の投球練習を横目で確認する。小柄で線も細いが、無駄のない美しい投球フォームは、淀むことのない清流のように滑らかだ。
前の打席は彼女のスクリューボールに翻弄されてしまった。視界から消えるかの如くキレの鋭いその変化がルコフスクの脳裏に焼き付いているが、それに惑わされるほどルコフスクも浅はかな打者ではない。
橘の投球練習が終わると、ルコフスクが右の打席へと歩みを進めた。ザクッザクッとスパイクが少し硬めの赤土に刺さり小気味よい音を立てる。そして、彼の右手に握られたポッキーバットを目にした夏苗に途轍もない緊張が走った。
ドキン。夏苗はその正体を知っている。だからこそ、彼女の表情は一気に凍りついた。1点のリードが、とても儚く、とても心許無いものとなる。決壊寸前の堤防を、ひとつしかない土嚢では何もできないのと同様に、ただ濁流に飲み込まれる運命を思うと、一刻も早く、この場から逃げ出したい衝動に夏苗は駆られた。
敬遠? 打者と勝負を避ける事は可能だ。しかし、バットは次の打者にも共有される。意味を成さない漢字二文字はすぐに却下された。
「プレイ!」
無情にも、ゲームの再開が告げられた。
バッテリーのサインはなかなか決まらない。そして、一人の男が打席に立つルコフスクの違和感に気が付いた。それは、あまりにも僅かな違いだったが、彼を失望させるには充分な違いだった。
一塁を守るガッテムが、ある事に気が付いた。